第七話 孔雀石

 その音色は、思わず耳を澄ましてしまうほどに美しかった。

 何の音かはわからない。聞いたことがある楽器のようにも思えたが、ときにそれとはまったく違う響きを伴っているようにも思えた。心揺さぶられる音色。ともすれば、それは人の歌声のようにも聞こえる不思議な音。

 ふと、それに呼応するように、フルートの音色が響いてくる。それは始めこそおそるおそる音色に寄り添っていたが、時が経つにつれて徐々に調和していき、より美しい旋律へとなっていく。それこそ、聞き入ってしまうほどに。

 ――あの人が、奏でているんだ。

 悲しいほどに美しい音楽。だからこそ、この旋律を聞きたくない、と強く思う。

 あの人と自分を隔たる音の本流――聞きたくない。耳に入れたくない。それがたとえ、どれほど美しいものだとしても。

 それでも、この場所を離れて、旋律が聞こえなくなるまで遠ざかってしまうことは、もっと怖かった。流れの向こう岸にいるあの人の姿を見失えば、きっともう二度と会うことはできない。そんな気がしたから。

 この音色を止めることができたなら、彼はもう一度、振り向いてくれるのだろうか。もしも、見向きもされなくなっていたとしたら、どうすればいいのだろう。

 そんなことを思うから、何もできないでいるのかもしれない。それとも、ただ純粋に美しいものを壊してしまうことが怖いのだろうか。自分ではもう、そんなことすらわからなくなっていた。

 だから、流れる旋律の中で、ただ耳を塞いだ。この美しい音色が、早く終わってくれることを願いながら。


     *   *   *


 喫茶店で待ち合わせをしていた。

 待っていたのは花梨と茴香ういかのふたり。待ち合わせの相手は同じ大学の先輩たちだった。

 この日の予定を決めたのは茴香だ。彼女はなかなかに押しが強く、それでいて奇妙なできごとにも全く動じなかったので、あれ以来、花梨は何だかんだと一緒にいることが多くなっている。

 彼女が花梨に会わせたいと言ってきた人物は、何でも姉と同じサークルにいた人たちらしい。

 姉の知人なんて、茴香はいったいどこで知り合ったのだろう。話を聞いたとき、花梨は驚くと同時に戸惑った。しかし、茴香はすでに相手と会う約束まで取りつけていて、結局は、なし崩し的にこの日を迎えることになる。

 待ち合わせの場所に指定された喫茶店は独特の雰囲気を持つ店だった。少し変わった空気を作り出しているのは、外国のものらしい調度でそろえられているからだろうか。暖かな色のランプは薄暗い店内をやさしく照らしている。

 しばらくして、当の先輩たちが現れた。彼女たちは、来るなり花梨の方へ複雑そうな視線を向ける。花梨はそんな二人に深々と頭を下げた。

「来てくださって、ありがとうございます」

 そう言うと、二人は顔を見合わせた。そのうちのひとりが、首を横に振る。

「私たちも気になってたことだから。いい機会をもらったと思ってる。ただ――あまり、楽しい話ではないかもしれない」

 注文を通してそれが届くまでの間、話を切り出したのは先輩の方だった。

「お姉さんのこと、大変だったろうね。私たちも、驚いたんだ。急に大学に来なくなったかと思ったら、連絡もつかなくなって。下宿先にもいないから、実家に戻ったのかなってことになってたんだけど」

 姉が行方不明になったことがわかってすぐに、両親は警察に相談している。姉の知人なら、それについて何かしら聞かれたこともあるのかもしれない。

 先輩のひとりが、花梨に言う。

「あなたが同じ大学に入学したらしいって、実は知ってたんだ。あなたのことは、先輩が――お姉さんがよく話してたし」

 もうひとりが、その言葉にうなずきながらこう続ける。

「それを知ったときは、どうしようかってことになったんだけど……私たちも知っていることは全部話したし、あなたがそのことをどう考えているかわからなくて……余計なこと言わない方がいいんじゃないかってことになって……でも――」

 言い淀んだのを察して、もう一方が口を開いた。

「いつの頃からか、大学で変な噂が流れ始めて」

 その話題に言及したのは茴香だ。

「あたしが聞いた噂は、だいたいこんな感じです。人間関係でいざこざがあって、そのうち亡くなる人が出た。それをきっかけに、その人の周りで不幸なことが起こるようになった。そのせいで、大学を辞めた人もいて――」

 茴香はそこで一旦、話を止めた。そして、ちらりと花梨の反応をうかがう。花梨がうなずくのを確認してから、茴香はこう続けた。

「もっと悪いのだと」

 花梨はあらかじめ茴香からその話を聞いていた。その内容は――

「それは、その人が呪い殺されたから、祟りが起きたんだって話」

 そして、その呪い殺した人物というのは、鷹山花梨の姉である――おそらく、広まっている噂はそこまで続くのだろう。

 先輩たちは、どちらも顔をしかめた。驚いた、というよりは、不快だ、というような表情。やはり知っていたのだろう。そのうちのひとりは、悲しそうな顔でうつむいた。

 もう一方の先輩は顔をしかめて、きっぱりと首を横に振る。

「誰がそんなことを言い始めたのかは知らないけど、エリカ先輩が呪い殺したとか、そんなことは絶対にないと思う。だから――それに関しては、よくわかってない人がおもしろ半分で流した、単なる噂」

