ジェットコースターナイト

海洋ヒツジ

ジェットコースターナイト

 深夜零時半、仕事を終えたわたしは流れ作業的に家へ帰る。

 スーパーカブに運ばれてゆく疲れた体。家とバイト先を繋ぐだけの道で、帰った後に見る動画のことを考えていた。

 けれどそんな今日一番の楽しみに、中年男の不快な赤ら顔が割り込んで邪魔をする。

 あのクソ客、わたしが配膳をしている時にも構わず腕を振り回しながら部下に説教垂れて、その腕が揚げ出し豆腐に当たってシャツの袖につゆがかかると、沸騰するように怒り出した。自分の不注意を棚に上げ、全ての責任をわたしに押し付けた。店中に響く声で怒鳴って、わたしが謝るたびに興奮は増していって手が付けられなかった。


「あの茹でダコめ。次は袖だけじゃなく、全身を真っ赤に染めてやろうか」


 わたしにあの人の気持ちは分からない。

 とにかくこの日の出来事は最悪で、しばらくの間は何をしていてもあの顔を思い出しそうで嫌だった。

 そんな感情のまま家に帰りついてしまいそうだったから、どこか寄り道でもしたいなと久しぶりに思い立った。暗い家の玄関を通り過ぎてしまって、そこから先は当てのない道。

 とはいえ、休日を家で潰すことの多いわたしは、ふとした時にどこへ出かけるべきかなんてことを忘れている。せっかく普通二輪免許を持っているというのに、もうしばらくこのミントグリーンのカブを家と職場の往復にしか使っていない。

 そもそも日付を過ぎた深夜に行ける場所なんて限られているし。

 あ、めんどくさくなっちゃったな。

 一旦ネガティブな意見が頭をもたげると、途端に体は重くなる。行く当てのないカブは住宅街に足を止め、道を見失ってしまった。


「やっぱ帰るかぁ」


 呟きはほとんど決定事項で、わたしは元来た道にハンドルを切り始めた。

 そんな時だ。


「あぁー! サナエぇ!」


 すぐ近くから女性の声が、たぶん自分の名前を呼んだ。

 突然のことで上手く反応できなかったわたしは、きょろきょろと辺りを見回す。前方には闇。後方にも闇。スマホのライト機能で手当たり次第に照らしても見つけられない。もしやわたしでない「サナエさん」を呼んだものかと思っていると、「あはは! こっち、こっちだよー」と明らかにわたしに向けた指示が今度こそ聞こえた。


「だからどこだって!」


 反射的に声の聞こえた方向にライトを向ける。


「ぐわー、眩しいー!」


 そこは記憶に懐かしい一軒家の屋根上。強い光に照らされ露わとなった、同い年くらいのジャージ姿の女性が一人。


「あんた、もしかしてミナコ?」

「せいかーい、からのぉ……とう!」


 屋根の上にふらふらと立ち上がって何をするのかと思いきや、彼女はそのまま道路の方にジャンプした。


「危な……」


 止める暇もないまま彼女は落下。見事アスファルトに裸足で着地。足裏から着地できたのが幸いだったが、衝撃をもろに受け止めた痛みに彼女はうずくまった。


「何やってんのよ」

「もっとスマートに着地できる予定だったのよ……いてー」

「てかあんた、顔赤い! もしかして酔ってんの? 本当に危ないでしょうが……」


 久しぶりに会ったミナコは綺麗に染めた茶髪の下がほんのり赤くなっていた。片手には強めの酎ハイ缶が握られている。懐かしさを感じたその家はミナコの実家だ。彼女はその屋根上で晩酌をしていたのだった。

 呆れるわたしに、彼女は「にひひ」と笑う。わたしはその危機感のない表情に、本当にどこかおかしくなったのではないかと思った。


「……帰ってたんだね、ミナコ」


 立花美波子は、近所に住んでいたいわゆる幼馴染というもので、その付き合いは赤ん坊の頃にまでさかのぼれる。親同士が仲が良いこともあって、子供の頃はよく顔を合わせたものだったし、そりゃよく遊んだ。

 そういえば近所の公園はわたしたちにとって格好の遊び場だったな、と思い出が浮かび上がってくる。砂場で泥団子を積み重ねて十段越えのアイスクリームを作ったり、ブランコを二人乗りしてどこまで高く上がるか挑戦して、手を離してしまったミナコが吹っ飛んで、騒ぎになるほどの怪我をしてしまったり。

 ああ、あの公園からブランコが消えたのは、それからすぐだっけ?


