番外編 珪藻土

 それは年末のことだった。

 格子戸から外に出たとき、通りの向こうで人影が動いたことに気づいて、椿は思わず立ち止まる。おそらく、物影にでも隠れたのだろう。その姿はもう見えない。

 椿は影が消えた方をじっと見つめていた。誰だか知らないが、どうも店の方をうかがっていたように思えたからだ。

 椿は近頃、この辺りを無意味にうろついているらしい男を何度か見かけていた。しかも、その人物はなぜか椿を目にすると、決まってそそくさとその場を去る。これでは、気にするなという方に無理があるだろう。

 だから椿はこう言った。

「…………ねえ。何あれ」

 それは翡翠への問いかけだった。気配などにさとい彼になら、何かわかるかと思ったからだ。

 翡翠はこう答える。

「椿。彼が何をしているかは、私にはわからない。しかし、以前にも店を訪れたことがある者だ。彼は――日本式双晶を伴っている」

 どうやら、店に無関係の人物ではなかったようだ。椿は思わず顔をしかめた。

「日本式双晶? だったら、石英のせいね」

 そう言って、人影が消えた方をにらみつける。いったいあの人物は――あるいは、石英は――何を企んでいるのか。

 またもや、自分に知らされないところでものごとが進行しているらしいことを知って、椿は不機嫌だった。それを察したのか、翡翠は取り成すようなことを言い出す。

「椿。石英にも考えがあるのだろう」

「翡翠。考えというものはね。あればいいというものではないの。どうして石英の深淵な考えとやらのせいで、私の平穏が乱されなくてはならないの?」

 すぐにそう言い返すと、翡翠は少しだけためらったあとに同意した。

「……もっともだ」

 視線の先に動きはない。しかし、そのうち物影から誰かが立ち去る姿がちらりと見えた。

 考えた末に、椿はその人影を追うことにする。

 どうせ行き先など決まっていない。この店に関わるにしても、どんな人物なのか見定めてやろう――椿はそう思っていた。


     *   *   *


 空木は見られていることを自覚しながらも、そっとその場を後にした。

 店のことを探り始めて一週間ほど。少なくとも住人くらいは把握していたので、店から出てきた少女があの町屋に住んでいることは知っていた。しかし、いまだ身の振り方を決めきれていない空木としては、できればまだ、こちらの行動を知られたくはない。

 とはいえ――

 周囲でいろいろと話を聞いてはみたが、実情がわからないわりに、あの店にはあやしいところが見つからなかった。不審な人物が出入りしているわけでもないし、いわゆるご近所さんの印象も悪くはない。あの店主なら表向き人当たりもよさそうだから、店におかしな点がないなら、そんなものかもしれないが。

 ただ、周辺と親しいつき合いがあるかといえば、そうでもないようだ。商いをしていることも知られていないようで、むしろそれをたずねた空木の方が不審に思われてしまったくらいだ。

 ただ、ひとりだけ、あの店の住人と親しいという人物に話を聞くことができた。しかし、その親しい住人については、長らく不在にしているとのことだったが。

 ともかく――

 その人の話では、あの店は昔、今の店主にとって叔母にあたる人物が切り盛りしていた、ということらしい。そのときも石の店ではあったようだが、どうもその叔母は占いをよくしたようで――それがけっこう当たったのだそうだ。

 その頃からすでに、本業の傍らその手の相談ごとにも乗っていた、ということだろうか。例えばその叔母が何か特別な力を持っていたのだとしても、今の店主がそうだとは限らない。だとすれば、あの店主が呪いについて曖昧な返答をしていたことにも合点はいく。

 何にせよ、人づてに聞いたことばかりではあるから、確かなことは何ひとつわかっていないのだが――

 そもそも、空木があの店を知ることになったのは、本当に偶然のことだった。

 空木は普段から、京都の街をぶらぶらと意味もなく歩き回っている。それというのも、ライターとして担当しているコラムのネタを探すためだ。内容は――ありがちではあるが――京都の隠れた名店を紹介する、というもので、大人気とまではいかないまでも、空木の記事はそれなりに好評を得ていた。

 この手の話題だと、やはり強いのは飲食店なのだが、だからこそ掘り尽くされてしまっているという部分もある。そんなわけで、空木は他が扱わないような、ちょっと変わった店を紹介することが多かった。