 うつむいた先輩は、ただ黙り込んでいる。

「大学を辞めたっていうのも、実はその頃、実際にひとり、大学を辞めちゃった先輩がいて。その人と混ざったんだと思う。ただ――」

 その人は、少し言いづらそうにため息をつく。

「亡くなった人がいたのは本当。それを最初に見つけたのが、エリカ先輩だっていうのも。それから、その――先輩が行方不明になる前のことなんだけど」

 その言葉に、うつむいていた方の先輩が顔を上げた。何かを恐れるように、話の続きを止めようとする。しかし、相手はそれに対して首を横に振ると、そのまま口を開いた。

「確かに、ちょっとおかしな空気ではあったんだ。おかしなこと、というか、偶然が重なった、というか」

 話を制止しようとしていた先輩はそれを聞くと、どこかほっとしたようにうなずいた。

「偶然……うん。そうだね、不幸な偶然」

 そう呟くと、彼女はまたうつむいてしまう。

「うちのサークルに、バイクで事故したやつがいてね。それが始まりだったかな。そのときは、馬鹿したなって言い合ってたくらいだったんだけど。軽い怪我だったし。けれども……」

 押し黙った先輩は、ふいに周囲を見回し始めた。まるで、誰かに聞かれることを恐れるように。無意識のことだったのか、彼女は、はっとして向き直ると、よりいっそう沈み込むようにうつむいた。

 もうひとりの先輩はこう続ける。

「そこから、周りでちょっとした不幸が続いちゃってね。それこそ、始めの頃は嫌な偶然だね、とか言ってたんだけど、そのうち、きっかけは何だったろう、ってことになって……それが――」

「姉に関わることだった、ということですか?」

 花梨の問いかけに、相手は視線を逸らした。

「とにかく、それでエリカ先輩、だんだん気に病むようになって。いなくなる直前かな。とりあえず病院に行こうと思うって。何の病院かは聞かなかったけど、落ち込んでるのは知ってたから、大事ないといいですねって言ったのを覚えてる。でも、そのあと何かあったらしくて。それから、もうどうすればいいかわからない、って。それで、いつからか大学に来なくなったんだ」

 先輩は視線を泳がせながらそう言った。もうひとりは、ずっとうつむいたまま。

「正直言うと、あのときは偶然とは思えないほどに、身の回りで悪いできごとが続いてたから……とにかく何か原因があるんだと思わないと、それこそ気味が悪かったんだと思う。誰も直接、指摘したりはしなかったけど、きっかけのできごとに関わっていて、残っていたのは先輩だけで……だからそれが、エリカ先輩を追い詰めちゃったかもしれない」

 話の内容から、そのときの状況は何となく察することができた。

 事実はどうあれ、その中心には姉の存在があったのだろう。不幸な偶然。それに対する周囲の反応。このふたりには、おそらくそれに荷担した自覚がある。

「だから、私たちがあなたに会いに行かなかったのも、結局、自分たちのせいじゃないって思いたかっただけ。本当に、ごめんなさい」

 先輩はそう言って頭を下げた。花梨は首を横に振る。

「先輩たちのせいじゃありません。言いにくいことを話してくださり、ありがとうございました」

 先輩たちは、どこかほっとしたような表情で花梨を見つめ返した。

 テーブルに運ばれてきた紅茶を挟んで、とりとめのないことを話したあと、カップが空になる頃には早々にお開きの空気になった。先輩たちはあまり長居をしたくない様子だったし、花梨もそれをひき止める気にはなれない。最後に、もし何か聞きたいことがあるなら、と連絡先だけ教えてもらった。

 店の前で先輩たちと別れたあと、花梨は大きく息をはく。そして、となりに立つ茴香に声をかけた。

「ありがとう。お姉ちゃんの知り合いは私も探そうとしていたんだけど、その前に、いろいろとごたごたがあって。まさか茴香が引き合わせてくれるとは思わなかった」

 しかし、茴香は得意げになることもなく、少し釈然としない様子で肩をすくめた。

「友だちから変な話、聞いちゃったからさ。出所はどこだろうって、軽く調べてたの。そしたら、向こうから話しかけてきたんだよね。それだけ、気にしてたのかも」

 確かに、彼女たちは終始恐縮している様子だった。責められることを恐れたのか、あるいは――

 茴香はこう続ける。

「根拠のない噂だけ話されても、花梨が困っちゃうでしょ。だから、ちゃんとした話が聞けてよかったよ」

 大学で自分が避けられていることは、花梨もわかっていた。とはいえ、よくよく考えてみると、少し度が過ぎていたような気もする。それは花梨が姉のことにかまけて周りをかえりみなかったことや、実際にあったできごとを加味しても、あまりにもあからさまだった。

 しかし、それもすべては姉にまつわる噂があったからなのだろう。

 渦中にいない者からすれば、それはおもしろおかしい噂だったのかもしれない。呪い殺された大学生。周りには不幸が起き、大学を去る者も出た。しかも、その妹が新たに大学へ入学してきたという――

 とはいえ、その話には事実と異なる点もある。無責任に広まった噂だからだろう。当事者の先輩たちも言っていた。偶然に続いた不運。あくまでも、たまたま重なっただけの不幸。しかし、それならば、なぜ――