「サナエちょーどよかった! 今なんとなーく暇してて、どこか行きたいなって思ってたの! そのバイク、ちょっと乗―せて!」


 言いながらミナコはカブの後部にまたがった。


「いや、いきなりすぎ! 何? 今から出かけようっての? 久しぶりに会ったばかりなのに?」

「そうだよー。今この瞬間にウンメイを感じたんだよ。わたしが困ってる時にぃ、偶然サナエと出会っちゃうなんて! 本当にサナエは都合のいい女だねぇ」

「うるせぇよ、また吹っ飛ばされたいか?」

「今しかないの! ねーいいでしょぉ! 連れてってぇー」


 ミナコはわたしの服を引っ張って駄々をこね始めた。耳元にかかる吐息からは強い酒気。この女、完全に出来上がっている。そして面倒くさい。

 けれどわたしの乗っているカブは、なんというか都合のいいことに、タンデムシートを取りつけた二人乗り仕様となっていた。友達を連れて遠くに行けたら面白そうだと思って、高校生の頃に取りつけた。取りつけてしばらくは、何人かを連れまわしたものだ。

 過去の自分に言いたい。それを楽しめるのは友達どもが結婚ラッシュ決める前までで、その後は酔っ払いに絡まれる口実になるだけだぞ、と。

 二人乗りの可否についてはひとまず観念して、わたしはその後の問題のことを聞いた。


「大体、どこに行きたいっていうのよ? こんな時間じゃ、どこに行っても閉まって――」

「遊園地」

「…………は?」

「だから、ゆうえんち! 久しぶりにメリーゴーランドに乗りたいな」


 現在は二〇二二年五月七日、零時四二分。

 幼馴染のミナコは、やっぱり少し変だ。




 夜。時速三十キロで浴びる緩い風。いくつも流れてゆく街灯の光。

 わたしは走っている。住宅の間を、後ろに酔った幼馴染を乗せて。

 ミナコはわたしの腰にしがみつきながら、陽気に鼻歌なんて歌っている。


「できるだけ遠回りしてねー!」

「へいへい……」


 明日もバイトはあるけれど、別に早い時間でもないし。たっぷりと楽しもうというミナコのわがままにも、大人しく従ってやることにする。

 ミナコの提案には思わず呆れてしまったものだけれど、結局は彼女の行きたい場所に向かうことにした。

 理由は、わたしも素直に家へ帰るよりは、どこかへ寄り道したいと考えていたところだったから。目的地さえあれば、わたしにはどこでもよかったのだ。

 そしてもう一つ。呆れるような彼女の提案も、考えてみれば悪くないかもと思えたから。

 この辺りの人間にとっての遊園地は一つだけ。それは海沿いの遊園地。

 海は、嫌なことがあった時に行く場所としては、悪くない。


「あ、サナエ、ちょっとストップ」


 走り出して早々、山の脇道を通ろうというところで、ミナコはバイクを降りた。


「どうしたのよ?」

「ちょっといいものはっけーん」


 ひらひらと舞うような足取りで歩き、地面の方をしばらく探した後、何かを手にして嬉しそうに戻ってくる。

 彼女が手にしたのは、木の棒だった。


「ディス、イズ、ライトセーバー!」

「木だし」

「じゃあホームランバー」

「ホームランバーは当たり付きアイスの名前な。てか、こんな山道に落ちてたものを何の抵抗もなく……捨てなよ。虫が付いてるかもしれないよ?」

「いや。持ってくの」

「子供じゃないんだから……はぁ」


 ここで強情になるだけの体力は、仕事終わりのわたしには残っていない。酔っ払いに何を言っても無駄な気がするし。

 この能天気は、出発する前、家に戻って靴と上着を整えようという時に、ちゃっかり花火セットなんてものを持参していた。例によって彼女のわがままに押し切られた挙句に、その花火セットは座席の下に押し込められている。

