第20話


 タイムカードを切ってすぐ始めたモップ掛けを終え、仏壇の乾燥を防ぐために置かれている容器に、水を足しに行こうとした麻紀は、社長夫人の足音を聞いてぶつからないように退避していた。

 そして何やらぶつくさと呟きながら廊下を曲がってきた社長夫人に挨拶をすると、社長夫人は開口一番に麻紀に説教を始めた。


 どうやら麻紀がいることに気づかなかったようで、驚いたようだ。

 それに対して社長夫人は気配がなくて気持ちが悪い、覇気がない、ぶつかったらどうするつもりだと捲し立て、なみなみと水が入ったボトルを持っている麻紀の腕を叩いてしっかりして、などと言った。


 もちろん社長夫人が叩くたびに水はこぼれ、麻紀の上着は朝っぱらからびしょ濡れになった。

 麻紀はそんなことは気にせず、返事をするとそのまま仏壇を展示しているフロアへ水を足しに行った。


 その日も説教三昧で、もはや麻紀は説教を聞くために出勤しているのか、仕事をしに出勤しているのか判らなくなっている。

 しかし現状を言えば、仕事などほとんどしていない。


 社長夫人によると、麻紀には何も任せられないらしい。

 だから麻紀は何をするにも社長夫人の許可を得なければならない。


 接客の途中で商品を包装しなければならなくなった時、数が多いので手伝ってもらおうと思い社長夫人に声をかけた途端に、忙しいのが見て分からないのか、と怒鳴られた。

 埒が明かないので園田に手伝ってくれるよう声をかけると、手が足りないなら言いなさい、とまた怒鳴られた。

 結局三人で包装する羽目になり、会計時に客に謝られてしまう始末である。


 そしてその客が帰った後はもちろん説教が始まり、のろいのが悪い、状況判断ができていない、後輩に頼って情けなくないのか、と言われる。

 とうの園田はというと、社長夫人の騒音などどこ吹く風で、商品にはたきを掛けながら麻紀の顔色を窺っている。


 もううんざりだ。


 お盆休みが明けると定休日も元に戻る。


 それから二日ばかり我慢した麻紀は、復活した定休日に墓参りをすることにした。

 日にちは大幅にずれているが、一応迎え火、送り火のつもりなので、行かないのはなんだか居心地が悪かった。


 しかし、お盆休み初日の墓参りで起こったことを思い出すと、なかなかに動こうと思えなかった。

 前日、寝る直前まで悩んだ麻紀は、今回は車で行くことにした。


 次の日は朝から自宅の仏壇の掃除をして過ごし、夕方から墓参りに出掛けた。

 エアコンの効いた車内は快適で、目的地まで十五分もあれば着く。

 前回も車を使えばよかったと麻紀は本気で反省した。


 墓に上がる坂の下で車を停め、供えた花などを片付けるための袋を片手に坂を上る。

 前回と違い、今日は少し天気が悪いので同じ時間帯でも薄暗いが、見えないほどではない。


 麻紀は手早く片付けを終えると車に戻った。

 後部座席の足元に袋を置き、エンジンを掛けようと振り向こうとしたところで、ばん! という音と衝撃が走った。


 麻紀は目の前の光景に恐怖で固まる。

 先程までは暗い夜道が見えていたのに、フロントガラス一面にたくさんの目が現れ、そのどれもがにたにたと笑って麻紀を見ている。

 麻紀は震える手で内側から鍵をかけ、エンジンを掛けるためにゆっくりと鍵に手を伸ばす。

 麻紀の手が鍵に触れる瞬間に、車のあちこちを一斉に叩かれた。

 麻紀は思わず鍵から手を引き、息を呑む。


 次第に叩く音は収まったが、代わり車が左右に揺らされ始めた。

 その揺れはだんだんと大きくなり、このままでは車ごと山から落とされてしまう。


 そう考えた麻紀は意を決してエンジンを掛けた。

 しかし何度鍵を回してもエンジンは掛からない。


 麻紀の手は恐怖と焦りで冷たい汗がにじみ、がたがたと震えながらも諦めずに鍵を回していると、やっとエンジンが掛かった。

 そして麻紀がライトを点けた瞬間、車を取り囲んでいた目は一瞬離れた。


 その隙をついてアクセルを踏もうとしたが、またすぐに集まって来て、車をより一層激しく揺らされたことで叶わなかった。

 その激しさにハンドルを握っていることしかできない麻紀は、左手首の腕輪が冷たくなっていることに気づいた。


 何もかもが突然で、頭が追いつかなくなりついに泣いてしまいそうになったとき、あんなに激しかった揺れがぴたりと止まった。

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