 なぜ、姉の話をするときの彼女たちは、あんなにも怯えていたのだろうか。



 喫茶店の近くには神社があった。

 何か祭りがあるわけでもなさそうだが、人の姿も多くにぎやかだ。少し寄ってみようか、ということになって、花梨は茴香とともに鳥居をくぐる。

 境内に入ると、その理由がわかった。そこかしこに竹が立てられていたからだ。その竹には五色の短冊や飾りがひらめいている。

「七夕か。って、あれ? 今は八月だよね」

 祇園祭を終えて、京都は夏も盛り。花梨は強い日差しに目を細めながら、並べられた竹のひとつを見上げた。

「旧暦の七夕が近いんじゃないかな」

 花梨がそう言うと、茴香は、なるほど、と呟く。

「旧暦かあ。七夕っていうと、どうしても七月七日って気がするけど」

 確かにその印象は強い。ただ、今の暦だと七月七日は梅雨の時期とも重なってしまう。天の川に隔てられた織姫と彦星が出会う――という星の祭りとしては、この国の気候風土に則していて、晴れの日の多い旧暦の方が時期としてはふさわしい気もした。

 花梨は茴香と並んで参道を歩いて行く。夏の暑さの中、さらさらと音をたてる竹の葉の動きは目にも涼しい。色とりどりの飾りと願いを書いた短冊も相まって、それはその場をとても華やかにさせていた。

 ふいに茴香が、あ、と声を上げる。境内にある七夕の竹の、そのひとつを見上げている女性に目をとめたようだ。

「知り合い?」

 花梨がたずねると、茴香はうなずく。

「あたしのバイト先の、社員さん」

 そう言うと、茴香はその人のところに近づいていった。

 一緒にいることが多くなってから気づいたことだが、彼女はとても顔が広いようだ。そして、どこか人懐こいところがある。

 近づいてくる茴香に気づいたのだろう。その女性はゆっくりと振り向いた。

「あら、茴香ちゃん。お友だちと一緒?」

 二十代後半くらいの年の、落ち着いた雰囲気の女性だった。炎天下に日傘も差さずに立っていたせいか、どこかぐったりとして疲れているようにも見える。大丈夫だろうか、と花梨はひそかに案じた。

 茴香は彼女に、こうたずねる。

「何か、願いごとでもあるんですか?」

 その人は少し困ったような顔をすると、こう問い返した。

「……茴香ちゃんは? あっちの方で、短冊に願いごとが書けるみたい。行ってみたらどう?」

 茴香はそれを聞いて、軽く考え込んだ。

「うーん……願いごと、かあ。あたし、実は暑いの苦手で。正直言うと、今はこの暑さを何とかしてくださいって書きたいくらい」

 その答えに、その人は苦笑する。

「大丈夫? 無理はしないでね。でも残念ながら、七夕はもともと、織姫にちなんで手芸の上達を願うものだったの。そこから、技芸や手習いごとの上達を願うものになっていった。だからたぶん、一番ご利益があるのは、そういった願いごとかな」

「手習いごと、か……。あたし、そういうのは全然」

 茴香はそう言うと――花梨はどう? と振り返った。

 上達を願うような技芸や手習いごと。残念ながら、今の花梨には、とっさには思いつくようなものは何もない。ただ、少し思い返してみて、こう答えた。

「中学生くらいまでは、ピアノを習ってたかな」

 茴香は、へえ、と感心したような声を上げる。そして、何かを思い出したように、女性の方を振り向いた。

「そういえば、ピアノの先生をやってるって、前に話してませんでしたっけ」

 茴香の言葉に、花梨もまた、その人の方へと視線を向けた。しかし、彼女の顔に浮かんでいたのは思いがけない表情だ。何かを怖がっているような、疎んでいるような――

 彼女は花梨たちがけげんな顔をしていることに気づくと、はっとして表情を取り繕った。

「そんな、先生なんて。知り合いの子に、少し教えているだけ……」

 やっとのことでそう言うと、その人は思わず、といった風にため息をつく。明らかに、何か心配ごとがありそうだ。しかし、初めて会ったばかりの花梨には、それをたずねることはどうにもはばかられた。

 茴香の方はそのことに気づいているのか、いないのか、軽く別れを告げると、花梨を連れてその人から離れていく。遠ざかった姿をちらりと振り返ると、彼女はまだ、思い詰めた様子でひとり佇んでいた。

 表情の変化は一瞬のことだ。気のせいだったのかも知れない――花梨はそう考えたのだが、その人の姿が見えなくなった頃になって、茴香はこんなことを言い出した。

「何か、様子がおかしかったね。前に話してたときには、音楽が好きって言ってたんだけどな。ピアノのことも、楽しそうに話してくれたのに」

 ではやはり、あれは普通の反応ではなかったらしい。茴香は心配そうな表情で、その人のいた方を振り返った。

「何かあったのかな?」

 気づかわしげではあったが、茴香も今さら、戻って問い詰めるようなことはしなかった。しかし、このことはおそらく、これだけでは終わらないだろう――花梨には、そんな予感がする。

 そして実際に、花梨がその理由を知るのは、そう遠いことではなかった。




 それから数日後のこと。その人は、茴香から花梨を通じて、槐の店に助けを求めることになった。

 神社でのできごとが気になった茴香は、次に会ったとき、彼女にそれとなく理由を聞き出したらしい。話を聞いた結果、茴香は――自身が経験したように――音羽家の石の力を借りられないか、と考えたようだ。