 隠された石の店、なんていうのも、空木にしてみれば恰好の題材ではある。とはいえ、当の店主があの様子では、記事にすることを許可しそうにはないが。

 玉砕覚悟の飛び込みは空木の得意とするところだ。しかし、その逆で、今みたいにこそこそと探るようなことは、どうにも性に合わなかった。

 ともあれ――

 きっかけはともかくとして、そうして知ったあの店は、思いがけず呪いと関わっているらしいことがわかっていた。これがどうなるかはわからないが――できることなら、いいように転べばいい、と空木は思っている。

 そんなことをつらつらと考えながら歩いているうちに、空木は自分が見知らぬ場所にいることに気づいた。はて、ここはどこだろう。そうして、見回した視線の先にあったものは――

 道の端を何かが動いている。初めは猫かと思った。しかし、よく見ると違う。ごろごろと、ひとりでに転がる、円筒型のあれはおそらく――七輪しちりんだ。

 ――なぜ七輪……

 ともかく、七輪が転がっているというだけなら、それほど奇妙なことではない。いや、普通はあり得ないことだが、絶対にないとは言い切れないだろう。

 しかし、その七輪はまるで意志でもあるかのように、平らな道を進んでいた。かと思えば、空木の目の前で曲がり角をきれいに曲がって行く。

 そもそもの話。あの形状では、真っ直ぐに転がることは難しいだろうに。いったい何が起こっているのやら。

 疲れているのだろうか。空木はとっさにそう思う。

 最近、たまにだが、こういった妙なものを目にすることがあった。妙なものではあるが、特に害のないものだ。空飛ぶ板だとか、木を登る赤い服だとか。

 本当に、自分は何か特別な力にでも目覚めたのでは――と考えたりもするのだが、それにしたって、ただ見えるだけなのはどうなのだろうとも思う。例えば、そのものに対して嫌な感じがする、とかであれば、それを避けたり、注意を促すこともできるだろう。しかし、そんなことは一切ない。ただ、本当に奇妙なものが見えるだけ。

 それでも空木は、どうしてもその七輪のことが気になった。仕方がないので、転がる七輪の後を追うことにする。

 そうしてついて行くうちに、七輪はふいに民家の門をくぐったかと思うと、そのまま中へと入ってしまった。

 開けられた門扉から、中をこっそりうかがってみる。見えたのは、あれこれ話をしながら動き回るいくつかの人影。どうも、家の中から何かを運び出しているようだ。引っ越しだろうか。

 しかし、肝心の七輪はどこにもなかった。どうも見失ってしまったらしい。この家の敷地に入って行ったことは確かなのだが。

 そのうち、中にいるひとりが空木のことに気づいた。けげんな顔で、何か用か、とたずねてくる。

 空木は思わず苦笑いを浮かべた。

「いや……ここに今、七輪が転がって来ませんでした?」

 空木がそうたずねると、相手はあからさまに顔をしかめる。

「あんた、何言ってんだ?」

「ですよね……」

 空木がそう返すと、会話を聞いていた別の人が、もしかして――と、話に入ってきた。

「まとめてゴミに出したやつですか? いいですよ。持って行っても。しかし、ゴミあさりとは……お若いのに」

 そう言うと、その人は空木に哀れむような目を向けてくる。何か勘違いされているようだ。しかし、うまく説明できる気がしない。空木がどうにも返答に困っていた、そのとき。

 目の前の家にある庭の、誰の姿もない一角から――突然、何かが爆ぜるような音がして、火の手が上がった。


     *   *   *


 燃え上がった炎を目にした途端、椿はすぐに問いかけた。

「翡翠。あれ、消せる?」

「問題ない」

 短い返答とともに、どこからともなく突風が巻き起こる。その風は、目の前の火を瞬く間にかき消した。

 門の内にいた人たちは皆、何ごとか、と火元の方へと向かって行く。そうして、その場に残されたのは――

 門前に立つ男がひとり、ぎょっとした顔で振り向いていた。

 とはいえ、驚くのも無理はないだろう。密かに彼の後を追っていた椿だが、火の手が上がったのを見て、思わず飛び出してしまっている。しかも、この男にとって、椿はここで出会うはずのない人物――彼が隠れて様子をうかがっていたらしい町屋の住人だ。

