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 高級中学に進学する頃になると、私たちの能力差は暗黙のうちに明らかになっていた。それはつまり、上級生存者になりうる人とそうでない人が傍目にもわかるようになってきたということで、優越感や劣等感といった感情から、生徒たちは手前勝手な分類の中で固まるようになっていたということでもある。

 旧態依然とした学力試験などは存在しないので、明確な数値では測れない。それでも、日常場面での要領の良さとか聡明さといったものは、ぼんやりと感じられたものだった。無邪気な差別意識は個々の内にひっそりと宿って、言動にもはっきりと表れていたように思う。

 私は上級生存者のグループに属している……ことになっていた。縄張り意識、仲間意識の強い子がいるのに対して、私はそういうことをどうでもいいと思っているたちだったのだが、気がつくと勝手に割り振られていた。

 イェレベスでは基本的に、初級中学以降は全寮制の男女別教育となっていくので、上級一般といった分類は寮でも影響を及ぼしていた。必然、交流の範囲は曖昧に限定され、生徒の動線は定まっていく。幸いだったのは、一人につき一部屋が割り当てられていたことと、私自身が部屋にこもりがちであったことだ。そのおかげで、私は諸々の制約を他人事としていられたし、面倒ごとからも遠ざかっていて構わなかった。

 そんな中、李瑶月リー・ヤオユエは、クラスにおける上級生存者候補グループの異端者だった。はっきり嫌われていたと言っていい。優れた知性、滑らかな弁舌、名前に見合った端正な容姿。運動はさほど得意ではなかったにせよ、彼女の能力的価値は同じグループの中でも明らかに抜きん出ていた。

 それだけであれば──嫉妬はされたかもしれないが──別に誰も問題にはしなかった。何かにつけて主導権を握りたがる気質の子も、おとなしくしているのをわざわざ構って評価を下げるリスクを負いはしなかっただろう。しかし、そうはならなかった。瑶月は自らの優秀さに自覚的で、その優越をどこでも隠そうとしなかったからだ。

 彼女は多くのものを密かに見下していた。密かに、というのは言葉にしなかったというだけで、空気や匂いとしてそれは克明に感じることができた。目を覗き込めばすぐにわかる。彼女は自分の価値を疑いもしていなかった。

 結果、彼女は孤立した。とはいえ、敵対して戦うことになれば泣かされるのは自分の方だと皆がわかっていたので、その排斥は沈黙によって緩やかに進行した。進学から三月も経たない頃のことだった。

 ただ、当の瑶月はそんなこと気にもとめずに、自分のやりたいことをやりたいようにやり続けた。携帯端末で脳幹府公認のメディアを読み耽り、脳幹府公認のアーティストの展示を回り、ニコニコと毎日を送っていた。

 対する私は、端的に言って根暗な女生徒だった。初級中学の時点から僵尸チァンシー研究に携わることを目指して学習に精を出していたこともあって、対人上の無用な関わりは積極的に避けていた。その意味では、私も瑶月と変わらない驕りを持っていたのだが、日がな一日中、医学や神経生理学、数理論理学に解剖学などの文献・論文を読んでいる退屈な女をどうこうしようと考える人は、幸いなことにどこにもいなかった。

 接点を得たのが偶然か必然かについては、どこに基準を置くかで大きく変わる。

 瑶月が疎外されるようになってからしばらくが経ち、私たちにはチームで協力して達成しなければならない課題が与えられた。歴史の授業で、〈終末現象カタストロフ〉について調査し発表するというものだった。ひとチーム三人の計算で、自分たちで組むようにとの指示があった。

 教室の方々で塊が形成されていく中で、それぞれ離れた場所でぽつりと立つ影が三つあった。瑶月はもちろんのこと、私もその中の一人だった。

「私たち、爪弾き者アウトローってわけだ」

 集まって最初に瑶月が発した言葉がそれだった。私は慣習に則って「よろしく」と言った。もう一人、普段は一般生存者のグループにいる子は、ぶっきらぼうに鼻を鳴らした。

 そんな噛み合わない様子を、瑶月は微笑みを浮かべて眺めていた。そして、言葉を交わす以前からずっとそうすることを決めていたかのように、それまで考えもしなかった疑念をさらりと言い放つ。

