第十八話 沸石 後編

 部屋中に、気まずい空気が流れている。

 その居たたまれなさに、桜は思わず――出かけて行った花梨に自分のことも連れ出してもらえばよかった――などと考えていた。

 あちらは、さぞなごやかな時を過ごしていることだろう。それなのに、この部屋ときたら。

 座敷には三人の男が――桜も数に入れるならば四人だが――顔を突き合わせていた。槐と片桐を名乗る男と、それから――

「あれから、怪我の具合はいかがですか?」

 空気を読まずに、槐は軽い調子でそうたずねた。よりによって、明らかに敵意をあらわにしている相手に向かって、いつもの挨拶でもするかのように。

 案の定、そう問いかけられた男は――浅沙とかいう名前だっただろうか――むっとした顔で、槐のことを見返している。

 しかし、槐はめげずにこう続けた。

「あのとき、ずいぶんと強引に呪いを返していらっしゃいましたから。何らかの反動があったのではないかと思いまして」

 それでも浅沙は何も答えない。その代わりに、片桐が肩をすくめながらこう言った。

「右手の火傷のことか。俺はどういう状況だったかは知らんが、まあ、ひどいもんだった。今は治っているがな。何の問題もない」

 確か、花梨のアルバイト先で起こった火事さわぎのときの呪いを返した――という話だったか。桜は直接、その場面を見たわけではないが。

 そのことを指摘されて、浅沙はよりいっそう頑なに口を閉じた――ように、桜には見えた。しかし、槐はそれには気づいていないのか、あるいは無視を決め込んでいるだけか、とにかく――それはよかった、とにこやかに笑いかけている。

 槐はあらためてこう言った。

「あなたにはきちんと名乗ってはいませんでしたね。私は音羽槐です。名前をおうかがいしても?」

 桜は浅沙が口を開かないのではないかと思った。しかし――

「浅沙」

 と、彼はどこか投げやりにそう名乗る。

 浅沙が名字を名乗らなかったことが気になったのだろう。槐はうなずきながらも、さらにこう問いかけた。

「あなたは八雲家の方なのでは?」

「俺はもう、あの家とは無関係だ」

 浅沙は即座にそう返す。槐はふむとうなずくと、しばし考え込むように黙り込んだ。

 部屋中に、気まずい空気が流れている。

 浅沙は言わずもがな。片桐も、保護者を名乗っているわりには事情に明るいわけでもなく、今のところ大して口を出していない。まるで、悪いことをした子どもにつき添って、説教を受けに来た親のようだ。この二人、いったい何をしに来たのだろう。

 内心でそう呆れていた桜だが、槐はそれでもそんな彼らにつき合うつもりらしい。悩んだ末に、槐はようやくこう話し始めた。

「さて。何からおたずねしましょうか……そうですね。まずは――」

「何も答えるつもりはないね。嘘をついても、そっちにはわかるんだろうし」

 槐の言葉をさえぎって、浅沙がそう牽制した。そんな彼の態度には、片桐が無言でにらみをきかせている。

 槐が虚をつかれたように目を見開いていると、浅沙はふんと一笑した。

「深泥池でも、そう言ってただろ」

 あのときの槐は、協力してくれる石たちをいくつか持ち出している。嘘をついてもわかる、ということは――

鋼玉こうぎょくの力ですね。彼はこの話には口を出しません。もともと、人と関わることをひどく嫌っていまして。あのときは――特別でしたから」

 槐があっさりとそう答えるものだから、桜は思わずこう嘆いた。

「ああ……何で言ってしまうんですか。黙っていればよかったのに……」

 嘘をついても意味はないと相手に思わせておけば、こちらにとっては好都合――そんな思いが、つい口に出てしまった。当然、その意図は相手にも伝わっただろう。桜は浅沙に鋭い目つきでにらまれる。

「そういえば、そいつは何なの」

「僕は――」

 唐突に注目を浴びたので、桜は戸惑った。いつもであれば、槐の傍らに控えていれば意識されることはまずない。桜のことを人ではないと気づく者もそういないし、単なる客に自ら正体を明かしたこともなかった。とはいえ――