 案の定、男は椿の顔を見るなり呆然と呟いた。

「君は、あの店の……」

 椿は相手のことを無言でにらみつけた。

 そのことに恐れをなしたのか、男はためらいつつも、この場から逃げ出そうとする。店を探っていたことを咎められるとでも思ったのかもしれない。

 しかし、椿は彼の行く手に立ち塞がった。

「待ちなさいよ」

 男は立ち止まったが、いかにもばつの悪そうな表情を浮かべている。

 そのとき椿はふと思った。どうもこの男、日本式双晶を持っているわりには、その力を――あるいは、その存在すら――自覚していないようだ。そんな状態で怪異に首を突っ込もうなど、正気の沙汰ではない。

 内心で呆れつつも、椿は男にこう問いかけた。

「あなた、ここで何かを見たんでしょう?」

「どうして、それを……」

 戸惑う男に、椿は淡々と続ける。

「このまま放っておけば、また同じようなことが起こるかもしれない」

 椿がそう言うと、男は思案するような顔になる。そして、あらためて火の手が上がった家の方へと目を向けた。

 その表情からすると、目の前の怪事に素知らぬ振りをするつもりはないらしい。ならば、その力、少しは役立ててもらうことにしよう――椿はそう考えた。

「何を見たのか、教えてちょうだい」

 椿が有無を言わさぬ調子でそう言うと、男は諦めたようにため息をついてから、渋々といった風にうなずいた。


     *   *   *


「ひとりでに転がっていく七輪、ね……」

 空木の話を聞き終えると、少女はうつむき考え込んだ。空木もまた、この現状についてぼんやりと考えを巡らせる。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 目の前にいるのは、間違いなく空木が探っている店にいた少女だ。しかも、思いがけず、こうして関わりを持つことになってしまった。

 こんなはずではなかったのに。

 とはいえ、少女が言うには、自分は火の手が上がったとき、たまたま近くを通りかかっただけ――なのだそうだ。本当のところはわからない。

 しかも、そのうえでこの少女は――空木に何かが見えていたなら、怪異の原因がわかるかもしれない。ひいては、次の被害を防げるかもしれない、と主張する。そんなわけで、空木は自分が見たもの――転がる七輪――についての話をした。

 さすがに家の前で立ち話はできないので、少し離れたところに移動している。七輪が消えた家からはそう遠くもないので、ある程度の様子はうかがえた。

 結局、あの七輪は何だったのだろう。異変が再び起こるとして、彼女に対処ができるのだろうか。

 とはいえ、目の前で燃え上がった炎がすぐに消えたのは、この少女が何かしたからではないか、と空木は思っていた。そうでなくとも、本人がやる気なのだから、何かしらの見込みはあるのだろう。

 それでも空木は、少女の言い分をすべて信じているわけではない。現れたタイミングからすると、どう考えても空木のことをつけていたようにしか思えないからだ。

 だとすれば、この少女には空木が店を探っていたことがばれているということになる。空木の前に姿を現したのも、何か意図があるのかもしれない。

 ともあれ。

 今はともかく七輪のことだ。先にそちらの方をどうにかする方が――どうにかできるなら、だが――先決だろう。空木はそう考えた。

「えーと。それで、君……」

 と空木が呼びかけると――

「椿」

 と、にこりともせずに少女は名乗る。これまでの流れからしてわかっていたことではあるが、どうにも手強い相手だった。

 ともかく空木はこう問いかける。

「椿ちゃんは見なかったのかい? 七輪。けっこう目立つ感じで、ごろごろ転がってたんだけど」

 できるかぎり気さくに話したつもりだったが、空木に向けられた椿の目は冷ややかだ。

「そんなわけのわからないものは見てない。というか、私には見えないと思うけど」

 本当に見ていないのだろうか。空木を追うことに気を取られて、目に入らなかっただけなのでは――

 それにしても、見えないと思う、とはどういうことだろう。その言い回しが気になって、空木は思わずこうたずねた。

「椿ちゃんは――何て言うかその、霊感とかはないのかい? ほら。さっきあの火を消したのも、君が何かしたからだろう?」

 椿はあからさまに顔をしかめた。

「は? 何それ。そもそも霊感って何? どうせ、霊感の定義すら曖昧なんでしょう? そんなもの、有る無しを話したところでどうなるの。馬鹿馬鹿しい」

 空木は閉口した。言っていることは間違っていないのかもしれないが、言い方が辛辣だ。そもそも普通ではない七輪の話をしているのだから、霊感という言葉を使ったとして、そんなに怒られるようなことではないと思うのだが。

 兄とは違った方向で面倒くさい。そう言えば、あの店主も雲をつかむような人物ではあった。そして、この少女の場合はそのあまりの刺々しさに、とてもではないがつかむどころではないようだ。

