傷つけられた愛は永遠の呪縛を解く

珊瑚水瀬

傷つけられた愛は永遠の呪縛を解く

 その日は、しんしんと降り続く雪がやけに冷たく足に重くのしかかる日だった。

 その憂鬱な雪を振り払うがごとく足を振り上げ、雪にぼこぼこ足あとを落とす。

 寒々しく木々が唸り声をあげ、冷たい雪がぽつぽつと僕の顔に張り付いては水滴へ、張り付いては水滴へ変わる。

 それでも、俺には急いで帰らなきゃいけない理由があるんだ。

 自分が手に抱えているものをゆっくりと自身の顔の方へと持ち上げ、目線を合わせるとにんまりと顔を緩ませる。

 そう、これは妻のために買ったクリスマスケーキだ。

 彼女が喜んでくれる様子を思い浮かべるだけで俺はこの雪と格闘し早く帰路へ着きたい気持ちがこんこんとあふれ出す。


「あなた、今日も遅いの?」

「ああ、恐らく。今日も研究成果が出ていないからな」


 俺は、s大学の研究室でポスドクをしている。

 名前だけは、s大学研究室の博士研究員というたいそれたネーミングがついてはいるが、その実、教授の使いぱしりに近い。

 教授が帰って良いと言うまで帰れないのはざらにあるし、その上、大学院生たちの面倒まで見なくてはいけないのだから、俺の研究は一向に進まない。

 終電で帰るのは毎度のことでむしろそうでない方が珍しいくらいだった。


 だからこそ妻には感謝している。

 大学時代に会った彼女は、英文科の女神とも形容詞が付く美人で人気があり、競争率も激しい人であった。

 そんな彼女が理系特有の弱弱しさを兼ね備えている冴えない俺をなぜか選び、そのまま結婚したのだから、周りの友達も僕に「お前そんなに金あったっけ?」

と金目当ての結婚ではないのかと冗談を交わすほどであった。

 彼女は結婚してからも、「私も働くから、家事も分担しよ」

と言ってくれ、彼女が苦手な料理は、俺がない時間をやりくりし、まとめて作りタッパーに入れ、洗濯を彼女の担当にし、掃除は気が付いた方がやるというようにしていた。

 俺もそんな優しい彼女との生活にそれはそれは満足していた。

 だからこそ、今日は早く帰りたいのだ。

 いつも色々頑張って支えてくれている君に。俺は一番に君とこの日をお祝いしたい。

 たまたま教授が「今日は帰っても良いよ、立て続けに実験実験だったから」

と言ってくれたおかげで俺はこのクリスマスを君と過ごすことができる。

 連絡をしようと思ったが、彼女の驚いている顔が見たく、あえて連絡をしなかった。

 スマホの待ち受けの彼女の顔を見て、そのままポケットにしまい家まで歩き続けた。


                  *

 家に着き、カギを取り出す間自身が泥棒になったかのようにそろりそろりと入ることを決意する。

 これはサプライズなのだから。

 ただ、不思議に感じたのは部屋の明かりがすでにすべて消えていることだ。

 彼女は寝てしまったのだろうか。

 それもそれで愛おしいと思う。寝ている彼女の姿をずっと見とくのも 。

 俺は、そのままゆっくりとドアノブに手をかけようとした時、かすかに声が聞こえたような気がした。

 そのままドアを開けるのをやめ、ドア越しに耳を澄ませることにした。


「あんっ、やめてよ、そんなにあと付けたら夫にばれちゃう」

「ばれちゃダメなの?見せつけてやりたい、君は僕のものだって」

「そこ、ダメ!はあん、いい、いいのお、好き」


 俺は何かの聞き間違いかと思って耳を疑った。

一瞬大音量のavかと思ったが、紛れもないこれは妻の声だ。

 さっと自身から血の気が引くのが分かり、この怒りを誰にぶつけるべきかが分からなかった。

 俺が悪かったのか、いや彼女が悪いのか。

 外様のことであると思っていた不倫という現象が俺の身に起こるなんて。

 俺の妻への気持ちを表したやけに白いケーキだけが僕の心と対比して空しくそこに鎮座する。

「ん、ん、ねえもっと」


 生々しい彼女の喘ぎ声が、俺の脳裏に焼き付き心をどんどん凍結させていく。

 なんて大きな声なんだろう、ふと人間である彼女が獣のように思えた俺は咄嗟にこう思った。


「逃げよう」


 俺は、その相手に彼女を返せ、と言える根性もなく、ただ知らないふりをした。