 いよいよ何がしたいのやら。今のミナコの意味わからなさ加減は、あの屋根にいるのを見た時から察していたようなものだけど。


「大学、行ってるんだっけ?」


 再び走り出したバイクの上で尋ねる。


「んー」

「どこの大学……といっても、大学の名前とかはあんまり詳しくないんだけど」

「千葉の大学だよ」


 ふーん、と適当な相槌を返す。千葉と言われて、何か話題になるものも思いつかない。

 大学生なら二年生ってことでいいのかな。浪人していたら分からないけれど。そこらへんの細かい事情を逐一聞くのも、なんだか気を遣いそうで面倒だ。


「じゃあ――」

「そんなことより、サナエは今どうしてるのよ? わたし、サナエのことを聞かせてほしいなぁ」

「わたしのこと……?」


 わたしが何か話題を振ろうとする前に、ミナコは質問を投げかけてきた。やや強引な方向転換に、わたしは戸惑う。


「何を話せばいいのやら……」

「何でもいいよ! 中学を卒業した後のこと! そうねぇ……じゃあ手近なところで一つ。さっきわたしがサナエを見つけた時、どこ行くつもりだったの?」

「あれは帰ってるとこだったの。ただの仕事帰りよ」


 正確には職場から家を通り過ぎてどこかへ行こうとして、さらには面倒くさくなって帰ろうとしていたところ。そんなことを説明しても仕方ないので言わないけれど。


「あら、それはご苦労様です」

「つっても、居酒屋バイトだけどね。高校卒業してから、ずっとフリーターよ。あ、海沿い通ってくね?」

「うん、ありがと」


 事前にマップで確認した最短ルートより、海の方へ膨らんだルートへ進路をとる。できるだけ遠回り、というのがミナコの要望だ。


「それにしてもサナエがバイトかぁ。大丈夫? 酔った客に嫌なことされてない?」

「そういうのは、まあそこそこあるよ」


 例えば今日のタコ野郎とかね。


「えー、大変ー! その酔った客、病院に搬送とかされてないよね?」

「何の心配よ」

「だってサナエ、昔はけっこうやんちゃしてたじゃん? わたし今でも覚えてるよ。小学生の時、男子……ハヤシタクマ、だっけ? そいつに服のことで馬鹿にされたサナエが、ハヤシをボコボコにしちゃって泣かしてたの」

「あぁ、そんなこともあったね。今思うと、あれはハヤシの方が正しかったよ」

「それは、うん同感。サナエの服のセンス、独特だったもんね」


 その当時馬鹿にされた服装とは、黄と黒の縞模様のシャツに、黒のオーバーオール、黄の靴下、さらには黒の靴。全身を黄色と黒色に染めた、先鋭的なコーディネートだった。

 同じ色合いでまとめるというのは悪くないと思うのだけど、いかんせん色を散りばめすぎた。まるで舞台衣装のような派手さは、学校で着るにはさぞかし目立っただろう。

 ミナコはそんな服に身を包んだ子供を思い出してくつくつと笑った。


「スズメバチだとか、踏切だとか言われてたっけ?」

「チョコバナナって言われたところで我慢できなくなっちゃった。あの時のわたし、バナナが嫌いだったから」

「りふじんー」

「馬鹿にするのがいけないのよ。でも、もし成人式でハヤシに会ったら、謝ってやってもいいかな。ファッションセンスのことだけは、ね。その時はミナコも付き合ってよ」


 今年は成人式の年。同じ地域の成人式で、ミナコともまた会うだろう。そう思ってわたしは冗談交じりにミナコを誘った。

 その言葉に、ミナコからの返事はなかった。


「……ミナコ?」


 沈黙の空白。突然に中空へ放り出されたような不安に襲われて、彼女の名前を呼ぶ。

 わたしの腰にはちゃんとミナコの手が当てられてあって、決してミナコがブランコの時のように吹っ飛んでいったわけではない。ミナコはわたしの後ろにいる。


「……そうだね。楽しみだねー」


 表情の見えない同乗者が、その時初めてそっぽを向いた気がした。

 何か包み隠すような幼馴染の態度に、けれど長い年月を隔てたわたしはかけるべき言葉を見つけられず、いたたまれない沈黙の中で、カブのスピードを少しだけ上げた。

 わたしはミナコのことを、実はあまり知らない。

 ひとたび黙ると、夜の静けさがたちまち二人にかぶさった。音の少ない夜闇は、人と人とを孤独にわけ隔てるのだろう。たまにすれ違う車も、道行く一人も、決して交わることのない他人に思える。

 このミントグリーンのスーパーカブが、腰に回された細い手が、後ろの彼女がわたしの同行者であるという証。それだけだ。

 普段は入らないマイナーコンビニを通り過ぎる。よく見かけはするのに、わたしの目には背景のように映るばかりで、わたしの生活に入ってくることがないコンビニ。きっとこれからもそうなのだろう。

 二十四時間営業のファミリーレストランを通り過ぎる。深夜一時を過ぎようという時間でも中は明るくて、客も何組か入っている。窓際の男が何かを眺めているのが見えた。

 ミナコは今、何を眺めているのだろうか。

 わたしと同じもの? それともわたしの知らないものを、目にしているの?