 悩みごとの原因は怪異。その人は普通ではありえないできごとに出会い、どうすることもできずに思い悩んでいた――とのこと。

 そういった経緯で、花梨は茴香とともにつき添いとして槐の店を訪れていた。あらかじめ槐には話を通してあるので、花梨が行く必要もないのだが、本人が同行を希望したためだ。

 花梨は槐のことを知っているからそうは思わないが――いくら困っているとはいえ、知らない人からすれば、ひとりで訪れるには、ためらわれる店なのだろう。怪異の悩みを聞いてもらえる、などと言われれば、なおさら。

 それでも、そんな不確かな話にすがらなければならないほどに、彼女には為す術がなかったようだ。花梨たちが同席して話を聞くことについても、特に問題はないと言う。本人がそう言うなら、拒む理由もなかった。とはいえ――

 実際に、彼女の悩みごとは、石たちが力になれるようなことなのだろうか。

 石たちの力が間違いないことは、花梨もよく知っている。それでも槐の判断を仰がずにそれを断言できるほど、花梨は怪異のことについてはよく知らなかった。

 何にせよ、こういう話で花梨が頼れるのは槐以外にはいない。そうでなくとも、まずはくわしい話を聞いてもらわないことには始まらないだろう。

 槐の店には、いつもどおり迎え入れられる。座敷の真ん中にある座卓を挟んで花梨は茴香と――そして、その人とともに槐と向き合った。椿は不在。桜は給仕を終えてから、いつもどおり槐のそばに控えている。

 話を切り出したのは、槐だ。

「何でも、身の回りの奇妙なことで困っていらっしゃるとか」

 槐の言葉を聞いて、その人は意を決したように口を開いた。

「はい。何から話せばいいのか……その、音が聞こえるんです。音、というか音色が」

 槐はふむ、と相槌を打つ。

 出だしこそたどたどしかったが、徐々に落ち着いてきたのだろう。その人はひと呼吸置くと、淀みなくその先を話し始めた。

「とても美しい音色なんです。始めは笛の音かな、とも思ったのですが、どうも違うような気もするし、確かなことは言えません」

 槐はこう問いかける。

「笛の音……ですか。その音に、何か困ることが?」

「それ自体は、特に害はないのかもしれません。不快な大きさの音でもありませんし、絶えず聞こえるという訳でもないようです。ただ――」

 彼女は、どこか寂しげな表情を浮かべた。

「何と言えばいいのでしょう……その音色に魅入られてしまった人がいるんです。困っていること、というのは、そのことで」

 槐は先を促すようにうなずく。

「知り合いの小さな女の子に、ピアノを教えていて……それで私、度々その子の家に通っています。音が聞こえるのも、その周辺で。魅入られてしまった人というのは――そのおとなりに住んでいる方のことです」

 そこまで言ってから、彼女はふいにうつむいた。

「その方は、フルートの奏者として楽団にも入っていた方なんですが――今は少し休んでおられて……」

 その先を、彼女は言い淀んだ。話そうとはしたものの、怪異とは関係ないことだと判断したのだろう。軽く首を振ってから、うつむいていた顔を上げる。

「とにかく、彼には落ち込むことがあって、調子が悪いことは知っていました。ただ本人が、今はそっとして欲しいというので。それでしばらく、こちらから強く働きかけるようなことはしなかったのですが……ある日、ピアノを教えているその子が、となりの家の――その、彼の様子がどうもおかしいと言い出して」

 彼女はそこで、深いため息をついた。

「ずっと、フルートを演奏しているのだそうです。正体のわからない、その音が聞こえている間は、ずっと……まるで熱に浮かされたみたいに」

 そう口にした途端、その人の表情が変わる。それは花梨が神社で会ったときに見たものと同じだった。何かを怖がっているような、疎んじるような――

「なるほど。およその状況はわかりました。ただ、今のお話だけだと、その音が怪異だとする根拠は弱いように思われますが……」

 槐の言葉に、その人は、はっとしたように表情を取り繕った。

「ええ。そうですよね……その、音色についてなのですが、ピアノを教えている子のお母さんも気になったようで、近所の人にそれとなく聞いたことがあるんだそうです。しかし、誰もそんな音は聞いていない、と。どうにも、その音が聞こえると気づかなければ、全く聞こえない――のか、気づいていないのか。とにかく、認識しないと、それとわからないようなんです。もともとは、その教えている子のご家族も、音色の方は聞こえていなかったらしくて。それこそ最初は、となりはずいぶん熱心に練習をしているな、としか思っていなかったそうです」

 出所のわからない美しい音の怪異。

 花梨はふと、戻橋のことを思い出した。どこからか聞こえてくる声。あのときの柚子が聞いた声は、戻橋の力を借りてトルコ石が語りかけたのだ、と針鉄鉱は言っていた。

 しかし、よくよく考えてみると――そもそもの話、戻橋の力とは一体何に由来しているのだろうか。槐から聞いた逸話によると、占いの声は陰陽師の安倍晴明が橋の下に隠した式神によるものだ、ということになっていたが――