 この場にいる客人は、少なくとも桜が人ではないことくらい気づいているだろう。ならば。

「僕は桜石、です」

 桜はそう名乗った。浅沙はすかさずこう返す。

「何だ。あの家の無名異むみょういみたいなもんか」

 桜は意味がわからずに首をかしげた。しかし、どうも嫌な感じがする。何――みたいなものだと、彼は言ったのだろうか。

 浅沙の方は、もうすでに桜のことには興味を失ってしまったらしい。あさっての方を向いて、やはり不機嫌そうにしている。

 ただ、浅沙の発言には槐もいぶかしく思ったのか、表情を曇らせつつも、こう問いかけた。

「無名異? 赤土の? いや……そうではないね?」

 浅沙が何かを答えるより先に、槐はこう続ける。

「八雲の家にも、彼のような存在がいる、と?」

 桜は思わず顔をしかめた。

 自分たちと同じような存在。それが土蜘蛛の家にもいるというのか。あのときのようなことを、また――

 しかし、浅沙はそんな不穏さには気づかずに、世間話でもするようにこう答えた。

「そいつとは似てない。もっとこう、人らしくはない」

 その評価に桜は複雑な思いを抱く。少なくとも、桜の方はその――似た何かよりかは、人らしく見えるようだ。安堵していいものか、それとも――

 やはり気まずい空気の中、浅沙は肩をすくめてこう言った。

「まあ、懲りたんだろ。いろいろ。何にせよ、あの家がどうだろうと、俺には関係ないね」

 槐はその心のうちを探るかのように、浅沙のことをじっと見つめ返した。

 しかし、それも長くは続かない。浅沙に向かって、槐はこう念を押す。

「とにかく、あなたは八雲家のことを話したくはない、と」

 浅沙はそこでちらりと一瞥をくれたが、槐は特に気にすることもなく、その先を続けた。

「では、今はそれでかまいません。私が知りたいことは、あの家の現状ではありませんから。お聞きしたいのは――鷹山花梨さんのお姉さんのことです」

 その言葉には、浅沙も鋭く反応した。そして、思い出したように、きょろきょろと周囲を見回し始める。

「そう言えば、今日は花梨ちゃんいないみたいだけど」

「彼女には席を外していただきました」

 桜は思わず槐にうろんな目を向けた。

 花梨が遠出した日を選んでこの二人が現れたのは、あくまでも偶然だと思っていたのだが――もしかして、あらかじめ画策されたことだったのだろうか。

 考えてみれば、槐が突然アルバイトなどと言い出したことも、奇妙だとは思っていた。行方不明の姉が、何らかの呪いに関わっているのだとすれば、花梨の動向は把握できた方がいいとでも考えたのかもしれない。ただでさえ、土蜘蛛との因縁に巻き込まれているのだから。

 それでいて、この場から花梨を遠ざけたのは、槐が自分だけでこの件に片をつけられないか、と考えたからだろう。槐はわりとそういうところがある。そんなことだから、なずなはへそを曲げるのだ、と桜は思っているのだが――

 ともかく。

 先ほどまでは無関心だった浅沙だが、ここでようやく、その態度をあらためる気になったらしい。槐に向き直ると、浅沙は素直にこう答えた。

「お姉さん、ね。俺もどこにいるのかは知らないって言ったはずだけど」

 槐は浅沙を真っ直ぐに見つめ返す。

「居場所は知らない。しかし、呪われている――という話ではありませんでしたか? その点については、少し奇妙に思っていまして。深泥池の噂がいつから始まったのか具体的な時期はわかりませんが、少なくとも、二年前には広く知られていたことを、こちらも把握しています。そして――」

 槐はそこで、座卓の上に置かれた紙束をちらりと見やった。

「あのとき、あの場にいた女性が起こしたことについては、ここ数か月のことに限られる、という認識で間違いはありませんね? そのうえで、深泥池の噂の発端はあなたの行いである、と。だとすれば、鷹山さんのお姉さんの件は、あなたに関わりがあることなのでは? それとも、違うのでしょうか?」