 ともかく、今は彼女の機嫌を損ねない方がいいだろう。空木はそう思って、椿の判断をおとなしく待つことにする。

 そうして彼女が次に呟いたのは、こんな言葉だった。

「その七輪、『今昔物語集』にある油瓶あぶらかめの話みたいなものかもね」

 空木はぼんやりと思い出す。どこかで聞いたな、今昔物語集。そういえば、あの店主が引用していたのも今昔物語集じゃなかっただろうか。

 空木は思わずこう言った。

「…………もしかして、流行ってるのかい? 『今昔物語集』」

「どこで?」

 と問われて、君のおうちで――と言いかけて、空木は口をつぐんだ。

 今のところはまだ、空木が彼女と出会ったのは偶然、ということになっている。ならば、あの店につながるようなことを指摘するべきではない。

 そう考えて、空木は早々に話を元に戻した。

「で、その――油瓶の話ってのは?」

 椿は、そんなことも知らないのか、という表情を浮かべている。しかし、知らないものは知らない。学生の頃、古文の授業で取り上げられたかもしれないが、せいぜいそのくらいだ。

 椿は渋々と、そのあらましを語った。

「ある大臣が帰る途中に道行く油瓶を見つけて、とある家に入り込むところを見届ける。その後、探らせたところ、その家の娘がその日に死んでいた。もののけが油瓶の形をとって、恨みのために殺したんだろうって話」

 空木はとりあえず、ふむとうなずいた。

 その油瓶が七輪だとして、それの行く先で凶事が起こるという流れ自体は似てなくもないか。しかし、油瓶と言うからには火と関係があるのかと思ったのだが、どうもそうではないらしい。

 どこか釈然としないながらも、空木はこう言った。

「それにしたって、火を出すのと取り殺すのとでは、ちょっと方向性が違うんじゃないかな」

 そうでなくとも、その話の中では異変を知った者は特に何もしていないし、結末としても、油瓶に恨まれた誰かは難を逃れられてはいない。似ているからといって、対処法がわからないのであれば、引き合いに出す意味もない気がする。

 しかも、空木はそのとき、ふと思い出してしまった。あの店主が今昔物語集の話をしたときも、大して役に立たなかったことを。

 思わずうろんな目になってしまった空木に気づくこともなく、椿は淡々とこう答える。

「七輪が火と結びつくのは、そうおかしなことじゃない。それに、ひとりに対する恨みなら、その相手だけ殺せばいいだろうけど、あの場にはけっこう人がいたし。燃やした方が手っ取り早いと思ったんでしょ」

 何か、ものすごく物騒なことを言っている気がする。そうでなくとも、七輪が何もないところから火を出したのだとすれば、やはりそれは普通におかしなことだろう。

 空木が話についていけていないことに気づいたのか、椿はそこで大きくため息をついた。

「とにかく。その七輪は、何かの恨みの具現かもしれないってこと。だとすれば、恨みに思う人物が意図して送り込んだ可能性もあるけど……」

 椿はそう言うと、ふいに口をつぐんだまま――何かに耳を傾けているかのように――黙り込んだ。しかし、それもわずかな間だ。

「そういったものとは違うって」

 彼女はそう断言した。

 違うって――とはどういうことだろうか。それは誰の判断なのか。そもそも、彼女自身に霊感はないのでは。

 やはり、よくわからない……

 椿の言葉をどう捉えるべきか、空木が頭を悩ませていた、そのとき。

 例の家の前で何やらさわぎが起こっていた。見てみれば、先ほどまで空木が立っていた場所に誰かがいる。

 とはいえ、また火が出た、というわけではないようだ。どうも、若い女性が中の人たちともめているらしい。しかし、空木が何だろうと思っているうちに、女性はその場から去ってしまった。