「二人は、魂ってあると思う?」

 当然、私たちは答えられない。



 チーム結成から数日が経ち、一回目のミーティングが開かれることになった。私と李瑶月リー・ヤオユエ楊琳美ヤン・リンメイの三人で図書室の丸テーブルを囲むと、瑶月が言った。「ツァイさんは、どんな仕事がしたい?」

 その日はちょうど、労働に関する授業があって、それを受けての質問だということはすぐにわかった。ただ、あの奇妙な第一声の印象が強かったこともあり、私は戸惑って、口を開きかけたまま数秒固まった。それからどうにか言うべき言葉を整理して、「僵尸研究を」と言った。

「両親が生命科学研究院の研究者で、昔見学に行った時に見た僵尸研究者の人たちの姿が心に残ってて」

 上級生存者として生きる父と母の背を見て育ってきた。家にいることは少なかったが、それでもたくさんの特別な体験を与えてくれたのは事実で、私はそこに愛情を見出していた。私が自分の価値を信じていられたのは、きっと両親の影響が強い。

「へぇ、だからいつも何かしら読んでるんだ。勉強家だね」

 瑶月は頬杖をついて微笑みながら、さも興味深そうに頷いた。彼女の態度の何割かは本心だったのだろうが、残りの多くは薄っぺらく、うわべだけのものに感じられた。なるほどこれは嫌われそうだ、と私は思った。

「あなたはどうなの?」

 儀礼的に問いを返すと、彼女は特に悩む様子も見せず、「文筆家かな」と答えた。「ライセンスを取得して、本を出したいな」

 〈終末現象カタストロフ〉以前は違ったそうだが、今では言論活動も芸術活動もライセンスがないと違法行為として処罰の対象になってしまう。検閲も必ず入るのでなかなかシビアな世界だと聞くが、きっとそれも承知の上だろう。

 理由について彼女は語らなかったが、わざわざ掘り下げることもないと私は口を噤んだ。好きなようにすればいい。

ヤンさんは?」

 ついでというように瑶月が話を振った。当の琳美は露骨に嫌そうな顔をして、「馬鹿にしてんの?」と鋭く言った。集まった瞬間から彼女は苛々していて、隣に座った私には、足を小刻みに揺らす様子が視界の端に映っていた。

「興味もないのに聞かないでよ。あたしのこと見下してんの、隠しもしないじゃん」

 それは瑶月に向けられた明らかな敵意だった。彼女は笑みを絶やさなかったが、はっきり言って空気は最悪だった。「このチームで課題は終わるのだろうか?」私は自分の時間が奪われる憂鬱に天井を見上げた。


 *     *


 遠く山嶺から昇る朝日が靄を貫き、摩天楼の群れの合間を縫って地表を淡く染めていく。

 早朝の官公庁区は閑散として、公共支援型僵尸もまだ稼働していない。久方ぶりの外の世界は想像以上に心地よく、凝り固まった思考がほぐれるようだった。

「こんなこと、十年ぶりかな。……白玉パイユー

 振り返った先には、顔のない李瑶月リー・ヤオユエがいる。白玉パイユー、というのは仮の名だ。僵尸の生前情報は通常秘匿されるため、個人所有の場合はあだ名をつけることが多い。余計な詮索を避ける目的で、私もその慣習に従うことにした。

 こうして並び立つことに懐かしさを覚えるのは事実だったが、私も彼女も、「変わらない」と言い合った時からはずいぶんと変化してしまったと思う。互いに歳を取り、私は下っ端から班長になり、瑶月は物言わぬ死体オブジェクトになり果てた。私がこれから解明しようと奔走するのは、その移り変わりの過程についてであって、公的には何の益もない実に個人的なことだ。香薇にはつくづく感謝しかない。三日間の休息のうちに勝手に調査をするだけであれば、私の責務に支障は出ない。システムから咎められることもないだろう。

