第十九話 日本式双晶 後編

 そうして、受け取ったはいいものの――

 箱を目の前にして、空木はひとり考え込んでいた。場所は実家の自室。国栖の葉とはひとまずその場で別れている。何かあったときには連絡するように言い含めたが――実際にそれがあるかどうかはわからない。

 目の前には彼女から受け取った箱。しかも、開けてはならない箱だ。開けるな、と言われた箱ほど開けてみたくなるものだろう。この話の流れからすると、むしろ開けない方が不自然ですらある。

 しかし――しかし、だ。

 開けるな、と言った相手のことを考えると、まさか何かの振りでそんなことを言った、ということはないだろうとも思う。開けるべきではないか、などと考えているのは、空木が勝手に――変な方向に――気を使っているだけだ。

 どう考えても、この箱は開けるべきではない。

 しかし、そうは思っても気になることではあった。中を見れば、少しは彼女の現状がわかるかもしれない。それを知ることができたなら――

 そんなことを考えてしまって、空木はどうにも吹っ切れずにいた。箱を目の前にして座り込み、空木はもう一時間以上も、それをじっとにらみ続けている。

 箱は細長い小さな箱だ。漆塗りに蒔絵が施されていて、結ばれた組み紐で閉じられている。用途としては――文箱だろうか。

 そろそろ箱にも見飽きていた頃で、それをながめながらも空木は――小学生の頃に使っていた筆箱はこれくらい大きさと形だったな――などと、益体もないことを考えていた――そのとき。

「その箱の中。私が君に見せようか。空木」

 どこからか唐突に声がした。しかも、自分の名を呼んでいる。幻聴――かどうかはわからないが、明らかに自分に対する問いかけだ。

 得体の知れない声が聞こえても、空木は冷静だった。しかし、同時に迷ってもいた。応えるか、無視するか。取るべき行動は、その二択しかない。とはいえ。

 そもそも、この声はどこから聞こえてきたのだろう。

 空木は思わず目の前の箱を手に取った。箱の中を見せようか、というからには、箱の中からそう聞こえてくることは不自然に思える。だとすれば――

 そんなことを考えているうちに、声はまた話しかけてくる。どこからともなく。

「箱の中を知りたくはないか? 空木。そうだな……入っているのは、たくさんの――えぐりとられた眼球のようだが」

 その言葉から、空木は箱の中にぎっしりと詰まった目玉を想像してしまう。

 空木は思わず箱を取り落とした。声も上げずに。その反応に、声だけの存在は、ふふ、と忍び笑いをもらす。

「冗談だよ。空木」

「なんだってそんな冗談を!」

 空木は思わず、そう声を上げてしまっていた。うかつな突っ込みに対して、空木が密かに後悔しているうちにも、声はこんなことを語り始める。

「『今昔物語集』にそんな話があったことを思い出してね。通りすがりに開けてはならない箱を託された男がいたが、そのことを妻にあやしまれて箱は開けられてしまう。という話だ」

 今昔物語集って――またそれか。そんなものをやたらと引用する人物には覚えがある。

 そう思った空木は、声のことを無視することは諦めて、仕方なく――どこに視線を向けていいかもわからないまま――虚空に向かってこう呼びかけた。

「おまえ……つまりはおまえも、あの店の一味ってことだな。そうだろう。あの――石の店だとか言う……」

 店主を車に乗せて実家までの道を走った、あのときのことを思い出す。空木は確かに、彼のものではない誰かの声を聞いていた。理屈はわからないが、この声もおそらく同じものだろう。