 それぞれの景色を前に、わたしたちの間に生まれた微妙な空気を、強くなった風の音がさらってゆく。バイクの駆動音がかき消してゆく。

 カブが次に止まるまで、肌に当たる冷たい空気を感じていた。




 立花美波子とわたしは幼馴染ではあるけれど、実際にそれが深い付き合いと言えたのは、中学生の半ばまでだった。

 同じ中学校に入学しながら、お互いに成長し、趣味趣向がずれていき、別の人との関わりを増やしていく。そういった過程で、わたしにとってのミナコは段々と存在感が薄れていった。

 そして別々の高校に進むと、とうとう顔を合わせる理由もなくなって、自然と関係も途絶えた。二人の中に残ったのは、幼馴染の友達だった、という最終履歴だけ。

 こうしてまとめてみると、さもミナコとの別れが特別に寂しいもののように見えてしまうけれど、何もミナコに限ったことじゃない。成長するにつれ、場所や状況が変わるにつれ、誰かとの別れは付きまとってくる。

 いちいち傷ついていられるほど、日々に余裕はないし。

 わたしはわたしのことで手一杯だ。

 けれどもし、別れた人とばったり再会したなら、それはわたしにとってどういう機会なのだろう。

 数年ぶりに会った幼馴染が、いつも利用するコンビニに立っている。その光景を前にこそばゆいような居心地を感じながら、わたしは彼女のことを思っていた。


「むぅー。どれにしようかなぁ?」


 ミナコはまだほんのり赤い顔をかしげながら、酒類コーナーを凝視している。まだ飲むつもりか、こいつ。


「酒買いに来たわけじゃないでしょ。飲むならせめて水にしときなさい」

「えぇー? 水なんて味ないじゃん。こっちのメロンソーダの方がおいしそうだよぉ」

「それアルコール入ってるメロンソーダでしょうが。言っとくけど、もしわたしのカブに吐いたら、あんたを置き去りにして帰るからね」

「この、おにー!」


 メロンソーダ酎ハイから引きはがすようにミナコの肩を引く。軽く引き寄せるだけのつもりだったのに、油断していたミナコは足をふらつかせ、後ろに数歩よろめいた。その際に、ちょうど後方にいた男に彼女の体が当たった。

 ミナコはびくっと体を震わせた。


「あ、すみません」


 咄嗟に謝ったのはわたし。

 その二人組の若い男は何も言わず、わたしとミナコの全身を観察するように眺めまわした。両方とも顔はアルコールを含んだ赤さで、顔立ちは青年というより、少年のような幼さが残る。未成年かもしれない。

 このコンビニには似たような雰囲気の若者が五、六人ほどいて、ところどころで大声奇声を発していた。

 わたしはその体を這うような視線が気持ち悪くなって、水も取らないまま、ミナコの腕を引いて目的のライターの場所へ向かった。花火に火をつけるためのものだ。

 手早く会計を済ませ、建物を出る。

 アルコール絡みで何かと厄介を引き寄せがちなこの日、わたしの嫌な予感は冴えわたっていた。カブのエンジンをかけたところで、コンビニにいた六人が近づいてきたのだ。


「お姉さんたち、暇っすかぁ? ちょっと一緒に話さん?」

「……けっこうです。ミナコ、早く乗って」


 わたしは固まっているミナコを促す。しかし彼女の前に若者の一人が立ちふさがって邪魔をする。


「ちょちょちょちょ、待ってよミナコちゃん。ミナコちゃんだけでいいから話そうよ」

「あ、そっちの人は帰っていいんで」


 若者の目にはミナコの方がより魅力的に見えるようだ。覚えたての名前を呼んで必死にアピールする姿は、下心が服を着ているよう。

 ああ、とため息をつく。酔っ払いってやつは本当に厄介だ。やたら強引だし、話を聞かない。おまけに、テーブルに長時間こびりついた醤油汚れより粘着質。

 わたしはカブのエンジンをかけたままサイドスタンドを立てた。


「あのさぁ、わたしら急いでんだけど。何か用?」


 ここはバイト先ではないので、酔っ払い相手でも言葉遣いに気を遣わなくていいのは楽だ。いつもより低い声で不機嫌を表しながら、素行不良の若者たちの前に立つ。

 適当に相手をしてやって、脈ナシと分かれば彼らも解放してくれるだろう。


「あはは、そっちのお姉さんも一緒に来る?」

「だから急いでんだって」

「こんな時間にどこに行っちゃうっていうの~?」

「……遠いところよ。明日も仕事があるんだから。お願い、早く行かせてよ」

「お願い、早くイかせて……だって!」


 若者がわたしの言葉を繰り返した途端、一斉に汚い笑いを上げる彼ら。

 ……妄想が旺盛なようで。

 笑い転げる彼らをよそに、わたしはミナコの方を見た。彼女はまだ若者グループの一人に前を塞がれている。よく見ればその男は、ミナコがコンビニ内でぶつかり、その後にわたしたちのことをじろじろと眺めていた男だった。彼だけは随分とミナコに執着しているらしい。

 そしてその男の相手をしているミナコは、様子が変だった。

 言い寄っている風の男に対して、彼女は体を固め、返事に詰まる。浅い呼吸をしながら、釘付けになったように目を見開くばかり。その様ははっきりと怯えを示していた。わたしと話していた時には微塵も出さなかった、強い恐怖心。