 きっと俺は自然界のジャングルへ放り出されたのならば、草食動物なのであろう。

 真実を知ることの恐怖が僕を支配するのだから。

 僕はひたすらに走ることにした。

 ケーキはそこに置いたまま。

              *

 無鉄砲に行先もわからず走り続けること数分、僕はとある場所を思い出した。

―クリスタルパレスホテル―

 ここは、俺が結婚式を挙げた式場を兼ね備えているホテルである。

 俺はきっと戻りたかったのだ。

 あれは悪い夢で、現実は別にあるのだと。

 質の悪い酒をかっ食らった後のような気持ち悪さをごくりと飲み込み、俺はそこへと向かった。

 いや、むしろこの気持ち悪さを酒のせいにしたくもなった。

 あれは嘘だったと否定したいがために。

 ホテルへ入り、25階にあるクリスタルパレスのバーに着くと、じろじろと別の客に見られているような感じがした。

 それもそのはず今日は25日、クリスマスだ。

 そんな聖夜の夜に、こんなダサいチノパンと綿のシャツで単身で来た俺なんてきっとこのホテルにお呼びではないのだろう。

 それでも、それでも、俺はこの場から離れるわけにはいかなかった。

「現実ではなかった」ことを証明するために。


 バーテンダーに、バーボンウイスキーを注文するとカップルだらけの周りに一人この景色にそぐわない男が居座る妙な具合になった。


「ほら、見て、雪と相まって今日は特別景色がきれいだろう。ホワイトクリスマスだ」

「ええ、本当。美しいわ、それに寒さもあなたといたら温かく感じるわ」


 横で会話している人らの会話だけがスーッと底冷えしたからだに冷たく浸透する。

……俺たちも新婚当初はこんな会話していたっけ。


 そうだ、いつからだろう、雪が重たく感じ始めたのは。

 いつからだろう、寒さを憎らしくかにじるようになったのは。

 俺は、忘れていたことに気が付いた。

 俺は元来こういう会話を好んでいた。しかし、いつの間にかそのことに気が付かなくなっていたことに。


「あら、お兄さん、面白い恰好ね、えっ?泣いてるの?」


 トントンと肩をたたかれたと思い振り向くと、黒髪をアップにした、スタイルの良い女がいつの間にか俺の横にカクテルをもってそばにいた。


「え、泣いて」


 俺はそのまま自身の手を顔にやると確かに冷たい何かが頬を伝っていた。


「お兄さんきっと訳ありなんでしょ。今夜は私と飲む?」


 優しくゆっくりと俺の心に染み入っていく声。

 先ほどのカップルの冷たさや妻-いや、あいつの獣のような喘ぎ声と違い彼女の声は確かに温かみを感じた。

 もしかしたら、錯覚だったかもしれないが、確かに感じたのだ。心が震えたのだ。

 見も知らない他人に自分に事情をしゃべるなんて嫌なことであったが、今回ばかりはそれも良い不思議とと思えた。


「どうしたの?今夜は長いわ」

「……つ、つ、妻が浮気しまして」


どもりながらぽつぽつと情けない声で事のあらましを話した。


「あら、タイミングが合わなかったのね。愛していたの?」


俺は黙ってうなずいだ。


「そう、それは、辛かったねと言うとでも思う?そういうもんなのよ女は。愛情に飢えて寂しさに囚われ続けている女は特にそう。それをあなたが知らなかっただけ。そうでしょう」


 女は自分の髪の毛をくるくると指に巻き付け、弄ぶようにその指を俺のほっぺをツンとつついた。


「永遠の愛なんて本当はそこに存在しないのよ。私たちは在ってほしいとそれを願っているだけ。瞬間瞬間の愛が継続して線のように続いているだけ。今にも切れそうなロープのようなものなのよ」


「いや、俺は彼女だけを愛していたんだ。他の誰でもなく彼女を」


「あら、男の愛と女の愛は少しだけ違うわよ。女の愛は三か月後、男の愛は三か月間。初めから恋に落ちる女はそうそういないわ。良い種を探さなければいけないのだから。男は違う、その場で種をばらまかないと。だから完璧に落としたらそこで終わり。ああ、あなたのように継続する例外もいるわ。安心という名で結ばれ、それをいとも簡単に信用しあえる輩。だから女はそういう男を探し求める。そうあなたのような……愛情をコンスタントに与えてくれる変哲もない人」


