勿忘草

深茜 了

勿忘草

五月の空気はとても心地良い。

気候は快適で、晴れ渡った日が多く爽やかな風が吹いている。散歩をするにはとても適した時期だと思っている。

しかし私がここにいる理由を散歩、という言葉で片付けてしまうには少し軽すぎた。


私の勤め先は東京の騒々しいオフィス街にあり、住まいも都内の住宅街だったため、常に人に囲まれた生活をしていた。

人が苦手というわけではないのだが、いつもそういった環境にいて少しばかり疲れていた私は、しばらく前から定期的にこの寂れた町を訪れていた。


その町は私の自宅から電車で2時間程北上した県にあり、特別何か観光スポットのようなものがあるわけではなかった。

それどころか、町全体の雰囲気は灰色で、人の往来はほとんど無い。

町並みはというと、営業しているのだかしていないのだか分からない商店街が並んでおり、商店街というと昭和を想像するかもしれないが、昭和、という言葉では片付かないほど、現代からすると違和感のある雰囲気があった。最初にこの町を訪れた時、本当にこの町はこのITやSNSが発達した現代にあるのだろうかと思ってしまったほどだった。


田舎を訪れるというと、田畑や木などの緑に囲まれて癒されるイメージがあるが、私がしたいのはそういったことではなかった。ただ、灰色の寂れた町で、人が居ない往来を自由に歩きたい。その目的だけで、私はこの町にもう三回ほど通っていた。


 昼食を摂るために、馴染みのラーメン屋に入った。寂れていても、駅前に1,2軒飲食店があるのは助かった。それがこの町を気に入っている理由でもあった。


そこは中年の夫婦で経営している、よくある形のラーメン屋だった。壁に面したカウンター席に座ると、女房の方が水を持って来た。注文するものはもう決まっていたので、同時に注文を済ませる。女房が引っ込んでいくと、私は壁を眺めながら料理が運ばれて来るのを待った。

料理はさほど待たずにやってきた。細麺でややこってりとしたスープの鶏白湯ラーメンだった。初めてこの店を訪れた時にこれを注文し、それ以降ずっと同じメニューを頼んでいた。

どうせ寂れた町のラーメン屋と期待していなかったが、それは私が今まで食べてきた鶏白湯の中で二番目にうまかった。どうしてこんな田舎でやっているのだろうと勿体なく思ったくらいだ。外で人を見掛けない割にそこそこ席が埋まっているのも納得がいった。

そうして絶品ともいえるラーメンをあっという間に食べ終わると、私は会計を済ませた。帰り際には、ラーメン屋よろしく夫婦揃って大きな声で挨拶をされた。

それに片手を上げて応えると、私は店を出て歩き出した。今日はどの辺りを散策しよう。とりあえず私は記念に周辺の写真を2,3枚撮った。


 今までは駅の東側を散策していたが、今回は西側に行ってみることにした。

線路を超えると、商店街が中心だった東側に対し、西側は住宅街になっているようだった。

それでも、駅の近くを通り過ぎると人とすれ違うことはなくなった。私は満足しながら、住宅に囲まれた道をしばらく歩いた。

十分程歩くと、T字路に差し掛かった。どちらに行こうか。

左右を見てみると、右手には畑が広がっており、左の方はまた住宅街だった。畑に興味が無かった私は、左手に折れた。

そのまま住宅街の中をあてもなく歩いた。こんなに家が連なっているのに、人とほとんどすれ違わないのは本当に不思議だった。時折車とすれ違うところをみると、電車移動が不便な場所の為、車を使う住民が多いのかもしれないと思った。

住宅は新しくもないが、特別古くないといった感じの家が多かった。オレンジや青の屋根が並ぶ中を歩いていく。


その中に比較的ひらけた場所があり、私は一軒の茶色い建物を発見した。どうやら住宅ではなさそうだ。近付いてみると、喫茶店のようだった。私は店の前で足を止めてその喫茶店を観察した。

建物は木造で、茶色い木の板を組み合わせて出来ている。こぢんまりとした造りで、店の周りは緑の背が低い植物に囲まれており、建物と同じくらいの背丈の細い木が何本か植えてある。全体的に素朴だが小洒落た店だった。

そして店名を表す白い木のプレートには、黒い墨のようなもので「feriferiya」と書かれていた。


(こんなところに喫茶店が・・・)