 思い返せばコンビニで彼らに出くわした時から、ミナコとは何故か視線が合わなくなった。

 悪いことに、そんなミナコの態度は高圧的な男の嗜虐心を煽ったようで、男は彼女の肩に手を置いた。掴まれた彼女の肩が、先ほどと同じように跳ね上がる。


「そんなに怖がんなよ。そうだ、腹減ってねぇ? 奢ってあげるから、二人でファミレスでも行こうよ」

「あ、え? いや、ええと、あ、はは…………」

「俺、ミナコちゃんと仲良くなりたいんだよね。ミナコちゃんのこともっと教えてよ。あ、ラインやってる?」

「う、うん」

「じゃあQRコード出して。友達追加するから」

「いや、あ、はは……」

「いやちゃんと喋れよ」

「は、は…………」


 ミナコの表情が凍った。

 男を前にした彼女はとても弱く、男の言い分に簡単に流されてしまいそうに見えた。

 見ちゃいられない。

 わたしはミナコに貼り付く男の手をはがすと、彼女の手を引いてできるだけ近くに引き寄せた。そうして背中をさすりながら声をかける。


「大丈夫?」


 ミナコは浅く何度も頷く。その拍子に、彼女の目に溜まっていた涙が数滴、地面に落ちた。


「ちょっとおしゃべりしてただけじゃん。なあ、ミナコちゃん」

「いいからミナコはバイクに乗ってて。もう出発するから」

「なあちょっと出しゃばりすぎじゃねえ? おい、待てって!」


 ミナコが座席に座った後で、わたしもハンドルを握ってサイドスタンドを横にする。そんなわたしたちの出発を妨げるように、男は進行方向に立ちふさがった。


「おいおいおいおいおいマジでふざけんなって。お前ブスの分際で何勝手に決めてんの? お前になんか興味ないからお前だけ帰ってろよ」


 男の両手がバックミラーの根っこを握り込む。眼前に近づいた男の顎にアッパーでも決めてやればさぞかし気持ちいいのだろうけれど、さすがに自制心が働いた。

 正面に立った男以外の不良は、彼ほどには積極的でないようだった。完全にこの男一人の暴走だ。

 わたしはシートの間に収納されていた武器を抜き取る。


「あんた、そこまでにしときな。セックスしたきゃ他当たれ。こっちに全然その気がないことくらい分かるでしょ? あんまりしつこいと警察呼ぶわよ」


 ホームランバー、もとい一メートル弱の木の棒の先を、男の鼻先に突き付ける。


「お前、そんなことしたらどうなるか分かってんだろうな?」

「どうなるかって、あんたらが逮捕されるだけよ。どうせ酒飲んでるんでしょ? 捕まったら何十万か取られるらしいけど、財布の中身は足りるの?」


 年齢のことはあえて言わなかったが、それでも男と他の仲間はたじろいだ。こちとら客を相手に、成年か未成年かの見極めをやっている居酒屋バイトだ。一七歳そこらの顔立ちの特徴なんて遠目でも分かるし、背伸びしたがりのガキを追い返す文句もいくらでも持っている。

 あれ、そういえばミナコは今年で二十歳のはずだけど、誕生日はいつだっけ?


「このクソ女。お前が悪いんだからな」


 しかし目の前の男は、あくまでも女二人をねじ伏せたいようだった。木の棒を右手で握って逸らすと、その手をわたしの首元に伸ばす。

 ぞくり。そんな効果音が聞こえてきそうなくらいに身を震わせたのは、男の方だった。

 とある違和感に彼は右手を開く。その中では、黒い体に気味が悪いほどの鮮やかな黄色が混ざった毛虫がうねうねと這っていた。


「あ。当たり」


 わたしが呟いた次の瞬間、男は右手を振り回して悲鳴を上げる。


「うわぁぁ! 最悪! マジできめぇ!」


 情けなく痴態を晒す男をよそに、わたしはハンドルを切ってスロットルを回す。すぐ隣をすり抜けるように発進したバイクを、男は未練がましく追いかけて来たが、その距離はあっという間に離されていった。


「飛ばすから掴まってて」


 道路に出ると、わたしは頭に残った男の影を引き裂くように、カブを最高速で飛ばした。

 両手がわたしに強くしがみつく。

 吹き付ける強い風を浴びる。風の冷たさと、背中に宿る体温。感じながら闇夜を突き進む。広く先の長い直線道路の、その果てまで。

 わたしが笑うと、後ろでも幼い少女が笑い声を立てていた。




 最高速の瞬間を通り過ぎ、速度を落として進むバイクは終わりかけのジェットコースターのように、旅の最後にわたしたちを終着点に運ぶだけ。

 惰性のように目的地へ向かうカブの上で、ミナコは言った。


「サナエが同じ大学にいたらなぁ」


 その言葉の真意は、よく分からなかった。さっきの不良絡みの事件から感じるものがあったのかもしれないし、ただ言ってみただけなのかもしれない。ミナコはまだ酔っているのだから。