 何はともあれ、情報収集だ。私は手始めに、イェレベスの行政機関である五臓院ウーツァンユェンの一つ、肺気部フェイチーブーへと足を運んだ。五臓院は中国医学における五行に対応して命名されており、司法と治安維持の肝魂部ガンフェンブーを北に置き、そこから時計回りに、都市のシステム統括を担う心神部シンシェンブー、交通や水道等のインフラを司る脾営部ピーインブー、教育・技術・資源の管理を行う肺気部フェイチーブー、医療福祉に関わる腎精部シェンチンブーが並んで構成されている。また、それらの中心には脳幹府ナオガンフーがあり、地下接続網、地上、空中回廊を通してすべての部署と接続できるようになっている。

 人の出勤時間外には人工知能が対応してくれる。無人の広間を通り抜け受付の前に立つと「ご用件は?」と機械らしいぎこちなさを残した女性の声が指向性を持って耳に届く。私は据え置きの端末に要件を記入していく。個人情報の閲覧許可を得るまでの様々な認証は、私のIDを示せば良い。日常のたいていのことは、それだけで事足りる。

 案内された先、閲覧室でコンソールを操作し、李瑶月リー・ヤオユエの情報を呼び出す。白玉パイユーは一メートルほど間を空けてぴったりと私に付き添っている。現在流通しているバージョンと比較すると、歩行や姿勢制御もいくらか滑らかになっているように見える。一応試作品の試験運用という名目で持ち出しているので、後で報告書に書く内容のことも逐一考えなければならない。

「最新の記録は……」

 瑶月の活動履歴にはおおまかなライフイベントが順に記されている。最下部までスクロールすると、死亡時の状況に行き当たった。

 日付は今日からちょうど一週間前、発見された場所は、一般生存区東部にある自宅。死の二日前に購入した女性型尸娃娃シーワーワー──慰安用僵尸──の頭部を工具で砕き、代替脳を口腔摂取したことで急性中毒になっている。その後、生命反応の低下を感知した追踪号子トレース・タグが通報するも、病院で死亡が確認された。

尸娃娃シーワーワー……?」

 どうしてわざわざそんなものを? 詳細を見ると、王雲京ワン・ユンジンという男の名前が出てくる。どうやら、一般生存区の僵尸産業区にほど近い場所で、脳幹府の公認の元、中古の僵尸の買取や修繕、販売を行っている人物のようだ。念のため所在を記録し、他の気になる点を洗い出していく。例えば瑶月からは、自殺の二週間ほど前から正常圏を逸脱した抑うつ傾向が検出され始めている。そこで、診察とカウンセリングに行くよう再三警告を受けたにもかかわらず、彼女はすべてを無視したようだった。腎精部の一般生存区担当職員の訪問も追い返しており、まるでこの時点から死を予定していたようだと私は思う。

 瑶月が〝一般落ち〟したのは今から約一年前、昨年のちょうど今頃のようだった。原因を確かめようとさらに遡り、不意に飛び込んできた文字列に、私は硬直する。

 自殺未遂。

 一冊の本の出版申請を行ってから、三ヶ月後のことだった。



「あぁ、李瑶月さんね。うん、確かにいくつか出版したよ」

 イェレベスの製本出版を一手に担う耶黎北斯イェレベス城市出版社の担当者は、雑用係の僵尸からマグカップを受け取ってそのように言った。「変な人だったからさあ、覚えてるんだよね。最初はフツーのスマートな人って感じだったのに、途中からおかしくなっちゃって」そしてコーヒーを啜り、顔を顰めて机に置いた。

 背後では白玉がカサカサと紙に記録しているが、担当者は気にする素振りも見せない。まさか、すぐそばに話題の人物の死体があるとは思わないだろうな、と考えながら、私は相槌を打つ。死者に対する無関心は、この街に漂う共通の空気だ。重要なのは生きてる間。死者はただの労働機械。誰もが知っている常識。

「生命科学研究院の人らしいけど、知り合いなんだよね? あの人、今どうしてるの?」

「死にましたよ」

 私は努めてフラットに事実を伝えた。担当者は特に驚くでもなく、「あー。やっぱり?」と息を吐く。

「やっぱり、というと?」

 尋ねると、身を屈め声を潜めて、「いやさ、最後に出版申請を受けてから音沙汰なくなっちゃって。どうしたのかと思ってたら自殺未遂で〝一般落ち〟したって聞いたからさ。まぁ、ろくなことになってないだろうな、と」