私の疑問は当然だった。こんな観光客もいないような地で喫茶店など繁盛するのだろうか。

喫茶店巡りは私の予定には無かったが、どうしてもその店が気になった私は、気が付くと木で出来た取っ手を掴んで中に入っていた。



店内は外の印象と同じく木造の茶色い内装で、カウンター席が3席と、2人掛けのテーブル席が3席有った。今は他に客は居ないようだった。全体的に温かい印象はあったが、飾りなどは少なく、シンプルな店内だった。


「いらっしゃいませ」

カウンターの中から、店主が呼び掛けてきた。店主は若い女性で、年齢は二十代半ばか後半くらいに見えた。どちらかといえば小柄で、茶色く染めたセミロングくらいの髪を後ろで一つにくくっている。

白いシャツと黒いエプロンがよく似合っていた。声の印象もそうだったが、丸顔と猫のような細い目元から、おっとりとした雰囲気が感じ取れた。


「おひとり様ですね。カウンターでいいですか?」

「ああ、構わない」

私はそう答えると、店主の向かいのカウンター席に腰掛けた。

店主が差し出したメニュー表に目を通す。小さなバインダーになっていて、手書きで品物が書いてある。飲み物はいくつか種類があったが、食べる物はデザートしか無いようだった。

腹は減っていなかったので、私はアメリカンコーヒーだけ注文した。店主は少々お待ちください、と言うと奥に消えた。しばらくすると湯を沸かす音が聞こえてきた。そののち、銀色の大きいポットと、それよりやや小さな白いポットを持って店主は再びカウンターに現れた。


「初めていらした方ですよね」

と、店主は銀色のポットで湯を注ぎながら、おっとりとした口調で声を掛けてきた。

「ああ、散歩をしている時偶然見掛けたから、立ち寄った」

すると店主はそうですか、と言い、

「この辺の方なんですか?」

と言いながら更に湯を注いでいく。コーヒーの香りが強く漂ってきた。

「いや、都内の方に住んでいる。たまにこの町を歩きに来てて、もう三回目くらいになる」

店に充満するコーヒーの香りを感じながら、私は答えた。知り合いにもこの趣味は教えたことはないが、何の接点も無いこの女店主になら話してみようかという気になった。彼女から漂う温厚な気配がより一層私をその気にさせた。

「何も観光する所は無いんだが、それが良いんだ。勤めも家も人が多い場所だから、こういう人通りが少なくて何も無い場所に来ると、とても落ち着くんだ」

私が説明すると、女店主は鷹揚に頷いた。

「変わったご趣味ですね。・・・でも、分かるような気もします」

そしてコーヒーを淹れ終わったのか、ソーサーに湯気の立ったコーヒーカップとスプーンをことりと置いた。そのまま店主がカウンターから出て来て、お待たせしました、という言葉とともに、私にアメリカンコーヒーが差し出された。砂糖は元々席に置いてあって、自分で好きな量を入れるようになっていた。


「お名前をおうかがいしても?」

私がコーヒーに口をつけると、カウンターの中に戻った店主が聞いてきた。私は、

「佐伯和真かずまという」

と答えると、

「君は?」

と聞き返した。女店主はやや伏し目がちになると、

「私は・・・・・・瑞枝みずえといいます」

と何故か下の名前だけを名乗った。

どうして名字を言わないのかが気になったが、深く追求するのも躊躇われた私はそうか、と頷いた。

「お仕事は何をされてるんですか?」

結局名字の件に触れることはなく、瑞枝は話題を変えた。

「システムエンジニアをやっている。もう入社して十年になるが、未だによく仕事ではつまずいているよ」

すると瑞枝は、まあ、と言って顔を上げた。

「それはすごいお仕事ですね。ちなみに十年というと、お年は三十二歳くらいですか?」

彼女の問いに、私はああ、と頷いて再びコーヒーに口を付けた。あっさりしたなかにも味わいがきいていて、美味いコーヒーだった。

「私は二十歳の時にこの店を始めて、それから六年経つんですけど、やっぱりコーヒーは難しいですね。お客さんは皆優しいので、何も言わずに飲んでくれますけど」

私は首を横に振った。

「いや、とても美味しいよ。それに、二十歳で喫茶店を始めるなんてすごいな。昔からの夢だったのか?」

私が尋ねると、瑞枝は考えるように視線を上に泳がせた。

「・・・大学は行けそうになかったですし、これと言って手に職もありませんでしたので、高校を出てから勉強しました。でも最初は苦かったり酸っぱかったりで、散々でしたよ。やめようかとも何度か思いました」