僕は、彼女の言葉にうなづくことしかできなかった。だがもしそうならば、


「その論で行くと、俺は愛されるべきだった。そうは思わないか」


「違うの。飽きるのよ。安心は。たまに不安を与えないと。毎日、美味しいご飯を食べるとそれが贅沢だと思わなくなるでしょ。気づかなくなるのよ、そのありがたみに。だから常に欠乏している人が実は案外幸せだったりするの、皮肉なことにね」


「じゃあ、不倫は必然で俺はそれを受け入れとでも」


「違うわ。そうじゃない。愛の幻想に囚われ続けているのよ、人間は。きっと愛してくれる、きっと私を分かってくれる、そうやって愛に期待した人たちの末路よ。愛はそんな簡単に手に入るものではないし、誰かが埋めてくれるわけでもない。愛は、錯覚に過ぎないのだから」


 そういってフフッと笑う彼女は、いかにも妖艶な毒々しい蝶の様に僕の目に映った。

 しかし、それは、きっと真理かもしれなかった。


「ほら、お帰りなさい。あなたはきっと彼女の本質を見ていないわ。よく見てごらんなさい。彼女はどんな女なのか、愛は存在するのか。また答え合わせでもしましょう」


 黒髪の蝶はくるっと僕に踵を返すと、コツコツと黒いハイヒールの音を響かせてバーの奥へ進んでいった。


「ま、待って、あなたの名前は?」

「そうね、腐ったブドウかしら」


 そうやって右手をひらひら降る彼女はもう、私には構わないでねとでもいうように僕を振り返ることはなかった。

 なんとも不思議な人だったが、俺は不思議と妻の本当の姿を見てみたくなった。

「今から帰ります」

とだけlineを送るとそのまま家へ帰宅することにした。

               *


「お、おかえりなさい。今日もお疲れ様」

 そういう彼女の声は少し震えていた。もしかしたらクリスマスケーキを見たのかもしれない。

 玄関にそれがなかったのを確認した俺は、俺が一度帰ってきたかもしれないと思っている彼女の感情が手に取るように分かった。

 いつも自信満々のふるまいをする余裕がある人が、今日はやけにちっぽけに見えた。


「今日はどうしたの?クリスマスケーキが玄関に置いてあったからびっくりしちゃった」


 妻は俺に背を向けながら、核心に触れながらもいかにも平静を装うかのように、俺がこの日のために準備していたビーフシチューをタッパーから取り出し、皿に移した。

 俺はこの部屋をぐるっと見渡した。

 きちんと俺によって整えられた部屋に彼女が無駄に買ってきた赤色のアロマキャンドルと、ミニバラの鉢植え、それに毒々しい紫色のカーテンや血をこぼしたようなワインレッドのカーペットが今日は騒々しく感じた。

 全てが彼女を表しているようだ。彼女が手を加える掃除はそこしかしていない。

 よくよく考えると、その他の場所は僕が掃除をしている。

 彼女は自分のテリトリーの範囲だけ……。

 彼女の心は本当はこういうものであったのではないだろうか。

 俺はため息を一つついた。


「美紀はさ、俺のどこが好きだったの?」


 俺は美紀の質問には答えず、自身の質問を続けた。


「えっ、それは、優しいところとか、私を気遣ってくれるところ、後安心させてくれるところ?」


 ……そう、これが答えだったのだ。この中には、どうみても俺の性格をバシッとあらわすものは一つもない。

 その特徴は俺が美紀のためにそうしていただけに過ぎないことだったから。

 泣きたくなった。理解しているようでいてお互い理解していなかったんだって気が付いたから。


「美紀、今日は雪だな。」

「雪?ああ、雪ね。昔から嫌いなのよ。私雪国に住んでいたからなおさら」


 美紀は、もう何?とどうでもよさそうに答えたが、ああ、これが美紀だったんだと再確信した。

 俺は本当は知っていたんだ。

 美紀は、俺を知らない。そして美紀も俺を知らない。

 ……愛なんて有象無象のものに過ぎないんだって。

 そんなままごとの世界でも俺をずっと愛してくれるという幻想に浸っていただけだったって。


「なあ、美紀、少し距離を置こう」


 もしかしてやっぱり知っていたの、ごめんなさい。という彼女を置いてそのまま家を後にすると、貴腐ワインをスーパーで買い、甘いワインを口の中で味わった。


「……腐ったブドウか。腐ったほうが甘いなんて皮肉なもんだな」











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