ギレン(偽恋)

オカザキコージ

ギレン(偽恋)

ギレン

―偽りの恋の先にあるもの―



 「どう、変わりない?」 

 「…………………」。

 女は医師の問いかけに虚ろな目で顔を上げるだけだった。焦点が合っていない患者はこの病院ではめずらしくなかった。白衣を着崩した女医は彼女から視線を外し、机に向き直ってカルテに何やら書き加えた。「お大事に。お薬、出しておきますね」。せき立てるように言い放つと、そのまま立ち上がり奥の部屋へ消えていった。残された女は看護師に支えられ、よろめく足取りで診察室を後にした。

 じっくり入院して治療する必要があったが、女は監禁されるのを嫌い通院していた。少しずつ薬の量と種類が増えていくことに不安を感じていたが、医者の処方通り服薬を続けた。複数の病名を告げられ、神経内科も科目にある医院から精神科の専門病院へ回されたことで、そう簡単に直る病気ではないのだろうと感じていた。原因不明のふらつきが起こるたびに不安になり、死ねば楽になるだろうな、と女は床に屈みこみ、何度も思った。自業自得、日ごろの行いが悪いから神様が罰を与えた? そんな風に考えれば少しは気が楽になった。

 男を騙すのが仕事だった。第三者的には確かにそうだろうし、女もそう意識しないわけではなかった。だが、それがすべてではないし、女にも言い分があった。幾分は、相手を好きにならなければ成り立たない、心のどこかで都合よくそう納得させていた。好きになるとはどういうことか、少女のようにその意味を考えたのは、最近になってからだった。本当に好きになってはいけないし、そうなりかけたら一線を越えないよう感情をコントロールしなければならなかった。当時は意識的にそうしていたわけではなかったが、そういうことだったのだと最近、思うようになった。

 10代の女の子でもあるまいし、好きの意味を真剣に考えるのは気恥ずかしかったし、それにはあまりにも経験を重ね過ぎていた。ただ、どんな男に対するにしても、やはりその感情が仕事のコアだった。好きにさせること。それには好きにならなければならなかった。二律背反する、こんな陳腐な論理に真実があった。どれだけ相手を惹きつけられるか。キャッチ・アンド・リリース。好きにさせるのも突き放すのもタイミングが肝心だった。内実はどうでもよかった。相手の思いに反比例して表層的に徹するのが必定だったし、偽りの愛情にコストはかからないと高をくくっていた。だが、釣った魚にえさをやらないわけにはいかず、そこがこの生業の妙というか、醍醐味と言えなくもなかった。

 誰しも愛情から利益を得ることに違和感、嫌悪感を覚えるだろうし、ビジネスライクに構えること自体、罪深い。損得勘定が馴染まないどころか、そもそも、人を好きになるとか、愛するとか、そうした行為が成り立たない。無償の愛がころがっているとも思わないが、その底にどこか透明なものがないと人はひっかからない。こうした論理を女は考えることなく体得していたし、自然と出来る素養を備えていた。ただ、それを生業にするには強靭な精神力が求められたし、よく言われるように悪魔に魂を売る必要があった。男をもてあそび金品を巻き上げる。ドラマや小説のようにスマートにはいかなかった。

                 ◆

 「11番の方、こちらへどうぞ」

 女は派手さを抑えたツイードのスーツ姿で司会者の指示通り、着席した。目の前の席は空いていたが、すぐに冴えない男たちが代わる代わる座っては立ち去って行くだろう、文字通り流れ作業のように、何の変哲もない部品のごとく。時間制限はあったが、二言三言、簡単に交わすあいさつ程度の会話で大体はつかめた。プロフィールよりも正面に座ったときの印象、挙動が何よりも参考になった。落ち着きのなさとか、虚勢の張り具合とか、空回り気味の積極さとか。席に座って向き合って、どう変化するか、本人も意識していないだろう、瞬きの回数とか、貧乏ゆすりとまではいかない、微妙な脚の動きとか、しぜんと目に入ってくる現象を判断基準の重きに置いた。

 「休みの日は何をされていますか」

 どんな質問でもよかったが、女は決まってこう話しかけることにしていた。こういう場面で相手が想定する会話の典型に入っているだろうし、返って来る答えもある程度予想でき、とりあえず流れをつくるにはちょうどよかった。あえて仕事やキャリアに関する話を避けて、相手が受けるだろう印象も可もなく不可もなく、少しの好感を与える程度に抑えた。加えて、こうした場に来るたいていの男は視線を合わせるのが苦手のようで、こちらから凝視しないよう気をつけた。なかには気の強そうな女を好む男もいたが、多くはうつむき加減で控えめな感じを求めた。気合の入り過ぎた、よく喋る女は基本アウトだった。

 「男性の7番の方と女性の13番の方、そして…」

最近ではめずらしくなくなったとは言え、四十も半ば過ぎた独り身に、男の魅力を求めるのは酷に思えてならなかった。こうしたお見合いパーティーに来ること自体、女の方もそうだけど当世の恋愛トレンドに対応できなかった証し、その敗北感をどこかに背負って引きずって恥を忍んで、という感じがどうしても表情なり所作なりに出てしまっていた。こうした自信のなさ、卑屈感が会場全体を覆う特異な雰囲気は何とも言えず、これが仕事でなかったら自己嫌悪に陥って、回数を重ねるごとに神経をやられて、やがてうつ症状に陥り、挙句の果ては自殺まで…。そう考えると、男女を問わず出席する者たちに哀切感、憐憫感を覚えずにはいられなかった。

 「来月はハイキングを予定しております。ふるってご参加を…」

参加者の多くは引き立て役に終わってしまう。成立した3、4組のカップルを残し、今日もふるわなかった男と女が引き揚げていく、また一つ、惨めな敗北感を抱いて。帰りのエレベーター内はお通夜のように誰もが暗い表情で下を向き、死を覚悟している者もいるように感じられるほど。次がある、と励まされるものなら相手を睨みつけ殴りたくなるだろう。1階に着き、まだ明るい午後に放り出される男と女。誰に話しかけることもなく三々五々、重い足取りで最寄りの駅へ向かっていく。

 「もしよければ、お茶でも行きませんか」

ここから女の仕事が始まる。つい先ほど、魅力なしと烙印された男たちを誘う。普通の女にはできないし、多くの男は不審の目を向けてくる。「女性の方から声をかけるのも、おかしいかなと思ったのですが。会場ではお話できなくて…」。そう言うと、このあと予定のない男たちは好奇心もあってか、多くが話に乗ってくる。ただ、どんな男でもいいという訳ではなかった。しっかり見定めた上で控えめに声をかける。“こんなことは初めてなのですよ…”。そう思わせる自然な雰囲気を醸し出して。

 「緊張しますね、初めてだったので」

駅前の喫茶店に入り、お見合いパーティーを振り返る。今日の男は、高学歴そうな細面で銀縁のメガネ、理工系かもしれない。“いいのが釣れた”。女はそう思いながら恥ずかしげにコーヒーカップに口をつけた。男は上場企業の研究室に勤めていた。女性の方から誘われたのは初めてだったかもしれない。2年ほど前から、こうしたパーティーに参加しているという。30歳半ば、両親からせかされて、という感じに見えた。言葉少なだったが連絡先を交換して、ちょうど1時間で別れた。

 喫茶店を出ると、西の空が夕焼けに染まっていた。女は見上げることもなく、すぐにタクシーを拾った。行き先を告げて目をつむりシートに身体をあずけた。ときに無表情で車窓に目をやったが女の目には何も映っていなかった。すべてが空ろに、色も音もなく、ぼんやりとした無機質な空間が広がっているだけだった。時間の感覚を戻すには強く自分を意識しなければならなかった。タクシーがマンションの前に止まった。女は開け放たれたドアにつかまり鈍い動作で外へ出た。広いエントランスの隅にあるソファーで少し休もうかと思ったが、そのままエレベーターまで何とかたどり着き、重い身体を引きずるようにやっと部屋にたどり着いた。


 その女は、おのれが精神を病んでいるとしっかり意識していたが、それをどうこうしよおうとは思わなかった。職業柄、正常と異常の境が分からなくなっていたし、二つの領域に大きな差があるとも思っていなかった。そのあいだを行ったり来たりすることが仕事の一部と思い定めていた。この世が異常でない確信はなかったし、ましてや自身が正常だと言い切れるわけがなかった。そもそも精神を病むこと自体、異常なのか正常なのか。常軌を逸した社会で正気を保つことが正常なのか。こうした症状を鎮める処方箋を精神医学に求めても無理かもしれない。哲学や宗教に助けを求めるべきだったかもしれないが、そうした領域へ思いを馳せる余裕も知識もなかった。

 「強いふらつきと吐き気、歩けないときもあるのです」

並大抵の圧力ではなかった、上から身体全体が押さえ込まれているようで。その力の正体は? 誰がコントロールしているのか、自分の中にいる何か、誰か。わざわざ作り上げた得体の知れないもの? すぐに降参すべきだったかもしれない。だが、それは隅々まで行き渡っていた、もう遅かった。立ち向かうには大きすぎた、対処方法がないとはこのこと…。起き上がろうとしたが手足に力が入らない。どうしようもなくて。

 「ベランダに出るのが怖いのです。飛び降りたい衝動に駆られます」

 リビングのソファーに座っているとき、ダイニングで食事を摂っているとき、そして一人でいるとき。思いっきり飛んでしまえば、どれだけ気持ちがいいか、楽になるか。この開放感と引き換えに何を求めている? なぜ躊躇する? 単なるうつ症状、そうに違いなかったが、病因を意識した途端に足がすくんでしまう。せっかくの機会なのに、どうして? 飛ばなければ、このいまがずっと、続くことになる、それでいいのか。まだ、この状態を享受できるということか、それならこのまま。余裕あるじゃない、問題なし、さあ次の方…

 「殺したくなるのです。この僕と、そして…」

 それは正常なこと、やってしまえばいい。どこに問題がある? 今からでも遅くない、引き返せ! このうえない快感が得られるというのに。残念極まりない、さあ、立ち上がれ、同志はいっぱい、いる。お前が最初ではないし、最後でもない。これから、おもしろいようにどんどん出てくるし、お前の後始末もしっかりやってやる、安心して。まずは自分から、なぜ出来ない? いままで何して来たのか、恥ずかしくないのか、さあ…

 「繰り返し再生してしまうのです。夢ですか、それとも」

 死の世界を生きている? そもそも信じているのか、夢が希望であるはずがない、そうだろう、ばかな! 錯覚、妄想、美の光景。極楽浄土はまだ早い、そう簡単には楽にしてくれない。実際、再生している、苦しみの樹海へ。どんより湿った暗闇の中へ微かに差し込む光。身動きが取れない、そんなもの支えにしてどうなる? もっと強く縄を締めろ、折れるじゃないか。死ねると思うな、そのまま長らえろ、それ以外に道があるというのか。そこにとどまれ!

 「歩くたびに足を踏みつけるのです。でも進んでしまう」

 足跡をたどるがいい、それが進歩? 後悔してないか。一進一退、少しでも前へ、そんなことは虚、あるはずがない。自縄自縛、気持ちよくないか、きっとそうに違いない、快感、恍惚、羨ましい。そこに留まるがいい、しばらく味わうがいい、でもそう長くは続かない、見えない相手も力尽きて。速度を上げるなんてとんでもない、もっとゆっくり亀の背に乗るように。手を出すな、お前が言った、やったことだ。おとしまえをつけろ、間違ったな。

 「明日は分かるのですが、昨日がどうも…。今日? とんでもない」

 どうも時間と相性が悪い、一緒に流れられない、遅いのか早いのか、そこが分からない。従って、沿って、合わせて、結局負けて。うまく行かないようになっている、しているって? 勘ぐりすぎ、ナチュラルにやっているつもり、でもこの様(ざま)。誰に迷惑かけたというのか、記憶をなくして今を知る、次が分かれば、と思うだけで。足元に屈せよ、唯一者とは。残虐の限りを尽くし、その先に桃源郷。目指すには肝がすわっていない、しっかりしろ。


 女の一日が終わった。やっと開放された。心身ともに重いものを虚しく背負わされ、今日も変わらず息苦しかった。異次元の世界、虚実ない交ぜの不確かな時空間、目の前の壊れた者たち。繰り返される、このリアルでイデアールな情景を払拭するには…。放心状態のまま背もたれに身を預けた。思考を停止しても、否応なしに感覚がもたげてくる、どことはなしに妖しい情欲が立ちのぼってくる。全身に地虫が這っているようなこの不快感、明らかに容量を超えていた。大きく足元がふらついた、立ちあがるには早すぎた。

 「先生、大丈夫ですか?」

 いつもなら看護師の声で異界から生還できるはずだった。今日はなかなか戻れない。「先に帰って。ちゃんと閉めておくから」。一人診察台に腰掛けた。硬質の、この感触が心地よかった。横になり静かに目を閉じた。患者に接するのも限界に近づいている、そう思わずにはいられなかった。診察しているとき、様々な声が聞こえてくる、患者の話にかぶさるように。話し言葉(パロール)を書き言葉(エクリチュール)で書き止め、翻訳・解釈しようにも、決まって吐き気が襲ってくる。生理的に咀嚼できない、触れてはいけない、この不条理。背中に感じる清楚な硬質感が唯一、頼りだった。

 「さあ、一緒にどうです。待っている人のもとへ」

 精神に異常を来たした連中の話を聞いていると、当然気分が悪くなる。一方で、癖になってくるというか、その世界から離れると少し不安になり、物足りなく感じる。そっちとこっち、此岸と彼岸、両サイドを往還するトランスポーティション。身体も内心も? それともどちらかだけ? “どっちへ、どこへ連れて行ってくれる?” 目を開けようとしたが、強い照度が待ち構えていた。ただ、足元は暗かった。真ん中はないのか、どうか腕を支えてくれ。

 「そんなに早く行かないで。分かっているでしょう、私はここ」

 道端を歩いている、そうした感覚は辛うじて残っていた。ふらつきは相変わらずだったが、横に居てくれたから少しばかり進めた。湿った路面が足裏にしっくり来ている、そこに安心感を求めて今を乗り切ろう。ただ、腕は放さないでほしい、外から力が加わらないと心身のバランスを保てそうになかった。躓きそうになるも何とか支えられて、テロスへ向かって? どこに道があるというのか、目的なんて。一歩、また一歩が伝わらない、なかなか感じらない、前へ行けない、果てへ、未来へ、否。お前だけが例外じゃない? 分かっているけど納得できない、そうだろう…。

 「やっと着いた、座れた、ここはどこ?」

 喧騒の中の静寂、なんてフレーズがしっくり来るほど成熟していなかったし、信じてもいなかった。カウンター越しの光景に違和感があったし、少しの視線にも耐えられない、そんな気がした。突っ伏しても放っておいてくれ、私を認識しないでほしい、だれも。存在しないという癒し、身体から内心から徐々に力が抜けていく。時間が戻って来ないよう願っていた、このままに。もう横に誰もいなかった、そこまで。重い頭はカウンターの上にあった。この感覚、異なる時と隔たりに囲まれて。

 「朝の光がカーテンのすき間から。また始まる、嘔吐感…」

 柔らかくなった、バカになったスプリングが必要以上に身体を沈み込ませる。起き上がれない、今日も身体に内心がそぐわない。調和や統一、合致からかけ離れた、この浮遊感。そこから抜け出すには? このまま外へ踏み出せというのか、これまでやって来たじゃないかって? この分だと、どれだけ時間がかかることか、外にいる対象に自分を近づけるには。それに合わせようなんて、とんでも…ない。駆けめぐる体液が、溢れ出そうな循環が滞ろうと、おのれを阻止しようと、そう仮死状態。精緻に働く脳の一部が、神経の偏りしか頼りにならず、邪魔を引き寄せようにも。安らぎはきっと、長く続かない。ずっとこのまま、ズレたままで。ああ残酷な…

 

 今日は午後診だった。午前11時半ごろに出勤すればよかったが9時には自宅を出ていた。途中、公園のベンチで時間をつぶした。訳もなく、そうしているのではなかった。最近つくった、何でもないルーティンの一つ。新鮮な空気を深く吸い込んで? そんなことではなかった。過呼吸には違う対処方法があったし、薬を飲めば済むことだった。身体全体が地面に押し付けられるような、いわゆるパニック障害にも関係なかった。放っておくと別々になってしまう自分自身を合わせる儀式、けっきょく上手くいったためしはないが、フィットさせようと、この身と心を。無表情にほとんど動かず、ただ足を伸ばしているに過ぎなかったが、少し楽になって公園を出て行く姿を想像して、診療所へ行く前の…。始まることの嘔吐感、少し軽減された? 