私は相槌を打つように頷いた。

「苦労したんだな」

そう言って、私は芳醇な香りの立つ彼女のコーヒーをあおった。


「そう言えば、ここの店の名前は、フェリフェリヤ・・・というのか?」

私は店に掛けられた白い板の看板を思い出して言った。

「正しくは、フェリフェリアと読むんです。私が勝手にローマ字を当て込んでしまいました」

「英語ではないのか?」

「ええ、ギリシャ語で、『自由』という意味の言葉です」

「ギリシャ語か。良い言葉だな」

私が素直な感想を漏らすと、瑞枝は頷いた。

「・・・自由というのは、誰にとっても魅力的な言葉でしょう?」

「それで、この店名に?」

私が問うと、瑞枝はコップに水を注ぎながら、

「・・・ええ、そうですね」

と手元に目を落としながら答えた。彼女が時折見せる翳りが気になった。

「それにしても、ここはコーヒーも美味いし、店の様子も洒落ているのに、こんな目立たない所にあるのが勿体無いな。普段はもう少し客が入っているのか?」

新しい水を持って来た彼女に礼を言うと、私は店の内装を眺めた。

「決して繁盛はしていませんけど、ぼちぼちお客さんは来てくれますね。大抵は、近所の常連さんなんですけど。都会は好きじゃないので、ここに店を出しました」

「ここの近くに住んでいるのか?」

すると瑞枝はいいえ、と首を振った。

「家はI県の真ん中あたりにあります」

その辺りだとここまでは電車で1時間程かかるはずだった。

「それは通うのが大変だな。店はどのくらいやっているんだ?」

「水曜日以外は毎日ですよ」

「働き者なんだな」

私が返すと、瑞枝はくすりと笑った。

「見ての通りお客さんは少ないですし、ここに居ると安らげるんです。だから、全然大変じゃありませんよ」

「自分が気に入っているなら、それに越したことはないな」

そして私はコーヒーのおかわりを注文し、小一時間彼女と話していた。特別大した話はしていないが、会話は盛り上がった。瑞枝の聞き上手な性格のおかげだろうと思った。


そして時刻が夕方近くになってきたため、名残惜しいがそろそろ帰らなければいけなかった。それを瑞枝に伝えると、

「じゃあ、良かったらまたいらしてくださいね」

と温厚な口調で言った。私はああ、と頷き、

「家が遠いからすぐには来れないが、また来よう」

と彼女に約束した。自分の中でも、きっとまた行くことになるだろうと予感していた。


帰りの電車の車中で、私は喫茶店のことを考えていた。

田舎通いに関しては今までも目的が有ったし、もちろん行きたくて行っていたのだが、あの喫茶店に通うことによって、より明確な意味が生まれる気がした。それが私には何となく嬉しかった。次はいつ頃行こうか、ともう先のことまで考え出していた。外の風景を見やると、まだ彼女が淹れたコーヒーの香りが漂ってくる気がした。



休みが明けて平日になると、私はいつものように会社に出勤した。


その日は5月らしい初夏の陽気で、私はスーツのジャケットを椅子に掛け、シャツ姿で仕事をしていた。

クライアントから依頼のあったウェブページのデザインを整えながら、私は喫茶店と瑞枝のことを思い返していた。


客の入りはぼちぼち、と言っていたが、それで生活は成り立っているのだろうか。さすがに初対面でそんなことを詮索する訳にはいかなかったが、気になっていた。実家に住んでいて、趣味半分でやっているのだろうか。あるいは結婚でもしているのだろうか。いずれにしても、あの店の売り上げだけで食っていくのは難しそうな気がした。


そんなことに考えを巡らせながら仕事をしているうちに、午前中の就業時間が終わった。

昼飯を買いに行く為に外に出ると、同期の飯山とかち合った。彼の仕事は営業職だった。

「おう、佐伯。最近どうよ?」

飯山が陽気な口調で聞いてきた。私から見ても彼は営業に向いている性格だった。

「どう、とは?」

私が率直に返すと、飯山が肘で小突いてきた。

「だから、彼女とかできないのかよ。お前、モテるのにずっとお一人様だから皆不思議がってるよ。そのうち同性愛者とか噂立てられるぞ」

確かに私には長年恋人が居なかった。友人も少なく、あのような趣味に傾倒している事を考えると、自分は思ったよりも人間が嫌いなのかもしれないと思った。

「付き合っている女性は居ないし、特にこれと言って気になる人もいないな」

私は端的に答えた。言いながら脳裏に瑞枝の顔が浮かんでいたが、現段階で特に女性として意識している訳でもなかったし、会社の人間に田舎歩きやあの喫茶店の話をする気にはなれなかった。