「追いかけて」

 と言ったのは椿だ。

 しかし、行動を促したわりには、椿が自らその女性に声をかけることはない。むしろ、空木の背後に回って圧をかけ始める。

 仕方なく、空木は女性を呼び止めた。

「すみません。何かあったんでしょうか」

 振り返った女性は、明らかに怒っていた。空木が思わず怯むくらいには、あからさまに。

 しかし、女性は空木のことをいぶかしく思うでもなく――おそらくは感情のままに――こう答えた。

「あの人たちが、おじいちゃんの――祖父の家から、金目のものを持ち出しているんです!」

 その発言に、空木はぎょっとする。

「え? あの人たち泥棒だったんですか?」

「いいえ。親戚です!」

 女性はすぐさまそう返した。

 親戚なのか……

 空木は拍子抜けする。しかし、この女性の怒りようからすると、何やら事情があるらしい。

 そのことを空木がたずねるまでもなく、女性はこう説明した。

「泥棒は泥棒ですよ。祖父の世話をしないどころか、ろくに顔を合わせなかったくせに。亡くなった途端にこれです。これが泥棒ではなくて何ですか?」

「はあ。それはその、ご愁傷様で……ともかく。それなら、警察に――」

 そこまで言って、空木はその先を言い淀んだ。

 こういうもめごとを一方的な言い分のみで判断するのは早計だ。そうでなくとも、空木はこの件に深入りするつもりなどない。だとすれば、なおのことうかつに口を出すべきではないだろう。

 空木のそんな考えを察したのか、女性は思いのほか冷静にこう返す。

「言ったところでどうにもなりませんよ。親も関わるなと言っているくらいなので。あの人たち、他の親戚からも厄介者として扱われてるんです」

 空木はひとまず納得する。あの家にいた人たちは悪びれる様子もなかった。そもそも悪いことをしているとは思っていないか、あるいは単に厚かましいだけか。もしくは――

 ともかく、面倒くさい身内の対処が容易ではないことは、空木も身に染みてわかっている。

 とはいえ。

「それならあなたは、どうしてここに」

 彼女は素直にこう答える。

「だってくやしいじゃないですか。あの家にあるものなんて、大したものではありませんけど。でも。だからこそ、何もわかってない人に荒らされるのは」

 現実的な話は別として、感情として許しがたいということだろうか。そういう考え自体は、空木にも理解できなくはない。

 だから、空木は思わずこう言った。

「それだけ、亡くなったおじいさんのことが好きだったんですね」

「いいえ。私、そもそも祖父のことはあまり好きじゃないんです。気難しいし、すぐに説教するし」

 好きじゃないのか……

 わざわざ乗り込んで来るくらいなのだから、そうなのかと思ったのだが。あるいは、正義感が強いだけなのかもしれない。

 女性は大きくため息をつく。

「近所に住んでいるので、母や私でたびたび様子を見に行ってたんです。老人のひとり暮らしでしたし。ですから、少なくともあの人たちよりは、祖父のことをわかっていたと思うんですよ。それともこれ、うぬぼれですかね?」

 部外者の空木には何とも答えようがない。とはいえ、相手の方も答えを期待しているわけではないだろう。おそらくは、単に吐き出せる相手が欲しかっただけだ。

 ともかく。

 そもそもの話。空木は奇妙な七輪とそれが起こしたらしい現象を探っていたのだった。この女性から、何かしらの手がかりを引き出せないだろうか。

 そう考えたとき、ふとあることを思い出して、空木は女性にこうたずねた。

「えーと。あの家にいる人たちが出したゴミに、何と言うか、問題がありまして……ゴミ捨て場ってどこかわかります? まとめて出したとか何とか」

「ゴミ? それなら、家の勝手口の方かと……」

 そう答えはしたが、なぜそんなことをたずねられるのかと、女性は不審に思ったらしい。空木たちについて来ると言うので、その場所まで案内してもらうことにした。

 しかして、そこにあったものは――

 明らかにゴミと思われるものに囲まれて、その七輪はどこか所在なさげに捨て置かれていた。それは間違いなく、空木が道を転がるところを見たあの七輪だ。

 相当使い込まれていたせいか、よく見るとけっこう汚れている。とはいえ、周囲にある他のがらくたに比べれば、まだ使えそうではあった。

 しかし、そう思いながめてみると――この七輪、どこか様子がおかしい。いや、そのものとしてはおかしくはないのだが――道端に放っておかれているにもかかわらず、その内部が燃えているように見えたからだ。

 空木は思わず目をしばたたかせた。たった今、見えているこれは現実だろうか。それとも、やはり幻か。

 そんなことを考えているうちに、女性はその七輪を手に取ってしまう。

「これ、おじいちゃんの。こんなところに……」

「あ、熱くないんですか?」

 空木は思わずそうたずねた。しかし、女性はその言葉にけげんな顔をしている。

 少なくとも熱くはないらしい。とはいえ、空木は七輪など使ったこともないから、手に持ってどれだけ中の熱が伝わるものなのか、よくわからないのだが。

 ともかく、七輪を手にした女性はそこにある火に気づくこともなく、懐かしそうに話し始めた。

「私が家を訪ねるときは、おじいちゃん、なぜかよく七輪でおせんべいを焼いていて……私はそれを、単に好きだからだと思っていたんです。でも、母が言うには、たぶんそれは私のためだろうって。あまり覚えてないんですけど、小さい頃には、それを喜んで食べてたみたいで。でも私も、もういい大人なのに……」