「それから、教えているその子が、私を気づかって音の出所を探してくれたこともありました。でも、話を聞いて回っても、どこも違う。近くに唯一、空き家になっているところがあって、そこかと思ったそうなんですが、そこも――そこは平屋なのですが、外からのぞいても、がらんとしていて何もなかったそうです。危ないので、これ以上はやめるように、と言い聞かせましたが」

 彼女はそこで一旦、話を区切った。相手の反応を見定めようとしたのだろう。

 確かに、彼女の語ったことは奇妙なできごとではある。しかし、今まで聞いた話だけなら、それほど深刻な問題ではないようにも思えた。

 そんな周囲の心の内を感じとったのだろう。その人は、力なく苦笑した。

「この話だけなら、たまたまどこからか音楽が聞こえてくる、くらいにしか思えませんよね。ただ彼は、本当にずっと……ずっと、その音色に心奪われているんです。演奏しているときはもちろん、その音が聞こえないときですら、もう、話しかけても上の空で。私は――」

 その人は、そこで言葉を詰まらせた。思わず、といった様子で、茴香がその背に手を伸ばす。彼女の憂いはどうやら、音のことよりむしろ、魅入られてしまった彼のことにあるらしい。

 それにしても、どうしてその彼だけがそうなってしまったのだろうか。

 押し黙ってしまった彼女を気づかって、茴香が代わりにこうたずねた。

「聞こえない人もいるくらいなんだから、人によって、その音の影響も違うんじゃないでしょうか? よくわかんないけど、その人にだけは、危険なものなのかも」

 茴香のその言葉に対して、彼女はどこか複雑な表情を浮かべている。花梨は答えを求めるように槐の方へと視線を向けた。

「実際に、その音を聞いてみないことには、何とも。ただ――」

 槐はそう言って、何かを思い出すように軽く目を伏せた。

「笛の音、そして、その音色を交わす、ということなら、思い浮かぶものがあります。あれは確か、朱雀門すざくもんの――」

 それを聞いて、言葉を詰まらせていたはずのその人は、え、声を上げた。

「どうして場所がわかったんですか? 確かに、音が聞こえるのは、その辺りで……」

 その反応に、槐は苦笑する。

「いえ、すみません。私が言いたかったのは、朱雀門の鬼の話と似ているかもしれない、ということなのです」

「鬼……?」

 その人は、虚をつかれたように呟いた。槐はうなずく。

「鎌倉時代の説話集『十訓抄じっきんしょう』にある話のひとつです。都一の笛の名手である源博雅みなもとのひろまさが月夜に朱雀門で笛を吹いていたところ、この世のものとは思えないほどの笛を吹く者が現れます。何度か笛を合わせるうち、互いの笛を交換することになったのですが、そのまま月日は過ぎ、源博雅も亡くなり、しばらく笛を吹きこなすものがいなくなる。その後に、帝が新たな笛の名手に朱雀門で笛を吹かせたところ、それに応える声があり、それが鬼の笛であることがわかった、という話です」

 唐突な話に、その人は呆気にとられたような表情を浮かべた。まさか、鎌倉時代から伝わる、それも鬼の話が出てくるとは思わなかったのだろう。

 しかし、確かにそれは、彼女の話と一致する部分もなくはない。この世のものとは思えないほどの笛の音。それを吹く者の正体は、鬼――

「朱雀門の鬼というと、もうひとつ、双六で賭けをする鬼という話もあるのですが……何にせよ、その音の正体が本当に鬼なら対処も容易かもしれません」

「容易……でしょうか。相手は鬼ですよね?」

 その人は、半信半疑ながら、その話に乗ることにしたらしい。少し疑わしげに、そうたずねる。

 槐はそこで、何かに気づいたように目をしばたたかせた。その横では、口には出さないものの、なぜか呆れたような顔で桜が肩をすくめている。

 槐は仕切り直すように、軽く咳払いをした。

「そうですね。鬼、というものは、おぬ、が語源とされているとおり、もとより目には見えない、得体の知れないものを指してはいました。今だと、いわゆる妖怪といった、化け物のように理解されているのでしょう。しかし、この物語に登場する鬼が風流を知る者として書かれているとおり、心を介さない化けものというわけではない。そして、鬼という名はその時代のまつろわぬ者たちや、異分子が負わされた名でもあります。今回のことも、そういった鬼が関わっている可能性もありますが――」

 その人は、おずおずと首を横に振った。

「どうでしょう。あの音色は確かに美しいのですが、心が入っていない、といいますか、淡々としていて、とても心ある演奏者によるものだとは――少なくとも、私にはそう思えません」

 槐はその答えに、わかりました、とうなずいた。そして、おもむろに席を立つ。少々、お待ちください、とだけ言い残して。

 そうして次に現れたときには、槐の手には石が――手のひらに収まるほど大きさの、緑の石が乗せられていた。

 槐はそれを彼女へと差し出す。

孔雀石くじゃくいしです。英語名であるマラカイトはゼニアオイという植物のギリシャ語名が由来でして、その名のとおりあざやかな緑の鉱物です」

 それは、丸みを帯びた突起が不規則にある、不透明な緑の石だった。表面は照りが見られるほどつるりとしているが、それでいてベルベットのような光沢のある部分も見られる。

「銅の錆である緑青ろくしょうと同じ成分の石で、磨くと緑色の濃淡で縞模様が出てきます。それが同心円状にもなり孔雀の羽に似ていることから、日本では孔雀石の名がつきました。加工しやすい石ですので、昔から宝石として、あるいは顔料として利用されています」