「この歳で勉強なんてしたくありませーん」とわたしは返した。本心だ。

 それから五分もしないうちに、わたしたちは目的地に到着した。

 遊園地。最後に行ったのは十年も前だったか。ミナコとも遊んだ記憶がある。

 確かホームビデオにも残っていたはず。あの頃の、まだ純粋な子供だったわたしたち。走ってメリーゴーランドに乗り込んでいって、存分に振り回されて、満足したように出てくる。若い母親の声が感想を聞くと、舌足らずに「たのしかった」なんてカメラに言い残して、次はコーヒーカップに走ってゆく。わたしが回しすぎたせいで、ミナコは参ってしまっていたっけ。その後は二人で黙々とソフトクリームを舐めて、回復したらまたメリーゴーランド。そう、あれはミナコが好きな乗り物だった。何度乗っても、笑っていた。

 けれど今、その場所にメリーゴーランドはない。コーヒーカップも、ジェットコースターも、そこにあったものは影も形もなくなって、ただ整備された敷地が広がるばかり。

 遊園地は閉まっていたのだ。もう何年も前に。


「あぁーそっかぁ。そうだったねぇ」


 なんて、とぼけたようにミナコが言う。


「知らなかった、ってことはないよね? なくなったの、ミナコがまだこっちにいる時だったし。ここら辺じゃけっこう大ニュースだったはずだし」

「まあねー」

「だったら、どうしてここに行きたいなんて言いだしたの?」

「……あっちで花火しようよ」


 ミナコが指を差したのは、遊園地だった敷地の裏にある、ほんの一区切りの砂浜。

 鼻歌を歌って、不良撃退の戦果を持つ木の棒を振り回しながら、彼女はふらふらと歩き出してしまう。わたしはそんなミナコの姿をおぼろげなものに感じながらついていく。途中で火の処理を考えていなかったことに気づき、わたしは道を戻って近くの自販機でペットボトルの水を買った。

 先に行ったミナコの元へ向かう道中、その道が思っていたよりも静かだということに気がついた。建物の死角や暗がりの草むらがわたしを臆病にする。今にもそこから何かよくないものが飛び出してくるのではないかと、背筋に冷えびえとしたものを感じながら歩いた。一人のわたしは、自分が思うよりも怖がりのようだ。

 それとも一人を自覚するのが怖いのだろうか、わたしは。こんな些細な時間を不安に思ってしまうくらい。

 高校を卒業して、そして友達の多くが結婚して、わたしの生活には一人の時間が増えた。誰かと会える保障がなくなっていった。だからその分を仕事で埋めるように日々を忙しくして、小心者の自分を見ないようにした、なんて。

 考えすぎかな。

 無性に走り出したくなって、堤防でたそがれているミナコを見つけた時、わたしは全速力で駆け付けた。彼女は丸い目をして振り返った後、「びっくりしたぁ」と胸をなで下ろすように言った。

 それからわたしたちは手持ち花火に火をつけて、爆ぜる光を眺めた。


「わたしねぇ、サナエのバイクにずっと乗ってみたかったんだ」


 火花に目を落としながらミナコは言う。


「高校の頃、サナエがバイクに乗ってるとこ、よく見かけたんだ。後ろに誰か乗っけてる時もあって、ちょっと羨ましかった」

「言ってくれればいつでも乗せた」

「そうだね。今日は言えてよかったよ」


 言うだけのことが、果てしなく難しいのだ。あの頃のわたしたちにとっては。わたしはそれを知りながら、その難しいことをミナコに求めていた。


「それで、どうして遊園地?」

「それはメリーゴーランドに乗りたかったから……」

「だから、メリーゴーランドはもうないんだって。知ってたんでしょ?」

「うぅ……」


 ミナコの火が消える。花火をペットボトルに突っ込んで次のものを準備しようとする彼女に、わたしは言う。


「何か嫌なことでもあった?」


 彼女は花火に近づけようとしていたライターの火を消した。


「すごいね。どうして分かるの?」

「幼馴染なめんな」


 海沿いにあった遊園地。遊園地はなくなっても、海がなくなることはそうそうない。

 そして海は、嫌なことがあった時に行く場所としては悪くない。わたしもそういう理由でここへ来た。

 ミナコは、会った最初から様子が変だった。やたらテンション高く話しかけてきて、道中もおしゃべりな彼女だったけれど、それは少なくともわたしの記憶にある彼女の像とはかけ離れている。