 「先生、しゃべれないわけじゃないのでしょう?」

 保護者として付き添ってきた養護教諭を奥の部屋へ呼び、詰問調になっていた。会話がかみ合わないのはいつものことだが、ひと言も口を利かないのではどうしようもない。こちらの質問を後ろに立つ先生が少し間を置いて答えようとする。カルテに書き込む手が止まってしまう。ただ、自分のことを話す先生には興味があるようで、彼女が答えるたびに少し身体を傾けて振り返ろうとする、先生の声に連動して。その男の子は14歳、昔でいう知恵遅れには見えなかったが、普通学級には通えないという。

 「今度、暴れた時はこのお薬を飲ませてください」

 取り敢えず、そう言って二人を帰したが男の子のうつろな目が頭に残った。患者によくある表情だったが、それとは微妙に違っているように思えた。たんに遠くを見つめているだけでなく、円環状のどこかに身体を置き、その循環に気持ちよく身を委ねている感じ、と言えば近いか。たいていの患者は心ここにあらず、意識が飛んでいるのが通例だが、少年はそんな風でもなかった。さりとて、その少年の眼に透き通った、突き抜けた何かを感じることはなかった。いずれにしても、理想郷で一人戯れる、彼の前に何が広がっているのだろうか。きっと幸せなのだろう、そこでは。そう推察した。

 「どうだった、先生怖くなかった?」

 養護教諭は診療所を出た後、並んで歩く生徒に向かって聞いた。合点のいかない表情をしたのですぐに言い直した。「病院の先生の話、分かった?」。男の子はうなずいた。“さっきの女医は見当違いをしている”。二人は穏やかな表情で顔を見合わせた。教諭はこの子が精神に異常を来たしていないどころか、普通学級でも優等だろうと思っていた。一方で、だからと言って正常とは限らないけど、とも。あくまで養護施設にいようとする少年の意思を尊重し、めったに話さない彼の話し相手になってきた。ただ、ときに演技のし過ぎが気になった。親をはじめ他の大人が気づくことはなかったが。

 「…………………」

 教諭と生徒はいつものように顔を見合わすこともなく、施設に入ると別の方向へ分かれて行った。特異な生徒たちが集まる施設内でトラブルはつきものだったが、今回は責任者がことの重大性にかんがみ、生徒に精神科への受診を強いた。二週間前、ある生徒が自殺した。遺書を残していなかったが、まわりの生徒に話を聞いたところ、男の子が少なからず関係しているのではないか、そうした複数の証言があった。事情を聞くよう促された女性教諭は四人部屋の二段ベッドの下段に腰をかけ、男の子と向き合った。前かがみになっていたので二人の距離は50㌢もなかった。彼女は何も聞くつもりはなかった。

 “なぜ、自殺した? 面倒なことに”

 男の子がその生徒を自殺へ追い込んだ。犯人探しにはストーリーが必要だった。ノーマルな彼が施設にいる必要はなかったし、生徒の中で特異な存在だった。厄介なことになる、女性教諭はそう考えた。誰がやったのか、そう仕向けたのか、間接的に殺したのは? 彼女は男の子がやったかどうか、分からなかったし、たとえ彼が唆したとしても…。ほとぼりがさめるまで、そばに居てあげようと心に決めていた、できるだけ表情も態度も変えずに。まわりの騒々しさをよそに、男の子は無表情まま、いつもと変わらず、静かに自己と向き合っている、そんな感じに見えた。べつに賭け事ではなかったが、白か黒か、どっちに転んでもよかった。すべてを受け入れる覚悟が出来ていた、彼女は男の子に微笑みかけた。

 「生徒と何度か、話し込んでいたよね、どんな話?」

 他の生徒のように脈絡なく大声を発したり、奇行で手を煩わせたり。二人に限ってそうしたことは一切なかった。自殺した生徒も男の子と同じように寡黙な少年で、一人でいるのを好んだ。それまで二人がいっしょにいるところを見た者はいなかった。それだけに死ぬ一週間前に話し込む二人の姿は目を引いた。何を話したのか、施設長ならずとも気になるところだった。自殺の原因は? 女性教諭に探らせようとしたが、けっきょく男の子はひと言も話さなかった。彼女はそうした彼の姿を見て安心した、それでいい、これからも話さないように。

 「…………………」

 状況からみて自殺だろうということで警察の取り調べは生徒に及ぶことはなかった。何らかの精神障害を持つ彼らに話を聞いても意味がないと判断したのかも知れない。施設長と教諭数人が会議室に集められて2時ほど聴取されたが、それで済みそうだった。生徒は上段のベッドの柵に紐をかけて首をくくった。脚を伸ばしてへたり込む姿は、魂を抜かれたパペット人形のようだった。同室の生徒が風呂に入っていた20分ほどの出来事だった。死のうと思えば簡単なもの…。女性教諭は生徒が引き揚げられ、ベッドに横にされる情景を見ながらそう思った。いじめがあったとか、精神的に厳しい状況だったとか、そう見立てる教諭も生徒もいなかった。もともと発達障害はあったが軽度で見た目も所作もノーマルだった。ただ、執着心は強い方だった、と話す生徒がいた。

 「疲れたでしょう? 今日は早めに休んでね」

 女性教諭は帰り際、男の子に声をかけた。彼は自室で机に向かっていた。手を休め、他には見せない笑顔でうなずいた。彼女も微笑み返し、静かに扉を閉めた。“彼は生徒が自殺するのを事前に知っていた”。彼女は明かりが落ちた施設の出入り口でそう思った。“生徒は彼に死の承認を求め、彼は止めなかった”。何本か外灯の下を通り過ぎながら今日の男の子を思い浮かべていた。確信犯だった、彼は生徒が死ぬ日どころか正確な時間まで把握していたに違いない。ノーマルな二人が示し合わせて何を? 彼女は身震いを抑えようと身体を固くした。

 「ただいま、お腹空いてない?」

 自宅マンションのドアを開けるなり、しぜんとそう話かけていた。帰るとまず、どこにいるか、彼を探すことから始める。だいたい奥の部屋にいたが今夜は見当たらない。少し心配になって真顔で見まわすと、ソファーの陰から顔を出してきた。抱き上げて目を合わそうとするが、いつものようにそむける姿がたまらない。運命なのか偶然なのか、べつにどちらでもよかったが、ペットショップの前で目が合って一緒に住むようになった。その猫に、こともあろうか昔の彼の名前をつけた。ふつうではしないだろうけど、その彼とはいい思い出しか浮かんで来ないので。食事のとき、眠るとき、そばにいてくれるのが何よりの慰めだった。

 「その澄んだ瞳に何が映っているの? 私じゃないよね」

 猫が見ている、その光景は私の前に広がるものと同じだろうか。こうして抱えて細密なガラス玉のような瞳をのぞき込むと、よくそう思う。同じモノどもコトどもヒトどもに囲まれていても…。現象の捉え方は人の数、猫の数だけあるのだろうけど、長く一緒にいるとしだいに違いがなくなり、似てくるものだろうか。“そんなことないって? まだまだって? その域には…”。見えるものは所詮、本質じゃなく幻影に過ぎないのだろうが少しでも共有できればと、そう思おうと。この世に絶対なもの、真実なんてありはしない、さりとて相対じゃあ…。彼女だけがそう思っているわけじゃなかったけど、私が見ている彼も。


 女はなかなかベッドから起き上がれなかった。枕元の置き時計は4時を指していたが午前か午後なのか、分からなかった。どの部屋も遮光カーテンを付けていたが、寝室は特に分厚いものにしていた。真っ暗闇じゃないと落ち着かなくなって、どのくらい経つだろうか。いつのころからか、モノを浮かび上がらせる光が信用できないようになっていた。“たとえ、この目に映ってもそれが何なのか、本当のところは分からない”。見えるから、輪郭がわかるから精神がざわつき、気分が悪くなる。目を開けていても何も見えない、それが一番のように思えた。身体を軸に広がっていく視界がどれだけいまを、この情況を反映しているか、虚と実との狭間で苦しみ続けるしかないのか。煩わしいモノやコト、ヒトから私を遠ざけてくれる漆黒の闇、自分が占めているだけの、即時的な空間。誰に、何に憚ることなく、内が外を包み込み、言葉は悪いけど支配する。身体の、個体の、皮膚と外界の限界を分かつには、超越するには。いや、内も外もない融解、ズレを修復し襞に沿っていくには…。女はこの暗闇の中で自由だったし、とりあえず不安を脇において、恍惚感を抱くことができた。

 “また、お会いできればと思っていますが、いかがでしょうか”

 風を入れるというより、現実を身近に引き寄せるために少し窓を開けた。ケータイに向かった、続けざまに3本、面倒なので同じ文面のメール。もちろん、3人の男の顔を思い浮かべることはなく。仕事なのであくまで効率よく、でもホステスが同伴客を物色するような感じにならないように、それに絵文字も厳禁で。まだ残業しているだろう夕方の6時過ぎだった。でもすぐに1件返ってきた。“すいません、仕事中じゃなかったですか。でも、思い切ってメールしてよかったです”。男は外資系証券会社に勤める四十過ぎ。顔立ちは整っていたが頭が薄くなりかけていた、だから結婚を急いでいるのか。マネージャークラスなら1500万円以上の年収はかたい。虚業すれすれ、レギュレーションの逸脱を繰り返し、太く短くが、株屋の鉄則、それも外資系…。多額をプールしていることは確かだった。

 “今日は休みだったのですね、返信ありがとうございました”

 もう1件届いた。五十前の小太り、確か自営業。記憶をたどったがやっぱり顔が思い出せない。ただ、ブルーカラーのイメージが浮かんでくるだけで。あらたまった感じより多少崩れた感じ、雰囲気が好まれるだろうか。自営業は一種の賭けと言えた、経験上この生業では。ただ、持ち駒として外したくはなかった。確率は定かでなかったし、万が一では困るが思いのほか宝にありつけることだって…。一つ返事で食事の約束を取り付けた。効率よく宝の在りかへたどり着けるか。急がば回れ、ゆっくり構えた方がいいケースかもしれない、そう願って。“来週末、お会いするのを楽しみにしています”。そう送信したあと、ケータイをソファーに転がし、カーテンを全開にした。

 「大丈夫ですよ、それでは午後7時に。前と同じで」

 午後からゆっくりするつもりだった。少し迷ったが、昨夜遅くに送られてきたメールに電話で応えた。そんなことより、昼をどうするか、冷蔵庫には何もないし。夜はきっと中華かイタリアンだろうからあっさりとしたものにしたかった。そばを食べに上下スウェットでキャップ深めに辻向かいの店へ。途中、マンションのエントランスで同じ階の若い男にあいさつされたが、顔を上げることなく通り過ぎた。ミュールの音が気になったが曇り空が心地よかった。気になっていたペディキュアのかすれが目に入り、気持ちがフラットに戻る。無表情にそば屋の暖簾(のんれ)をくぐった。

 “こちらは問題ありません。7時半ですね、分かりました”

 いずれにせよ、早めに自宅を出て用事を済ませるつもりだった。3、4日前に出来上がっていると連絡のあった、ある男に関する素行調査書。待ち合わせ場所から少し遠いが、外出のついでに受け取りに行こうと思った。その調査事務所には所長と女の事務員、あと一人調査員がいるということだったが、もう一人を見かけたことはなかった。報告書は期待していた通りだった。男は1年前に離婚し、一人の子供は元妻に親権があった。自営業というより小さな会社を経営していた。社員は40人弱、主にサービス業へ人材を派遣する事業で、外国人労働者の斡旋に強く、アジア諸国へのネットワーク拡大でここ数年増収増益だという。同業他社との競争が激しくなりつつあるとは言え、今後も高い成長が見込めた。

 「ごめんなさい、お手洗いに行って来ます」

 女はそう言って店に着くなり席を離れた。調査事務所の報告で気分が高まり、化粧直しで一呼吸おきたかった。それに本件以外の、5つを超える着信が気になっていた。その男と会うのは今回で3度目だった。“そろそろ、かな”。そう思いながらトイレの鏡に顔を近づけた。席に戻って笑顔を向けると、男はケータイから目を離し、ぎこちない笑顔を返してきた。“さあ、仕事の始まり”。大皿で出される中華料理を甲斐甲斐しく取り分けて、その度ごとに優しい微笑を投げかけて。しだいに血液が消化器系に行き渡り、満腹中枢が充たされていく。冷たく口当たりのいい杏仁豆腐が出された、いいタイミングだった。

 「どうしようかな…。ちょっと」

 男は“なに?”という表情をするも、すぐに促すように笑顔をつくった。女は姿勢を正し、うつむき加減に切り出した。「困ったことがあって。誰にも相談できなくて」。男は組んでいた足をほどき、座り直した。「そうなのです、急に物入りになって」。男の表情、素振りから、思いのほか単刀直入に言っても大丈夫だと判断した。「急に友達と連絡が取れなくなり、貸していたお金がどうなるか、心配で」。男は両肘をついて前のめりになり、二、三聞き返して来た。「まずいですよね、結構な額ですし」。連絡が途絶えて二週間、気がつくと120万円ほど貸し込んでいる、ということにした。

 「楽しいデートでこんな話、ごめんなさい」

 すんなり予想していた言葉が返って来て、女は恐縮した仕草で目頭を押さえた。“僕がなんとかしてやらないと、守ってあげないと”。そうした感情が芽生えていれば今日のところは満点、いずれ満額、振り込まれるだろう。もう落としたも同然、身体を使わなくてもいけるかもしれない、上目づかいに男を観察した。今日は終電まで男に付き合おう。気の効いたバーを知っているように見えないのでカラオケなら、と。男は楽しげだった、当然デュエット曲も楽しく歌った。男は駅で別れるとき、真剣な表情であの言葉を口にした。「酒が入っているときに言うことじゃないけど…」。そう前置きしたあとに。女は戸惑うような曖昧な笑みを浮かべた。「結婚を前提に…」。いつものように言質は与えなかった。

“今回も大口、いけるかも…”

 女はマンションに戻り、素行調査書に目を通した。前回は1200万円、前々回は900万円。いずれも一括で架空の会社の銀行口座へ振り込ませた。今回も慎重に事を運ぶつもりだった。この前に会ったとき“お互いバツイチだから当分、結婚はない”と笑い合った。気の置けない飲み友達、仕事の嫌なことを忘れさせてくれる相手、そんな関係性。これからが勝負と、女は気を引き締めて報告書を閉じた。ポイントは外国人だった。男が扱っている東南アジアの人たちを使おうと思った。もちろん、労働力じゃなくて…。深夜の、この時間帯に強い虚脱感が襲ってくるのはめずらしかった。立ち上がれないほどだった。生理的なものなのか、気質の問題なのか。精神科の女医がくれた錠剤を二錠、生ぬるいビールで飲み込んだ。

「分かっているよ、そっちも元気で…」

 翌朝、といっても11時すぎに母親から電話があった。忘れたころにかかって来て、おしまいに金の無心。相手が話している最中に「じゃあね」と切り、ケータイをテーブルに転がした。たんに血でつながっているというだけで、ちょっとした知り合い以下の存在になり下がって。下町のアパートで一人、静かに死んで行けばいい、そう思っていた。自業自得、生まれを憎むのはお門違い、民族的な偏見に負けずに成功した同族は数知れない、要は気力と能力の問題。この島国で虐げられてきたことは確かだけれど、この国を、誰を恨んでも仕方ない。いつもは忘れている母親が意識に上るとき、最後はそうした考えに行き着いた。自分に言い聞かせるように、気持ちを強く持ついい機会だと思うようにしていた。

 “返事は急いでいません。よろしくお願いします”

 その太った中年男、話をチェックしていくと喫茶店経営は安定していたが、たいして利益が出ていないようで、自転車操業に近い? これだと、一カ月のランニングコスト以上に引き出せそうになかった。20万、30万が数回、それがいいところかもしれない。生活費の足しにする程度の相手と割り切って付き合っていけばいいか。しみったれたお客さんでも3、4人いれば…。相手にしてみれば、厳しい運転資金から捻出して、ということかもしれないけど、そんなこと、こっちは…。“また会えるの、楽しみにしています。風邪など引かないようにしてくださいね”。きっと2、3日もしないうちにメールを寄こすだろう。今度は姉を頼りに上京した“弟”でも出して…。


 “元気にしていますか。すいません、突然に…”

 別れて3年になる元カレからメールをもらった。いま付き合っている彼女が精神的に不安定で相談に乗ってほしい、という。面倒そうなので放っておこうとも思ったが、職業意識に加えて彼へのちょっとした強がりから返信した。“診療所に連れて来たら。日曜と木曜が休診、変わっていません”。彼とは5年も付き合った、といっても後半の2年はフェードアウトへ向かうプロセスだったが。初めて会ったとき、彼はいい状態とは言えなかった、最初は患者だった。虚ろな目をして生気が抜けていた、どんよりと死が近づいている、そんな感じだった。ただ、女性のような白い手が印象的だった、そこに引かれたわけじゃなかったけど。

 “ありがとう、感謝します。ではまた、連絡します”

 彼は当時、大学院の修士課程にいた。社会学を専攻し、博士課程へ進み研究者の道を歩もうとしていた。構造的で堅牢な社会の矛盾をいかに解決していくか、その道筋を追及するのが彼の原点、透明な彼を支えていた。講師となり准教授が見えてきたら、本当に自分がしたいことができる。研究室の先輩からそう言われて何とかリタイヤせず、ぎりぎりのところで踏ん張っていた。社会を変える諸理念・思想のスパイラルな有機的統合と、実現へ向けた強制力を伴う具体的方策、そのディクタツーラ、権力(執権)の是非・桎梏・可能性。研究のテーマ設定が自由になれば、すべてをかけて臨むつもりでいた、そんな彼と…。

 「失礼します。よろしくお願いします」

 彼は彼女を連れて診療所にやってきた。あれからもう3年、そういう感覚で迎えたからか、彼女の後ろにいる彼はだいぶ変わったように見えた。彼女を通り越して彼を診ているようなものだった、病状ではなく、その変化を。少し流行を取り入れた長めの髪が彼らしかったが、以前に比べ柔和な表情になっているのが気になった。この彼女のお陰で精神的に安定しているのか。知っている彼はそのあとが危なかった。決まって揺り戻しがあり、きつい反動に苦しんだ。それも、もう過去のことなのか。彼は診察中、その手を何度か彼女の肩にやった。変わらぬその白さ、彼を象徴する透明感、変わっていない。女医は、そこから目をそむけるように椅子を半回転させてカルテへ目を移した。

 「お薬出しておきますね。しっかり彼女をサポートして…」

 現代における矛盾の純化を求めて―。学部1回生の夏、無我夢中で書いた論文が4回生の卒論と並んで「学生論集」に掲載された。彼はそれ以来、崇高なミッションを遂行するかのように、おのれの能力も顧みず、突き進んでいった、かなわぬ理想へ向かって。インターンで病院に勤め始めていた彼女は、そうした志の高い彼に引かれたわけではなかった。どのみち壁にぶち当たり、けっきょく若気の至りを痛感し、後悔するに決まっている、彼女じゃなくても、当時の彼の先行きはそんなふうに見えた。社会の矛盾と闘えるほど、彼は悪い人間じゃなかったし、シビアなプロセスに耐えられる精神を備えているようには思えなかった。向き合ったとき、私を通り越す、あの優しい眼差しが、そのことを証明していた。だから、彼女は彼を好きになった。

 「ありがとうございました。立ち上がれる?」

 彼は、元の彼女に礼を言い、今の彼女に優しく声をかけた。診察室の扉が閉まるとき、彼の横顔が目に入った。彼女を見つめる心配げな眼差し、そっと寄り添う柔かな身のこなし…。彼との思い出が、記憶の端へ追いやっていた感情がこみ上げてきそうだった。必死に身体の、心のどこかに力を入れて凌ごうと、持ちこたえようとしていた。彼女より彼の方が心配だった。うまくやっているのか、その精神状態で、彼がよく言っていた、この腐った社会の中で。「あと何人?」。思わず看護師に聞いていた。精神科の医者として、この状態で患者を看てはいけない。 そう思うが心身ともについて来なかった。