 祖父のことはあまり好きではない、のでは――思いがけない昔話に空木がちらりと視線を送ると、女性は苦笑いを浮かべながらこう続けた。

「私、おじいちゃんのこと好きではないですけど、嫌いでもないんですよね。不器用だったんだな、とも思えるので」

 女性の話を聞いているうちに、空木の頭の中には、いつの間にか妙な光景が像を結んでいた。七輪が奇妙なことを起こしたのは、やはり亡くなった老人の魂が乗り移ったからで――その七輪が厄介者たちを炎によって一喝する、というものだ。

 あくまでも勝手な想像だが。

 そうして、あらためて七輪の内部を見てみると、そこには熾火のようなものがあるだけで、それも徐々に弱まり消えていった。この火が今にも燃え上がるのでは――と気が気でなかった空木は、内心でほっとする。それにしても――

 これはやはり、七輪に死者の恨みが宿っていた、ということだろうか。手にした女性が気づいていなかったことからしても、内部の火はおそらく空木の目にだけ見えていたのだろう。転がる七輪が、空木にしか見えていなかったように。

 その荒ぶる魂が、何によって怒りを鎮めたのかはわからない。いや――厄介な親戚を恨んでいるよりは、会いに来てくれた孫に心を寄せた方が死者の魂も安らかでいられるだろう。だとすれば、これは収まるところに収まった、ということだろうか。

 女性は七輪を抱えたまま、空木に向かってこう告げる。

「とりあえず、ありがとうございます。いろいろ話して、少しはすっきりしました。今日はこの七輪だけでも、家に持って帰ることにします」

 その表情には、初めて顔を合わせたときにあった怒りの様相はもうない。少なくとも、空木の目にはそう見えた。



 そうして去って行った女性を見送った空木が、やれやれといった風に振り返ると、ずっと背後に立っていたらしい椿と目が合った。

 彼女の冷ややかな視線に、空木は思わず後ずさる。

 存在を忘れていたわけではない。とはいえ、今まで何も言ってこなかったものだから、この件はすでに解決したものだと思っていたのだが――

 そもそも、さわぎの原因を調べると言い出したのは彼女だ。これで問題はなかったのだろうか、と空木は少し不安になる。

「あー……あれでよかったかな?」

 空木が問いかけると、椿はあっさりとこう答えた。

「いいんじゃないの。悪い気配はなくなったって言ってるから」

 だからそれは誰が言っているのか。いまいちわからないその理屈に、空木は大きくため息をつく。

「てことは……やっぱりあの七輪には、その――亡くなったじいさんの魂が残っていたってことかな」

 深く考えもせずに空木はそう言った――が、はたと気づいて口をつぐむ。魂なんて曖昧なものを持ち出せば、椿にまた辛辣な言葉を返されるのでは、と思ったからだ。

 とはいえ、かく言う空木も魂の存在なんてものは大して信じていない。家業のことを考えるとそれもどうかと思うし、そのわりには、会ったこともない老人の姿を七輪に重ねて見てしまった気もするが――それはそれ、といったところだ。

 ともあれ、そうして身がまえた空木に対して、椿は淡々とこう返した。

「あなたが見たものが何だったのか、私には何とも言えない。でも、ある人が言うには――幽霊とかそういうものは、時間を越えて届く影みたいなものだって」

 空木がけげんな顔をすると、椿はこう続ける。

「影なの。そのものではなく、今ここにもない。そんな影だけの存在。だからこそ、人はそれに、自分にとって都合のいい形を当てはめてしまう。それがときに、魂のようなものとして認識されてしまう――って言ってた」

「誰が?」

 そうした言い方をするからには、おそらくそれは受け売りなのだろう。たとえば、あのとぼけた店主であれば、そんなことを言いそうな気もする――と思ったのだが、椿が返した答えは空木が考えていたものとは違っていた。

「私を母として引き取ってくれた人」

 空木はとっさにどう返したものかを迷って――結局、妙なうなり声を上げるだけになってしまった。どうやら、彼女の身の上は空木が考えていたよりも複雑らしい。

 とはいえ、椿の方は気にした様子もなく、あらためてこう話す。

「だから、あなたが見たのも、本当に七輪が転がっていただけで、火が出たことだって、たまたまだったかもしれない。それを亡くなった人の恨みだとか、魂があると考えるのは、あくまでもあなた自身ってだけで」