「勿体ないなー、まあ、そう言う俺も新しい彼女出来てないけど」

飯山は先月、一年間付き合った女性と別れたばかりだった。

「まだ早いだろう」

たしなめるように私が言うと、彼はいやいや、と首を振った。

「仕事のやる気を上げるにはまず恋人だろ、失恋のショックからも立ち直れるし」

「そんなものか」

恋愛を重要視していない私にはいまいちピンとこなかった。


午後の仕事を定時で終えると、私はコンビニで缶ビールを買って、一人暮らしをしている家へ帰宅した。昨日作っておいたラタトゥイユをつまみに、ビールをあおった。


テレビを点けてみる。クイズ番組、お笑い番組、とチャンネルを変えていくと、バラエティー番組でリモコンを押す手が止まった。


それは山奥にある喫茶店を紹介したもので、瑞枝と同じく若い女性店主が経営しているようだった。経営は成り立っているのですか、とタレントが質問すると、店主は恥ずかしそうに笑い、親が亡くなって多額の財産を相続したからそれでやりくりしているのだと話した。私はそれを見ながら、瑞枝もそんな感じなのだろうか、とぼんやり考えた。


しかし、後で知ることになるが、瑞枝の生活環境はそんな生易しいものではなかった。穏やかに見える彼女には、常に悲惨な人生と仕打ちから来る激情が秘められていた。それが彼女を壊してしまうまで、瑞枝は苦しみをこらえていた。それをあの事件が起きてから、私は知ることになる。


 

 前回喫茶店に行ってから二週間後、私は再びあの町に来た。

いつもは数ヶ月に一度しか訪れないのだが、また瑞枝と話したいという気持ちが私に足を運ばせた。


「佐伯さんは、どこか生活感とかけ離れていますよね」

注文したエスプレッソをすする私を見て、瑞枝が言った。

「どういうことだ?」

「何か、生活臭があまりしないと言うか、俳優さんとか、そんな感じのオーラが漂ってます。髪も、会社勤めの男性は大抵黒ですけど、少し茶色っぽいですし」

「一人暮らしだから普通に家事もやっているぞ。仕事もしがないサラリーマンだ。・・・髪は元からこの色で、学生の時なんかよく注意されて、毎回地毛だって説明するのが面倒だったよ」

苦笑しながら私は言った。

「でも、ちゃんと立派にお勤めされて、すごいです。私は働いた経験がありませんから」

瑞枝は言った事とは裏腹に、ぼんやりと手元に目を落としていた。

「・・・今は実家に住んでいるのか?それとも、結婚しているとか?」

先日疑問に思っていたことを聞いてみた。瑞枝は少し目を伏せた。

「・・・結婚は、していません。家も実家ではないです」

穏やかだが、淡々とした口調だった。それだったら何故生活がしていけているのか不思議だったが、瑞枝はそれ以上語ろうとしなかった。私も私で余計な詮索は彼女の不興を買うと思ったので、それ以上追求しなかった。

「佐伯さんはご結婚されてるんですか?」

瑞枝は自分の話になると話題を変える癖があった。

「いや、していないよ。恋人も八年くらいできていない。会社の同僚ともちょうどその話になって、説教された」

私が少しおどけた調子で言うと、瑞枝は、まあ、と苦笑いした。

「別に恋愛しないといけないなんて決まりはないですし、本人のペースで良いと思いますけどね」

その発言から、何となく瑞枝も決まった相手が居ないような気がした。


腹が減ってきたので、今日はデザートも頼むことにした。甘すぎるものは得意ではなかったので、抹茶のティラミスを選んだ。

それを粉を散らかさないように食べた。程よく苦みが効いていて味は良かった。

「料理を出したりはしないのか?」

口に付いた抹茶の粉をおしぼりで拭いながら、私は聞いた。瑞枝はええ、と言い、

「調理師免許は取っていないので、食事は出せないですね。私、料理自体もほとんどやらないんですよ」

と私が食べ終わったティラミスの皿を下げながらこぼした。

「そうなのか」

私は簡単に相槌を打ったが、実家に住んでいる訳でもないのに料理をしないのか、と思った。そういう人も珍しくはないが、何となく毎日コンビニ飯を食う瑞枝は想像がつかなかった。