 “今日はありがとう。助かりました。彼女も落ち着いています”

 雑務をこなして病院を出ると、辺りは暗くなっていた。さっきの元カレからのメールだった、そっとしておいてほしかった。“お大事に…”。当たり障りのない言葉で返した。彼はきっと彼女の傍から、このメールを送って来たのだろう。このまま放っておいたら、どんどん想像が働いて収拾がつかなくなってしまう。精神衛生上、良くない情況だってこと、専門家でなくてもわかっただろう。それに、そうかんたんに意識を遮断することはできない、これも専門家だからといって。まさにアンコントロール、制御の利かない、この内側の、得体の知れない…。女は常備している薬を飲み、ソファーで目をつむった、気なぐさみに過ぎないってことも、わかっていたけど。

 「先生もここ、長くなりましたね。ほかへ行くおつもりは?」

 同じ医学部を出て、インターン先まで同じだった男性医師がめずらしく診療所を訪ねてきた。系列病院・施設を多く抱える大手医療法人で若くして内科部長を務める男は、狐のような目つきで女医に話しかけた。避けているわけではなかったが、会いたい相手ではなかった。診療内科の医師が辞めて後任を探しているという。いい話を持って来たつもりなのだろうが“あんたのいるところはどうも。いや、絶対に…”。そんなニュアンスを出していたのか、男は早々に話題を変えて、取るに足らない話をし出した。「まあ、考えてみてよ。悪い話ではないと思うけど」。帰り際にそう言って診療所をあとにした。確かに気晴らしにはなるだろうけど、でも環境を変えるのは面倒だし、キャリアはどうでもよかったし。


 「どうでしたか。何か問題はなかったですか」

 女性教諭は女医の問いかけに対し、この前と同じようにひと呼吸おいて話し出した。あれから1カ月が経とうとしていた。男の子は施設で変わりなく日常生活を送っているという、生徒の自死なんて無かったかのように。彼は、授業が終わると共同生活の雑用も面倒がらずに引き受け、これまで通り淡々とこなした。ほかの子に話しかけたり、話しかけられたりすることはほとんどなかったが、それも相変わらずと気にする周りもいなかった。とにかくあの一件を早く忘れようと、男の子へ向ける視線もふつうに、何ごともなかったかのように、少なくとも表面的にはそんな感じに見えたという。「もう大丈夫かな?」。女医が男の子をのぞき込むように言うと、彼が微かにうなずくのを見て、女性教諭は言葉をのみ込んだ。すると、男の子は何も言わずに椅子から離れ、診察室から出て行ってしまった。よくあることなのだろうが、残された女性教諭は申し訳なさそうに女医に頭を下げて、彼を追いかけていった。

 「少しいいですか。お話、うかがいたいので…」

 男の子を通路の待合椅子に座らせて、女性教諭が診察室に戻ってきた。施設の他の子と違い、基本ノーマルな彼はひとり放っておいても大丈夫だった。本来ならば次の患者の時間だったが、彼女を患者用の丸椅子に座らせた。女性教諭の方も「私もお話があるのです」。男の子が軽度の発達障害でさえない健常児であること、演技までして特殊学級に居続けようとする理由、そしてあの事件について…。女性教諭は堰を切ったように話し出した。女医が想像していた以上に事情は複雑だった。知的に障害がないのは気づいていた。専門家として精神医学的に、そう判断していたわけではなく、接した印象、感覚からだった。フロイトにしろ、ユングにしろ、たんに心理学の理論を活用・応用しただけで解決できるほど、人間の感覚・意識は単純ではなかった。

 「難しいケースです。男の子の精神状態は…」

 患者が発する言葉を字義通りに受け取らないのは当然のこと、ましてやそばにいる第三者の話を…。ただ、教師を離れた女の、男の子への思い。参考にすべきことは少なくない、いや信用してもいい、女医は女の表情を見ながらそう思った。母親でも彼女でもない教師という立ち位置に苛立ちすら感じているように見えた。理解してやろうとか、社会的枠組みにとか、そんな上からのアプローチでなく、目線をしっかり合わせて男の子と向き合っていた。彼もそうした思いを感じとり、少なくとも彼女を悲しめたり、傷つけたりしないだろうし、彼女と一緒にいる場面でめったに嘘はつかないだろう、虚を飾るようなことはしないだろう、と。そう、彼のケースも、本人ではなく周りとの、取り巻くモノどもやコトどもとの、それこそヒトどもとの関係性が問題だった。

 「まさに問題は複雑で、どうこうしようもなくて」

 女医には、彼の問題は彼女がそばに居ればすでに、半分以上解決しているように思えた。生を受けて意識が芽生えてこのかた、彼は社会に順応すれば自分自身が壊れてしまう、本人は気づいていなかったが、その清らかな魂が滅してしまう、そうならないために、と。だからと言って、心身を乖離させる、偽りの自我を作る、この腐った世界で生き続けるための処世術を会得する、その必要がないというわけはなく。それは悲しくも陳腐で酷なプロセス、知らぬ間に螺旋状ループを下っていく漸減的なウェイ、群居動物として無理やり日常と折り合いをつける安易なストーリー。そう、残る半分がそれ以上に問題だってこと、彼が気づかないはずはなく、行ったり来たり答えなく、彷徨うしかなくて、という感じなんだろうけど。

 「過去に似たような症例があり、それを当てはめると…」

 女教師の話を聞きながら、女医は元カレのことを考えていた。そう言えば男の子もきれいな手をしていた。誰しも、どこかで社会に順応できない自分に気づき、圧し止めて生きている、いや、殺して長らえている。繊細で優しさに満ちた良質な彼らが真っ当に生きていくには、どうすれば、なにをすればいいのか、たんにこの世界を、強引に力業で裏返すだけで済む話だろうか。ひっくり返した先に希望があるとは限らないし、同じようにそこで死んだも同然の生を強いられない保証はどこにもない。残酷にも男の子の中では、その前でも、はるか先でこそ、この異常な情況に対して正常さが働くだろうし、その反対も然りだろう。そう元カレのケースがそうだったから。

 「このままでは私も…。訳が分からなくなってきて」

 途中から女教師本人の問診に変わっていた。仕事場でノーマルな話を聞くのは不思議な感じだった。女子会で悩みを聞いているような感覚で、医者としての構えが取れて、そこいらのフラットなやり取りになっていた。自分自身がだんだんおかしくなって来ている、と。そんな心配はいらなかった、精神科医じゃなくてもわかることだし、精神医学的な“おかしさ”ではなくて、それはいわゆる…。彼女の彼への思い。教師が生徒にとか、ひと回り以上離れているからとか、そんな陳腐なこと言われても、社会的枠組みに収めるのも仕事の一つだけど。いずれにしても、彼女と彼の、微温的な関係性にほんのりするとともに苦笑いするほかなかった。「彼、待っていますよ」。話をさえぎると、彼女は照れたふうにそそくさと診察室から出て行った。

 「次の患者様、いいですか、先生!」

 今日は予約が多く入っていた。そぐわない表現だが、効率よくテキパキとこなしていかなければならない。「はい」。それにしても、と思うことが、とくに精神科医として、この社会が、というより、まわりのモノどもコトどもが、そのどちらにも属している、差配もしているヒトどもが、どうしようもなく…。それは時間の経過とともに避けられないプロセスなのか、そもそもプログレスなのか、陳腐化どころか劣化に過ぎない? 無機であっても有機であっても細胞なんだから。社会の多様化や高度化、複層化とか外的要因に、表層的な変化に答えを求めるのでなくて。こうして患者を看ていると、何が異常で正常か、という以前の問題として、この不確かなヒトへの…。思考の泥沼へ、それも相対的に脳が発達したヒトとして。

 「ごめんね、遅くなっちゃって」

 男の子は女教師を認めると、やさしい表情に変わった。通路端の待合椅子でふたり並んで座り、顔を見合わせた。周りからは、姉と弟のように、いや母と息子に見えたかもしれない。もちろんそんなことは、彼女と彼にとってどうでもいいこと、たとえ互いに内側の襞にそぐわないズレが生じたとしても、それは年齢差によるものではなかった。ましてや教師と生徒という関係性から来るはずもなく、ひとりの女とひとりの男として、と言えば陳腐な表現極まりと笑われそうだけど、顔の表面が熱くなっても赤くなっても、いまのふたりを表す一番近いフレーズだったのかもしれない。こうして彼と向き合っていると、たんに浄化されていくだけでなく、融解していくような、内も外もなく流動していくような、その核が赤く燃えていくような…。

 「先生、ご飯でも行きませんか。お腹空いた」

 男の子は待っているあいだ、施設に電話を入れて了解をとっていた。「それじゃあ」。彼女は何の迷いもなく笑顔で彼と診療所を出た。うれしい気持ちを抑える必要はなかった、偶然施設の関係者に見られようが、そんなことはほんとうに二次的で、いつにも増してどうでもいいこと、取るに足らないことだった。よく喋る、そんな彼女に、彼の方も同じようにいつにも増して、安心感を覚えるとともに内心を覆うトラウマの一部が少し剥がれていくような、たとえ錯覚であっても…。「何食べたい?」。彼女の弾む声がさらに錯覚を深めていく、心地よく。ここはファミリーレストランみたいな…。そうした顔をしていたのか、彼が「ここの店」って入ったのは駅前の…。「学校帰りとか、友達とよく寄った? こんな感じの店」。女教師は“どうだったかな”と学生時代に思いをはせて言葉を探していた。「先生のこと、好きだよ」。話の流れから外れた、脈絡のないというわけでもなかったけど、その彼の言葉に、彼女は言葉を失った、自分自身も見失いかけていた。


 女詐欺師は、いつものように気だるさを放り投げるようにソファーへ身体を沈めた。きれいに乖離してしまった心と体を少しでも近づけようとクッションに顔を強く押しつけた。否応なく瞼の裏に映し出される、数々のイメージを圧し潰そうとするかのように。今日の終わりを告げるルーティンになっていた。もちろん、この日常を肯定するような、明日へ向かう糧になるような、そんなものではなく、懺悔の混じったおまじない、悪行の禊(みそぎ)に近かった。

 このままソファーで一生を終えられたら良かったが、そういうわけにもいかず身体を起こしてケータイへ向かう。しだいに現実へ引き戻されて、ふたたび心身を遊離させて、犯した罪に目をそむけて。ようやく焦点が合っていく、今日の、幻影のようでリアルな事象へ、騙した男たちの相貌へ、醜悪な己を見過ごして。ひんやりしたものを感じながら、指先を動かしていく、無機質な空間で、無意識にスムーズに。他の男と間違えないように、ただそれだけに気をつけて、無表情で。

 蜘蛛が巣にかかった虫をすぐに食さず、生殺し状態にしておくように常時7、8人の男たちをキープしていた。それぞれ進展具合に従って、金銭の多寡に合わせて、長くかかりそうなら見はからって切り捨てたし、進み過ぎれば慎重に引き戻したりと、職人が微調整するような感じで取り扱った。何よりタイミングが肝心だった。男を騙して金を引き出す仕事も、はたで見ているほど簡単ではなかったし、けっこうな苦労が要ったし、そこいらのホステスよりシビアな感覚が求められた。女は矢継ぎ早に送信した、内側の、汚いものを吐き出すように。女はケータイをテーブルに転がした、投げ捨てるように、忌み嫌うものから逃れるごとく。女はおのれを突き放した、もう戻ってくるなと、他人のように。

 初めから、詐欺をしようと考えていたわけではなかった。たいした容姿じゃないし、愛想もどちらかというと悪い方だし。なんの取りえもない総務課の事務員がこうも化けるものか、本人も含めて誰も想像できなかったに違いない。もう一人の、別の自分を作り上げてこのかた、昔のことを知っている友だちや親戚縁者とは連絡を絶っていった。だから幸か不幸か、かれらを介してその変化、おのれの変貌ぶりを客観視できる機会がほとんどなかった。小説の中の、過去を消し去った女主人公のように、陰影のあるイメージとは程遠かったが、虚像と折り合いをつけるのは思いのほか、そう難しいことではなかった。もともと素養があったのか、必要悪に急かされて強迫観念ように、なのか。

 ほんとうの自分、仮に実像というものがあるとして、それがどういうものだったか、いまとなってははっきりしなかった。虚実ない交ぜ、ただその割合、比率が極端に偏っているだけ、そう思うようにしていた。“虚も長ずれば現実となる”。そんな都合のいい箴言はどの名言集にもないだろうけど、虚を実と疑わなくなるところから始まる、その境がなくなってはじめてこの生業は成り立つ。じつに薬味程度の虚をふりかける、それを実に、金の華に化かす。男を騙すにもそれなりの理屈、彼女なりの実践的な論理があった。

 身体を使わないよう心がけていた、少なからずそうはいかないケースもあったけど。ソビエトの女スパイが自由主義陣営の諜報部員を手玉にとる、セックスを武器に、そんなサスペンスには及ばなかったけど。目的を達成するには手段を選ばない、シビアな世界には違いなかった、お色気仕掛けで得るのが情報とお金の違いはあったけど。その男と出会ったのは婚活の会場ではなく、当時勤めていた会社だった、たんに不倫にすぎなかったけど。相手の弱みにつけ込んで100万円ほど引き出した、そういうつもりはなかったけど。結果的にそれが最初の“仕事”となった、仕方なくってこともなかったけど。

 そもそも詐欺と言えるほどのものでなく、ちょっとした男女のいさかいの延長線上で。十五近くも歳の離れた元上司との情事、といってもしっかりコンドームをつけさせたし、聖域の唇は触れさせずに取って置いたし、もちろん感じるなんてことは…。それが2、3回。場末の娼婦じゃないけど、その程度ならたいして身体は穢れないし、内心のダメージもそれほどでなく。確かにもっとお金があればいいと、でも困っていたわけでもなく、ただ会社の仕事にやりがいはなかったし、かわり映えのしない日常を埋めるにはちょうどよかった、最初はそんな感じで。けっきょくたんなる暇つぶし? きっとその程度のことで。

 だけど次は、二匹目のドジョウを求めて、この前の味をしめて、というわけでもなかったけど、ちょっとした悪魔に導かれて、調子に乗って、という感じで。だからと言って、どんな男でもいいわけではなかったし、いまのような専業とは違い、もっと気軽な兼業的感覚と言えばいいのか。もちろんお金が目的だったけど、それだけじゃなくて、言い訳がましくというか、ほかの理由で動機づけて、この際恨みを晴らそうと、その手段として使おうと思って。本人は気がついていなかったろうけど、入社当初あることで傷つけられた。その会社には5年ほどしかいなかったが、いまでも悔しい思いがこみ上げてきて。その男をターゲットに決めて網を張った、男好きする感じの他部課の女といっしょになっていた、妊娠中という話を聞いて、さっそく仕掛けてやろうと。べつに難しい案件ではなかったし。

 久しぶりに会いたい、相談したいことがあるといって誘ったら、のこのこついて来て。気分よく泥酔させて、ホテルへ直行した。翌朝、何も覚えていないと真っ青な顔の、間抜けな男に、凄みを利かせて。合意もなく強引に連れ込まれた、強い力で押さえつけられた、と。強姦を仄めかすようなことはしなかったけど、社内に広める、そしてかわいい奥さんに…。慰謝料として100万円をせしめた、たいした額じゃないけど切りのいいところで。身体を使わずに、恨みも晴らして。そのあと、おまけにカバンから拝借したある物を自宅へ郵送した。身ごもる奥さんに、くれぐれもご自愛を、と。

 男からお金を騙し取る、巻き上げる。言葉は悪いし、犯罪には違いなかったけど、その醍醐味に魅かれるように深く入り込んでいった。目ぼしい男を、自分がイケてると思っているバカな奴とか、これまで女に縁がなかった真面目そうな生け贄タイプとか、一見ふつうに見えて妙に執着心のある、思い込みの激しい輩とか、これはいけると直感を働かせて、品定めして、アプローチをかけて、その弱みにつけ込んで。ときに恐喝まがいのことまでして、やっとのことありつける、その対価に。経済活動として効率的かどうか、よく分からなかったけど、そうした浮薄な関係性というか、悪徳のプロセスが性に合っているように思えたし、なにより癖になる、一度やってしまえば麻薬といっしょ、常習性があった。知らぬうちに泥沼にはまり込んで、というような否定的で自虐的な感じでなくて、妙に前向きに、運命を装って、突き進んでいくしか。

 ただ、割が合わない、多額とはいえ対価に見合わないと思うのは、疲労感が途轍もなく深く強いから。当初は慣れてくれば、と甘く見積もっていたけど、何度やっても精神的な疲れは半端じゃなくて。レイバーで言えば、ホワイトでもブルーでもあるミクスチャー、総合型ってところ? それもきついハイブリッドというか、この内側が混沌としてきて、心身ともに、とくにガイストに、精神にかかる負荷と言ったら、自業自得といえども相当なもので。そう、当然のように罪責感。人の道から外れるってこと、道徳に反してという、いばらの道を選んだとは言え。

 詐欺という行為は、たんに法律に抵触するだけでなく、もっと深いところを問われているというか、広くエコノミーもカルチャーも巻き込んで、ヒトを表す(顕す)総合アートと言えば、総スカンを食うどころか、人格をも疑われるだろうけど。さまざまなエレメントがコンプレックスに、ごっちゃな要素が複合的・多層的に絡み合って、抜き差しならぬ情況になってはじめて、という感じで。いわゆる知能犯なんだから、引っかかる相手も悪いのだから、ほかの犯罪とはちょっと違うなんて言うつもりはなかったけど。でも特殊なビヘイビアーには違いなかったし、高度にヒトの情緒を操作するなんて、やっぱり相当に罪深い、神から罰を受けても仕方がない、そう思っていた。

 結婚詐欺を生業にして3年が経ったころだったろうか。婚活パーティのあと、ある男に声をかけられた。少し派手目だが趣味のいいジャケットを着こなした清潔感のある30歳半ば。こっちがターゲットにするような男ではなく、冴えない者たちのあいだで目立っていた。もしや同業か、と一瞬思ったが、それにしては意識が低いというか、軽い感じが出過ぎていて、女を騙すには脇が甘く、人がいいように見えた。仕事をよそにちょっと話してみたい、正直興味があった。詐欺師にも息抜きが必要だったし、自分が魅かれている感じを新鮮に感じて。ほんとうに久しぶりでめずらしいことだった。