「一味? おもしろいことを言うな。空木」

 そう言って、姿なき声はまた笑う。何となく、あのとき雷を発生させた――と思われる――声とは違うような気がした。

 それにしても、ずいぶんと気さくな怪奇現象だ。そんな空気に絆されたわけでもないだろうが、空木もまた、軽い調子でこうたずねた。

「それで? その話では、箱の中を見たそいつはどうなるんだ?」

「ほどなくして亡くなった、とのことだ」

 ――よくそんな話を持ち出してきたな。嫌がらせか。

 空木はため息をついたが、声はやはり笑っている。

「私は石英に、堅苦しい、などと言われているものでね。槐はよく、そういった話をしていたから」

 空木は思わず顔をしかめた。

 ――誰だよ。せきえいって。

「何のつもりか知らないが、おまえの大将のあれは、洒落で言ってるんじゃないだろう……天然だろう……」

 それを断言できるほど、長くつき合いがあるわけではないが。あのとぼけた店主。あれが素ではないとしたら、それはそれで何か嫌だ。

 空木がそんなことを考えている間にも、声はおもしろそうにこう返す。

「大将? 槐のことか? 大将、か。なるほど。やはりおもしろいな。空木は」

「そりゃどうも」

 相手との温度差に、空木は問い詰める気も失せていた。得体の知れない相手に、これでいいのか、と思わなくもないが。ともあれ。

 投げやりな空木のひとことに対して、声の方は幾分あらたまったかと思うと、こんな風に話を切り出した。

「さて。このまま正体を明かさないというわけにもいかないな。空木。槐から受け取ったものがあっただろう。お守りとして。それを開けてみるといい。こちらなら、開けたとしても何の問題もない」

 受け取ったもの。その言葉で空木はようやくそれに思い至った。百鬼夜行に会ったあと、あの店主から渡されたもの――それがこの現象を起こす、何かだと言うのか。

 声の言う、そのお守りを、空木は家の鍵と一緒に持ち歩いていた。生まれのせいか、親の教育のたまものか、空木は意外とこういったものを無下にできない質だ。

 取り出したそれは、手のひらに収まるほどの小さな布袋だった。結んである紐をほどいて、空木はその中をのぞき込む。中に入っていたのは――

 入っていたのは――

 ――何だこれ。

 逆さまにした布袋から出てきたのは――おそらく、石。少し白いもやがかかっているが透明で、平たく角ばった奇妙な形をしている。これは――

 これは何だ。

「私の名は日本式双晶にほんしきそうしょう

 どこからともなく聞こえる声は、そう言った。空木は戸惑う。

 日本式双晶。何だそれは。何が日本式なんだ。いや――そもそも、日本式とは何のことだ。

 そんな疑問に答えるように、声はこう続ける。

「私は鉱物としては石英だ。その中でも双晶と呼ばれる特殊な形状をしている。双晶とは単結晶同士が一定の角度で接合したもので、いくつか種類があり、そのうち八十四度三十三分の角度で接合したものを日本式と言う。明治時代に多く産出したことで、この名がついた。私の形状はその中でも軍配型と呼ばれている」

「はあ」

 空木は間抜けな声で、そう相槌を打った。それ以外に適切な反応があるだろうか。何を言っているのか半分もわからない。

 だから空木はこう言った。

「もっと簡単に。わかりやすく」

 空木の要求に対して、声は即座にこう応える。

「変わった形の水晶」

 何だ。水晶か。それなら知っている。

 いや。そうじゃない。これが日本式双晶とやらで、声が――私の名は日本式双晶――だと言うのだから、当然、この声は目の前の奇妙な石から発せられているだろう。

 しかし、どうしてそんなものが話しかけてくるのか。というか、さっきから普通に会話をしてしまっているが――

 混乱する空木に向かって、日本式双晶はさらにこう言った。

「さて。空木。こちらはいろいろと事情もわかってきたところだ。君の言う呪いがどうなるかは私にもわからないが――私たちは、この件で協力し合えるのではないかと思う」

「待て待て。一方的にそんなことを言われてもだな……」

 空木は慌てて相手の話をさえぎった。そちらは事情がわかっているのかもしれないが、こちらは何の事情もわからない。そもそも――

「そもそも、だ。おまえは結局――何なんだよ」

 日本式双晶はふむと呟くと、しばらくしてからこう答える。

「私は君の持つ、その石に宿る意識だよ。槐はよく式神のようなもの、と言っているが――ここは寺院だから、護法のようなもの、とした方が良いかな」

 式神は陰陽師が使役する霊で、護法は高僧が使役する童子や鬼神のこと――だったか。空木はそういった知識に明るいわけではないが、仕事でその手の記事を書かされたときに調べた気がする。