 深泥池の噂に関わっていたのは、どうもひとりではなかったらしい。そもそもの始まりは、確かに浅沙が広めたことではあるようだ。しかし、なぜそんなことを始めたのかなど、くわしい事情はまだわかっていなかった。

 そして、もうひとり。玄能石に火打ち石、そしてかんかん石――それらの石を、望む者たちに与えた人物がいるのだという。土蜘蛛同士のいざこざだからか、その点についても、浅沙は話すつもりがないようだが――

「どうもこの件に関して、あなたにはまだ隠していることがありそうですね」

 浅沙は何の反応も示さずに押し黙る。話すと都合が悪いことでもあるのだろうか。それとも。

 沈黙した浅沙の代わりに、声を上げたのは片桐だった。

「それについては、俺も知りたいところだな」

 皆の視線が片桐の方へと集まる。片桐はそれらを堂々と受け止めた。

「俺がこいつを拾ったのは、とあるところから調査を依頼されたからだ。深泥池周辺で不穏な動きがあるからってな。その結果、こいつを保護した。それで俺の仕事は終わり――のはずだったんだが」

 片桐は浅沙を一瞥してから、深いため息をつく。

「どうも、こいつのいたずらだけでは説明のつかないこともあってね。ただ、それについては、どうしたって口を割らない。言っておくが、俺は呪いのことについては一切わからん。自分の領分ではないことに、これ以上首を突っ込みたくもない」

 片桐はそう言うと、肩をすくめた。

「ただ、状況は把握しておきたいもんでな。深泥池は――あそこは特別な場所だ。怪異がどうこうじゃない。貴重な自然の宝庫なんだ。だからこそ、幽霊だの何だのでさわいで欲しくはない」

 調査を依頼された、という言葉は少々気になるところではあるが――

 桜の知る限り、古木守という人たちは、時を経て怪異になった樹木などを中心に、古い自然を守る人たちだと認識している。浅沙を保護したことも、この場に彼を連れて来たことも、片桐にとっては単にその延長なのかもしれなかった。

 片桐の言葉にうなずきながらも、槐は浅沙に向き直る。

「あらためておたずねしますが……あなたはなぜ、深泥池で呪いを引き受けていたのですか?」

 浅沙はそれでも口を閉ざしていた――が、そのうち思い直したのか、渋々ながらもこう答える。

「先立つものが欲しかったからだよ。さっきも言ったように、八雲の家とは縁を切ったし。それが手っ取り早いと思って」

 呪いの噂は、金を得るためだった、と。何とも俗な話だが――とはいえ、浅沙は見るからに軽薄そうな人物ではあるし、真実はそんなものなのかもしれない。

 しかし、槐はその答えに納得してはいないようだ。

「本当に縁を切るつもりなら、なぜすぐにでも、もっと遠くまで行かなかったのですか? どうして深泥池である必要が?」

 浅沙は再び黙り込む。槐はさらに問いかけた。

「現に、そのために八雲の家の者が、あなたを追って来たようですが……違いますか?」

 浅沙は大きくため息をつくと、言葉を選ぶようにしながら、こう話し始めた。

「正直言うと、俺が何をしようが、あいつが気にするとは思ってなかったからな……まあ、俺もちょっとやり過ぎたところはあったけど。大方、お前らと通じているとでも思ったんだろう。手を組んだとすれば、向こうは黙っていられないだろうし――」