 こんなことをしていると当然、人を好きになる感覚から遠ざかってしまう。だから、その男との間合い、それ以前にどんな彼なのか、冷静に判断できそうになく、しばらくは様子見を決めこむしかなった。高校を卒業して、ある一人の男と付き合って以来の感覚。恋愛から距離を置くことが仕事の前提、公私混同は厳禁だった。相手の情緒を狂わせて、疑いを差しはさむ余裕を与えることなく、速やかにお金を貢がせる、巻き上げる。いまの女にとって、男と相対するとはそういうことだった。ミイラとりがミイラになったら商売にならない。ただ、彼と何度か会ううちに、覚めた目で自分を客観視する能力が落ちていくのを感じていた。なんとか押し止めようとしたけど、途中からコントロールが効かずに悪い循環に、ふつうの女性なら幸せなことなのに…。

 困ったことに、彼は思っていた以上にいい男だった。ちょっと天然が入った自然な感じの、他人に対する警戒感が薄い、要するに人のいいタイプ。この仕事をしていなかったら真剣に付き合っていたかもしれない。深入りしないように少し引き気味にしていたのが、逆に彼を引きつけていたのか、まるで彼女のように扱ってくれた、何の対価も求めずに。詐欺師じゃないんだから、ふつうに堅気の生活を送っているんだろうから、当然と言えば当然だけど。でも、これまでお客にしてきた男たちは、さまざまな対価を、セックスをはじめてとする欲望を、家庭という社会的充足を享受できる制度として結婚を求め、見っともなくも右往左往していた。彼にはそうしたものを感じなかった。


 「いつもこうなのですよ、放っておいてあげた方が…」。マスターは、酔いつぶれた女に気をかける別の女にそう助言した。二人の女はそこで始めて出会った。カウンターの端で、もうすっかり出来上がっている女を観察していると、別の女のピッチも自然と上がっていった。女はかなりのストレスを抱えているようだった。別の女は職業柄、そうした女を何人も診てきた。精神に不具合があるのは明らかだった。正確な病名とその程度ははかりかねたが、このままではもっと悪化していくのは確実のように思えた。

 それから何度か、そのバーで女を見かけたが、いつも男が違っていた。その女は到底、美形とは言えなかったし、身なりも洗練されていなかった。それなのに男を取っ替え引っ替え、どういうことなのか。それに、一人で酔いつぶれていたときと、男といるときの差が激しく別人のように見えた。どうしたことか、男と一緒のときの方が冴えない感じだった。それと、男の趣味。たいていは敬遠したくなるような部類だった、人の好みは計り知れないのだろうけど。その言動に違和感を覚えていたのは精神科医の女だけではなかったろう。いつも無表情なマスターも何か気づいていたに違いなかった。

 ある夜、その女は真剣な面持ちで男と向き合っていた。「悪いんだけど、あと…」「早くしないと、この前のように…」「これで終わりに…開放される」「本当に感謝している。今度ぜったい…」「来週末までには…」。女は最後に拝むような格好をして頭を下げた。奥のフロアで男に何やら頼んでいる女の声は断片的にしか聞こえなかったが、ほぼ1時間弱、金の無心であることは容易に想像がついた。意外にも男の背中がまんざらでもない雰囲気を漂わせていた。奥にいる女の表情からそう感じられた。

 男を手玉にとっている、それは確かだった。何度かそういう情景を見せられると既視感からか、これといって違和感を覚えることなく、舞台端で下手な芝居をするコメディエンヌのように見えた。特に話の最後に見せる、拝むような格好が滑稽で笑いを誘うほどだった。女がそれほどの美人でないから様になっていたし、実際にコメディの素養が備わっているように思えた。お金の話があるときは決まって奥のコーナーへ。そのたびにマスターと一瞬顔を見合わせ、何ともバツの悪い感じになった。またこれから三文芝居を見せられるのかと。

 ここ数カ月、診療所の仕事が忙しくて飲み歩く気力がなかった。でも今夜はひと区切りついて、久しぶりに3軒目、例のバーへ立ち寄った。客はカウンターに一人いるだけで、マスターはいつもと変わらず抑え気味の笑みで迎えてくれた。昔は昼にジャズ喫茶をやっていたといい、奥の棚には古いLP盤が並んでいた。客が少なくなるとマスターがかけるブルーノートのレーベルが好みに合った。ピアノ・トリオに浸っていると、例の女が入って来た。

 今日は一人のようだった。入れ替わるように先客がふらりと立ち上がり、その女と二人になった。女はいつものように奥のカウンター席に座り、ウイスキーのダブルを頼んだ。その席を彼女のために空けていたわけではなかったが、先客が入口付近に占めていたため、不本意にもカウンターの中央にマスターと向き合うかたちになっていた。今日の女はめずらしく素面に近いように見えた。いつもとイメージが違っていた。流麗なビル・エバンスのトリオが女を落ち着いて見せていたのか、初めてこのバーの雰囲気にしっくりいっているように思えた。

 その女とはマスターを介してちょっとした言葉を交わすようになっていた。相手を見定めるような会話を1時間ほど、酔いがまわってくるとしぜん、プライベートな話に及んだ。女は奥からグラスを持って隣に席に腰を下ろした。「へぇ、お医者さん、先生なの。何科の?」。女は上半身をやや後ろへ反らし、女医を足元から頭にかけて見定めるような素振りをみせた。ため口が多少気に障ったが、嫌味のないトーンだったので許せた。

 「内科です」と答えた。「風邪とか? 患者さんから移らないの?」と素朴な質問。「いや、診療内科といって心の風邪を診ています」とまじめ対応。するとあらたまって向き直り「私の風邪も心かな? 先生、かなり重症かも…」。微妙に声のトーンを上げて冗談めかしに振る舞った。“ずっと以前からそう思っていましたよ”と一瞬口を突きかけたが何とかとどめた。「ストレス社会なので患者様が増えています」と当たり障りなく返した。

 「やっぱり増えているんだ。気持ちが落ちこんだり、自分自身がコントロールできなくなったり。私もしょっちゅう、病気かな」。女は男の前では見せない幼い感じで話し続けた、妹が姉に甘えるように。「具体的な症状とか、どこかが痛いとか、あるの?」。女医は出来の悪い妹に問いただす口調に変わっていた。「言ってもいいのかな、自分のことだからいいか」と言ったあと、具体的な症状を連ねた。「月のものが半年ないし、朝は起きられないし、頭が痛いときも多いし、胃が痛いのはいつものことだし、最近ではふらつきがあって…」と言ったきり、下を向いて黙り込んでしまった。

 「どうしたの、大丈夫?」。女医が心配げに女の方へ顔を向けると青ざめた表情で「ソファーに座っていられないときがあるの。テーブルを両手でつかんでいないとベランダへ出て、飛び降りちゃうんじゃないかと」。続けて喉に詰まったものを吐き出すかのように「それと、同じ夢を何度もみるの。首を絞められて…」。さすがにそのあと、言葉が続かないようで、微かに身体が震えているのがわかった。マスターがアイスピックで氷を砕く手を止めた。問診でよくある話だったが、こうした場で聞かされるとマスター同様、どうしていいか。かける言葉はなくてもしぜん、彼女を抱き寄せていた。


 「どうですか。体調面で変化はありませんか」。女教師は息を切らして診察室に入ってきた。普通学級に比べて時間を取られがちな特殊学級から急いでやって来たふうだった。女医の問診に対し、彼女はためらい気味に答えはじめた。「身体的には問題ないと思いますが…」。具体的にどう言えばいいのか、適切な言葉が見つからないように見えた。「寝入りや寝起きが悪くなったとか、些細なことでも迷って決められないとか、すぐの他のことが頭をよぎって集中できないとか、もうどうでもいいと面倒に思ってしまうとか、そのようなことはないですか?」。女医の方から、分かりやすい例を挙げて聞いた。

 すべての症状に該当していた。「それと、ぼんやりとした不安感というか。何に対してか、どういうものなのか、分からないのですが…」と女教師は答えた。漠然とした不安。そうしたつかみところのない、手繰り寄せようにも遠く原因に触れられない、薄暗闇の中にいるような情況。私という肉体も精神も、外も内も、その隔たりがはっきりしない、つかめない、この隔絶感、孤独感、そして焦燥感。どこにも持って行きようのない自分という虚像。いつもはごまかし帳尻を合わせているけど、それが効かなくなるとき…。この女も鬱の戸口に立っている、女医はそう診断した。

 ぼんやりとした不安で自死するのは芥川龍之介ほか作家先生の専売特許ではない。幼いころから溜め込んできたトラウマがちょっとした体調の変化で顕在化し、これまで意識下に、底に潜在していた澱のようなドロドロしたものが身体の内側へ徐々に広がっていく。突然、かたちの定かでない不気味な容器から粘着質の流動体がこぼれ落ちてゆく、堰き止めるすべもなく。気がついたら足もとに識別できない、不快な色の溶けた自分自身が広がり、取り囲んでいる。

 もう一人の私。隣にいる、並列する人格とうまく関係を取り結べるだろうか。得たいの知れない、顔かたちのない、平面でも立体でもない、特定できない、たんなる流れ。固定すれば世界が開ける、生が立ち昇ってくる、固体化が幸せを運んでくる、そして力を与えにくれる、はずだけど、ただし錯誤のなかで。否応なしに訪れる代謝を信じて、日々流れ去る時空に不安感を乗せて、常態という罪にかまけて…。

 「生徒の男の子、どうしてますか、どんな様子ですか」。女医は医学的な表現を避けて曖昧な言い方をした。精神科は、切って張ったの外科やふつうの内科と違って病名を特定しにくく、複数の要因にまたがる症例が多い。必ずしも論理的な思考方法や科学に基づく思考形態が当てはまるわけでなく、患者の内心に、その暗闇に、流動する情緒に振り回されながら診察を進めていかなければならない。女教師は少し考えるように下を向いたあと、言葉を選ぶように話し出した。「あれからも変わりなく、授業を受けて、施設でも与えられた作業をこなして…」。そこで言葉に詰まり、硬い表情をさらに険しくさせて、内側の不安をすべて吐き出すかのように。「今度は彼が死んでしまわないか、心配なのです」。

 女医はひと呼吸置いて、女教師が少し落ち着きを取り戻したのを確認して聞いた。「この前の生徒のように、自死するかもと?」。すると彼女は、身体をピクリと硬くさせて「いや、前の子のような感じではなく。どう言ったらいいか…」。それから、1分近く沈黙が流れたあと、何か意を固めたように。「幼いころから死を意識してここまで来たというか、彼にとっての死は隠避したり敬遠したりするのもではなく、常にそばにあって身近に歩んできたパートナーというか。べつに忌み嫌うものでなく、そこへ飛び込めば楽になる、救われる、そう楽園に近い存在なのかもしれません」。彼女は堰を切ったように話し出した。女医は、その分析力の適切さ、専門家を超える、その見る目に、男の子への、彼への愛を感じた。

 「向き合って話しているときの彼の目、すごく澄んできれいなのです。でも潤っていないというか、画のような感じで。私には死んでいるように見えるのです。それに彼の手、透明感のあるきれいな象牙のような感じで。ただ、光沢だけで生気がないというか、全体がそうで。笑顔にしてもそう、判で押したような、いつも同じ部分を切り取ってという感じで。周りで気づいている人はいないだろうけど、けっきょくやっぱり、心の問題なのでしょうか」

 精神科医として、どのレベルで話せばいいのか、女医は少し迷った末に真剣モードに入って、めずらしく断定調に答えた。「いまは症状を特定できない、というより、しない方がいいかもしれません。言えるのはあなたの存在、彼の中にいるあなた次第だと思います」。さらに続けて「幼いころに母親と離別して、施設を転々と、ずっと一人で、そうですよね。そうしたプロセスが精神構造の形成にどう作用したか。もちろん個体それぞれ、答えは一つではないのですが、ある一定の傾向というか、さまざまなに顕現する事象をつなぎ合わせていくと見えてくるものがあります」。女医はけっこうなレベルで、精神医学的というより、情緒の絡み合い、個体間の高度で複層的な関係性から読み解こうとした。

 “?”という反応が返って来てもおかしくなかったが、女教師は7、8割方理解しているように見えた。彼への思い、愛の力からか。女医は続けた。「少し哲学的な表現になりますが、男の子と死の関係なんですが。彼には対自はあるが対他はないということかもしれません。生を受けて意識が芽生えてこのかた、彼の中には自分自身しか存在しない。母親や父親、兄弟姉妹がもともといないというだけでなく、成長過程で対他関係を意識の外へ圧し出してきた、無意識にシャットアウトしてきた。だから、その内側に他人がいない。何人も彼の前を通り過ぎるが視認できない、意識できない。目には見えるし、外形的に認識できるけど。そうしたことを繰り返していくと、どうなるか…」

 あらためて心理学を講義するつもりはなかったし、実際そこから導き出した話でもなかった。「レアなケースか、よくあることなのか、わかりませんが、有機的であるべき生あるものが、無機質なものになってしまう。スケルトンというか、透明な身体が対象を受け止められない、スルーしてしまう。モノごとやコトどもが、その真ん中を素通りしていく。抽象的で分かりづらいと思いますが、彼を構成するのはそういうものでしょう。ガイスト、ドイツ語で精神や霊魂などと訳されますが、彼は霊気のごとく、そう幽霊のように漂っている、この世に存在しない、いわゆる“非存在の存在”なのかもしれません」。話の行き着く先が分からない、さすがの女教師もそんな表情をしていた。

 「確か中学2年生でしたね。この14年間、彼は比喩でなく字義通り、一度も地に足をつけずここまで来たのではないかと思います。母親から育児放棄に遭い、親戚の家をたらい回しにされたあと、施設にたどり着く。けっきょく、内心を“健全”に形成する機会を与えられなかった。その結果、取り巻く環境、いわゆる外ですね、他人を含めてモノやコトを“正確”に把握できない、必然的に。それは外形的にはあの無表情に出ているし、発達障害を装う内心にも通じている。彼には外界が存在しない、身体の内側で完結している。そうした無機質なものに、双方向を、意思疎通を、コミュニケーションを期待しても、ということです。いわゆる社会の中で活動すること、そこにフィットさせて生きていくなんて、彼にとって不自然で意味のないこと、それは“正常”に挑むようなものなのです」。女医は、哲学者や宗教家のような眼差しで、目の前の彼女を通り越して男の子を見つめていた。

 「先ほど、健全、正確、正常、その前に何度も存在という言葉を使いましたが、彼にとってそんなエクリチュール(文字)は存在しません。その前に接頭詞「不-」を付けることもありません。彼の内側には、感情の流れというか、情動のほとばしり、本人もつかめない、本能に根ざして流動する何ものかがあるだけです。そうしたものが内側の襞にそってうごめいている、カタチを成さずに。溢れ出ようとする流動物を、表面張力で微妙に耐え忍んでいる、いやその危うさを楽しんでいる、そう言えるかもしれません」。女医は学生時代に興味本位にかじった、不確かなフランス哲学の知識を使って説明した。「でも、そんな彼が初めて自分以外の存在、これまでなかった外界をついに発見した。そう、あなたという、かけがえのない存在を」。

 “彼にとっての存在? 初めての? かけがえのない?”。彼女は身震いがした。男の子とつながっている、それも有機的に、取り替えの効かない関係性として…。この社会に“存在”しない彼の、初めての外界に、唯一の対象になりつつある、そうした自分という有機的な存在に覚える恍惚と不安。不調の要因であるとともに何ものにも代えがたいスペシャルな存在。彼女の内側に存在する彼と、これまで彼の外側でウロウロしていた私が、同じ時空間を共有し始めている、たとえ漂い彷徨うだけであっても、そう目的がなくても、たとえ成就しなくとも。混乱しても、いや失神してもおかしくない情況だった。「私、生きていけますか」。そう言って彼女は真っ直ぐな眼差しをこちらへ向けてきた。その表情に悲壮感はなかった。


 重い足取りで自宅マンションの前までたどり着いたとき、驚きとともに既視感にとらわれて足を止めた。彼がエントランスに立っていた。彼女を連れて診察に来てから2カ月余り…。「どうしたの、ビックリするじゃないの」。そう言うと、同じように驚いた表情を浮べたあと、申し訳なさそうな引きつった顔になった。「引っ越して居ないかも、と思ったんだけど」。鍵でオートロックを外しながら、中へ入って来ようとしない彼を促すように立ち止まり“さあ”と手招きした。何度も一緒に行き来したエントランス、エレベーター、昼間でも薄暗い通路。ドアの前で距離を置いて佇む彼の姿を見て、少し寂しくなった。

 「ほとんど変わってないでしょう、さあ」。玄関先で彼の方へ振り向くと、神妙な表情をしている彼を見て、今度は何だかおかしくなり笑ってしまった。必要以上に強いていた緊張がやっと解けたのか、バツの悪そうな笑みを返してきた。「ソファーでゆっくりしてて。着替えてくるから」。さすがにペアのスリッパは捨てていたが、色違いのマグカップはふたつ、食器棚の奥にそのままだった。「彼女の具合はどう、変わりない?」。キッチンでお客用のカップ&ソーサーを取り出してテーブルに並べていると「うん、この前はありがとう。お陰さまで、大丈夫みたいで」。彼は素っ気なく、もうそんなことは…という顔をしていた。「それはそうと、安定しているの?」。彼の体調の方へ話を向けると、薄っすらと笑みを浮かべるだけだった。

 様々な思いやイメージが頭の中に浮かんでは消えていく。さっき意識に上ったマグカップもそうだけど、このクッションも、奥の部屋のベッドカバーも、ローチェストの上の小物も…。そういえば彼といたころのままだった。彼がこの部屋にいるから? 意識の外へ置いていたモノどもコトどもがふたたび、この内側へ入り込んできて、じんわり染み渡っていく、そんな感じ。「病院で診てもらっているの? もうその必要ないの? 何もないけど、どうぞ」。コーヒーにお菓子を添えて出した。

 「よく覚えているね、これ、この部屋でよく食べた」。自分の病状を聞かれているのに、どこのスーパーでも置いているソフトケーキを手に取って…。そこかよ、と思わず吹き出してしまった。「そうだったかな。買い置きしててよかった」。苦笑してそう返すしかないこっちに気も止めず続けて「僕はいまでも好きだよ…このケーキ」。さらにさかのぼる、彼といっしょにいたころに、連れも戻されていく、あのころの私に。