 この子はもっと、口下手で引っ込み思案だったはずだ。

 幼い頃からずっと、人と接するのが苦手な子だった。いつもわたしの影に隠れていて、わたし以外の人としゃべっている姿をほとんど見たこともない。そしてその気質は中学に入ってから、悪化したように見えた。

 わたしが中学生になってからつるむようになった友達に、ミナコは苦手意識を持っていたようだった。その友達というのがあまり素行のよくない連中だったから、苦手に思うのは当然だけれど。

 ミナコの人付き合い下手にも一層の磨きがかかっていき、わたしとの会話ですら目に見えて緊張するようになった。というより、友達の影響で不良ぶっていたわたしに対する苦手意識が芽生え始めていたのだろう。他人に向けていた不安の表情を、わたしにも向けていた。

 彼女は彼女で気の合う友達を作り、そのままわたしたちの関わりはなくなっていったのだ。

 だから今の気さくなミナコは、だいぶ懐かしい。

 高校、大学を経て性格が変わったのかとも思ったけれど、やっぱりそれは違う。ところどころで中学の頃のミナコが顔を出していたし、どこか無理をしているなと感じた。

 まるで思い出に浸っているかのようだ。

 思い出に、戻りたいかのようだ。


「何があったの? 話せることなら言ってみて」

「話せる話せる。全然、大したことじゃないし……ただ大学デビューに失敗したってだけなんだから」


 そうしてミナコは、大学に行ってからのことを話した。

 わたしの火も消えて、ペットボトルに二本目の燃え尽きた花火が挿しこまれる。花弁のないピンクの茎が活けられた安っぽい花瓶が、堤防に座るわたしたちの空いた隙間を飾っていた。

 砂と一緒に時間をも押し流しているような潮騒の中で、遠くの漁港の灯りが水面に映すイルミネーションを、わたしもミナコも、縋るように見つめていた。

 ミナコは、大学で自分を変えたかったのだと言う。引っ込み思案を改善し、誰とでも話せる自分になりたいと。そのために彼女は人気のテニスサークルに入って交友関係を作ろうとした。積極的に活動した。飲み会への参加をした。髪や化粧、服装といった、見た目への気遣いも忘れなかった。

 けれど結果的に、彼女は性格を改善することができないまま、広がった人間関係の中で溺れていった。

 見た目も良くなって、声をかけてくる人も増えたのに、彼女の方はいつまでも受け入れることはできなかった。目の前で打算的に動いてゆく人間関係。人の優劣。上の横暴と、下の媚び。関係を持とうと強引に言い寄ってくる男。相手によって態度を変える女。およそ繋がりと呼べるものに付きまとう損得勘定を飲みこむことができず、翻弄され続けた。


「頑張ったつもりだったんだけどねぇ。ちょっと疲れちゃったな」


 ミナコは波の向こう、暗闇がかった海を臨んでそう言った。


「そのサークルは、やめたの?」

「続けてるよ」

「人付き合いが面倒なんだったら、やめてもいいと思う。縛られる必要なんてない」


 彼女は昔から主張することが苦手だった。今回も、感じる必要のないしがらみを感じているのだろう。そう思ったわたしの言葉に、彼女は薄く笑って返した。


「やめないよ。まだね。でも、真剣に話聞いてくれて嬉しい」

「……てっきり、嫌になったから、やめるにはどうしたらいいかって相談かと思った」

「全部が上手くいってないってわけでもないの。気の合う人だっていないわけじゃないんだ」


 ミナコはふと腰を上げると、波打ち際の方へ歩いてゆく。花火を一本持って。


「でも今はちょっと、人間不信気味かな」

「わたしのことは大丈夫なのに?」


 茶化すようなわたしの言葉に、彼女は振り返らず、波に紛れてしまいそうな声量で言う。


「サナエは、サナエだもん」


 そんなことを言うのは、まだアルコールが残っているせいだろうか。

 堤防と波打ち際の中間あたりで、ミナコは花火を地面に埋めた。持っていたのはロケット花火だったようだ。海の方へ向けた花火に火をつけようとするが、やや出てきた風にライターの火が消されて上手くいかない。

 サナエはサナエ。今でも変わらず思ってくれていることを噛みしめる。

 ようやく安定したライターの火が導火線に移った。ミナコはぱたぱたとこちらに走り寄ってくる。ちょうどその時、一際強い風が吹いて、ミナコは乱雑に流された茶色の髪を一掴みし、こめかみから後ろへ掻き上げた。