 しかし、その言い分には片桐が口を挟む。

「深泥池で遊んでた理由にはなってねえだろ」

「おっさんは黙ってなよ」

 そう言って、浅沙と片桐はにらみ合っている。

 槐はそのことを気にする風もなく、ふむとうなりながらも、自分の考えを口にした。

「深泥池には確か、豆塚がありましたね。あの場所がそうであって、利用するのに都合がよかった、ということでしょうか」

 噂の場所。条件だの手順だのがあって、普通では行くことができないのだという。そこが特別な場所だったということだろうか。

「あそこは俺が術で囲ってただけ。鬼の道――豆塚とは違う」

 浅沙の答えに、槐は軽く目を見開く。

「そうなのですか。しかし、鬼の道、というのは――?」

 槐はそのとき、ふいに何かを思い出したかのように顔をしかめた。

「それから、ひとつ確認しておきたいことが――あなたは、宇治に行ったことはありますか?」

 槐はそう問いかける。話の流れから外れた内容に、浅沙はけげんな顔をした。

「宇治? なんでそんなところに」

 槐は浅沙の反応に目を向けてから、何かを考え込むようにうつむいた。

「なるほど。それから、鷹山さんのお姉さんに関わる呪いについて、ですが……それは、もしかして」

 槐はそこで、探るような視線を浅沙に向ける。

「木の呪いなのではありませんか?」

「何。木、だと?」

 と、反応を示したのは片桐だ。しかし、これはおそらく、立場上気になったというだけだろう。

 それに対して、浅沙の方はというと――不自然なくらい無表情だった。しかし、わけのわからないことを聞かれた、という感じではない。むしろ、ひどく驚いているか、あるいは――

 浅沙のその表情を気にとめつつも、槐はこう呟いた。

「これは……あちらの方も確認しないといけないか」

 浅沙は憮然とした顔で問いかける。

「あんた、何を知ってる?」

 槐は苦笑した。

「まだ、確証があるわけではありません。とにかく――私としましては、まずは鷹山さんの件をどうにかしたいと思っています。彼女のためにも。その点で、ご協力はいただけませんか」

 槐のそんな申し出には、浅沙は顔をしかめながらも、肯定とも否定とも取れるような――どっちつかずなうなり声を上げた。決めかねているのだろう。

「そもそも俺は、あんたのことが本当に信用できるのか、疑わしく思い始めてるんだけど。あんたが知ってるのは、それだけか?」

「おまえ……また、そんな偉そうに」

 そう呟きながら、片桐は呆れたような目を浅沙に向けている。槐の方はというと、何かを思い出すように視線を宙に向けてから、今度はふと、座卓の上にあるものをもう一度見やった。

「そうですね。あとは、そう。鬼、でしょうか」

 そこにある紙束。あれは確か――なずなが持って来た、深泥池の噂について調べられたレポートのコピー。

 槐はそれに視線を向けたまま、誰にともなくこう呟く。

「深泥池には、鬼が出る」

 その言葉に、浅沙は険しい表情を浮かべた。


     *   *   *


 槐の店に帰ってきた花梨と椿は、通り庭で桜に出迎えられた。

「お帰りなさい。花梨さん。椿ちゃんも」

 明るくそう言う桜を前にして、花梨は普段どおりに振るまうつもりだった。が――うまくいかずに、ひきつったような笑みになってしまう。椿も顔をしかめたまま、ずっと不機嫌そうだ。

 それを見て、桜はけげんな顔をする。

「――って、どうかしたんですか?」

「それが……」

 そう口にしてから、花梨はどう説明したものかと迷う。

 ひとまずは座敷に向かうことにして、そろって歩いて行くと、坪庭の方から槐がひとり座っているのが見えた。向こうも花梨たちのことに気づいたようで――花梨は軽く会釈しながらも、縁側を通り過ぎぐるりと回り込んで行く。顔を合わせると、すぐに――おかえりなさい、と槐に声をかけられた。

 おのおのいつもの位置に落ち着き、ひと息ついてから花梨が取り出したのは、梓から預かったヒキガエル石の指輪。目の前の座卓にそれを置いた途端、その指輪が――いや、おそらくヒキガエル石が――カエルのような鳴き声を発し始める。

 槐は軽く目を見開いたまま、無言で石に目を向けた。同じくぽかんとした顔で、桜がこう問いかける。

「何です、これ?」

 それには、椿がすかさずこう問い返す。

「こっちが知りたいんだけど? 電車の中でも、げこげこうるさいし。周りの人には奇異な目で見られるし。何なの。これ」

 ヒキガエル石は相変わらず鳴いている。カエルのような声で。なぜなのかはわからない。梓の店にいる間は何ともなかったのだが、そこから離れてしばらくすると、こんな風に鳴き始めたのだった。