 その反応は、自殺というものに対する典型的な反応と概ね合致するものだった。自傷行為に対する世間一般の認識はなかなかに厳しく、タブーとして扱われる風潮がある。生存法に照らし合わせると、「人的資源としての機能を損ないかねない自傷他害行為を行なった場合」には罰則が適用されることになる。罰は、上級生存者であれば生存級の即時下降であり、一般生存者であれば尸者認定点数の一点追加だ。三点溜まると、生存級を剥奪されて素体化される。仮に逃亡したところで逃げ場はない。肝魂部の治安維持部隊に追跡され、同じ結末を辿るだけだ。

 私は身を起こして担当者を再び見下ろした。「本は未完?」彼は大仰に両手を上げ、首を振って降参の意を示す。「原稿がそもそも届いてない。審査にも提出されてないから、できてないんじゃないかな」

 となると、瑶月の自宅にある可能性が高そうだ。まだ死から一週間しか経っていないことを考えれば、回収されているとも考えにくい。次の目的地は決まりでいいだろう。

「李さんはなんというか、攻めたのを書く人でね。読んだことある?」

 私が首を振って否定すると、「ちょっと待ってね」とPCに何がしかを打ち込み、傍のタブレットの画面を確認してから手渡してきた。「これ、最初の作品。初手から検閲に引っかかりかけて冷や冷やしたよ」

 受け取り、表示された表紙を見て息が詰まった。

入土為安ルーツーウェイアン

 それは私たちがまだ学生だった頃、瑶月が私に教えてくれた言葉だった。


 *     *


入土為安ルーツーウェイアン、って言葉、知ってる?」

 喧騒に満ちた食堂の隅で、学食をつつきながら瑶月が言う。私は向かいで箸を口に運びかけたところで、そのままの姿勢で首を横に振った。

 何度かミーティングを重ねるうちに、私たちは次第に集まる頻度を増やしていった。計画を練ったり調査をしたりするだけでなく、昼食を一緒に食べることもあった。親密になった……というよりは、除け者同士で固まっているような感じ。現に、琳美リンメイは必要最低限以外は集まることを拒んでいたし、瑶月の態度も変わってはいなかった。ただなんとなく、私は二時間半ほどある長い昼休みを、瑶月と二人で過ごすようになっていた。

「初めて聞いた。どういう意味?」

 私たちの会話にはある程度決まった型があって、今回もその例に漏れなかった。瑶月が唐突に何かを問いかける。それに私が問いを返す。そういうキャッチボール。

「これはね、ある意味で反社会的な言葉なの。死者の扱い方、という意味でね」

「僵尸に関わること?」

 瑶月は頷き、箸を置くと懐からメモ帳を取り出した。多くの人が電子機器に頼る中、紙媒体を使うのは珍しかった。瑶月は何かを書いてからテーブルの上にそれを置いた。私も食事の手を止めて、彼女の手元を覗き込む。

「こうやって書く。意味は、『死者は埋葬されることで安息を得る』明代の散曲家である馮惟敏フェン・ウェイミンが曲の中で書いたのが最初、って言われてる。古い社会の慣用句だね」

 中国の歴史は授業でやった。明は元の後で、清の前。私からすれば途方もなく昔のことだ。

 反社会的、という言葉の意味するところを考える。今のイェレベスは僵尸技術によって成立していて、死体が埋葬されることはまずありえない。損壊が激しくて僵尸にできない死体や、酷使されて機能しなくなった僵尸は焼却処分されるのが一般的だ。衛生面も踏まえると、死者が埋葬されることはまずありえない。

「今の社会では、死者は安息を得られない、ってこと?」

 瑶月はにこりと微笑んだ。ものわかりのいい生徒を褒める教師のように、そこには「よくできました」という言葉が浮かんで見える。

「私たちは喪失を悼まず、人の死に痛むこともない。親でも兄弟姉妹でも友達でも、それ以外でも。なぜならここは、昨日死んだ人が道をよろよろ歩いているのが当たり前の世界だから。失うことを悲しみはしても、長続きしない。つまり、人は死者の安息など求めていない・・・・・・・・・・・・・・・