 「しつこいけど、薬は飲んでいるの?」と精神科医に戻って尋ねた。「うん」と彼はうなずいた。何をどのぐらい飲んでいるのか、通っている病院の医者は何といっているのか、具体的なことを聞こうと思ったが止めた。彼の表情や素振りで、かなりの程度分かったし、何よりここに来ること自体、そんなにいい状態とは言えないのだろう。「かわいい彼女がいるんだから、しっかりしないと」と思わず口にして後悔した、言わなくてもいいのに、元カノとして? 少なくとも医者として失格…。彼の表情をますます暗く険しくさせないか、心配していると「ああ、そうだね。そう、しっかりしないと…」。自分に言い聞かせるようにつぶやく彼を見て、胸の奥がしめ付けられる思いだった。いまの彼にそんなこと…。

 こうして並んで座っているだけで、付き合っていたころの思い出、過去の映像が断続的に、でもクリアに脳裏をかすめていく。いまの彼でない、私と一緒だったころの彼。好きな彼の横顔を見たかったが勇気がなかった。ただ、内心に浮かぶ彼を好きな角度から眺めていた。このソファーでじゃれついて、キッチンで並んで洗いものをして、寝転びながらテレビを見て、ベランダで一緒に青空を切り取って、そしてベッドで抱き合って…。思い出さなくいいコトどもまで、顔を赤らめながら、頭にめぐらせて、昔の彼を感じながら。どの時空にいるのか、どこに漂っているのか、彷徨っているのか。こんな心身の乖離なら、と彼女はいまの思いをしっかり抱きしめていた。

 「もう帰るよ、今日は急にごめんね」。語尾に「ね」をつける、彼のやさしい話し方は変わらなかった、久しぶりに癒された。「うん」と言って玄関から彼を送り出そうとした。すると、彼はどういうわけか身体を寄せてきた。そう、抱き合うというより軽いハグ、別れ際のあいさつ? 彼がそんなことする? 「彼女に怒られるよ」と押し返した。「ごめん」と彼。恋愛のことで疲れているのか、持病が再発して苦しんでいるのか。精神科医にも判断がつきかねた。「何かあったら電話でもメールでも。今日のように来てくれても」。そう言って軽く肩を押した。彼は少し泣きの入った、いつものやさしい笑顔を見せてエレベーターの方へ向かっていった。

 けっきょく彼は、何をしに来たのか。肝心なことは何も話さず帰っていったのか。たんにふらっと寄っただけなのか。もっと突っ込んで聞いてあげればよかった。自分の部屋なのに一人残された感じがした。きっと彼女とのあいだに何かあったのだろうけど、それはきっかけに過ぎず、ここに来た本当の理由は彼にも分かっていなかったのかもしれない。だから、彼に成り代わって想像し、答えを探し求めようとしても…。かんたんに終わりそうにないので、その辺りで止めた。仕事でもないのに、身体がもたないと思った。ただ、会いに来てくれてうれしかった。別れて2、3カ月は彼のことがしぜんと頭に浮かび、振り払うのに苦労した、たいていの女子と同じように、そして半年も経つとほぼ消えていって。引きずっていないつもりだったが、ほとんど変わっていない彼を見て、好きだったころの感情がよみがえり、何とも整理のつかない感情に戸惑った、これもたいていの女子と同じなのだろうけど。

 元カレのお陰かどうか、あれから2週間以上、気持ちの落ち込みがほとんどなく、めずらしく安定した日々を送っていた。精神科医は、片時も離れない自己、自分自身という、やっかいな患者と日々向き合っている。自同律、私は私であることから抜け出せない、もちろん誰しもそうなんだけど。でも、一番身近な患者、私という基準に則って正常に振れたり、異常に振り戻されたり、そのはざ間を行ったり来たりしなければ、この生業は成り立たない。そう、真ん中辺りで、ニュートラルに構えていると、商売上がったり、多くのものを抱え込んだ患者の内心へ入っていけない。でも、つい振り幅が大きくなり、うっかり行き過ぎてしまうと、泥沼に足を取られてしまう、ミイラ取りがミイラになってしまう。その塩梅が、心身のコントロールが途轍もなく難しい。精神科医といっても生身の人間なので、そうかんたんにはいかない。良くないとは思いつつ、きついクスリに頼る機会が増えていく、精神の平衡を保つために、どうしても…。

 「先生、次の患者様よろしいですか」。看護師の声でわれに返り、パソコンから目を離して入り口の方へ向いた。入って来たのは彼だった。初診の患者が書き込む問診票で氏名欄を見落としていた。「どうしたの、ビックリするじゃないの」。マンション前で再会したときと同じ言葉を口にしていた。横に控える看護師の目を気にしながら、慌てて問診票を手に取り患者の彼と向き合った。「3年前から調子が悪くなり、少し持ち直してはぶり返す、ということですね」。“別れてすぐじゃないの”。「具体的な症状として気分の落ち込み、気力・集中力の低下、それに…」。“別れる半年前には薬が要らないほど改善していたのに”。「6年前にうつ症状を発症した、と」。“そう私が診断したのよね、あなたの家で”。

 彼の症状は悪化していた。「お薬、出しておきますね。お大事に」。この前、久しぶりに会ったとき、良くないとは感じていたものの、あらためて診察するとうつ病を再発していた。発症して数カ月後、治療を始めたころに戻っているように思えた。彼は、気だるそうに重い身体を持ち上げ、軽く頭を下げて出て行った。あとを追って支えてあげたかった、横に寄り添って。やさしく包んで慰めてあげたかった、打ち震えた、崩れそうな内心を。そうでなくても細身で寂しげな背中がさらに小さく見えた。いつか消えてなくなるのではないか。そう感じたのはこれが初めてではなかった。

 早く連絡を取りたかった、できれば会って話したかった、医者としてでなく。だからと言って、外来後のルーティンをおろそかにはできず、今日診た患者のカルテを確認し、あとで気がついたことをパソコンへ打ち込む作業が残っていた。診断が妥当だったか、診立てに間違いはなかったか。一人ひとり患者の顔を思い浮かべて、各々の精神状態やその構造、背景などを分析した。こうして頭をめぐらしているとき、ある種の慰めというか、ただ気を紛らわせていただけだろうが、不を不でくるめて、非を非でくだいて精神の安定を得ていた。患者の様々な症状で意図的に頭をコンプレックスさせる、麻痺させる、病んだ自己から目をそらさせる、一時的に自分自身を忘れさせる―。必ずしも適切な処置ではなかったし、緩和策にすぎなかったが、女医には欠かせないプロセスだった。彼のカルテを前にキーボード上の手が止まった。振り払えない感情が邪魔をして精神分析がなかなか進まない。やっぱり他人事のようには、客観的な診断をできそうになかった。

 “よく来てくれたね。ゆっくり治療していきましょう”。彼にそうメールした。これから診察のたびに彼と会うことになる、いや会える。きっと1年はかかるだろう、いやもっとみて置かなければならないかもしれない。けっこう大変な治療と見越していたが、その一方でこちらの症状はきっと緩和するだろう、薬も減らせるだろう、ときに使っている非合法のクスリも止められるかもしれない。自分勝手に思いを引き寄せて、心の内でニンマリしている自分に罪悪感を覚えた。寄りを戻すつもりはなかったけど、少なくとも当分のあいだ、彼を感じられる…。2、3週間に一度、彼が会いに来てくれる、いや治療に訪れる。それだけで励みになり、強力な精神安定剤になってくれそうだった。定期的に彼を確かめられることが何よりの癒しだった。

 3年前、彼と別れてうつ症状は悪化した。改善の糸口すら見出せない状況が続いた。一時期勤めていた大学病院で治療を受けたこともあったが、うつに陥った精神科医を治す薬、療法はなかなか見つからなかった。診察では、医者でなく患者に徹しようとするあまり、意識が過剰に反応し不自然な言動に陥る始末で、それに医者同士ということで妙にぎこちないやり取りになりがちだった。特に精神疾患の場合、医者に対する信頼感、心をあずけられる構えが治療に欠かせない。医者が医者に信頼を寄せるのは容易なことではなかった。

 うつにかかっている患者の私を、精神科医の私が診察する。けっきょくはそれしか、この辛い状況から抜け出す術はないのか。うつであることを意識し、気分の落ち込み、ふらつき、地に押し付けられるような重圧感、自死への衝動まで、自覚して逃げずにしっかりと受け止める。脳の機能をはじめ気質的な欠陥がないことを確認できれば、あとは気の持ちよう、自分自身がそうさせている、たんなる気のせいと考えるように仕向ける―。医学・生理学から離れた心理療法だったが、セルフコントロールの立て直し・強化という意味で試してみる価値はあった。

 社会の進展に伴って、多様化・複雑化の深化につれて、表層の厚みばかりが増すことで、内心が削られ空洞を穿たれて、鋭敏で虚弱な内奥の襞に触れる、精神に、魂に、心に、抱えきれない大きな負荷がかかっていく。そんな荒涼とした世の中で、資本主義社会の容赦ない責め苦が常態化する中で、前向きに生きていこうと思えばふつう、薬剤が、ドラッグが必要になってくる。高ぶる神経を抑える鎮静効果と落ち込んだ気分をハイにする覚醒効果。神経に繋がる脳細胞の一部をターゲットに投与する処方薬と、常習性が高く強い幻覚を引き起こす、いわゆる不正薬物との境、合法と非合法の境界線はどこにあるのか。その線引き自体が科学的に可能かどうか。女医は自分の症状に照らして、服薬の限界を感じていた。大脳皮質など脳細胞のなかで特に情緒をつかさどる部位の変異の状況、内外の取り巻く環境の変化と推移、その外的原因となる社会制度の構造的な要因と問題点、さらには他者との有機的な関係性と矛盾点…。そこまで遡及してはじめて原因が明らかになるのだろう。だから、心理学的なセルフコントロールが、いわゆる認知行動療法の重要性があらためて強調されているのかもしれない。

 診察後にいろいろと考えをめぐらしているとすぐに時間は過ぎていく。臨床の現場で患者から得たヒントをもとに既存の理論を応用して新たなパースペクティブを切り拓く。こんなこと年に一度あるかどうか、めったにないことだけど、ただそうしたときは一時的に前向きになれるというか、代わりに躁症状が出ているだけかもしれないけど、うつ症状を改善する有効な方法が、もしかしたら明るく生を肯定できる機会が訪れるのではないか、そんな錯覚に陥ってしまう。このあとに続く日常を、これまでと違う感覚で、そう、ゆっくりと優しく流れる時間に身を委ねて、漂う空間に心地よく寄り添って…。けっして実現しないだろう、夢想を見ることで癒されて、クスリに頼らず日常に向き合えたら、と。

 うつ症状をはじめ精神疾患の治療でポイントとなるのが身体の内側と外側、そのバランスをいかに保つか。自我とか精神、心や魂などと称される、内にあってつかめない不確かな未定のものと、時空間に抱かれている外の、これもはっきりと定義できないベースというか、枠のような、それでいて流れ往くもの、そこにあるモノたち、私たちの外殻を含めて。これら二つの世界がときにせめぎ合い、ときに和合して成り立つのがこの世の中で、そこに放り込まれて、さあ生きなさい、と急き立てられるのが社会ということなのだろう。

 どう折り合いをつけていくか。内と外、無限のバリエーションの中でその時々の最適解を求めて右往左往、けっきょくは消耗、消尽に終わってしまう。ときに停滞しながらも低速にしか進めない、出来の悪いものどもはこの過酷な世界でどう生きていけばいいのか。否が応に押し込まれ、型に嵌められて、有無を言わさず、奴隷のように従わされて、という優勝劣敗、適者生存の厳しい原則により淘汰されざるを得ないのか。いや、そこに潜在する、未知の可能性を開放する、そこに賭けて、それこそ自由へ向けて…。邪も、悪も、淫も、劣も、卑も…そうした怪しくも(反)作用するモノどもコトどもに間口を与え、生き永らえさせて。傾向的に漸減していく、そのスペースを、それらが生息する領域を保ち残しておかないと、内外のバランスが崩れ去り、元も子もなくなる、精神と肉体が、心身が、全体がバランスを失ってしまう。善悪に象徴される二元論を排して、一緒くたに融合とか、流動とか、時空を超えた可能性を唱えて、それに賭けてみるべきなのか。そこから見えてくるものは…。

 私という患者、その病んだ精神に振り回され、生と死のあいだでさまよい、浮遊する。常に制御不能な、この得たいの知れない構造、身体。枠の中に収めることの快と不快…。血液やリンパ液、組織液など体液と、筋肉や腱、脳髄・神経など細胞が網状組織を形成し、数え切れないエレメントが、ある一定の方向へ、正のベクトルに沿って調整・調和され、見事なまでに有機的に組成していく。その適合・整合・均衡に反作用を及ぼす外来者の到来に、内なる襞にそって生じてくるズレに、取るに足らない微細な変異に、流動する可能性を秘めているかもしれない端緒に、どう対するか。その対処療法がいつまで経ってもわからない。内側のどこかに地虫が這っているような不快感、果てなく延々と続く坂を下る不安感、生(正)のベクトルへと囃し立て強いる焦燥感。自縄自縛、自家撞着、二律背反を収める方策は探してみたところで…。

 「もう、それぐらいで」。マスターの声に引き戻され、カウンターの冷たい触感に意識が戻った。「いま何時?」。腕時計を見る動作を忘れていた。「そろそろ1時ですよ」。いつもの会話が今日の終わりを告げていた。最後はウイスキーのシングルを出して、マスターはそれきり、奥の部屋へ姿を消した。カウンター以外、照明を落とされた店内で独りとなった。間違いなく明日は近づきつつあった、いやもう来ていた。この私、この精神、この身体、この構造、この統合、この作用、この浸潤、この反-、この…。耐えられるだろうか。明の、正の、適の、合の、透の、清の…。いつも繰り返される思考の流れに、朦朧としながら耐え忍んだ。

 正面に横付けされるタクシーの気配、マスターのため息と意外にも筋肉質な感触、車内に漂う煙草の残り香、時折網膜に感じる対向車のヘッドライト、必要以上に照度の高いマンション入口、狭隘な空間で安心する自動昇降機…。歪む通路の真ん中のつもりで、手につかない鍵と、冷たい気息が漂う玄関、肩に擦れる廊下の壁の音、ベッドに軋む身体と精神の残骸、浮上し離れていく意識の戯れ、緩慢に訪れる静寂と滞留、夢へとつなぐ無意識の動き、つかみ切れないもどかしさ、時間と空間に対する変わらぬ嘔吐感…。必ず来る明朝に、いやそうとは限らない異次元の推移に、彼女の呪縛、精神に助けを求めようにも…。


 今日は男に会う日だった。「いつもの場所でどう? 7時とか」。男はそう言った。「了解です。それでは7時に。楽しみにしています」。通話を切ったあと、あらためてケータイのメモ欄で確認しなければならなかった。この男とは大型ビジョンの下で、あの男とは大通りの喫茶店で、また別の男とは駅前のモニュメントの辺りで…。「顧客リスト」には15人前後の男たちがアップされていた。メモには、初めて会った日と待ち合わせ場所・時間のほか、職業・役職・年齢・背格好などの基本データ、あとは癖や好み、印象、それに感じたこと思ったことまで、面倒くさがらずに入力し、小まめに更新した。さすがに収集した昆虫のように番号をふって分類することはなかったが、20人を超えれば、そういう整理の仕方も必要かもしれない、そう思いながらケータイをテーブルにころがした。

 自由自在に声のトーンを上げる術はすぐに身についた。ホステスが普通にしている初歩的なこと、いまの若い子ならしぜんと気づかずにやっていること。ただ相手の期待値にそって微妙に強弱や高低をつけるのはなかなか難しかった。でもそれも、たいして長くかからず身についたし、男の特性に合わせて態度を変えることくらい、深夜ドラマに出ている俳優より長けていたし。カメレオンのように面相をくるくると、内心を自由自在に変えて楽しんでいるふうでもあった。それは、たんに本当の自分を見ずに済むから、そこに醜悪なものを感じずに居られるから、心身のバランスを取るために欠かせないから、こうして生きるために必要だから…。本末転倒に違いなかったけど、それが彼女の、結婚詐欺師としての安易な、でも過酷なリアルだった。

 待ち合わせ場所に男の姿があった。こちらに気づいていないようだった。約束の時間まであと10分、立ち止まり物陰から様子をうかがった。その距離30数㍍ほど、会っているときは見せない表情や仕草、ちょっとした振る舞いが参考になった。ほとんどの男が善良で、見るからに裏表があるようなケースはまれだったが、日ごろ真面目で優しそうな雰囲気の男が腕の組み方ひとつで悪そうに見えたり、ワイルドな感じの男が背を丸めて卑小な感じでケータイに集中していたり…。ちょっとした意外性を見るのが楽しくて役にも立った。今日の男はそんなズレを感じさせることなく、ただぼんやりと佇んでいた。10分プラスアルファ3分が経過した。笑顔で小走りに駆け寄り、少しつんのめるように男の腕の辺りに軽く肩を当てた。

 “うまく引っ張ってもけっきょく7、80万程度、100万にはいかないだろう”。その程度に、男を見極めていた。今日は早めに切り上げよう、男の食べ方も気に入らないし。めずらしく“仕事”に集中できず、あまり笑顔もつくれなかった。この男とは今日で4度目のデート。そろそろ次のフェーズへ、ぐっとステージの真ん中へ誘い込んでもいいころだった。“正式に付き合ってほしい、結婚を前提に”と緊張した面持ちの男にそう言わせて。“出会ったときからそのつもりでした”と初めての男に対するように下を向いて。なによりもタイミングが肝心だった、それが成否を決する、すべてといっても過言でなかった。話の流れで? 意表を衝いて突然に? どちらでもよかったが、そうした雰囲気づくりに集中すること、男を前のめりにさせる状況を演出することに全精力を傾ける、素知らぬ顔をして、でもビジネスライクに。

 男が、これまでと違う、前の三回と異なる、妙に言葉かずが少なくなり、たいして暑くもないのに額に汗して、顔を引きつらせて緊張しているのが手に取るようにわかった。女は、このタイミングで飛びっきりの、やさしい笑顔を投げかけた。“シナリオ通りに、さあ”。「………………」。でも、男はなかなか言葉にしない、その心的状況はこちらの思っている通りのはずなのに。あともう一押し必要ってこと? “思ってた以上に面倒な奴、いい加減にしてよ、世話かけやがって”。慎重なのか臆病なのか、そのだんまりにきつい駄目押しをしていた、もちろん表情に出さず笑顔のままで。もうこれ以上は、それこそタイミングが、また次の機会に、焦りは厳禁…。