 桜は難しそうな顔で、ため息をついている。

「はあ。また奇っ怪な物を……でもまあ、翡翠さんが何も言わないなら、危険なものではないんでしょうけど」

「そうだな」

 と同意したのは、翡翠の声だろう。椿は不服そうに、自身が持っている翡翠の勾玉に視線を送っている。

 桜もまた、呆れたようにうーんとうなった。

「そうだな、じゃなくてですね――」

 桜の言葉をさえぎるように、ふいに姿を現したのは碧玉だった。ものすごい形相でヒキガエル石をにらみつけながら、忌々しげに口を開く。

「またか。これで何度目だ? 骨董屋の主人だか何だか知らんが、いいかげんに忠告したらどうだ。槐」

 骨董屋の主人、というのは当然、梓のことだろう。また、という言葉に、花梨は思わず首をかしげた。

 とはいえ、碧玉はおそろしく怖い顔でヒキガエル石を見下ろしている。とてもではないが、気軽にたずねられるような空気ではない。

 しかし、それについては桜がこそっと教えてくれた。

「梓さん、でしたっけ? あの人、たまに妙なものを持ち込んで来るんですよね……しかも、自覚がないらしく」

 自覚がない、とはどういうことだろう。梓はこの指輪のことを、奇妙なことを起こすとは言っていた気がするが――

 槐は苦笑しながら、こう話す。

「怪異や呪いが荒れた波のようなもの、という話をしましたが、そう考えるなら、彼女の存在はその波間にあって小揺るぎもしない岩礁のようなもので。影響を受けない――どころか、打ち消してしまうようなのです。たまに、そういうものに強い体質の方がいらっしゃるんですが」