その日も何でもない話に花を咲かせ、十五時を過ぎると私は店を出る準備をした。

財布を出して会計をしていた時だった。その日一度も音を立てなかった店のドアが鈴の音とともに開かれた。


店に入って来たのは、六十代くらいの品の良さそうな女性だった。小柄で色白のその女性は、白髪の髪を後ろでお団子のようにまとめ、ベージュのアンサンブルのトップスに、浮かない程度の柄が入ったグレーの長いスカートを穿いていた。

「杉浦さん、こんにちは」

瑞枝が女性に声を掛けた。おそらく常連なのだろうと思った。

「瑞枝ちゃん、久しぶり。この前から息子夫婦が一緒に住むことになってね。その準備でしばらく来れなかったわ」

杉浦という女性は柔和な笑顔で瑞枝に話し掛けた。彼女もまた瑞枝を下の名前で呼んでいたが、自分と同じように下の名前しか知らされていないのか、それとも親しいからそう呼んでいるのか私は少し気になった。

「息子さん夫婦が一緒にって・・・杉浦さん、どこか体に悪いところでもあるんですか?」

会計を終えた瑞枝がカウンターから出て来て言った。女性はいいえ、と首を振り、

「そういうわけじゃないんだけどね、息子がうちの近くに転勤になったから、私の家に住むって話になったのよ。お嫁さんも良い人だからね、毎日楽しいわ。寂しくなくって」

と目を細めて楽しそうに笑った。

「ずっと旦那さんと二人暮らしでしたもんね」

瑞枝が相槌を打つと、女性は初めて私を振り返った。

「こちらの方は、新しい常連さん?」

「ええ、この間から来ていただいている方です」

瑞枝が私を紹介すると、夫人は穏やかだが知的な瞳を私に向けた。

「初めまして、杉浦といいます。お名前を聞いてもいいかしら?」

「佐伯です。ここの店にはよく来ているんですか?」

私が頭を下げると、杉浦さんはええ、と微笑みをかえした。

「一年くらい前からね、ちょくちょく来ているの。静かだし、コーヒーは美味しいし。私の家がこの近くなんだけど、この辺はあまりこういう店がないから、とても助かっているのよ」

自分の頬に手を当ててにこやかに話す彼女に、私はそうですか、と返事をし、「電車の時間があるので、すみませんが失礼します」と再度杉浦さんと瑞枝に会釈をした。電車は二、三十分に一本しかないので、時間をみて帰らなければいけなかった。

瑞枝が店の入り口まで見送ってくれ、私は手をあげると駅に向かって歩き出した。あの杉浦夫人と瑞枝はいったいどんな会話をするのだろう。二人が話している風景を想像しながら、私は帰りの電車に乗った。



 それから二、三週間おきくらいに、私は瑞枝の店へと通った。


「この間なんか、ほとんど完成に近かったプログラムを、先方からやり直すように言われたんだ」

四度目の来店の時に、私は苦笑しながら仕事の愚痴を話していた。

「それは大変でしたね。やっぱりお仕事をしていると、理不尽な目に遭ったりすることも沢山ありますよね」

コーヒーを注ぎながら瑞枝は鷹揚に頷いた。

「ただ、好きな仕事だからやり甲斐はある。外で営業に回るよりも、パソコンと向き合ってひたすら作業をしている方が性に合っているよ」

少し熱っぽく話す私に、瑞枝はうんうんと耳を傾けた。彼女は自分から何かを話すことは多くなく、話し上手というより聞き上手のイメージがあった。

「外仕事といえば、この前営業の同僚が車で出ている時に、ひどい渋滞に嵌ったらしくて、何かと思ったら大きな事故があったみたいで、車五台くらいの玉突き事故だったそうだ。私も休日に車を運転することがあるから、他人事ではなかったよ」

大した意図も無く、この間飯山から聞いた話を瑞枝に聞かせた。しかしそれを聞いた彼女は顔を曇らせ、

「車なんて、運転しない方がいいですよ」

と私が話し終わるや否や口を挟んできた。普段穏やかで相手のペースを守って話す彼女には珍しいことだった。第一、相手を否定するような苦言を言うこと自体が今までには無かったため、私は少々面食らった。