 大切なのは生きている間。死んでしまえばモノになるだけ。自分の死生観を振り返れば、確かにそこに死後を憂うものはない。死とはすなわち終わること、過去になること、歴史の一部、語りうる言葉になるということ。それ以上でもそれ以下でもなく、「死者を想う」という考え方は、私の根底に存在しない。

 それは〈終末現象カタストロフ〉以前には見られない、イェレベスの住人に根付いた一つの新しい文化なのだろうか。

 瑶月は続けた。

「終末以降、そういった価値観の変化によって、この国では葬送儀礼や死者供養を目的とした祭祀の多くが姿を消した。清明節チンミンジェーなんかがいい例かな。きっと聞いたことあるよね。これは死者を慰める祭り──正確には先祖供養の行事なんだけど、その根底には中国という国が長い歴史の中で育んできた文化があった。言うなれば、『生者に仕えるのと同じように死者に仕える』というような。でも、今はその逆」食堂で働く僵尸を、わずかに持ち上げたペン先で示す。「死者こそが生者に仕えている」

「反社会的っていうのは、現状を否定する意味を取れてしまう、ということ。検索で深掘りすれば出てくる類の、ちょっと見て欲しくない情報ってわけ」

「僵尸が否定されたら、すべてが成り立たなくなっちゃうから……」

「そう。イェレベスのインフラは僵尸の存在によって維持されている。こんな観念的なところで疑問を抱かれて妙な流れができるのはごめんなんだね」

 そこまで説明すると、瑶月は紙を丸めて引っ込めた。そして何事もなかったかのように食事を再開する。私はもうそのマイペースさにも慣れてきて、話の終了を理解した。箸を取り白米の中に突っ込もうとして、一つだけ聞いておこうと思い立つ。「どうして、そんな話を?」

 瑶月は顔を上げて私をじっと見つめてから、あの胡散臭い笑顔を向けた。

「だって、面白いことは友達と共有したいでしょう?」


 *     *


ツァイさん? 大丈夫?」

「あ……はい。大丈夫です」

 声をかけられて我に返る。ほんの十秒程度だろうか。記憶が不意に去来して、白昼夢でも見ているようだった。私はどうしてしまったのだろう。

 無理やりに気持ちを切り替え、画面をスクロールして内容を流し読んでいく。どうやら架空の国を舞台にした歴史物らしく、主人公は冠婚葬祭を取り仕切る呪術師シャーマンの家系にあるようだ。特別過激な描写はないように見えるが、検閲で引っかかりかねないのがもっと根本的な部分であると私にはわかっていた。

「僵尸の否定、ですか」

 私が言うと、担当者は意外そうな表情を見せた。「いや、よくわかったね。遠回しなのにストレート、っていうかさ。今時珍しいよ、こういう話は。最近のトレンドとは外れてるから」

 この小説には、瑶月のあの独特な言葉の匂いがあった。才知に溢れ自信家で、傲慢。それでいてミステリアスな空気を纏ったあの少女の匂いが。

 けれど、以降の何作かにそれを感じ取ることはできなかった。私の記憶を刺激するものもない、いかにも無難な題と内容が続く。瑶月の香りは薄く、むしろそれを抑える別の臭気が色濃く漂っている。普段は気にもならないその匂いが、今はひどく邪魔に思えた。

「一気に雰囲気が変わりましたね。これは?」

 指をさして問いかけると、担当者は苦々しげな顔をして、コーヒーを流し込んだ。渋面がいっそうひどくなり、皺が寄って奇怪な顔つきになる。「前作が危なっかしい内容だった上に、掃け方が芳しくなくてね。上の方から指導が入った。ここ数年その辺が厳しくて、何度もダメ出しを食らってたね。僕にはどうしようもなかったな。処女作、割と好きだったんだけど」

 強制指導。それはつまり、否応なしに作風を変更させられたということだ。従わなければ確実にペナルティが入る以上、選択肢はなかっただろう。なんだかんだ自己主張の激しかった彼女のことだ。人目のないところで歯噛みして、仕方なくこの形に落ち着けたに違いない。