「いや。そんな気づかいをされても……しかし、式神、ねえ。兄貴に聞かせたら、何て言うか」

 空木は思わずそう呟いた。返答を期待してのことではなかったが、日本式双晶は思いがけない反応を示す。

「君の兄、か。彼のことは注意した方がいいかもしれない。しかし、今回の場合は――あるいは、それがいいように作用した結果なのかもしれないが……」

 意味深な言いように、空木は思わず首をかしげた。

「何だそれ。いいか。あの人はな――筋金入りの幽霊否定論者だぞ」

 筋金入り、なんて言葉では生ぬるいかもしれない。空木の兄は、そういうことを蛇蝎のごとく嫌っている。何せ、空木がその手の本を読んでいるだけでも、くどくどと説教をし始めるくらいだ。

 そうして兄のことを思い出しているうちに、空木はふと、いや――と思い直した。

 あれだけ頑固に否定するからには、兄は今まで、そういったものを目の当たりにしたことなどないだろう。しかし、今なら空木の目の前に、人の言葉を話す石があるではないか。

「おまえの声を聞かせれば、そういうものがあると認めざるを得ないんじゃないか? よし。今まで散々扱き下ろしてくれたことを、後悔させてやる」

 そう言って、空木は意気揚々と兄のところへ向かおうとする。しかし、そうして中腰になったところで、日本式双晶はこう言った。

「それは無理だろうな。石英ほどであればわからないが、私には声をかけることすら難しい。君の兄はそういう体質なんだ。店にもそういう人物が何度か来たことはあるが、桜石が給仕もできないと困っていたよ」

「……どういう意味だ?」

 出端を挫かれた空木は、仕方なく元いたところに腰を下ろす。そうして、手のうちにある変わった石に、問い詰めるような視線を向けた。

 日本式双晶はこう答える。

「君の兄は、そうだな――霊などを打ち消す体質を持っている、と言えばいいだろうか」

「何だそれ……」

 それが本当だとすれば、兄をやり込める方法はないに等しい。あの兄を打ち負かすことについては早々に諦めて、空木は代わりに――目の前にある、話す石という奇怪な存在と向き合うことにする。

「だったら、このことはひとまず置いておくとして――だ。とにかく、おまえたちの一味が妙な力を持っていることは確かなわけだ。いいか。一応、おまえたちには深泥池の場所を借りて、呪いを引き受けているかもしれない、という疑惑があってだな……」

 空木の主張に日本式双晶は、ほう、と声を上げた。うろたえることもなく。というより、どこかおもしろがっているように聞こえたのは、気のせいだろうか。

 とはいえ、これについては空木も確証があるわけではない。単に、国栖の葉が言っていたことの受け売りだ。空木はとっさに適当な理由を考え出した。

「例えば……そうだな。深泥池では呪いを広めつつ、店の方ではそれを解決することで金銭などを得ていた――なんて、どうだ」

 苦しまぎれの推理だったが、声に出してみると、それほどあり得なくはないような――いや、そうでもないか。

 案の定、日本式双晶は呆れた様子で――それでもわずかばかり笑いを含みながら――こう答えた。

「どうだ、と言われてもね……その件はすでに解決しているよ。空木。解決というか――凶行を止めることができた、と言った方がいいかな。君も会っていただろう? 国栖の葉と名乗る者に。あの場所で、望む者に呪いの石を与えていたのは――彼女だ」

 空木は思わず顔をしかめた。

「何だって、そんなことを……」

 そう呟きつつも、その事実について、自分がそれほど驚いてはいないことに、空木は気づいていた。どんな形であれ、深泥池の件に彼女が関わっていることを疑っていたからだろう。そのことを自覚して、空木は複雑な思いを抱く。

 空木が呆然としているうちにも、日本式双晶はこう続けた。

「すべてが彼女の行いではないようだが……理由に関しては、本人に聞いてみないとわからないな。ただ、彼女が国栖の葉なら、別の者の思惑である可能性はあるだろう」

「……どういうことだ」

 日本式双晶は、ふむ、とうなってから、こう続ける。

「そもそも国栖の葉の名は、おそらく本名ではないよ。呪を扱うものなら、本当の名は隠す。名というものが一種の呪だからね」

 空木はその言葉に、思わずため息をつく。

 そんな事実は知りたくなかった。ようやく、わずかばかりでも彼女のことを知れたと喜んでいたのに――とんだ道化だ。

 空木の落ち込みに気づくことなく、日本式双晶は淡々とこう続ける。

「八雲の姓を名乗り、土蜘蛛を祖とする彼らは、石を用いた呪術を使う。しかし、一族の皆が使えるわけではない。使えるのは――そうだな、土蜘蛛の頭目、としようか。そして、それ以外だと、国栖の葉の名を受け継ぐ者だけ」