しかし瑞枝はすぐにまずいと思ったのか、

「車の事故は多いですからね、なるべく気をつけてください」

といつもの温厚な調子に戻って言った。

車の大きな事故などという凄惨な話を聞きたくなかったのかもしれないと思った私は、それから普段通りに会話を再開した。瑞枝も瑞枝で、先程感じた剣呑さをもう出すことはなく、それからはいつものような穏やかな二人の時間が過ぎていった。



 八月の盛夏の頃だった。待ちに待った休日を迎えると、私は何度目かになる瑞枝の喫茶店へ足を運んだ。


その日は猛暑で気温は三十五度を超えていたが、それでも半袖を着ない私は汗を流しながら喫茶店付近の住宅街を歩いていた。


今日はこの間初めて挑戦したビーフストロガノフ作りが見事に失敗した話でもしようか、と考えながら瑞枝の店の近くまで来ると、店のあたりの様子が普段と違っていることに気付いた。

いつも店の前に人が居ることはないのに、数人の人間が店の周りを調べたり言葉を交わしたりしていた。しかもどういう訳かそれは警察官のようだった。


——瑞枝の身に何かあったのか。


私は居ても立ってもいられなくなったが、職務中の警察官に事情を聞いていいものか分からず、少し離れた所で立ち尽くしていた。

その時、

「佐伯さん・・・!」

私を呼ぶ声がした。振り返ると、そこには小走りで私に近付いて来る杉浦さんの姿があった。

「良かった・・・、あなたに会うことができて。さっき庭いじりをしている時にちょうどあなたが通りかかったのよ」

杉浦さんは笑顔だったが、その顔には困惑のような色も貼り付いていた。

「杉浦さん、・・・これは、どういうことですか・・・?」

狼狽した私が再び店の方を見やると、杉浦さんは少しうつむいてから、悲しそうな表情を浮かべた。

「瑞枝ちゃんがね・・・、養父さんを、刺しちゃったみたいなの」

私はすぐには理解ができなかった。瑞枝は養子だったのか・・・?まず思ったことはそれだった。養父さんは亡くなったみたい、と杉浦さんは付け加えた。

「・・・杉浦さんは知っていたんですか・・・?その、瑞枝が養子だったこと」

杉浦さんはいいえ、と言った。

「私もこの騒ぎで初めて知ったし、瑞枝ちゃんの名字さえも知らなかったのよ。あなたは?」

「私も同じです」

私は暗い顔をしながら言った。養父を殺害したことを考えると、瑞枝は何か人に言えない事情があって、養子になっていることを隠していたのだろうか。時々言葉の端々などに暗鬱さを見せることがあったのに、気づいてやれなかった自分がとても悔やまれた。


「それでね・・・」

悲嘆に暮れていた私に、杉浦さんがおずおずと声を掛けた。

「あなたに会ったら、これを渡してほしいって、瑞枝ちゃんから預かっているの」

差し出したのは、ぶ厚い白い封筒だった。よく郵便に使われるようなものではなく、雑貨屋などに売っていそうなシンプルだが洒落た封筒だった。受け取ると、ずしりと重い感触がした。中を覗いてみると、数枚の紙と鍵のようなものが入っていた。

「数日前の夜、瑞枝ちゃんがうちに訪ねてきてね、次にあなたに会ったら渡してほしいって、頼んでいったの。その時は何が何だかわからなかったんだけど、きっとその足であの子は警察に向かったのね」

最後の方は、涙ながらに話していた。


封筒の中をあらためて確認してみると、紙は便箋で、手書きでびっしりと文字が書いてあった。どうやら私宛の手紙のようだった。それも一枚や二枚ではない。一体何が書いてあるのだろうか。

「杉浦さん、悪いのですが、帰ってこれをすぐにでも読みたいので、これで失礼してもいいですか?」

「ええ、もちろんよ。」

そして杉浦さんは涙の溜まった目をにっこりと細めた。

「瑞枝ちゃんのこと、見捨てないであげてね」

私は、はい、と返事をすると、駅の方へと踵を返した。電車の時間を調べる。急げば間に合いそうだった。私は走って駅へと向かい、ちょうど来た電車に乗り込んだ。いつもは並列のシートに座っていたが、今回は人の居ないボックス席を選んだ。そこで私はぶ厚い瑞枝の手紙を取り出し、足早に読み始めた。