 出版社を去る時、担当者は再び声を潜めると、こんなことを口にした。「これは個人的なお願いなんだけど、もし幻の原稿を見つけることがあったら、読ませてくれないかな」

 私は一瞬迷ってから、規律上特に問題はないだろうと首肯した。「いいですよ。でも、なぜ?」

 何気ない疑問だったが、彼は照れ臭そうに笑って言った。「実は結構、楽しみにしてたんだよ」

 白玉が紙にその言葉をメモしていく。今更褒められても別に嬉しくないだろうな、と私は思う。



 調査を兼ねた休暇の一日目は、出版社を訪ねて終わることにした。帰り際に立ち寄った書店で瑶月ヤオユエの著作を出力してもらい、およそ一ヶ月ぶりに帰宅する。上級生存区の街並みは整然と計画され、建物の外観一つ、宣伝の文言一つを取っても、一定の基準から逸脱することのないよう注意深くデザインされている。皮膚に埋め込まれたディスプレイに広告を映す僵尸や、同じように胴や背を道案内などの情報提供に使用している公共支援型僵尸もその一部だ。完璧に溶け合って、実に模範的。

 往来を行き交う人々の表情は様々だが、誰の顔にも生活の奥底に染み付いた自信がわずかに滲んでいる。遥か昔から伝達される無数の性質や親の生存級とは無関係に、自分の力、価値が認められてここにいるのだという、そういう自信。現在と過去は別物で、分断されて融け合わない。連続性を拒絶し、断絶を見出し、「私は私の力でここにいる」と主張する類の妄想だ。

 私はどうだろう? 手鏡もないので、手の平を頬に沿わせ、輪郭をなぞって自覚を促す。私は実際場面において、人間の在り方が過去に多大な影響を受けることを知っている。疑問の種を学生の時に植え付けられてから、研究の過程で、あるいは経験則で、自己が独立したものであるという感覚がまったくの妄想であると、朧げながらも理解した。私たちはいつの時代も、終わったものとともに生きている。例えば白玉は、今の私にとってはその代表のようなものだ。

 白玉は指示をせずとも、私を滑らかに追従している。現行僵尸はプログラムされたルーティーンから行動を切り替える際に、逐一発話による命令が必要になるが、新型にはその手間がない。問題は稼働限界だが、これについては時間をかけて解決するより他にない気がする。最大四十九日では使い物にならない。

 イェレベスの住居の基本単位は〝小区シャオチー〟という塀に囲まれたマンションの集合体で、それぞれに番号が割り振られ中央で一括管理されている。入り口にある二段階の生体認証を通過し、自宅のある棟へと向かう。昇降機に運ばれて辿り着いた高層階で、扉に再び生体認証。この街にやたらと生体認証が多いのは、僵尸と生者の区別を意識させるためだろうかと時々思う。彼らが失ったもので、私たちは扉を開いていく。

 中に入ると順繰りに光が点いていき、殺風景な全体像が露わになる。帰らないことが多いのを見越して物は最小限に抑えてある。仕事が生きがいの毎日で、ここに来るのは香薇シャンウェイに「たまには帰れ」と研究室を追い出された時くらいのものだった。

 白玉はしっかりと靴を脱いでから屋内に上がった。順調だ。慣習ルールは身についている。

 時間制限は三日。あまり悠長にしていられるわけでもないが、今日はもう読書に時間を割くと決めたので良しとする。常日頃から世話になっている粥状の完全食を作り、ソファに座って本を片手に口へと運ぶ。

 入土為安ルーツーウェイアン──瑶月ヤオユエが残した、一つ目の言葉。

 私は白玉を、瑶月の亡骸を見る。擬似神経伝達液リキッドの青色は、白色の灯りにいっそう冷たく浮き上がり、その皮膚を、内在するすべてを凍てつかせ、永遠の檻に閉じ込める。艶やかな紋様を描く秘面紗ヴェールが顔と記憶を隠匿し、私たちはいつか、存在さえも忘れていく。

 埋葬されることが安息を生むというのなら、彼女は今、どんな苦痛と怨讐の中にいるというのだろう。

「瑶月。あなたの地獄はどこにあったの」

 あるいはそんなもの、存在しないのかもしれないけれど。

 応えはなく、答えもない。静寂の中でただ一人、私だけが覚えている。かつて少女だった、ここにはいない女のことを。

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