 頭目という言葉を持ち出してきたのは、空木が大将と呼んだことに影響されたからだろうか。どうでもいいが。

「国栖の葉の名は、国栖くずから来ているのかもしれないが――どういう関わりがあったのかは知らないな。単に名前として残っているだけかもしれない。あの家には使用人なども含めて序列が設けられていて、一番上は当然、頭目となる。そして、一番下が国栖の葉。頭目と同じく呪術が扱えるが、序列は低い。国栖の葉が呪術を使うのは、頭目に命じられたときだけ」

「ずいぶんくわしいじゃないか」

 空木は思わず突っかかった。どうにも黙って聞いていられなくなったからだ。序列とか、いつの時代の話だ。自分の知る世間とは、あまりにも違いすぎる――

 戸惑う空木に対して、日本式双晶はあっさりとこう返す。

「私たちは、百年前にも国栖の葉を名乗る者に会っているんだよ。空木。いろいろと因縁があってね。とはいえ、いまだにこの因習が残っているとは思わなかったが」

「百年前って――おまえ何歳?」

「およそ百歳かな。自我を得てからは」

 あっそう、と空木は気のない返事をした。よくよく考えれば、そもそも石が話していること自体が常識はずれだ。

 日本式双晶はさらにこう続ける。

「とにかく――呪術とは、どうしても周囲に影響を及ぼしてしまうものだ。それは思いもかけない形で返ってくる。だからこそ、気軽に使えるものではない」

「ということは……頭目以外が使うってのは、いざとなれば切り捨てるためってか? 使えるっていうか、使わせてるんだろう」

 そう言って、空木はしばし考え込む。

 国栖の葉は、そんな運命を背負わされた者の名だったのか。どうして彼女は、そんな立場に甘んじているのだろう。彼女が語ったことの、何が嘘で、何が本当だったのか――

 空木は目の前にある小さな箱へと目を向けた。国栖の葉に託された小箱。空木はそれを手に取り――あらためて、こう宣言する。

「箱の中を見るつもりは、ない」

 日本式双晶は、おや、と驚いた声を上げた。

「それでいいのかい。空木。箱には確かに呪が施してある。開ければそうとわかるが、私の力なら開けずに見ることができる」

「それでも見ない」

 そう言って、空木はそれまでの迷いとは別の選択を――箱を開けるか否かではない、別のことを――考え始めていた。




 空木は橋のたもとに立っていた。

 何の目的もなく立っていたわけではない。ある人がここに来るのを待っていた。約束をしたわけでもなく、来るかどうかもわからない、そんな相手を。それでも。

 場所は五条大橋。空木がここを選んだことに深い意味はなかった。知り合いの会社が近く、三条や四条の辺りに比べれば人も少ない――と、その程度の理由だ。

 とはいえ、冬のこの時期に、吹きさらしのこの場所を指定したのは無謀だったかもしれない。京都の冬は底冷えする寒さだ。体の芯まで冷えきった頃になって、空木はようやく、そのことを後悔し始めていた。

 それでも空木は、その人を待つことについては後悔していない。少なくとも、今日だけは時計の針が深夜を過ぎるまで、諦めずにこの場で待ち続けるつもりだった。そんな密かな覚悟を胸に、かじかむ指を暖めるため、白い息をその手にあてていた、そのとき――

「何ですか。これは」

 背後から声をかけられて、空木は振り返った。視線の先にいたのは――国栖の葉だ。あからさまに不機嫌そうな表情で、空木のことをじっとにらみつけている。

 その顔を見て、空木は思わずほっと笑みを浮かべていた。

「いやあ。来てもらえるとは思っていませんでした。でも、来ていただけて――よかったですよ。本当に」

 空木の軽口に対して、国栖の葉はすぐにこう返す。

「箱を渡すだけだと言ったはずです」

 彼女の厳しい言葉に、空木は軽く肩をすくめた。

「そんなに怖い顔をしないでください。言われたとおりに渡しましたよ。ついでに、あなたが体調を悪くして困っているようだと伝えたら、その人が別の箱を持って来てくれたんです。それで、指示されたとおりの場所に置いてきた――ただ、それだけですよ」