「佐伯さんへ。今回の事件を聞いて、おそらく驚いていることでしょう。今までお店に通っていただいていたのに、申し訳なく思います。犯罪をおかした人間の手紙なんか読みたくないかもしれません。それでも、少しでも私との時間を楽しく思っていただいていたなら、目を通していただけると嬉しいです。


私は高嶺たかみねという家の養子でしたが、十六歳までは普通の家庭で、普通の学生として過ごしていました。それまでは人並みに幸せな人生であったと思います。


しかし、私の父と母が車で出掛けた際に、二人は交通事故に遭いました。乗用車同士の衝突事故だったのですが、私の両親は死亡し、相手の車は運転手しか乗っていなかったのですが、その人物も死亡しました。


そして両親の葬式からの帰り道、悲しみに暮れていた私は一人の男に声を掛けられました。それは四十代くらいの男で、高嶺と名乗りました。私の当時住んでいた家から少し離れた所に住む地主でした。

実は高嶺は、私の両親の事故の相手方の女性の夫だったのです。


高嶺は私に、妻を失ってとても遺憾である、どう責任を取ってくれるのかと私をなじりました。ことによっては裁判にするつもりだと。いきなり赤の他人の大人にそんなことを言われた私は、ただひたすら恐怖でした。しかも地主という相手の肩書が私のその感情を一層強くしました。


そして高嶺は自分の養子となり、罪滅ぼしの為に高嶺の家で働くのであれば、訴訟をやめてもいいと提案しました。賠償に関しては保険金から支払われていたのに、まだ子供で世間を知らない私は、そうするしかないのだと思ってしまいました。また親戚付き合いが全く無く、身寄りがなかったのが、高嶺の提案を呑むしかないという気持ちに拍車をかけました。


高嶺から突き付けられた条件は、三十歳までの十四年間高嶺の養子となることでした。わざわざ法的に養子縁組したのは、私が簡単に逃げ出せないようにするためでしょう。


そしていざ高嶺の家に来て、子供だった私は、家事手伝いでもするのだろうくらいに思っていました。

・・・しかし、高嶺の目的は私の体でした。


高嶺は何度も私を凌辱しました。もとからそのつもりで、世間を知らない私を罠に嵌めたのです。二、三日に一度くらいは、夜私の部屋を訪れていたと思います。


最初は恐くて仕方ありませんでした。そしてそのような生活が続くと、次第に諦めのような気持ちを抱くようになりました。


しかし、高校を出る頃には、働かなくてはいけないという意識がでてきました。進学を選ばなかったのは、高嶺の学費で大学など行きたくなかったですし、早く貯金をためてこの家から逃げ出したいという算段があったからです。


けれどそれは上手くいきませんでした。高嶺は私が面接を受ける度に、その相手先の会社に脅しの電話を入れていたのです。

たかだか田舎のいち地主に、企業を脅かすような何かができるわけがありません。しかし、そんな厄介な身内が居る人間をわざわざ雇ってくれるはずもなく、私の就職活動は全て実を結びませんでした。


そうやって、私はだんだんと高嶺の家から逃げ出すことを諦めていきました。高嶺の夜ごとの仕打ちは辛かったですが、普段の私達は談笑こそしないものの、食卓などでは普通に会話をしていました。高嶺は暴力を振るったり、怒鳴ったりすることもなかったので、それがなお私を高嶺の家にずるずると定着させることになりました。


しかし何もしないで、居たくもない家にずっと居るのは苦痛です。

それで私は今の店を始めることを考えました。田舎にあるこぢんまりとした喫茶店であれば自活していけるほどの収入は得られないので、高嶺にも妨害されないと思ったのです。念のため高嶺に話してみたところ、やはりあちらも同じことを思ったのか、好きにするといいと言われました。


そしてコーヒーを淹れる勉強などをし、あの店をオープンして六年が経ちました。高嶺との約束の三十歳まであと四年、私は耐えるつもりでした。しかし、ここに来て急に自由が欲しくなりました。佐伯さん、あなたが現れたからです。

何度かお店に通っていただいて、言葉を交わすうちに、私はあなたと共に生きていきたいと願ってしまいました。また、あなたに想いを寄せながら、同時に高嶺に凌辱されている自分がたまらなく嫌になりました。