 わたしはその風が、柔らかい砂に刺さったロケット花火の向きを反対に変えるのを見た。


「――――ミナコ!」


 潮騒をつんざくかのような叫び声。ただならないわたしの声に、ミナコは目を丸くしていた。

 わたしは声を上げると同時に、咄嗟に彼女が置いていった木の棒を掴んで走ってゆく。柔らかな砂に足を取られようとも、砂を蹴散らす勢いで。短くなる導火線がじりじりと時を狭めていく。ミナコが振り返り、自身に迫る状況を目にした。わたしは彼女のそばを通り過ぎ、両手に握った木の棒を野球バットのように引き絞った。

 ロケット花火が発射の音を立てると同時に、その出どころをわたしのフルスイングが打ち据える。叩かれた場所で爆発のような火花をまき散らしながら、ロケット花火は海の上に放物線を描いて消えた。

 なんだか夢みたいな一幕だ。わたしは花火を打った手ごたえに、少し興奮していた。


「酔い、醒めちゃった?」


 砂の上にへたり込んで呆然と花火を見送っていたミナコに問いかける。


「……まだ、もうちょっと」

「そっか」


 それならまだ、終わらせるわけにはいかないな。わたしは木の棒を放り捨て、ミナコに手を差し出す。

 わたしがミナコにとって変わらないわたしであるのなら、ミナコもわたしにとっては変わらない友達だ。そういう風に思っていよう。せめて今日くらいは。


「じゃあどうする? せっかく海に来たことだし、ちょっとは遊んでいくんでしょ?」


 ミナコはあどけない子供のような顔で、遠慮がちにわたしへ手を伸ばす。何かへの期待を、わたしの手に見るように。待ちきれないわたしは彼女の手を迎えに行って、そして海の方へと駆けだした。

 履いているものを脱ぎ散らかしてズボンの裾をまくる。海水に浸した足を跳ね上げると、ちょっと可愛くない量の水が飛んで、ミナコのジャージを濡らした。そうするとミナコも躍起になって海に飛び込んで、仕返しとばかりに白い足を宙に振り上げる。水が弧を描く線になって、わたしの髪に引っかかる。

 ミナコが笑って逃げる。わたしが追いかける。

 ああ、わたしたちはまだ、こんなにも自由でいられるんだ。

 水遊びに砂遊び、テトラポットの方も探索してみよう。もう帰りのことなんて気にせず、思い切り暴れてやるつもりだ。

 足を沈めた五月の海は、思っていたより冷たくない。




 自分の家で起きた時、スマホの時計は昼過ぎを示していた。

 知らず疲れていた体はよほど睡眠を欲しがっていたようだ。たっぷり十時間近く眠った体は軽く、頭もすっきりしている。ふくらはぎの辺りには、若干の筋肉痛。

 夢……じゃなかったよな?

 昨夜の出来事を思い返すと、やっぱりどこか現実離れしているような気がして、あれは本当の出来事ではなかったのではないかと疑い始めていた。あんな子供っぽいミナコ、久しぶりに見たし。屋根の上で酒飲んでたり、いろいろおかしかったな。


「そういえばミナコの誕生日、今日だったわ」


 唐突にそんなことを思い出す。どうして今になってと思うけれど、一応、まだ憶えていたらしい。

 ベッドを抜けて家の冷凍庫を漁る。そこには昨夜の帰りに買ったカップアイスがあった。ミナコのわがままで入ったマイナーコンビニにあったものだ。ミナコが手に取るのを真似して、同じものを買った。

 ぼうっとした頭で蓋を開け、スプーンですくって一口。冷たい。そして甘すぎる、コットンキャンディの味。

 でも昔のわたしは、こんな甘さが好きだった。

 アイスを食べながらスマホのフォトフォルダーを開く。最新の写真をタップすると、その中では仲の良さそうな二人が肩を組んでピースしていた。

 ミナコは午前の飛行機で千葉の方へ戻ると言っていた。今頃は着陸して、電車にでも揺られているだろうか。

 そしてまた大学へ通うようになったら、周りの人に翻弄される日常が始まるのだろうか。この一年で経験したように、人間関係で嫌な思いをしたり、人を信じられなくなったりするのかもしれない。

 ミナコは、まだもう少し頑張っていくみたいだ。意外と意固地な子らしい。彼女が決めた以上、わたしにできることは、そうない。

 新しく追加した彼女の連絡先。わたしはそこに昨夜撮った写真を送信して、ついでに付け加えるようにメッセージを打った。


『また遊ぼうぜ』


 返信は早かった。

 わたしは返ってきたメッセージを読んで、これを書いた素面のあの子は、きっと頭を抱えながら悶えているのだろうなと、想像して笑った。

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ジェットコースターナイト 海洋ヒツジ @mitsu_hachi

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