 その人はそれを受け取りつつも、はあ、と生返事をした。今までの話の流れで、どうしてこうなったのか、と戸惑った様子だ。

「こちらの石に、その音をお聞かせ願えますか」

 槐の言葉に、その人は助けを求めるように困った表情で振り向いた。しかし、視線の先で、茴香が力強くうなずくものだから、彼女は無理矢理にでも納得したようだ。わかりました、と答えながら、その石を軽く握りしめる。

 そうして、彼女は店を去っていった。孔雀石を手にして――


「今日はお時間いただき、ありがとうございました」

 孔雀石を渡されたその人が去ったあと、花梨は槐にそう声をかけた。茴香は彼女につき添って、すでに店を辞している。

「この件、解決するでしょうか」

 間接的にではあるが、この店をすすめたこともあって、花梨はそのことを気にしていた。さすがに部外者である自分が、これ以上首を突っ込むわけにもいかない――とはいえ、あとは待つだけというのも、どうにも不安になる。

 しかし、槐は慣れた様子でほほ笑んだ。

「孔雀石に任せてみましょう。彼の力で難しいようでしたら、あらためて考えてみます」

 槐の言葉に花梨はひとまずうなずいた。

「それにしても、槐さんは石のことはもちろん、怪異というか、その逸話にもくわしいんですね」

 花梨がそう言うと、槐は少し寂しそうにうなずいた。

「そう、ですね。私の父が、民俗学の研究者だったこともありまして。おそらく、自然と」

 槐はいつの日にか、亡き父――と言っていた気がする。花梨は思わず黙り込んだ。

「おそらく父は――石に秘められた力のことを知りたかったのだと思います。曾祖父は必要以上のことを残してはくれませんでしたから。祖父もよくわかっていないようでしたし――祖父の関心はむしろ石そのものの方にあったようで、研究者というわけではありませんが、鉱物についていろいろと書き残してくれました。そういった知識は、祖父譲りと言えるかもしれません」

「槐さんが石と怪異のこと、両方にくわしいのはそのためだったんですね」

「そうですね。こんな商いをしていますから。曾祖父の残した石たちと、祖父と父の残した知識のおかげで、今の私はあるのでしょう」

 そう言った槐に、花梨は思い切ってこうたずねる。

「今回のことは、朱雀門の鬼が関係しているのでしょうか」

 それとも、そうではないのだろうか。あのときの槐は、まるで鬼が実在するかのように話していた気がする。

「関係しているとも、していないとも言える――と私は考えています」

 曖昧な答えだ。花梨の戸惑いが伝わってしまったのか、槐は苦笑する。そして、珍しく自信を欠いた様子で、こう話し始めた。

「これは、あくまでも私の推論に過ぎないのですが――怪異というものは、過去の残滓のようなもの、ではないかと思っているのです。ですから、その時点であるかないか、と問われれば、それはない。しかし、在ったか、ということならば、間違いなく在った、あるいは在ったとされるものなのです」

 漠然とした表現だった。そのことは槐も自覚しているようだ。どう説明するべきか迷うように、しばし考え込む。

「そうですね……戻橋の話を例にすると――あの場所には確かに橋占が行われていた、という逸話があります。かといって、今あの場所でこぞって橋占を行うようなことは、おそらくないでしょう。しかし、そのことを心にとめた誰かがある日、戻橋を渡ったとする。そのとき、たまたま耳にした話し声が、その人の行く末を当ててしまった。すると、戻橋だからだ、ということになる。もし、それが何の歴史も逸話もない橋だったとしたら、それは橋による予言とはならない。あるいは、話し声など端から気にもとめないかもしれません。そういう意味では、戻橋にはすでにそういう背景があるのです」

「でも、柚子さんはそういったことには無頓着な方だったようですが」

 槐はうなずく。

「人の意識を越えて作用する、ということは、そこに在ったという事実がそれだけ強いということなのだと思います。その事実を内包する場や物などが、それだけの力を持っているのだと。言わば、それが怪異。鳥辺野の葬地としての記憶も、戻橋の逸話も、朱雀門の物語も――例えば、どこそこで幽霊が出る、といった噂などもそうでしょう。人はその場所で、時間を越えて怪異を見出してしまう。ですから、見える人には見えるし、見えない人には見えない、ということが起こり得るのです」

 場所や物が力を持つ、ということは、この店の石たちが力を持っていることと、近い理屈なのかもしれない。槐の話を聞きながら、花梨はそう考える。

「朱雀門の鬼の物語が、あの場に影響を与えた可能性はあるでしょう。しかし、あれはおそらく、朱雀門の鬼の笛の音そのものではありません――そうなると、心の持ちよう、ということにもなってくると思うのですが、怪異とは、そもそもそういうものではないかと、私は考えます」

 心の持ちよう。そう言われて、花梨が思い浮かべたのは、姉のことだった。偶然の不幸。続いた不運。しかし、その渦中にあった人たちにとっては、それは確かにあった呪いだったのかもしれない。