 「もうこんな時間、そろそろ…」。あくまで笑みだけは残して、引くところは引いて、今日のところは。べつに急ぐ必要もないし、そのレベルの男なんだから。気になる男からのメールだった。“覚えておられます? 1カ月ほど前にパーティーで…”。婚活の場にそぐわない、あの男からだった。すぐそれとわかったが、仕事の相手じゃないと、そのままにしていた。冴えない男たちの中でスマートに振る舞う、それでいてあくまで控え目、無駄のない見事な身のこなし。その男は会場の女たちの視線を一身に浴びていた。一番人気だったろうが、カップルとして成立しなかった。意外にも選ばれなかった、残された男たちの中に彼が入っている、女たちはそう彼に一瞥しながら会場をあとにした。“…あらためてお会いできないでしょうか”。メールはそう続いていた。“分かりました。来週の半ば以降なら大丈夫です”。用件に対して簡潔、率直に。仕事以外のメールは久しぶりだったが、同じような感じで返信した。

 彼はスーツ姿でやってきた。自営か、それも自由業と勝手に思い込んでいたので少し拍子抜けした。チャコルグレーの上質な上下にシックなネクタイ、磨き込まれたベーシックな黒の革靴。往時の銀行員を思わせたが、妙に決まり過ぎていた、逆に堅気に見えない怖さを感じた。「お待たせしました、すいません」。約束時間の5分前だったが、彼はそう言って申し訳なさそう顔をした。こちらは仕事じゃないので時間より早めに来ていた。「いや、私もいま来たところで」。さり気なく手で促す方向へ、彼のあとに付いて行った。「予約しているのですが、洋食でいいですか?」と立ち止まり振り返った。「はい」。同じように足を止めて、ときめき感を抑えて、表情を変えずに。そうしていたつもりだったけど…。

 高層ビルの上階に入るフランス料理店。夜景がきれいな席へ通され、彼と向かい合った。「ワインにしますか」。うなずくとタイミングよく給仕が現れてリストを開いた。彼は如才なく選び、こちらに笑顔を向けた。「婚活パーティーって緊張しますね。初めてだったので、特に」。料理が運ばれてくるまで、それとはなしに自己紹介しながらしゃべり過ぎないよう、こちらへ話を向けるのも忘れない。「何度か参加しましたが、これまで一度も成立しなくて」。そう返すと彼は「それは良かった、いや良くないですよね」と軽く声を上げて笑った。続けて「誰かに取られていたら、こうして食事できなかったでしょうから」。

 第三者が聞けば気障な台詞も、この状況で、このさり気ない紳士に言われた身にはごく自然に聞こえて。あまりにもきれいに嵌まり込んでいて、要注意の信号が点っているのに、女を落とすステレオタイプもいいところなのに、このシチュエーション、いつもの私なら…。彼の話では、商社で石炭や鉄鋼など資源材料を扱い、中国や韓国などアジアへの出張が多くて、ここ3、4年は月の半分以上を海外で過ごしているという。「こういう生活を送っていると、どうしても女性と出会う機会が少なくて…」。今回思い切ってパーティーに参加したと言うのだが。「おもてになられるでしょう? 国内はもちろん海外でも」。率直な印象で返すと、彼は初めて大仰に手をかざして「もうこの歳ですよ。それにたいして楽しい話もできないし」。それが常套手段と気づくのは、だいぶ後になってからだった。

 これまで、女性をエスコートして様になる男と知り合ったことがなかった。どこか、こそばゆい感じもしたけど至れり尽くせり、やはり気持ちいい。「また、会っていただけますか」。そう言われてノーと答える女がいるだろうか、このそつのない男に対して。ただ、自分を鑑みればどうも話がうまく行き過ぎている、冷静に考えればこの男、あまりにもスマートでまとも過ぎる、だからどこか胡散臭い。逆に警戒されてしまうかもしれない、多くの女に“この私に、なぜ…”と。それでこれまで独身だったってこと? いや、そんなはずは…。

 どこかおかしいのはわかっていても、なかなか見切れない、自分に都合よく見てしまう、考えてしまう。“思い過ごし。これまで待った甲斐があったじゃない、人生に一度はこんなめぐり合わせも、白馬の王子ってことも…”。たいていの女はそこに一縷の望みを託して、そう信じようと自分に強いて。男を騙す生業の女でも、ここはうまくコントロールできなくて、いや、そうとわかっていても、ここは“まあ、いいや”と口車に乗って、頭ではわかっていても夢遊病者のように誘われて。「ええ、こちらこそ。これからもよろしくお願いします」。女は下を向いたまま、恥ずかしそうに答えた。

 あれから3週間、男から何の連絡もなかった。仕掛けて来ないところをみると、同業者ではなかったのか、いやそうと見せておいて、油断させて。清潔感があって低姿勢、嫌味がなくクレバー、そして見た目もいい男すぎることなく。結婚詐欺師としてやって行ける素養十分、スカウトしたいぐらい、二人で組んで荒稼ぎ、男女混交のハイブリッドな詐欺の新しいあり方を…。そんな妄想に嵌まっていると、メールが届いた、通じ合っているのか? 彼からだった。“いま上海にいます。北京同様、空気が悪いので閉口です”。来週日本に帰るので会ってくれないか、ということだった。話の通りなら、仕事で忙しいらしい。ところで発信場所はどこ? ほんとうは日本じゃないの? 疑い出したら切りがないので、ここは“お持ちしています。無事の帰国、お祈りしております”と。女詐欺師はとりあえず、そう返信した。

 “どうかした? 最近、連絡くれないけど”。メールアドレスを確認してもすぐにどの“お客さん”か、分からなくて。あの神経質そうな男? いや中肉中背で特徴のない銀縁メガネ男? 話にならない小太りのマザコン男? それとも…。顧客が増えるにしたがって、トラブル処理が肝心になってくる、そう、遅滞なく的確に。極力まんべんなく、急に頻度を落とさないように、メールも接触にしても、でも、どうしても手薄になる男が出てきて。お金になりそうにない男は適宜切って、すぐに補うようにしてきたつもりでも。その見極めが簡単に上手く出来なくて、ビジネスとして効率が悪かったけど、それも必要なコストと考えて。うまくいっている、上手に転がしているときも、それはそれでけっこうな注意が要って。対応がぞんざいになりがちで、小さなことも大きく、問題になってしまって、その処理を間違えると、面倒なことになって…。

 “ごめんなさい、心配かけると思って。母の具合が悪くて…”。手駒が手薄になると、陳腐で出来の悪い駒でもいつかは役に立つかと、切り捨てるのに躊躇して。でも、タイミングよく使い勝手のいい駒が回って来ると、手のひらを返すように、ハイさようならと。それが原理原則だったけど、現実は、現場ではこれも、そう簡単でなくて、金回りの悪くなった男を捨て去るには、けっこうな思い切りと、繊細な対応力が求められて。突然、電話をかけてきて「貸していた金、返してくれる?」といった、お門違いの事故もあって。“こっちは借りてたつもりないのに。たしか借用書もなかったはずだけど…”。けっして角の立つようなことは言わなかったけど、この男にはどんなごまかしが効くか、どう言い逃れしようか、瞬時に頭をめぐらせて。「ごめんなさい。お陰さまで弟も助かりました。これからは家族くるみで…」。うまい文句が見つからなくても、少し視点をずらした、あえて辻褄の合わない、相手に“?”と思わせるフレーズを投げて、様子を見て、どうにか肩透かし食わして、少しの猶予を得て…。このあとすぐに、ショップへ向かって、アドレス変えて、抹消して、それでも不安ならケータイ自体、キャンセルして。

 足がつく心配はなかった、男が金を貢いだ女は“実在しない”のだから。身元のひとかけらでも知られたら、この稼業は成り立たない。きっと男は記憶をたどって必死に捜し出そうとするだろう。でも、その糸をいくら手繰り寄せても女へ行き着かない、そういうカラクリになっているのだから。“そんなはずはない、でもよく考えてみると…”。もうその時点で手遅れ、騙されたと気づいて地団駄を踏んでも、あとの祭り。“結婚まで言い交わしたのに。急に連絡がつかなくなるって、どういうこと?”。初動が遅れてけっきょく取り逃してしまう、女もお金も。男の側からはそんな感じだったに違いない。そのあとに怖いのは警察沙汰だったが、それも100万円以下なら途中で面倒になるのか、格好悪くて周りに相談もできなくて、警察に被害届を出そうにも証拠がなくて、そんな女はどこにもいないことに気づいて…。そんなわけで、けっきょく諦めざるを得ないってことに。もちろん水面下で、表立てにならずにヒヤッとしたことはあったろうけど、これまで女の身辺に捜査の手が延びた例(ためし)はなかった。

 でも用心深く、暇を見つけては引越しを繰り返した。大商いでない限り、居場所を特定されるような持って行き方はしなかったし、タクシーで送ってくれるときも、1ブロックどころか2ブロックも手前で降ろしてもらうようにしていた。酔った勢いでどうしても自宅マンションへ上がり込もうとする男に対しては、さすがに“田舎から弟が出て来ているから”とホステスのように見え透いたことは言わなかったけど、ここは生理をイメージさせる体調不良のニュアンスを漂わせて、常道のあしらい方をした。プライベートでも男を自宅に上げることはめったになかった、そうした恋愛しかして来なかったと言えば寂しくもなるが、男はあくまで手段、目的でないと割り切っていた、そのつもりでいた。

 例の男は、会うなり爽やかな笑顔で上海土産を手渡してきた。「たいしたものじゃないですけど」。小さな包みだったのでそのままバッグにしまい、お礼を言った。「上海って物価高いでしょう、東京より高いって、よく聞きます」。少し前を歩く彼の背中に話しかけた。「現地で物を買わないよう心がけています。質の悪いものも多いですから」。彼は振り向いて、少し眉をひそめて、それでいて穏やかに答えた。「この前は初デートだったので気負い込んでしまって…」。三色旗を掲げた、よくあるイタリアンレストランの前で。「正直、コストパフォーマンスもいいですし」。逆に率直でしぜんな感じに好感をもった。「隠れ家的な雰囲気がいいですね」。そう返したあと、彼と顔を見合わせて奥の席へ向かった。

 よく考えたら、彼の年齢も、趣味も、住んでるところも知らないことばかりだった。仕事じゃないのだから、勢い込んで情報収集する必要はなかったけど、スムーズに話ができなくなるようでは、意識し過ぎているわけでもないのに。だからと言って、完全にプライベートって感じでもなくて、なかなか警戒が解けなくて、相手の言葉ひとつに過敏に反応して、裏の意味まで考えてしまう始末…。それって、こんな仕事してるから? もう普通の男女関係を築けないってこと? 男を手段として、いいカモとしか、金の成り木に例えて、そんな構えでいるから? それこそ恋だの愛だのっていうところから離れすぎていて、もうそんな感覚が微塵もなくなって? この男を前にしても、彼と向き合っていても? 自業自得ってこと? きっとそうなんだろうけど。

 微妙なスタンスで臨んでいた。自然な流れのなかで、お金の匂いがすれば仕事になるかも知れないし、そうじゃなくても今回は構わない、当初はそんな感じだった。デザートを待つ間、少し会話が途切れて「仕事はどうですか、楽しくされていますか」と彼。男によって5つぐらい職業を使い分けていたので、一瞬言葉に詰まった。「ええ、仲のいい女性社員とごはん行ったり旅行したり。あっ、ごめんなさい、お仕事の話でしたね」。答え方がおかしかったのか。「いいですね、会社で楽しみを見つける。皮肉でなくてホント羨ましい」。どう返したらいいのか、迷った末に、自虐的な言い振りになってしまって。「婚期が過ぎた女同士、言葉は悪いですが傷のなめ合いのようで」。彼は真面目な顔で反応した。「そういう言い方はよくないし、らしくない。これからじゃないですか」と真顔に。“らしくないって? そんなに私のこと知らないくせに”といつものように突っかかろうとは露にも思わず、調子を外されて、ただ身体を硬くしてデザートに向かうだけだった。


 “先生、話があるのですが、授業のあと時間ありますか”。非常勤で養護学校(特別学級)の教諭を務める女のケータイに男の子からメールがあった。あの事件のあと、アドレスを交換していたが、彼からは初めてだった。“いいですけど、どうしたの? それじゃあ、明日の放課後にでも”。いつの間にか、愛猫がソファーにちょこんと座り、めずらしくこちらを見ていた。メールを返信したあと、彼のことを思った。生徒が自殺して半年が過ぎていた。関係者の誰もが忌まわしい出来事を忘れ去ろうと、意識の外へ置こうとしているように見えた。彼女も、事件直後に感じた彼に対する、ぼんやりした疑惑を振り払おうと、いやそうしようにもできないので、頭のどこかにしまい込み、思い起こさないように蓋をしていた。高校進学の相談なら、ちょっとした友だち関係の悩みなら、こんなに構えなくても、気も楽なんだけど…。

 「今日はこれで終わります。あしたも元気で勉強しましょうね」。知的障害者を対象とする特別学級は少人数で10人に満たなかった。だから、どうしても生徒一人ひとりへの思い入れが強くなりがちだったが、あの事件以来、彼への思いはさらに深く特別なものへ、教師と生徒の関係を超えて、かどうかはわからなかったけど、彼女の中で増幅して、このあとも加速していきそうで、制御不能になりはしないか、不安だった。彼は、小学生レベルの内容にもかかわらず、真っ直ぐ前を見て授業を受けていた。“退屈だろうに。何を考えているのだろう”。彼の顔が目に入るたびに雑念が頭をもたげて集中力がそがれた。彼とは駅前を避けて大通り沿いのファミリーレストランで落ち合うことにした。生徒と二人きりで飲食店に入ること自体、問題なしとは言えなかったが、非常勤だし、これからずっと教師していくかもわからないんだから、そこは杓子定規に考えなくても。都合よくそう考えた。「どうしたの? 話って、進学のこと?」。そう話しかけると、彼は下を向いて首を振った。

 「それじゃあ、この前のこと?」。そう言ってすぐに後悔した。「ごめんね、思い出しちゃうよね」。顔を引きつらせていると、“そんなことでなくて…”というように、また首を振った。こうなれば、柔らかい表情を意識して彼の言葉を待つしかなかった。テーブルの向こうにいる彼は相変わらず無表情だったが、いつにもましてクリアで透きとおって見えた。この世の現象はもちろんのこと、時間の流れや空間の隔たりも彼にはさほど障害でもないように、少しのハザードでもないかのように。時空間を超えていたかどうか、異次元へスケープしていたかは別にして、彼はおもむろに言葉をつむぎ出した。「死への憧れというか、そこへ引き込まれていく感覚の心地よさが、とっても…」。内心の深いところを、彼特有のニュアンスで語り始めた。死んだ生徒ともこうした会話をしていたのだろうか。「死が身近にあるという感じ。死を意識しているときが一番、ほんとうの自分で居られるというか…」。親に捨てられてここへ来た子には程度の差はあっても共通した感覚だという。「クリアな、ピュアな感じの子なら、その対極の生に耐えられなくなって当然というか、彼もまた…」。

 その死因について、男の子なりに説明しているのだろう、その哲学風な、中学生には思えない言葉遣いで。不思議と違和感を覚えなかったが、ということは…。彼が、あの子のあとに続く? あとを追ってと言うわけじゃないだろうけど。そういう帰結にならざるを得ないのではないか、そうとしか…。しぜん身体が震えた。彼女はこの機会に、ずっと疑問に思っていたことをぶつけてみた。「聞いてもいいかな。なぜ養護学校にいるの?」。普通学級の子以上に勉強できるのに…。どんな答えが返って来るか、少し怖かった。今度は間を置いて、言葉を選びながら話し出した。「気がついていると思っていました。でも先生、ずっと誰にも言わなかったし、だからこのままでいてもいいのかな、と思って」。構えていた身には肩透かしを食らったかたちになったが、このあと、平易な言葉で、底には深い意味がありそうだったけど、その理由を挙げてくれた。要するに、ただ面倒なことが嫌だから、レベルが違うから、ただ苦しいから、嘔吐してしまいそうだから…というようなことだった。黙って聞いていると「きっと、普通学級へ移ると今のように普通でいられなくなると思います。発達障害とか頭がおかしいと言われるだろうし。僕がいる、あの子たちの世界が普通なのに。特別なのは向こうの方、逆さまになってること、ぜんぜん気づいていない。誰も…」。そう言って、彼は下を向いてしまった、もうこれ以上言っても…というふうに。

 たんに言葉遊びをしているわけでも、勝手に論理をひねくり回しているわけでも、二項対立を強調しているわけでも、なかった。まったくその逆で、彼は感じたままに、それしかないというように、絶対的なものを提示するように、そんな感じにしか見えなかった。“たしかにこの世界、言うほどには、いや、ちょっとずらしただけで、この社会、まともじゃないの、この私でもわかるような気がするし…”。誰もが気づかぬふりをして、内側のざらついた感じを、違和感を、もっと言えば数々の異常をスルーして、それだけでなく、それに心身を沿わせようと、無理強いしているようにしか、彼女にも思えなくて、ましてや彼のような清らかに流動する存在には…。「でも、彼は次のステージへ、いち早く行ってしまった、ここに留まるのをよしとしないで」。男の子は遠い先を見るようにつぶやいた。目の前から突然、彼も同じように消えて無くなる日が遠くない、女教師はそう感じた。だからと言って何もせずに、いやできることなんてもともと…。彼女は冷静を装うと、意識をぐっと引き寄せようとしたけれど、またもアンコントロールで、無意味に曖昧な微笑を返すしか…。

 けっして真理には近づけないだろうけど、でも気を取り直して「自殺した彼も同じような考えだったのかな」。愚問のようで、核心を突いた質問のようで。「いや、彼は僕よりもっと分かっていた、敏感に感じ取っていたと思います、死の意味を。そうでないと死ねない。僕は頭で考えているけど、彼は全身で感じていた、生も死も変わりない、と。いや死の方が…」。深い沼に引きずり込まれていくような感じだった。そこで、ストレートな質問をした、この若き哲学者に。「なぜ、彼は死んだの?」。男の子は、透明さを増した眼(まなこ)を見据えて「問題は彼でなく、僕なのです。彼は僕の代わりに死んだのです。神に捧げられた子羊のように、いや自ら進んで、おのれの意志で、喜んで、笑顔をたたえて、犠牲になってくれたのです」。女教師は震えが止まらなかった。怖くなって話題を変えようと、流れを引き戻そうとしたができなかった。