 つまり、七輪が転がっていたのも、ボヤが起こったのも、全ては偶然である、と。

 それはさすがに無理がある――と思ったが、もしもこの場に兄がいたなら、いかにも言いそうな理屈だな、とも思ったので、とりあえずはそれで納得しておくことにする。兄ほどではないにせよ、空木もそういう現象にはけっこう懐疑的だ。

 とはいえ、ここ最近の空木があやしげなものをよく目にすることについては、間違いなく事実ではあるのだが――

 そんなことを考えていると、椿はちらりと空木の反応をうかがいながら、こんなことを言い出した。

「それはそれとして――突然のことだったから、何も考えずに私もあの火を消してしまったけど。さわぎを起こしてあの家にいる人たちを追い出せるなら、本当はその方がよかったかもね。そうすることで、死者の恨みが晴らせるなら」

「いちいち物騒だな、椿ちゃん……」

 空木は思わず、そう呟く。

 とはいえ、七輪の恨みが家を荒らされたことによるものなら、確かに、厄介な親戚とやらを追い出すことでも怒りを鎮めることはできたかもしれない。あの女性の言い分が本当なら、むしろその方が痛快ですらある。それでも――

 空木は苦笑しながら、こう答えた。

「死者の言い分はわからないけどさ。生きている方からすると、亡くなった人には安らかでいて欲しいわけで。それは俺の実家が寺だから、そう思うだけかもしれないけど……」

 椿はうなずくこともなく、かといって顔をしかめるでもなく、じっと空木の話を聞いている。

「亡くなってからも、そういったものに囚われているのは、何かこう――救いがないじゃないか。本当に強い恨みがあって、どうしようもないことはあるのかもしれないけど……今回はそうじゃなかったってことだろうし。それなら、それでいいんじゃないかな」

 空木の言葉に、椿は少しだけ考え込んでから――そうね、と呟いた。その顔がどこか寂しげに見えたので、空木は少し不思議に思う。

 そうして彼女の表情をうかがっていると、椿はふいに空木のことをじっと見つめ返した――かと思うと、続けてこんなことを言い放つ。

「まあ……あなたのことは、悪い人ではないってことにしておく」

 空木の反応を待たずに、椿はくるりと踵を返した。しかも、空木が呆気にとられているうちに、早々にこの場を去って行く。

 残された空木は呆然と立ち尽くした。それはどういう意味なのか。もしかしなくとも、彼女にはやはり、空木が店を探っていたことがばれていたのでは――

 乾いた笑いを浮かべながら、空木は遠ざかっていくうしろ姿をただ見送っていた。


     *   *   *


 椿が家に帰ると、店の戸が開いていた。どうやら槐と桜が年末の大掃除を始めたらしい。

 しかし、そう思ってよく見ると、ふたりは掃除の手を止めて、何やら話し込んでいるようだ。気になって近づいてみたところ、椿はそこで思いがけないものを目にする。

 ふたりが取り囲んでいたもの。それは――どう見ても七輪だった。

「また、七輪……」

 椿が思わずそう呟くと、桜はいぶかしげに首をかしげた。

「また?」

「何でもない」

 素っ気なく返した椿に、槐はこう話す。

「祖父が使っていたものが残っていたみたいでね。奥の方から出てきたんだよ。しかも、これが珪藻土けいそうどの切り出し七輪で……」

 槐が妙に楽しそうにしているので、椿は思わず顔をしかめた。七輪ひとつで何をはしゃいでいるのだろう。そうでなくとも、椿には何が、しかも、なのかよくわからない。

 ともかく、珪藻土という言葉には聞き覚えがあったので、椿は何の気なしにこうたずねた。

「珪藻土って、マットとかコースターとかに使われてたりする?」

 槐はその問いかけにうなずいた。嬉々として。

「珪藻土は白亜紀以降の地層から産出する岩石で――植物プランクトンの一種である珪藻けいそうの死骸のうち、分解されずに残る殻の化石が堆積することで形成される。切り出し七輪はこれを削ることで成形し焼き上げるんだよ。ただ、七輪は珪藻土を砕いて粘土状にしたものから成型する作り方もあって、こちらの方が容易だから、近頃は切り出しの方ではあまり作られていないようだね。ともかく、珪藻土が七輪の素材として用いられるのは、内部にあるごく小さな空洞によって高い断熱性と保温性が得られるからで、そうした性質を活かして珪藻土は他にもさまざまなものに利用されている。椿の言うようなものは、吸湿性や吸水性を生かしたもので――」