 だとすれば、姉の周囲で起こったことは――


     *   *   *


 あの店を訪れて数日後。緑の石を手に、あの音色が聞こえるだろう場所に立っていた。

 あの人のいるところではない。いつもピアノを教えている子の家の、ピアノが置かれた応接間だ。

 軽く事情を話して、しばらくの間はひとりにして欲しいと頼んである。この家の人たちは、皆それを受け入れてくれていた。

 そうして自分はこの場所で、あの音が――聞きたくもないあの音が響くのを、ひとり待ち続けている。

 じりじりと苛まれるような時間。あの奇妙な店で渡されたあざやかな緑の石を、無心で見つめて過ごす。そうしないと、暗い感情に沈み込んでしまいそうだった。しかし、いくらそうしていても、決して心が落ち着くということはない。

 自分はどうしたいのだろうか。どうすることが、正しいのだろう――

 あの店の主人も言っていたように、音だけならば、これは害のあるものではないのかもしれない。結局のところ、この音を疎んじているのは、今のところたったひとり。あの人の心を奪われてったことで苦しんでいる、自分だけ――

 実際に、どこからか音色が聞こえてくるのは本当だ。しかし、それに人を狂わすような何かがあるかはわからない。なぜなら、あの人はひとりで演奏しているとき、本当に満ち足りた表情をしていたのだから。

 彼が仕事で悩んでいたことは知っていた。求める理想と現実との解離。それは自分にはどうすることもできないことだった。できることは、ただ寄り添うことだけ。

 そうして、彼は次第に塞ぎ込んでいった。為す術もなく。

 しかし、あの音色が聞こえるようになってから――それに応えて彼が演奏をするようになってから、彼の様子は一変した。それも、傍目で見れば良い方向に。

 だとすれば、この音色をどうにかしようと思うことは、自分本位の考えに過ぎないのだろう。自分はそれをわかっていた。わかっている上で、そうしようとしている。

 しかし、こうも思う。あの音色が彼を暗い穴の底から救い出してくれるというなら、疎むべきではないのではないだろうか、と。彼のことを、本当に思うなら。たとえ、その代償として、自分のことがかえりみられなくなったとしても。

 知らず、両目に涙が浮かんだ。

 心の底にあるものは、そんな潔い感情などではない。彼に忘れられるなど、耐えがたかった。たとえ、そうすることが彼を救うことなのだとしても。

 とはいえ、無力な自分の存在など、どれほどの価値があるというのだろう。それでも、この音色を止めようというのか。それは、彼にとって――自分にとって、正しいことなのだろうか。自分が本当に望んでいることは――

 思わず深いため息をついた、そのときだった。

 ふいに、どこからともなく音が聞こえてくる。歌うようにやわらかで、それでいて物寂しげな旋律。その音色は、やはり思わず耳を澄ましてしまうほどに美しい。

 呼応するように、フルートの音色が響いてくる。思わず目を閉じた。この旋律の中に、あの人の心がある。もう自分には届かない。遠い遠い、この音の流れの向こう岸に。

「なるほど。これがその、魅入られるほど美しい音、か」

 すぐ近くで、聞いたこともない声がした。突然のことに、ぎょっとしてまぶたを開ける。

 目の前に人影があった。そこにいたのは、見知らぬ青年。

 一瞬、彼こそが笛を吹く鬼なのだろうか、と思う。ここで何もできずに立ち尽くしている自分を、嘲笑いに来たのかと。

 しかし、その青年が何かを奏でている様子はない。むしろ、目を引いたのはその衣装だ。青年がまとっているのは、あざやかな緑色の豪奢な着物。これでは、まるで――

 ――まるで、孔雀のようだ。

 はっとして、手にしていた石に視線を向ける。緑の鉱物は、変わらずそこにあった。わけがわからず戸惑っていると、青年はこう続ける。

「この旋律は確かに美しい。ひとつは、この世ならざるもの。不変的で非の打ち所のない音色。もうひとつは、この世のもの。ゆらゆらとたゆたい、それゆえに人の心を揺さぶる音色。それで、君はこの私にいったい何を望むのかな?」

 そうたずねられても、何も答えられなかった。青年は問いを重ねる。

「この演奏をやめさせたい?」

「……わ、わからない」

 やっとのことで、そう口にする。そうすると、せきを切ったように言葉があふれ出した。

「どうすればいいか、わからないの。彼のためを思えば、この音色を止めない方がいいのかもしれない。その方が、あの人にとってはいいことだと思うから。でも私は、彼がこのまま、私のことを忘れてしまうことが怖い。それは私のわがまま。だから、私は――」

 青年は、意外そうに目を見開く。

「おや。私はてっきり、囚われた愛しき人を取り戻さんとして、ここに呼ばれたものだと思っていたのだが。では君は、このまま彼を女王のとりこにしておくつもりかな? そうして、ここで待ち続けると? それはそれで美しい心がけかもしれないが、少々悲劇的だね。私の好みじゃあない」

「女王……?」

 笛を吹いているのは、鬼ではないのだろうか。呆気にとられて、次の言葉を見失う。青年はこう続けた。

「美しさ、というものは、そもそも脆く儚く危ういものだ。だからこそ、美しい。そして揺れながらも、それを追い続けるのが人というもの」

 その言葉に顔をしかめて、大きく首を横に振る。

「だとしたら、美しさを求める彼に、私はきっと必要ない」

「何を言う。君が彼のことを思う気持ちが、この音色ほどには美しくはないとでも言うのかい。もう少し自信を持つといい。美しさとは、多少強引でも許されるものだ」

 青年はそう言うと、流れる旋律を追うように宙に視線を向ける。

「まあ、この私がこんな役回りをするのは、皮肉めいているかもしれないが」

 そう呟きながら、青年は何かを取り出した。それを両手で口元に構えてから、自信ありげに笑う。

「さあ! 愛しき人を、女王から取り戻そうではないか!」

 芝居がかった口調で、そう言い放った。かと思うと、青年は口元のそれに息を吹き込み始める。流れる旋律に新たな音が加わった。この音色は――

 ――しょうの音?