 槐がそう言うと、それまでヒキガエル石をにらみつけていた碧玉の視線が、唐突に花梨の方へと向けられた。

「とにかく、だ。君がここで働くことについては了承したが、だからと言って、妙なものを持ち込まれては困る」

 そう言われて、花梨は思わず身を固くする。まだ正式に働いてもいないのに叱られてしまった。

「す、すみません……」

 花梨が慌てて頭を下げると、それを庇うように黒曜石が声を上げる。

「碧玉。そうは言っても、花梨はただ預かっただけなのだから……」

「だから何だ」

 と凄まれて、黒曜石は黙り込んだ。そのとき。

「まあまあ。碧玉くん。いいじゃないか。この程度の怪異なら――おもしろくて」

 笑い混じりにそう言ったのは、石英だった。いつの間にか縁側に腰かけている。

 石英はどこか楽しげにヒキガエル石の方を振り返ると、ふいに何かを思いついたような顔になって、こう叫んだ。

「そうだ。煙くん。煙くん! こっちにおいでよ。この石の見る夢を見てごらんよ」

 呼びかけに応えるものはいない。代わりに、呆れたような顔になって碧玉が姿を消してしまった。

 石英はもう一度、こう呼びかける。

「煙くんってば。紫くんも一緒に呼ぼうか?」

「呼ぶな!」

 そう言って姿を現したのは煙水晶だ。いつの間にか石英の傍らに立って、彼のことを見下ろしている。

 石英はにやりと笑いながらも、黙ってヒキガエル石のある方を指差した。

 煙水晶は少しだけ逡巡したようだが、いくらもしないうちに諦めたらしい。どうして私が――などと、ぶつぶつ呟きつつも、その手にある煙管から煙をくゆらせた。

 煙水晶はひとりでじっと虚空を――おそらくヒキガエル石の見る夢だろう――を見つめている。しかし、しばらくしてから、彼はひとりごとを呟くようにこう言った。

「どうもこの石、実際にカエルの中へ埋め込まれ、取り出されたことがあるようだ」

 煙水晶はそこで大きくため息をつく。かと思えば、辺りに漂っていた煙を、指をぱちんと鳴らして――消してしまった。

「人の考えることはよくわからんが……大道芸か何かだろう――くだらん!」

 そう言って、煙水晶は周囲をかえりみることなく、この場から去って行った。

 花梨は思わず槐や桜と顔を見合わせる。椿は気づかぬうちに本を読み始めているし、石英は何がおもしろいのか、声を上げて笑っていた。

「どういうことでしょう」

 花梨が戸惑いの視線を向けると、槐はこう言った。

「確か、ヒキガエル石は生きているカエルから取り出さなければならない――といった話があったと思いますが……」

 生きたカエルから、という話は初耳だ。梓もそうは言っていなかった気がする。花梨はこう返した。

「赤い布の上に乗せるなどすると吐き出す――と聞きました」

 槐はうなずく。

「それも伝えられている方法のひとつですね。しかし、もっと直接的に――そのヒキガエル石を取り出す図というのも残されています。それを実践してみせた、ということでしょうか。手品のタネのようなものかもしれません」

 そういえば梓も言っていた。石を売る際には、その性質を実践してみせるのもいい、と。生きたカエルから取り出さなければならない石だというなら、それを実際にやってみせた例もあるのかもしれなかった。

 そうすれば、それを見た者の多くは真実だと思うだろう。たとえそれが嘘のまねごとで、タネや仕掛けがあったのだとしても。

 カエル自身にはかわいそうな話ではあるが――

 石英はようやく笑いをおさめると、槐に向き直ってからこう言った。

「何にせよ、この程度なら沸石の力で静められるんじゃないかい? 槐」

 石英はそれだけ言うと、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、花梨に視線を送りつつも――そのまま姿を消してしまった。

 苦笑しながら、槐はヒキガエル石の指輪を手に取る。

「石英の言うとおり、沸石の力なら、この石に残る呪いの影響を取り除くことができるでしょう」

 その言葉に、花梨は軽く首をかしげた。

「これもまた、呪い――なんですか?」

 槐はうなずいた。

「本来その物が持つはずではない来歴を経たことで、このように道理に外れたことが起こるようになったのでしょう。意図されたものだけが呪いだとは限りません」

 そう話し終えると、槐は沸石の名を呼んだ。忽然と姿を現した沸石は、無言でヒキガエル石を見つめている。

「こちらもお願いできるかな。沸石」

 槐に指輪を差し出されて、沸石はそれを受け取った。そうして、そのまま座敷を去って行く。表の店の方へ向かうのだろうか。

 カエルの鳴き声も遠ざかり、この場がようやく落ち着いたところで――ふと花梨の持っている物が気になったらしく、桜がこうたずねた。

「そういえば、もうひとつ。花梨さんが持ってるそれは何ですか?」

 花梨は傍らにあった紙袋から、中身を取り出した。梓の店で買ったもの。長細い木箱のふたを開けると、その中には十の鉱物が並んでいる。

「モース硬度計。梓さんの店にあって」

 花梨はそう答えたが、桜は何も言わずに木箱をじっと見つめている。気がかりでもあるのだろうか。そう思って、花梨はこう問いかけた。

「どうかした?」

「いえ――花梨さん。これで、引っかいたりはしないでくださいね?」

 花梨は目をしばたたかせた。

 何を言っているのだろう、と思ったが――よくよく考えれば、彼は石だ。モース硬度計は、鉱物で引っかくことで傷つきにくさを調べるもの。だとすれば、桜が心配したのは、自分自身――もちろん石の方の――を引っかかれることだろう。

 花梨は苦笑した。

「そんなこと、考えもしなかった」

 そもそも、彼が石であるという事実ですら、ともすれば花梨はうっかり忘れてしまうことがある。そうでなくとも、怒ったり、おどけたり、不安になったり。そういうところは、人と何の違いもない。

 花梨はあらためて、モース硬度計を見つめた。どうやらこれは、少なくとも例のあの部屋には持ち込まない方がいいようだ。

 花梨はそのとき、ふいにあることを思い出した。

「そういえば……梓さんの店は、あかとき堂というお名前でしたが、その――できれば、この店の名前を教えていただけないでしょうか」

 アルバイトを、と提案されたときから――いや、それよりも以前から、気になっていたことではある。しかし、今の今まで、何となくたずねる機会を持てないでいた。とはいえ、ここで働くからには、知らないというわけにはいかないだろう。

