静かな祈り

mk*

静かな祈り

 銀色のポストを開けた時、白い封筒が届いていた。


 厚みのあるパステル紙に記された名前を見た時、胸の中から何かが抜け落ちて行くような空虚感に襲われた。


 色鮮やかな広告や不在票、自治体の知らせ。

 紙の束に埋もれた封筒を抱え、自宅への階段を登った。深夜高速から響くクラクションやスキール音、漁火に似た街明かり。縺れる指で自宅の鍵を取り出し、どうにか鍵穴へ差し込むことに成功する。


 誰もいない暗い玄関、何もない靴箱。

 一人暮らし用の洗濯機の前を通り過ぎ、明かりも点けずにキッチンに立った時、抱えていた紙の束が零れ落ちた。


 地方大学を卒業し、都内の広告代理店に就職してから三年。実家や地元の友達とも疎遠になり、一人暮らしの自宅と職場を行き来するだけの単調な毎日。繰り返されて行く毎日の中、キャリアを積むことに人生の意義を見出しながら、私はただ、逃げていただけなのだと思った。


 白い封筒に記された差出人の名前を、指先でなぞる。

 隣に並んだ誰かの名前を見て、私は声に出すことが出来なかった。宛名は自分の名前。どうして、私は此処にいるのか。


 暗く冷えたキッチンに明かりを点け、鞄を放り投げて封筒を見詰めた。私はその中に入っているものも、その意味も、何もかもを知っている筈なのに、開けることが出来なかった。


 携帯電話が震えた。

 新着メッセージ。業務連絡と友人の愚痴の中、幼馴染からの言葉が短く残されている。触れると既読になってしまうから、そっと眺めて、ただ感情の波が通り過ぎることを待つしかなかった。


 九州の田舎で暮らしていた幼少期、幼馴染がいた。

 浅黒い肌に麦藁帽子、畦道を駆ける背中。細い釣竿に、透明な糸が流星のように光って見えた。真鍮のような太陽と降り注ぐ蝉の声。その背中を追い掛ける時、まるで星に手を伸ばしているような心地だった。


 喘鳴を飲み込み、震える膝を叱咤し、何かを振り払うように走り続ける。沢から流れ込む爽やかな風が、柔らかに猛暑を滲ませる。


 待ってよ、置いて行かないで。

 泣き言を溢すように、振り絞るように、縋るように訴えれば、彼は立ち止まった。振り向いた彼が白い歯を見せて笑う。


 差し出された手を取った時、私は何処へでも行ける気がした。何も怖くなかった。どんなに暗い山道も、崩れそうな崖も、何も。


 いつしか私達は大きくなって、少しずつ離れて行った。

 同性の友達が出来、趣味が広がり、進学し、就職。物理的な距離が離れて行っても、細々とした近況連絡を積み重ねて行くことで、心の底で繋がったものは途切れないのだと信じていたかった。


 再度、携帯電話が震えた時。

 私は自分が過去に回帰していたことを自覚した。

 彼からのメッセージは端的に一言、手紙が届いたか如何かの確認だった。私は深く深呼吸し、その場に立ち尽くしたまま指先でメッセージを開いた。


 見たよ、おめでとう。

 すごいね、なんだか涙が出そう。


 真意を隠す為、過剰なくらいの絵文字で飾る。

 送信したら、足元から力が抜けて、そのまま奈落の底に落ちてしまいそうだった。


 返って来る無邪気な言葉に、心臓が引き絞られるようだった。どうしてこんな時、予測変換や定型文を使えないのか。メッセージのキャッチボールを繰り返す度に、心がカッターナイフで削られて行くみたいだった。


 雲の上に立っているみたいで、現実感が無い。

 パステル紙の封筒に入れられたそれが、彼の結婚式の招待状であることは分かっていた。そして、その隣に並ぶ誰かが自分ではないことも、白いドレスに包まれるのが私ではないことも。


 仕事が忙しくて、行けたら行くね。

 でも、おめでとう。この気持ちだけは、本当だから。


 何処まで嘘で本音なのか、自分でも分からなかった。

 無垢で率直な彼の言葉を見ていると、自分がまるで悍しい怪物みたいで、崩れ落ちそうな砂上の楼閣に立っているみたいで。


 置いて行かないで。

 そんな言葉すら言えないのは、どうしてなのか。

 大人になったからか、物理的な距離のせいか、臆病なのか。答え合わせも出来ないまま、風化することを待つだけだ。


 結婚式に出席する自分を想像する。

 幸せそうな彼等を見て、未来へ進み出す二人を祝福する私。真紅のバージンロード、投げられる可愛らしい花束、築き上げられて行く夫婦の形。


 弾けるような笑顔を見せる彼等を前に、私はどんな顔で、どんな言葉で、何を渡せば良いのか。


 着替えもせず、シャワーも浴びず、食事もせずに封筒を開ける。結婚式の招待状を流し見て、私は欠席に小さく丸を付けた。


 ねぇ、貴方にとって私は何だったのかな。

 私にとって、貴方は何だったのかな。

 ただの幼馴染? それとも、妹みたいな存在?


 鼻の奥がつんと痛んで、両眼が熱かった。

 零れ落ちる前に拭い、そっと封筒へ戻す。


 私達は何だったのだろうか。

 進む貴方と、止まった私の距離はきっと埋まることは無い。追い掛ける私に、振り返る貴方はもういない。

 この両手から溢れそうな程の想いは、何処に捨てたら良いのか。


 冷たい洞窟の中に、独りぼっちでいるみたいだった。

 目元を擦ったら、マスカラが指先に落ちた。細かなアイシャドウの煌めきが、いつか見た彼の笑顔みたいで。


 顔を上げたら、涙が出た。

 ああ、泣けたんだ。そんなことを思ったら、何だか笑えた。


 言葉にすることも、想いを伝えることも出来なかった。

 心からの祝福も、彼等の幸せを祈ることも。



 あれは確かに、恋だった。

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