私は高嶺に養子縁組の解消を申し出ました。もう十年もこの家であなたに従ってきました、そろそろ私を自由にしていただけませんか、という具合に。

しかし高嶺はそれを拒否しました。もともと三十までという約束だ、それが終わるまでお前を解放するつもりはないと。

それを聞いた途端、私は今まで募っていた高嶺への恨みと鬱憤とが一気に押し寄せてきました。自分を抑えることができませんでした。

・・・そして私は、高嶺を殺害しました。


それがつい二時間ほど前のことです。

しばらく私は放心していましたが、夜が明けて手伝いの者がやってくる前にこの手紙を書いて、警察へ行かなければならないと思いました。家に出入りする人間には、私がどういった目的でこの家に置かれているのか良くわかるのでしょう。手伝いの者は五十代の女性でしたが、常に蔑んだ視線を私に向けます。それが私の遺恨を増幅させた一端でもあったでしょう。


今回の事件を起こしたきっかけがあなたと出会ったことだと書きましたが、どうか責任は感じないでください。私が勝手に持った感情で、私が勝手に起こした出来事ですから。どうか、気に病まないでください。


それと、封筒に一緒に入れたのはお店の鍵です。店は閉めることになってしまうと思いますが、どうか、あなたに持っていていただきたいのです。もし邪魔になるようであれば処分してしまって構いませんが、佐伯さんにその気持ちが無いのであれば、持っていていただけると私は嬉しいです。


最後に、もう会うことはないかもしれませんが、佐伯さんがお元気で過ごされることを願っています。

佐伯さんとのお店での時間は本当にかけがえのないものでした。

あの事件から、あなたに会う前までずっと私の心が晴れることはありませんでした。でも、佐伯さんと話している時だけは、日々いだいていたどろどろとした気持ちを忘れることができました。あの時の想い出だけで私は生きていけます。

私を暗闇から救っていただいてありがとうございます。佐伯さんはどうか、佐伯さんの思う人生を歩んでください。

・・・それでは、さようなら。」



手紙を読み終わった私の中には、様々な感情が渦巻いていた。瑞枝を陥れて凌辱した男への怒り、それに長年耐えてきた瑞枝のやるせない気持ち、そして瑞枝の私への感情。


会話の中で時々見せる謎めいた言動、暗鬱なまなざし——それらは全て、彼女が受けたこれまでの仕打ちが原因となっていたのだろう。名字を明かさなかったのも、万が一にも自分の素性が知られることを恐れたのかもしれない。それとも、忌まわしいその名字を自分のものとすること自体を厭ったのだろうか。


フェリフェリア——ギリシャ語で自由を謳ったその店名。灰色の生活の中で、常に自由を夢見ていた彼女。できることならば、彼女の自由の助けになりたかった。


車窓の風景は目まぐるしく変わってゆく。その走る列車の中で、私はこめかみに手を当て、目を閉じてあの喫茶店での情景を思い出す。そして瑞枝、と一言つぶやくと、持っていた便箋に顔を突っ伏し、そのまましばらく涙をこらえていた。



それから一年後。


高橋明美は住宅街を汗だくになりながら歩いていた。


明美は保険会社の営業の仕事をしており、個人の契約者の家に保険の説明に行っていた帰りだった。


八月の日中にスーツで外を歩くというのはなかなか厳しいものがあり、どこか休める所がないか探していたが、田舎の住宅街にそのような場所があるはずもなかった。

しかし辛抱しながらしばらく歩いていると、灰色のコンクリートばかりだった所に植物が生えているのが目に入り、何かの店のようなものが見えた。しかも近付いてみると喫茶店のようである。

渡りに船とはこのことだと明美は店に飛び込んだ。そこは茶色を基調とした落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。


カウンターの中にオーナーとおぼしき人物の姿が見えた。その人物はやや茶色がかった髪をした、三十代前半くらいの男性だった。明美がおそるおそる店のドアを閉めると、男性は明美に声を掛けてきた。


「いらっしゃいませ。オーナーの佐伯といいます。当店は初めてのお客様ですね」


温もりのある店内で、爽やかな笑顔がその男性にはとても似合っていた。

仮の店主は今日もコーヒーを淹れながら、本当の店主の帰りを待ち続ける。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

勿忘草 深茜 了 @ryo_naoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説