 ずっと黙っていると、彼はきれいな白い指先を見つめながら「先生はどう思います? 生きていくことと、死んでしまうこと。たいして変わらないと思いませんか」。“そんなことはない、生を受けた限り全うするのが人としての…。この肉体が滅びるということは…”。道徳本に書かれているような考え方や、医学・生理学な論理は、彼には通じないと思った。「(生と死は)つながっていると思います。一方向ではなくて、双方向でもなくて、円環状にぐるぐるまわって。リフレーンを重ねて、僕のもとへ舞い戻っては…」。“どこを? あの世から彼岸からってこと? 異次元で、超越したどこかで?”。女教師は自問した。もうこれ以上は無理だった、テーブルに突っ伏してしまいそうだった、しだいに気が遠くなりだして…。そんな感じを察したのか。「僕は大丈夫です、死んだりしないから。心配してくれて…」。彼は、アイスクリームが溶けたクリームソーダを前に爽やかな笑顔を見せた。

 何かが切り替わったように、霧が晴れたのか、透明感が濁って逆に見やすくなったのか、どちらでもよかったが。「この春から中学3年生でしょう。受験、どうするの?」。やっとのことで普通に言葉を向けると、彼は“えっ”と意外な表情を返してきた。「普通高校へ行く方がいいと思うけど」と続けた。すると彼は「18歳までこのままでいたい。問題ですか」。そう言われて言葉に詰まった。“問題と言えば問題だけど…”。ここに来て、もう教師の立場から言っても、と思って。「問題ないと言えば、問題ないけど…」。それ以上、何も言わなかった、言えなかった。「今度、遊園地かアミューズメントパークに連れて行ってください」。彼は屈託ない表情で言ってきた、もうその話は済んだというふうに。女教師は戸惑いもなく返事していた。「うん、近いうちに」。女教師は冷めたコーヒーに口をつけた。

 養護学校の生徒を前に話していると、確かに気分が安定するというか、解毒作用よろしく純化されるような感覚にとらわれた。たしかに男の子の気持ちが分かるような気がした。こうして一緒にいると、知恵遅れだろうが、発達障害だろうが、総合失調症だろうが、学校という隔離区画で排除されている、彼ら、彼女らが、愛しくて、かけがえなくて、キュッと抱きしめたくなって、もっと言えば、神々しいものを前にして…。彼の言う通り、この子たちの方が普通、正常で、社会にうまく適合している私たちの方が異常でどこか狂っているのではないか。運動場で、この子らと混じってドッチボールしながら、そんなことを考えた。彼も言っていた。「あの子たちのようになりたいけど、僕はなれない。境界の近くまで行けるけど、向こう側へ行けない」。きっと彼の前には、私たちの見えない、感じられない、つかめない何かが広がっているのだろう。それは可能性へ向けた何かなのか、苦しみの源なのか。


 女は、バーで出会った精神科医のもとへ通うようになった。病気の自覚はなかったが心の内を話せる相手が欲しかった。カウンセリングの効果か、受診後はすっきりした気分になれた。「お薬、出しておきますね、お大事に」。女医はそう告げると机に向き直り、パソコンに入力し始めた。「先生、ちょっと」。診察椅子に座ったまま、女が話しかけてきた。「どうしました?」。女の方へ顔を向けると躊躇したふうもなく「話があるのですが、ここではちょっと…」。女医はすぐに合点がいき、うなずいた。「それじゃあ…」。女はうれしそうに「では、待っています」と言って、そそくさと診察室を出て行った。後ろに控えていた看護師がせかすように「先生、次の患者さん、よろしいですか」。女医は「あぁ、はい」と意識を戻して扉の方へ目をやった。

 診察後のルーティンが長引き、すでに午後8時を過ぎていた。どこかで軽く食事を摂ろうと思っていたが、そんな時間はなさそうだった。貰い物のお菓子をつまみながら、今日診た患者の症状を一つひとつ分析し、パソコンに打ち込んだ。まだ半分くらいしかできていなかったが、切りのいいところで診療所を出る口実ができて、今夜は少し気分が軽かった。それでもいつもと変わらず足取りは重く、駅に着くころには少し息が上がっていた。診療所を出て30分ほど、いつもより少し早く例のバーの前まで来ていた。女と約束していたからなのか、躊躇なく重い扉を押して中へ入った。女とマスターしかいなかった。照明の加減か、女は元気そうに見えた。横に座ると、丁寧に頭を下げてきた。「診察室じゃないのだから。話って?」。女医らしく単刀直入に聞いた。女が答えるより早く、マスターがウイスキーのダブルを出してくれた。「食べ損なってしまって。何かできますか」。そう言うと、マスターは何も言わず店の奥へ入っていった。男を手玉にとって生計を立てる女と、他人の暗闇へ入り込むのを生業とする女の二人となった。

 女はめずらしく酔っていなかった。そのためなのか、ただ話すタイミングがつかめないだけなのか、内容が内容だけに話しづらいのか、なかなか言葉を返して来なかった。「病状のことなの?」。このまま黙っていてもよかったが、カウンターに両肘をついて下を向く女に聞いた。「診療所以外で、プライベートでこんなこと、聞きたくないんだけど」。少し不機嫌にそうに続けると、女は誰もいないカウンター内へ視線をやった。「病気のことじゃなくて…」。ひと呼吸置いて「先生は子供いるの?」。こちらに向き直り聞いてきた。「一度も結婚していないし、あまり意識したことないけど」。素っ気なく、そう答えると「私、男の子いるの。他人(ひと)に話すの、初めてだけど」。今夜の女が酔えないわけは分かったが、何を言いたいのか、まだ分からなかった。

 仕事を離れてまで、他人の身の上話に振り回されたくなかったが、患者でもあり診察の延長と割り切るほかなかった、治療のヒントになるかもしれないし、そこは真面目で。「その男の子と一緒にいるわけじゃなさそうね」。そう話を向けると、女は「小さいときに捨てた。施設で暮らしている」。女は悪びれるふうもなく言ってのけた。精神科医でなくとも、この女の心の不調はその辺りに原因があると容易に推察できた。「連絡はとっているの」。そう聞くと首を横に振った。「最近、よく夢に出てくるの、かわいい笑顔で。でも…」と黙り込んだ。「同じ夢の繰り返し?」と聞き返した。彼女は「うん」とうなずいた。どんな夢なのか、聞くべきだったが診察ではないので止めておいた。話を変えようと思ったが、他へ頭をめぐらすには疲れていたし、考えを一つに集約するのも面倒だった。マスターが奥から出て来て、料理を前に置いた。「お皿もう一枚、お願いできます?」。結婚詐欺師の女の前へ小皿を置いた。

 客が何人か入って来たが、いつの間にか、また女二人になっていた。すでに午前零時を過ぎていた。「明日も仕事なので、私帰るけど」。そう言って立ちあがると「私も帰る」。隣の女も腰を上げた。気分を変えようと大通りまで歩くことにした。女も同じ方向へ付いてきた。「さっきの話だけど…」。話し出そうとするので彼女の方へ振り向いた。「子どものこと?」。そう聞き返すと「この前、調べたら居場所がわかって…」。それ切り、また黙り込んでしまった。タクシーが止まり、ドアが開いた。「取り敢えず、乗ったら?」と促した。「会うかどうか迷っているってこと?」。ドアが閉まると同時に聞いた。「どうすればいいと思う?」。そんなこと…と思ったけど。

 彼女の相談事に対し、いく通りかの答えを思いついたが、どれがこのケースにしっくり来るのか、もちろん正解はなかった。流れる車窓を眺めながら別のことを考えていた。いつもの幻影が、この内側を切り裂くように浮かび上がってきた。“あのときの子、産んでたらいくつに…”。精神科医の女は今年もそういう時期なのか、と思った。堕胎したときの情景とともに生まれて来るはずだった子の姿が頭の中に広がっていく。年を追うごとに、成長していく我が子のイメージに苦しめられた。記憶が薄れるどころか、罪の意識は年々強まっていくに従って…。潜在している、卑しく醜いモノごと、コトどもが表に出て来て、ものすごい勢いで襲いかかってきた。ただ、精神科医としてコントロールする術を少しは心得ていたため、これまで何とか持ち堪えられてきたけれど…。いつ心身ともに瓦解するか、不安に押しつぶされそうだった。

 タクシーは自宅マンションの付近まで来ていた。「ごめんね、こっちも今夜は調子悪くて」。しっかり相談に乗れなかったことを詫びてタクシーから降りようとしたとき、対向車のライトが一瞬彼女の悲しげな横顔を照らし出した。「大丈夫? 帰れる?」。心配になって顔をのぞき込むと、女は微かにうなずいたように見えた。「メールするから」と言ってタクシーのドアを閉めた。子供を産んで棄てた女と産まずに死なせた、いや殺した女。エントランスを通り抜けてエレベーターへ乗り込んだ。足元に重力がかかり、身体を持ち上げていく。吐き気を抑えた、酔いによるものではなかった。

 気がついたら部屋のソファーに横たわっていた。短い間だったが、記憶が途絶えていた。私にとって極めつきの負のスパイラル。持ち合わせている知識や意志ではどうにもならない、コントロールできる類(たぐい)のものではなかった。ただ、じっと身を屈めて過ぎ去るのを待つくらいしか…。少しでも動けば、死へ誘われるのではないか、そんな思いに押しつぶされそうだった。ソファーにしがみついていた。この不安感、とてつもない圧力。表面を被う皮膚を、外殻をすり抜けて核心部分、内心(精神)へ突き刺さる痛み。この身、この心を贖罪としてささげたかった。

祭儀での供犠、サクリファイス。どれだけ楽になるか。この身体を、個体をきれいさっぱり片付けてしまえば、焼き尽くしてしまえば、木っ端微塵に破壊し尽くせば…。でも、そんなことで罪滅ぼしになるのか、子羊のように業火に身悶えて、地獄を垣間見て、彼岸へ、あの子のいるところへ、たとえ行き着けたとしても。頭を上げると、きっとそばにいるだろう、立ってこちらを見ているだろう、私の子、その亡霊、いや精霊…。“私を許して”。ソファーに顔をうずめて何度も何度も念じ唱えた。これからも、死んだ子と、殺した子と生きていく―。そろそろ限界に近づいていた、このままでは…。

 いまどの辺りなのか。信号が青に変わりタクシーが動き出した。運転手に行き先を告げたかどうかさえ…。女医と別れてどのくらい経つのか、時の流れがつかめなかった。頭の中で、あるイメージが繰り返された。後ろ姿は確かに自分自身だった、その先に男の子の姿があった、じっとこちらを見ている、表情をなくした人形のように、そして徐々に遠ざかり、小さく小さくなっていく。でも、消えてなくなりそうになると、また最初の大きさに戻る、その繰り返し。抱きしめようと手を伸ばしても空を切るばかりで、男の子は無機質な表情を向けるだけで。その目の奥で“しっかり責めを負っているか”。そんなふうにこちらを見ているように思えてならなかった。我が子を捨てた自責の念がそうさせているのだろうか、詐欺師の女であっても。タクシーが止まった。そこは間違いなく、自宅マンションだったけど、はじめて立ち寄るような…。

 部屋のカーテンは閉めたままだった。スタンド型の間接照明を点けてソファーに身体を投げ出した。ぐるぐると天井が回っていた。タクシーで見ていた幻影の続きを見ようと、強く目をつぶった。それがつらいものであろうと、それに耐えることで、少しは罪滅ぼしになると、これまた自分本位に、思い違いして。瞼と網膜の間に仄かな明かりが入り込み、粗い画質の映像を浮かび上がらせていく。あの男の子が同級生らしい、ひとりの男の子と話していた。ときに楽しそうに、ときに顔を付き合わせて。同級生の男の子が微笑みをたたえて突然、顔を突き出した。私の男の子が無表情のまま、彼の首に手を回して…”。画像はそこで切れてしまった。女はソファーから起き上がり、大きく首を振った。脇にじっとりと冷たい汗をかいていた。どういうわけか、涙が止まらなかった。

 ソファーでそのまま寝てしまっていた。カーテンのすき間から一筋の明かりが差し込んでいた。どこか人工的で仄かな明かりは当然、明るい道筋を示しているわけではなかった。でも今朝は、二日酔いもなくクリアだった。女医にメールしたあと、久しぶりに時間を感じて悪い気はしなかった。“昨夜はごめんなさい、呼び出したのに、肝心なこと、話せなくて”。すぐにメールが返ってきた、まだ6時前だった。“気にしないで。私も同罪なんだから、いや、もっと罪深いかも…”。ケータイを持つ手が止まった。顔の近くでもう一度、読み返した。“…私にも男の子がいて、いや、いるはずだった。でも殺したのよ、この手で”。さすがにこの女にも、それが比喩で直接手を下したわけではないのはわかったが、殺意はなくてもけっきょくそれと同然の仕打ちをしてきたってこと? そう彼女も私と同罪なんだ、きっと。

 すぐに返せなかった。苦しみを分かち合っても何の償いにもならないし、いまさら慰みの言葉をかけても響かないだけでなく、嫌悪感がもたげて来るだけだろう。いまの彼女はきっと、この私だろうし、私も彼女のこと、その内心までわかるような気がして。彼女へ向かってメールすること、それは自分と対話すること、彼女を介して私の心を開くこと。“先生、大丈夫?”。そんなフレーズしか出て来なかった。“うん、大丈夫”。きっと彼女も、そんな返信しか、でもそれしか、いやそれだけで、すべて分かり合えるような気がして…。彼女へのメールはこの私への、私に届くメールは彼女自身の、紛れもない真の姿を、そう、隠しようのない無様なプロセスを浮かび上がらせていたけれど。互いに小さな男の子を介して、生死の界(さかい)を、虚実の境界線を、出たり入ったり、彷徨っているようなものだった。

 異界に住まう二人の女―。“生きているのかどうかも。死んでいるも同然に…”“この世が幻なら私たちも、当然…”“本当は、とっくに存在しないのかもしれないってこと?”“幽霊どうしがメールしている?”“ガイスト(精神、精霊)が漂っている、訳もなく意味もなく…”“いや、悪霊が、死霊が浮遊して、まわりを取り囲んで…”“行けども、行けども繰り返す、この同じ情景に…”“針山の歩みを止められない、この残酷なプロセス、地獄の行程…”“助けを求めても届かない、この非情な、だからと言って…”“死への誘い、至上の愛を求めて? そんな…”。ケータイを脇に置いて、メールを送り合わなくても、二人のあいだには。


 「彼」からメールがあった。正確には彼でなく、ただの友だち、だからと言って「お客さん」というわけでもなく、もちろんこれから付き合うつもりもなかったけど。“会ってくれませんか”。体調も悪く、このところ例の仕事をする気になれないでいた。でも、そろそろ稼働しないと、サボってばかりいられない。でもうっかりしていた、約束した日が日曜であるのに気づいて。男と会うのはウイークデーと決めていた。他の日に変えてもらおうとケータイを手に取ったが、それも面倒になって。例外はお金を引き出す算段がつきそうな時とか、受け取る時に限っていたのに。休日だからデートってこと? いやそんなこと…。仮にそうなら、ホント久しぶりだけど、まあどうでもいいかって、とにかくいろいろ考えるの、面倒なので。

 彼はクルマで迎えに来てくれた。自宅を特定されたくなかったので最寄りから二駅先のロータリーで待ち合わせた。駅の出口へ向かって歩いていると、改札の外で彼が笑顔で立っていた。彼のもとへ近づくにつれて、表情がこわばっていくのを感じていた、後ろめたさが、それこそ条件反射のように、やっぱりどうしても仕事感覚が抜けなくて。ただ、改札を抜けて彼の前にいくと、不思議に穏やかな気持ちになれた。「休みの日に呼び出して、悪かったね」。ロータリーの端まで歩きながら、彼のこと、軽くセットしただけのカジュアルな髪型が似合う、と思った。「いい天気でよかった、ほんとドライブ日和で」。彼は、映える笑顔で助手席のドアを開けて乗り込むのを確認すると、くるっとクルマの前へまわり込んだ。車内から彼の軽やかな動きを見つめていた。「一応考えたので、行き先、任せてもらっていい?」と彼。軽く片手でハンドルを回す彼の横顔を見ながらうなずいた。

 すぐに高速道へ入った。西へ向かっているようだった。海岸沿いのハイウェイは青空に映えて海へ溶け込んで行くように見えた。彼はあまり話しかけて来なかった。アクセルに右足を乗せたままトンネルも減速せずに走り続けた。まだ30分も走っていないのに、景色は大きく変わり、山々が迫ってきて小さな入り江が見えてきた。「人が多くいるところが苦手で…。田舎嫌いかな?」。減速してインターチェンジの出口へ入っていく。「いいえ、癒しになるし、気分が落ち着くし」。嘘をついたつもりはなかったが、本当の気持ちではなかった。母親と二人暮らした片田舎にいい思い出は一つもなかった。澱んだ人込みの中にいる方が安心できた、自分自身を意識しないで済んだし、いろいろごまかすには…。でもそれも思い込みに過ぎなかったのかもしれない、ほんとうのところはどうなのか。これもちゃんと自分と向き合って来なかっただけなのかもしれない。ハンドルを握る、彼の白い手が目に入った。クリアになっていく、内側が、この私が? いまさらそんなこと…。

 「何が食べたい? そろそろお昼だけど」。一般道へ出たあと、岬へ向かっていた。「せっかくだから、シーフードなんてどうですか」。白を基調にした、こぎれいな、看板に海に関するイラストが描かれた、そんなレストランを…。「ここがいいかな」。そう言って減速して駐車場にクルマを停めた。外観は想像したものと違っていたが、気分はシーサイドだった。降りると海が見渡せ、潮の香りがした。なぜか心細くなるので海の匂いは好きでなかった。でも、この開放感は得難いものだった。彼は、気持ち良さそうに息を吸い込み笑顔を見せた。しばらくのあいだ、海を眺めていた。彼の手が触れた、少し彼の方を見て軽く握り返した。海と空が溶け合っていた。店へ入ると、広い窓から群青のコントラストが広がっていた。