「そんなことをしたんですか」

 国栖の葉は呆れたような声を上げる。そして、その手に持っていたものを、あらためて差し出した。

「それで、この手紙は?」

 彼女が手にしているのは、何の変哲もない白の封筒と、折りたたまれた一枚の便箋。書かれているのは、簡単な文章と連絡先だけ。それは、空木がしたためた手紙だった。

 国栖の葉に話したとおり、空木は例の箱を持って、指定の日時に指示された場所へと赴いている。そこで待っていたのは、着物の老婦人。箱を渡すと同時に空木が思い切って事情を説明したところ、老婦人は――いぶかしげな表情をしつつも――あらためて別の箱を持って来てくれたのだ。

 ただし、直接渡すものだと思っていたその箱は、これもまた指定の場所に――今度はそこに置いてくるようにと指示されてしまった。国栖の葉と会うことができるのではないか、と考えていた空木にしてみれば、当てが外れたことになる。しかし――

 空木は考えた末に、その箱へ手紙を添えることにした。そうしてはならないとは言われていないし、箱を置いたその場所に張り込むよりかは、ずっと現実的だったからだ。とはいえ。

 手紙を読んだ国栖の葉が指定したこの場に来てくれるかどうかは、確信がなかった――いや、ほとんど期待していなかった、といった方が正しいか。しかし、そんな一か八かの賭けは、どうにか実を結んだらしい。

 顔をしかめる彼女に対して、空木はあくまでも穏やかにこう話す。

「もう一度、あなたと話をしたいと思いまして。といっても、言いたいことはそうないんです。ようするに、いつでも連絡してください、ってことで――困ったことがあるときには……いや、ないときにも。ちょっとしたことでもいいんですよ。今回みたいに箱を届けて欲しいでも、何でも。俺みたいなのは、便利に使ってもらって大丈夫ですから」

「どうして、そこまで?」

 国栖の葉の問いかけに、空木は苦笑した。

「この前にも話したとおり、大した理由があるわけじゃありません。何と言いますか――俺みたいなのを使った方が、うまくいくこともあるんじゃないかと思いまして。あなたは少し……不器用そうだから」

 日本式双晶が話していたことを思い出す。深泥池で起こったこと。国栖の葉という名に負わされた因習。空木には、わからないことだらけだ。しかし、だからこそ、彼女のことをもっと知りたいとも思う。そう思ってしまったからには、空木は彼女とのつながりをそう簡単に諦めるつもりはなかった。

 国栖の葉は何かを見定めるように、空木のことをじっと見つめている。その顔には、怒りも悲しみも――何の感情も読み取れない。

 彼女の信頼を得ることが難しいだろうことは、空木にもよくわかっていた。それでも、いつか――今ではなくとも、いつか――彼女が困ったときに、助けを求められる存在でありたいと思う。空木はただ、それを伝えるためだけに、彼女に会うことを望んでいた。