 花梨の言葉に、桜と槐はきょとんとした表情で顔を見合わせている。間を置いてから、桜はようやく口を開いた。

「普段、全然名乗らないので、花梨さんにお伝えするのを忘れていましたね……」

 あっさりとそう言った桜に対して、槐はあらためて姿勢を正すと、こう答えた。

「セキレイ亭、ですよ」

 花梨は首をかしげる。

「セキレイ。鳥、ではない……ですよね?」

 花梨は思わず、そうたずねた。この疑問には、肩をすくめながら桜が答える。

「たぶん、石の霊と書くんだと思いますよ。榊さんの考えていたことは――あ、槐さんのお父さんのことです――よくわからないですからね」

 石霊でセキレイ、か。これはやはり、あの部屋の不思議な力を思った石たちのことを表しているのだろう。花梨はそう納得した。ただ――それを知らない者にとっては、奇妙に思えるかもしれないが。

 槐はさらに、こう説明する。

「それから――亭の方は、おそらく先人に倣ったのだと思います」

 花梨には、その意味がよくわからない。おそらく不思議そうな顔をしていたのだろう。槐はすぐに補足した。

「江戸時代の本草学者に、木内きうち石亭せきていという弄石家ろうせきかがおりまして。弄石というのは珍しい石を収集することで――要は石好きのことですね。当時の流行りで、石亭は弄石社という集まりを結成し、愛好家たちと交流していました。ちなみに石亭は号で、同じ弄石仲間も、例えば蟹石亭や、鏃石亭などと名乗っていたようです」

 その先人に敬意を表して、ということだろうか。

 花梨はひとまずうなずいた。セキレイ亭。それがこの店の名。それを知れたことで何が変わったわけでもないが――あらためて、ここで働くことになるのだ、と実感する。

 それからは、今後のことについていくつか話し合った。

 大学も春休みに入るが、花梨は実家には帰らないでいるつもりだ。どうなるかはわからないが――姉の大学での足跡そくせきを調べてみるつもりだった。その合間になら、この店でのアルバイトについて、いろいろと考える時間もあるだろう。

 日も落ちて、そろそろ帰ろうかという頃になってから、桜は唐突にこう言った。

「そうだ。花梨さん。今日の夕食はうちで食べていってくださいね」

 そんなことを言われるとは思っていなかったので、花梨は面食らう。桜は有無を言わさぬ調子で、こう続けた。

「もう用意してしまいましたから。それに、アルバイト代なんてしばらく出ないでしょうし。それくらいは当然ですよ」

 そう言われてしまっては、花梨もその誘いを受けないわけにはいかない。

 ともあれ、花梨はそうして――初めて音羽家の茶の間に招かれることになった。その席には槐と椿はもちろん、食べられはしないが桜も同席する。

 しかも、夕食はすべて桜が用意したものらしい。彼の手料理は、どこか懐かしい味がした。

 夕食を終えた花梨は、ひとり通り庭へと向かう。片づけがあるだろうと、見送りの方は辞退していた。

 店の板戸は――来たときと同じように、やはりわずかに開いている。その向こうでは、たくさんの箱や石に囲まれて沸石が座っていた。かすかに聞こえるのは、カエルの鳴き声だろうか。

 黒曜石に向かって、気が散る、と言っていたことを思い出して、花梨は沸石に声をかけることを控えることにした。ただ――見えているかはわからないが――彼に向かって軽く会釈する。

 そのとき、沸石がふいに口を開いた。

「碧玉も、決して――いたずらに他者との関わりを忌むわけではない……」

 花梨はあらためて彼の姿に目を止める。沸石はこう続けた。

「黒曜石。おまえもわかっているだろう。できることなら、この店に……あまり面倒ごとを持ち込むことのなきよう」

 沸石はそこまで言うと、細い目線をちらりとこちらに向けた。

「これ以上の呪いは――私たちには手に余る……」

 そう言って、沸石はヒキガエル石の前で静かに目を閉じた。

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