 椿は閉口した。まさか七輪ひとつでそんな話になるとは思っていなかったからだ。

 わかっていることではあったが、本当に少しでも石に――あるいは怪異に――関係していれば、槐は何にでも興味を持つらしい。油断も隙もあったものではない。

 話を振ってしまったことについては、椿もうかつだったと思わなくもないが――それにしても、七輪を前にしてそんな話になるのは、どう考えてもおかしいだろう。話題の広げ方としては、明らかにずれている。

 そんなことよりも――

「ところでこれ、使えるの?」

 槐の話は適当に聞き流して、椿は桜にそうたずねた。この家の台所事情を握っているのはこの石だからだ。

 そもそも七輪は道具なのだから、素材に関する知識よりも、どう使うかの方が重要だろう。七輪を前にしての話題としては、そちらの方が適切だと椿は思う。

 桜は七輪の状態を確かめながら、こう答えた。

「問題ないと思いますよ。椿ちゃんが好きそうなものなら……サツマイモでも焼いてみますか? あとは――年末年始のために、榧さんがいろいろと送ってくれてますから。その中に、何かいいものがあるかもしれません」

 椿は甘いものも好きだが、おいしいものなら何でも好きだ。

 とはいえ――

「でも、これって木炭が必要なんだっけ」

 椿は七輪を使ったことなどない。しまい込まれていたのだから、槐だってそうだろう。だとすれば、これを使うのは思ったよりも面倒そうだ、と椿は考え直す。

 しかし、桜は、そうですね、とうなずくと、あっさりとこんなことを提案した。

「とりあえずは、黄鉄鉱さんに火をつけてもらってはどうでしょう」

 椿は思わず顔をしかめた。

 それで代わりになるのだろうか。というか、そんなことをしては、普通に火で焼くのと変わらないのでは。せっかくの七輪なのに、それではありがたみも何もない――気がする。何となく。

 椿の不機嫌に気づいたのか、桜は苦笑いを浮かべながらこう言った。

「昔はそんなこともしてたんですよ。懐かしい話ですけど。なつめさんが、よく山歩きの途中で採ったキノコなんかを、七輪で焼いて食べてました」

 棗は槐の亡くなった祖父だ。体が弱かった、という話を聞いていたが――その印象とはだいぶ違う。そうでなくとも、山中にあるキノコなんて――そんなものを気軽に食べても問題はなかったのだろうか。

「それって大丈夫だったの?」

 椿の問いかけに、桜は平然とこう答える。

「棗さんは、目を離すとすぐ山に入ってましたから。そういうことにもくわしかったですよ。目的は、石を採集することだったみたいですけど」

 そういえば、店ではもともと、そうして槐の祖父が集めた鉱物を主に売っていたらしい。そもそもは榧が管理していたから、きれいに整頓もされていたようだ。今は柾のせいで見る影もないが。

 椿が思わず混沌とした室内に目を向けているうちに、桜は目の前の七輪を手に取った。

「とにかく。一度使ってみましょうか。そろそろ、みなさんも帰ってくるでしょうし。榧さんが懐かしがるかもしれません」

 槐と桜で話し合った末に、七輪はひとまず茶の間に持って行くことにしたらしい。掃除の途中だった店はそのままにして、ふたりは何やら話をしながら通り庭を奥へと向かう。

 椿はその場にとどまって、そのうしろ姿を見送った。

 周囲は何だかわからない雑多なもので――そのほとんどが石なのだが――あふれている。ぽつんと取り残されたその場所で、椿はふと、この日にあったいろいろなことについて、ぼんやりと思いを巡らせた。

 七輪と、それの元となる珪藻土――太古の死骸の成れの果て。

 積もりに積もった屍は、新しい形を与えられて、もはや昔の面影すらない。そうして長い時を経ることで、すべては変わっていくのだろう。その屍に魂があったとしたら、それはどこへ行ったのだろうか。

 死の先にある穏やかな変化。それは救いとなるのか。それとも――

「ねえ、翡翠。もしも」

 ――もしも、私が殺されたら、あなたはその恨みを晴らしてくれる?

 そんな言葉を飲み込んで、椿は、何でもない、と呟いた。

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