 しかし。

 彼女の表情が晴れる気配はない。それどころか、ふいに何か――違和感を覚えて、空木は国栖の葉の行動を注視した。

 彼女はゆっくりと空木の方へ近づいてくる。感情をなくしたように見えるその顔は、ともすれば怒りをあらわにしたそれよりも底知れない。

 彼女の左手には空木の書いた手紙。そして、右手に持っているのは――

 右手に持っているのは――何だろう。

 そう思った瞬間、空木の目が捉えたのは、細長い糸のようなものだった。それに気づいた空木は、思わずその糸を振り払ってしまう。

「……そう。あなた、見えるの。いつから?」

 その言葉にはっとして、空木は彼女のことを見返した。そこに浮かんでいたのは、明らかな怒りの表情。

 空木が言い訳するより先に、国栖の葉はこう続ける。 

「私のことにかまうのも、何か目的があったんでしょう?」

「それは」

 違う。空木はそう言いかけて――しかし、言い切る前に口を閉ざした。その代わりに、空木はためらいつつも、こう問いかける。

「本当に、深泥池で呪いを引き受けたりしてたんですか?」

 国栖の葉は何でもないことのように、そうね、とうなずいた。

「なぜ――」

「かわいそうだったから」

 彼女のその返答に、空木は思わず顔をしかめた。しかし、国栖の葉は淡々とこう続ける。

「深泥池の祠に依頼の手紙が残されていて。それを読んだの。それで、かわいそうだと思ったから」

「そんなことが理由ですか?」

 空木がそう問いかけると、彼女は悲しそうな表情を浮かべた。しかし、そんな感情は、すぐに彼女の顔からはかき消える。

 どこか冷めた表情になると、国栖の葉は空木にこう答えた。

「それだけが理由ではないけれど。あれがどうしてそんなことを始めたのか、私にはわからなかったから。それを引き受けていれば、向こうも何かしら対処するだろうと思って」

「あの店のことは?」

 店については、やはり何かしら思うところがあるのか、国栖の葉は空木へ探るような目を向ける。

「呪いの石のことなら、嘘は言っていない。それに、宇治の宝蔵の封が解かれていたもの。それだけで十分。あの祠は昔、音羽が怪異の屍を集めていた場所のはず。あそこに封じられていたものは、私程度の力では御せなかった。だとすれば、解き放ったのは、あの家の者しか考えられないでしょう?」

 空木には彼女の言っていることの半分もわからなかった。これ以上、何をたずねるべきなのかもわからない。口を閉ざしてしまった空木に、国栖の葉は少しだけ同情したような視線を向ける。

「だから、あなたの解きたいという呪いについては、私は知らない。それで――あなたは、はじめから私のことを疑っていた?」

 彼女の問いかけに、空木は思わず苦笑いを浮かべていた。しかし、それはもうどうしようもなくなってしまったこの状況での、虚勢のようなものだ。

「そういうわけじゃ、ないんですけどね。いろいろ知ったのは、不可抗力というか……まあ、俺の疑いをあの店に向けようとしていたことは、すぐにわかりましたけど。そういうことには、慣れてなさそうでしたし」

 それを聞いた彼女は、大きくため息をついたかと思うと、ぽつりとこう呟いた。

「これだから嫌なの。外に出るのは」

 国栖の葉は空木のことをにらみつけると、右手に持っていた何か――どうやら石のようだ――を空木の方に差し向けた。

「私のことを、助けてくれるのでしょう?」

 目の前には再び糸のようなものが現れていたが、彼女のその言葉に、空木は――それを振り払うことをためらってしまう。

 ほのかに青白く光る糸は、どうやら彼女の持つ石とつながっているようだ。国栖の葉は、その糸をたどるように、しばし視線を泳がせていたが――ふいにその目を閉じると、誰にともなくこう呟いた。

「ケイカボク……そう。そんなところにあったの。でも、これは――もう、私の手には負えない」

 その言葉とともに、奇妙な糸はふつりと切れる。

 彼女は何をしていたのだろう。手に負えない、とは――

 目の前で起きたことについて空木が問いただすより前に、彼女は無言で背を向けた。慌てて引き止めようとする空木を拒絶するように、その後ろ姿は、どこからともなく湧き出た霞によってかき消えていく。

 待ってくれ、という空木の声が辺りに虚しく響いた。視線の先には誰の姿もなく、わずかに残っていた霞もまた、風に吹かれて散っていく。彼女がいたその場所には、白く濁った石がひとつだけ残されていた。

 それを拾い上げた空木は、呆然とその場に立ち尽くす。そうして、どれくらいそうしていたかも、わからなくなった頃――

「……空木」

 ふいに、日本式双晶がそう呼んだ。

 しかし、今の空木は誰かと話をしたい気分ではなかった。それでも空木は、投げやりにこう返す。

「何だよ」

「すまない。とっさに、君の目を見えるようにしてしまった。彼女が放った呪の糸を。本来は見えないものを見せる――それが私の力だ。しかし、どうやら私は、彼女の思惑に乗せられてしまったようだ」