 笙。雅楽に用いられる管楽器のひとつ。細い竹管を縦に配置した特徴的な形をしていて、吹いたり吸ったりすることで音が鳴る。

 青年が奏でているのは、間違いなく笙だった。

 力強い音色。しかし、その音は流れている旋律を壊すことなく、自然と合わさり響き渡る。

 正体の知れない音に、フルートと笙。奇妙な合奏だ。だが、不思議と破綻はしていない。それどころか音が増えたことで、華やかさが増したようにも思える。

 決して、これ以上は手を加えられないと思っていた――完璧だと思っていたあの音楽が、いとも簡単に変わってしまった。しかし、その美しさは決して損なわれてはいない。

 ――今なら、あの人に届くだろうか。

 ふいに、そう思う。手にしていた緑の石――孔雀石を置いて、ピアノへと向かった。おそるおそる蓋を開け、白と黒の鍵盤に指をのせる。

 この旋律に加わることは、とても怖い。しかし、ここで何もしなければ、このままだ。そう思って椅子に腰かけると、大きく息をはいてから、その流れに身を投じた。

 拙い演奏。この美しい旋律に寄り添うには、なんて心許ない。

 しかし、それでもピアノを弾くことはやめなかった。傍らから流れてくる笙の音に力を得て、ただひたすらに音を奏でていく。

 この世のものとは思われない音楽の中にいながら、彼の求める美しさについて――あるいは彼自身へと思いを巡らせた。そうして、あらためて強く思う。彼とともにいたい。つらくとも、たとえ、ときに自分の無力さに打ちひしがれようとも。

 そう願ったとき、この奇妙な音楽のフィナーレが、ふいに訪れた。笙とピアノとフルートの音が止む。正体の知れない音が物悲しく残されたが、その音色にはもはや恐れていたときほどの美しさはなかった。その音も、やがて遠ざかるように消えていく。

 そして静寂が訪れた。旋律の余韻に言葉を失っていると、緑の青年が口を開く。

「さて、彼のところへ行かないのかい? 愛しい人に会える。ただ、それだけで幸いだ。――ああ、そうだった。今は七夕の時期か。では、私はクジャクではなく、カササギだったな。何にせよ、もはやどんな流れも君たちを隔てはしない。さあ、行っておいで」

 その言葉が染み渡っていくにつれて、ただ純粋にあの人に会いたくなった。きっとそれが、自分の本当の望み。

 ピアノの前から離れて、部屋を出る。そうして、かけ出した――あの人の元へと。


     *   *   *


 あれからしばらくして、その人は再び槐の店を訪れた。

 例の件は解決したらしい。お礼を言いたいからと、花梨も同席することになった。自分は何もしていないが――良い結果になったのなら、と花梨はひとまずほっとする。

 そうして、孔雀石を渡したときと同じ場面が再現されることになったが、ひとつだけ明らかに違うことがあった。それは、怪異に――正体のわからない美しい音に悩まされていたあの人が、晴れやかな表情をしていたことだ。

「ありがとうございました。あの音も、もう聞こえなくなりました。きっと、この石のおかげだと思います」

 そう言って、彼女は孔雀石にちらりと視線を向ける。

「助けになったのなら幸いです」

 槐がそれ以上のことを言わないことに対して、その人は何か言いたげな表情を浮かべた。しかし。何を言っていいかわからない、といった様子だ。

 孔雀石は、この人の前に姿を現したのだろうか。しかし、役目を終えた石たちは、もはや多くを語らない。もしかしたら彼女は、それが夢か現かを判じかねているのかもしれない。

「笙の調律には――」

 ふいに、槐がそう言った。

青石しょうせきといって、孔雀石を硯ですったものが塗られているのだそうです」

 何のことだろう。花梨にはわかるはずもなかったが、その言葉にその人は目を見開く。そして、おそるおそるこうたずねた。

「もうひとつ、気になっていることがあるのですが」

 槐はいぶかしげに首をかしげる。

「何でしょう」

「あの音は、鬼が奏でているものだと思っていました。そういうお話でしたから、しかし彼は、その……それを女王、と――」

 女王。それが、音の正体なのだろうか。しかし、槐は困ったような表情を浮かべながら苦笑する。

「いえ。それはおそらく、たとえです。『石の花』のことを言ったのでしょう」

「『石の花』?」

 思わずといった風に茴香が呟くと、槐はうなずいた。

「マラカイトの産地としても有名なロシアのウラル地方の民話集『孔雀石の小箱』にある民話です。山の女王の庭にある美しい石の花に心奪われた石工いしくの青年は、婚約者を置いて姿を消してしまう。しかし、婚約者は青年の帰還を信じて、最後には山の女王から青年を取り戻す――そんな物語です」

 それを聞いたその人は、孔雀石をじっと見つめる。そして、すべてを受け入れたように、やさしくほほ笑んだ。

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