 お守りを受け取ってからこちら、時折見えていた奇妙なものはこの石のせいらしい。しかし、彼女との決裂はこの石のせいではないだろう。きっかけにはなったかもしれないが。

 彼女はそもそも、空木のことを信用してはいなかった。それに、空木の方でも――彼女の素性をすでに知ってしまっていたのだから。

「いいよ。もう。そのことは」

 空木がそう言うと、日本式双晶は気づかうような声音で、こう続ける。

「私たちに協力してくれる気になったら、また店に来るといい。そのときには、あらためて君に会わせよう」

 会わせる。誰にだろう。何にせよ、今はまだ、先のことを考える気にはなれない。とはいえ――

 国栖の葉の件がどうにもならなくなったとしても、空木には抱えている問題がもうひとつある。それをどうにかするためには、あの店に行かないという選択肢はないだろう。

 空木は日本式双晶にこう問いかける。

「会わせるって――あの店主にか? 槐とかいう名前の」

 しかし、それならもうすでに会っている。ただ、今となっては、空木も日本式双晶のことを――話すことのできる石の存在を知ってしまったのだから、話はまた違ってくるのかも知れないが――

 しかし、日本式双晶は空木の言葉を否定した。

「いや。そうではない。会わせるのは、君の元に私を送り込むことを画策した――とある石に、だ」


     *   *   *


「彼女のお姉さん。なかなかに厄介そうだねえ」

 そう言って、忽然と姿を現したのは石英だった。

 桜が夕食の後片づけをしているときのことだ。いつものことなので、桜はそれを無視する――つもりだったが、発言の内容が気になって、思わずこう返してしまう。

「何ですか、また。厄介そうって?」

「今回の件、僕には見えたかもしれない、と言ったじゃないか」

 見えた。何が見えたのか。彼女のお姉さん、ということは――まさか。

「もしかして、花梨さんのお姉さんの居場所がわかったんですか? それなら、早く知らせないと――」

 手にしていた皿を取り落としそうになりながらも、桜は思わず振り返った。しかし、それを伝えるべき当の本人は、アルバイト――と言っていいのか――を終えて、この日はもう帰ってしまったあとだ。

 夕食の前には、倉庫――もとい店――にある石を、桜も一緒に整理していた。あそこにあるものを売るにしても、まずは何があるかを把握しなければ――ということで始めたはずだが、槐がいるとすぐに石のことを話し出すので、これがなかなか進まない――という話は置いておいて。

 ともかく、姉の行方は花梨にとって何より気がかりなことだろう。何かわかったなら、一刻も早く知らせた方がいい。今からでも連絡を――と思ったのだが、慌てる桜に対して、石英はやれやれといった風に肩をすくめた。

「落ち着きたまえ。桜石。いいかい。この件はね、見つけてよかったはい終わり、とはならないんだよ。今後について、まずは槐と相談しなければ」

 どういうことだろう。しかし、状況が確定するまで石英が曖昧なことしか言わないのは、いつものことだ。だとすれば、見えたと言っても、まだ確かなことではないのかもしれない。

 なんてまぎらわしい――と呆れる桜をよそに、石英は難しい顔で腕を組むと、ひとり何やら考え込み始めた。

「さて、と。それはそれとして、彼女はちゃんと忠告を守るかな? 黒曜石だけでは、いかにも頼りない……」

 その言葉に、桜は思わず首をかしげた。

「花梨さんのことですか? 何を言ったか知りませんけど、深泥池の件だってみんなで協力したじゃないですか。何かあれば、また僕たちや、他の石が力になってくれますよ」

 そうでなくとも、もしも行方不明の姉が見つかったなら、花梨が無茶をする理由はない。しかし、石英はそのことについて、まだ伝えるべきではないと言う。何が何やら。

 桜の混乱がわかっているのか、いないのか、石英は意味深にこう呟いた。

「彼女には彼女の役割がある。彼女が黒曜石を選んだ、その意味が」

 珍しく真面目な顔をしているかと思えば――石英はそこでふと、何かを思い出したように、にやりと笑った。突然のことに、桜はうろんな目を向ける。

「それはそうと、近くまた客が来るよ。うまくいけば、こちらも長いつき合いになりそうだ」

「誰なんですか? その客って」

 桜がそうたずねると、石英は笑みを浮かべながらも、口元に人差し指をあてた。

「まだ秘密だよ。しかし、なかなかおもしろそうな人物だからね。今から顔を合わせるのが楽しみだ」

 いったい誰のことを言っているのだろう。今度は何が始まろうとしているのか。何せよ――

 誰だか知らないが、石英に目をつけられるなど、かわいそうな人もいたものだ――と桜は思った。

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