 正面にいる彼は穏やかな表情を浮かべて、窓際のテーブルは陽光に照らされて、その前の女は目をそらして、海と空に助けを求めるように…。「やっぱり、日本がいい。海外から帰ると、ほっとする」。そう言って彼は窓に広がる海へ目をやった。「待っている人とか、家族に会いたくなるものね」と話を合わせたつもりだった。でも、彼は「そういうの、居ればいいけど。残念ながら…」。若いときは意識しなかったけど、この歳になると…そんな意味のことを続けて、眉をひそめた。「誰も居ないって、家族も?」と聞き返すと、寂しそうな笑みを浮かべてうなずいた。えびや貝類など海鮮をふんだんに盛ったパスタを挟んで、彼と彼女は、心を清まして、相手の内側へ、じんわりと。

 海岸に沿ってクルマを走らせた。海に反射する陽の光がまぶしかった。肌焼けも気にせず目を細めて車窓を眺めた。「岬には小さな灯台しかないけど…」と彼は一瞬こちらを向いて、すぐに正面に向き直り「でも画のようだよ。海を見つめる、貴婦人の後ろ姿のようで…」。岬の灯台を擬人化して、普段なら気障な台詞も、そう感じさせない彼の話し方を自然と受け入れて。ハンドルを握る彼と目が合い、すぐに車窓へ目を戻した。「結婚を前提に付き合ってくれますか?」。唐突に感じなかった。そうした予感めいたものがあったわけではなかったが、これも自然な感じだった。あまり間を置かず、小さな声で「はい」と答えた。好きな横顔を見ることはできなかったけど、この内側に広がるものを大切に抱きしめて。

 彼とは、あれから月に2、3度会うようになった。本当は週末に限らず何度も会いたかったが、相変わらず出張が多くて普通の彼氏・彼女のようにはいかなかった。休日も、出張先への移動のため半日つぶれてけっきょくは時間が合わず、ということになりがちだった。男と会いたいと思うのは久々だった、そんな感覚はもう起こらないと思っていた。だからなのか、精神の不調もあまり意識せずに済んだ。部屋のカーテンを開ける機会も増えていき、薬を飲むのを忘れることさえあった。幸か不幸か、仕事に身が入らなくなっていた。変わりなく男から、お客さんからメールや電話が何本も来たが、スルーすることが多くなった。“ごめんねさい。このところ体調を崩して…”。同じメッセージを何度も使った。仕事用にケータイを3本持っていたが、これを機会に1本にしようと思った。もうだいぶ前から死語だった、永久就職先という言葉が頭をかすめて、この私が? あり得ないと思いつつも…。

 三十を半ば過ぎても、肌のハリがなくなっても、髪のツヤが戻らなくても、彼と会う日は朝から気持ちが弾んだ。さすがに鼻歌を口ずさむほどではなかったが、身体が軽くて苦手な家事も意識せずにこなせた。3週間ぶり、午後7時に会う予定だった。自宅を出る30分前には化粧や服選びなど準備完了、手持ち無沙汰でテレビを見ている自分を、その姿を客観視して可笑しくなって、ちょっとした幸せを、この身に、心のうちに実感して…。いつもの待ち合わせ場所にちょうど5分前に着いた。逆算してうまく時間調整ができるようになっていた。15分経っても彼は現れなかった。メールをしたが返って来ず、電話は留守電につながった。事故にでも遭ったのか、連絡できないほどの急用なのか。30分が過ぎても姿を見せなかった。腕時計に目を落とし、どうしようか、迷った。あと10分待って来なかったら…。

 彼の仕事先に連絡しようかと思ったが、会社名が思い出せない。出会ったときに話してくれたような気もするけど。そう言えば、名刺ももらっていなかった、肩書きは何とか本部長だっけ、正確な住所も、そう年齢さえも…。結婚を前提に付き合っているのに肝心なこと、基本的なことを知らなくて、浮かれていて。自分のことになると、脇が甘くて、何でもこっちに都合よく解釈して、彼には彼の事情があるのだろうから、と。思いが募るにつれて不安や疑心が深まっていく、反比例して、負のスパイラルに嵌まっていく。他人(ひと)を信じること=自分を信じること。男を騙すのが仕事の女にとって、人間関係の、この等式は成り立たない。男を信じ込ませること=偽る自分を偽ること。回りまわって、真偽がごちゃ混ぜになって、何が何だかわからない次元に、行き着く先は真=偽の境地? 罪責感を吹っ飛ばすほどに…。

 これまで騙してきた男たちは途中、何度か、いや何度も、その女に対して疑いの目を向けていたに違いない。特にお金が介在し出すとなおのこと。ただ、どこかで女を信じていたからこそ “思い過ごしに違いない”、連絡を取れなくても“のっぴきならない事情によるのだろう”と思ってしまう。多くの男にそう思わせるには、女としての魅力以前に人としての信頼、と言えないまでも何らかの、それに似たものがなくてはならない。それが偽りの信であっても、それこそ偽りの恋を介在させて、そう“偽恋”をあいだに忍ばせて、論理的に矛盾しているのは十分承知のうえで…。女にとっては“信”あって“恋”あって初めて成り立つ世界だった。いずれも“偽”が接頭するにしても、いやそこが問題なのに、いつものように都合よく解釈して、そう、そこがキーなので、この生業の、お許しをいただくしか…。真実の恋も、偽りの恋も、恋愛は真か偽か、でなくて、そんなもの横に置いて。

 その日、けっきょく彼から連絡はなかった。ケータイの紛失か故障か、そういうことにしてこの事態を収めようとしていた。翌日の明け方だった。「起きていた? 昨日はどうしようもなくて。本当にゴメン」。彼の平謝りする様子がケータイから伝わってきたけど。「事故とか、面倒なことに巻き込まれたのではないかと、心配して」と返すと、何度も謝りの言葉を繰り返した。「全然、怒ってないよ。ただ、心配していただけ」。そう言うと事情を説明してくれた。予想通り、仕事が長引いたうえにいくら探してもケータイが見つからない、焦るばかりで善後策も思い浮かばず、ただ時間が過ぎていくばかりで…。

 「そうだったの、仕方ないよね。何もなくてよかった」。そう返事していて既視感に捉われた。どの男とだったか、同じような情景が…。ただ、連絡できなかった事情を説明しているのが男ではなく、この私だった。けっきょく大してお金を引き出せなかったし、男の性格を考えると早々に手仕舞いしたほうがいいと。そのあと、男から何度も連絡があったけど、何とかやり過ごして。あのときの男がいまの私ってこと? そんな…。ここは都合よく思考停止して、そんなはずはない、と。「この埋め合わせはしっかりやるよ」。彼は仕事でミスった後のように、そんな言い方をした。

 彼はこれまでと変わらず、連絡をくれたし、間隔がまた延びたとはいえ、会ってくれた。心に引っかかっているものが完全に氷解したわけではなかったけど、こっちから拒むという感じはなくて、ただこのまま、この関係性を…と。彼の態度に微妙な変化を感じたとしても、気のせいの範囲内だってことにして。実際に会っていてしっくり来ないものを感じても、付き合って半年も経つんだから、長くなればそれなりに、出会ったころのようには、と。でも、彼への思いや感情が枝分かれしていって、これまでのように真っ直ぐな幹ではなくて。だから、考えても仕様のない、考える必要のない、本来取るに足らない脇道のことまで心配し、気持ちがざわついて。疑心暗鬼とまでは行かなくても、彼が発する言葉の裏を、背後を探ってしまう自分に…。彼は変わってしまったのか、いやこの私が?

 ちょうど、そのころからだった、二人のあいだにお金が介在し始めたのは。最初は10万、20万円程度だったが、ベトナムへ出張中にメールで“面倒なことに巻き込まれたので悪いけど、取り急ぎ200万円振り込んでくれないか”ときた。ホーチミン港に荷揚げされるはずだった貨物がどういうわけかアジアの他の港へ輸送され、困っているという。貨物が戻るまでのあいだ、現地の関係者を取り成すためにお金が必要で、内密に事を運ぶためには君に頼るしか、ということらしい。このプロジェクトがうまく行けば若くして役員への芽が出てくると最後には哀願調になった。信用している姿を示したくて、それ以上詳しく聞かずに全額振り込んだ。「本当に助かった。ありがとう。日本に帰ったらすぐに返すよ」。振り込みを確認したあと、すぐに電話してきた。

 あれから、2カ月が過ぎようとしていた。彼はベトナムのあと、タイ、ミャンマーへと東南アジア諸国を転々としていたようだ。ひと区切りつくと日本に帰って来たが、荷解きせずそのまま次の出張先へ、という「商社マンってそんなもの」と彼が言う忙しい生活を送っていたらしい。このあいだ、正確には1カ月半ほど、彼に会っていなかったし、メールも用事を伝えるような簡潔で味気のないものがほとんどだった。“わかった。それじゃこうしよう…”。一緒に仕事している仲間に効率のいいやり方を教えているような口ぶりで。こっちもそれに合わせるように、ただたんに“了解です”と返信することが多くなっていった。

 この前の200万円に加えトータルで500万円以上、貸与なのか贈与なのか。彼は借りていると思っているだろうが、それにしては返す素振りをぜんぜん見せなくて。結婚を前提にしているのだからと甘えているのだろうか。婚前の金銭のやり取りは籍を入れたあと、どうなるのか。貸し借りは相殺されるのだろうか、チャラになってしまうのか。女は会えない不安から、そんなことまで考えるようになって。“休日にゆっくり会えない?”とメールすると“一段落したら”と返ってくるばかりでほとんど梨の礫(つぶて)で。避けているように思えてならなかった。かといって、お金の話を持ち出す勇気はなかった。

 「本当にごめん、ずっと放っておいて。反省している」。彼からの電話だった。声を聞くのも久しぶり、これまでの苛立ちや不安、持って行きようのない怒りが鎮まり解消していくのか。「連絡しても…。本当に心配していた」。女はこの“心配していた”にいろんな思いを込めたつもりだったが、忙しい男は「仕事は順調に行っているから大丈夫」と答えるだけだった。「今週末にでも会おうか。問題ない?」と続けた。海外生活が長いから「ノー・プロブレム」か、そうした皮肉でも言ってやりたかったが「わかった」とだけ言葉少なに返事した。「それじゃ、金曜日にいつもの場所で。時間は7時でいい?」に対して「了解です」とメールのように答えた。“機嫌が悪いって、わかっているの?”。そう言ってやりたかった。

 彼は待ち合わせ場所にいた。約束の時間よりまだ5分あった。“言葉通り、少しは反省しているの?”。そう思いながら近づいていくと彼が顔を上げ、笑顔を見せた。「怒っているんじゃないかと心配だった」と彼。「あれだけ会えないと普通は機嫌が悪くなるよ」と答えたが、きっと久しぶりに彼を見た瞬間から顔が許していたのだろう。「よかった。でもごめんね」と重ねて詫びを入れてくるので「もういいよ」と笑顔で返した。よく行くイタリアンレストランは混んでいた。彼が予約してくれていたのは、初めてデートしたときの、奥の席だった。「覚えていたの。偶然なの?」。座るなりそう言うと「うん」。少し照れてメニューをのぞき込んだ。“許してあげる”。心の中でつぶやいていた。

 あの時はそう思い、やさしい気持ちになったが、あとで後悔した。彼は相変わらず、海外出張で飛び回っているようでメールや電話の回数がさらに減っていった。ただ、慣れてきたというか、こういう関係性なのだと諦めて、悟りの域に達して? 倦怠期を迎えた夫婦のように、ある意味、安定しているのかもしれない、そう思おうとして。犯罪すれすれ、訴えられれば捕まることも覚悟しなければならない仕事をしていると、何年ぶりだろうか、こういう堅気の、という表現は当たらないかもしれないけど、恋愛している普通の女に起こるだろう、こうした諍(いさか)いも、許容範囲のうち、些細なことに思えた。


 養護施設から連絡を受けて駆けつけたとき、もう日付が変わっていた。男の子が自殺を図った。自宅から駅まで走ったが、なかなか電車が来ないので、駅員に事情を説明して改札を出て、ロータリーのタクシーに乗り込んだ。車内で何度か施設へ電話したが誰も出ず、不安が募った。自殺したことになっている、あの生徒と同じように二段ベッドの上段に紐をかけて首をつっていた。当直の職員が見つけたとき、口から泡状の涎(よだれ)を垂らし手遅れかと思ったというが、即座にAED(自動体外式除細動器)を取りに行って適切な処置を施し、何とか一命を取りとめた。女教師が施設に着いたとき、男の子はすでに病院へ搬送されていた。

 彼は穏やかな表情で眠っていた。今しがた、騒ぎを起こした張本人には見えなかった。やさしい笑みさえ浮かべているように見えた。彼本人は死んだと思っていて、死の世界で心地よく漂っているのではないか、そんな気がした。集中治療室で彼に寄り添い、そう思った。自殺した生徒の影響を受けて後を追おうとしたのか。病院の通路で施設関係者のそんな声が耳に入ってきた。警察関係者らしい男が二人、事情を聞いているようだった。集中治療室から出てきた女教師も彼らに呼び止められ聴取を受けた。何人かに話を聞いて概要はつかめていたようで、2、3の質問で開放してくれた。ただ、前に自殺した生徒との関連性について聞かれた。「直接的には関係ないと思います」。女教師はそう答えた。

 いずれこうなるだろうと思っていた。死に切れなかった彼はこれからどうなるのか、どうするだろうか。目覚めて、生きていると気づいたとき、彼は絶望に苛まれることだろう。死ねなかった自分に対して嫌悪感を、罪責感を覚えるに違いない。自由なガイストを阻む身体への嘔吐、異次元・異界への飛翔を食い止めようとする対象・客観・違和物への呪詛。やっと開放されたと安心して眠り続ける彼をふたたび、この世へ引き戻すのは酷ではないか。彼は望んでいないだろう。目覚めたときのためにそばにいてあげたかった。女教師は、他の施設関係者が帰ったあとも一人残った。集中治療室を出てすぐの長椅子に座り、目をつむった。二人だけのときに見せる男の子の照れたやさしい笑顔が浮かんだ。“ずっと苦しかったのね”。涙が止まらなかった。

 翌日も意識が戻らなかった。時々、苦しそうな顔をするので看護師に尋ねると、回復へ向けた症状だという。死の際から帰還しようとしているのか、彼が忌み嫌う生へ向けて。無意識に彼の手を握っていた。心なしか、顔をこちらへ向けてくれたように見えた。“帰って来てほしいけれど…”。複雑な気持ちだった。“戻って来た彼に、どう声をかけてやればいいのか、何をしてあげられるだろうか。教師として、というより数少ない、いや唯一の通じ合える相手としてお互いに、これからどうなっていくのか”。早く目覚めてほしいと思う反面、こうしてずっと眠っていてくれないか。相反する気持ちに戸惑っていた。どのぐらい経ったろうか。昨夜から時間だけでなく空間も止まっているような、そんな気がした。

 彼女のいる時空間とは別に、その日も陽が傾きかけていた。遅い昼食を摂って病院に戻ると、一人の女が壁を背にして通路に立っていた。集中治療室の大きな扉を前に下を向いていた。施設の関係者ではなかった。他の患者の親族だろうと、少し頭を下げて前を通り過ぎようとした。「すいません、昨夜運び込まれた中学生の様態はどうですか?」。化粧気のない細身の女が声をかけてきた。どういう関係か尋ねると遠い親戚ということだった。一緒に集中治療室の中へ入ると、すぐに女が足を止めた。男の子の方へ近づこうとしない。“どうしたのですか?”という表情で女の方へ振り向くと “ここでいい”と顔を横に振った。

 集中治療室には6台のベッドがあった。男の子が臥していたのは入り口付近だった。女は大きな自動扉の横で男の子を眺めていた。そこからだと、男の子の顔が見えないのではないか、そう思ったがこちらへ来るよう促さなかった。男の子はいま、どこにいるのだろう。もうすぐ戻ってくるのだろうか。彼は微かな寝息を立て、女教師の好きなやさしい顔で眠っていた。「よろしく…お願いします」。後ろの女が消え入りそうな声をかけてきた。振り向くと、女はお辞儀して出て行った。追いかけようか、迷っていると男の子が苦しそうな表情を見せたので、けっきょくそのままになってしまった。あの女は一体何者だったのか。頭をよぎるものはあったが、それ以上考えないようにした、きっとこの子も…。

 男の子は3日経っても目覚めなかった。中学2年生にしては幼顔の彼も鼻の下からあごにかけてうっすらと髭が浮かんできていた。当初、3日以内には意識が回復するだろうと見立てていた医師も首をひねるようになり、複数の施設関係者と暗い表情で話す姿が通路で見られた。そうした心配をよそに女教師は楽観も悲観もせず、ただ男の子をそばで見守った。立て続けに二人の生徒が自殺したとなれば、それこそ、マスコミに取り上げられるかもしれない、問題がさらに大きくなってしまわないか。そのあたりを危惧している施設関係者を遠目に、女教師はこの子を守ってあげられるのは私しかいない、そうした思いを強くした。彼のためにも、そう私のためにも、このままで、エターナルの中で…。

 養護学校から自宅に戻り、鍵をテーブルに放り出してソファーに身を沈めると、ケータイが鳴った。施設からの連絡だった。きっと男の子の意識が戻ったに違いない、そう思って電話に出ると、男の子の容態に変化があったという。回復したのか、悪化したのか。こちらが知りたいことに口ごもり、とにかく来てほしい、と言うばかり。すぐに自宅を出て、大通りまで走った。タイミングよく来たタクシーをつかまえて乗り込んだ。足元をみるとサンダルを突っかけただけだった。彼のやさしい顔が浮かんだ。頭の中に彼が出てくる、この瞬間、心のうちに彼が広がっていく、この短い時の移り行きが、いまの彼女にとってかけがえのないものだった。病院のエントランスに着くと、彼の声が微かに聞こえたような気がした。“先生、僕は…”

 病院内の通路を走っていた。看護師に注意されたがそのまま走った。男の子の病室の前に数人の施設関係者がいて、一斉にこちらの方を向いた。そこから記憶が曖昧になり、病室へ入った実感も、男の子と実際に会話したのか、頭の中に浮かぶ彼といつものように話しただけなのか。時間がスローモーションのようにゆっくり回り、空間も限りなく広がっていく。虚実ない交ぜな不思議な感覚だった。でも、彼と交わっていた、確かに、そのことだけは…。“死んでしまったの? 僕はどこにいるの?”と男の子。“先生が目の前にいるでしょう。大丈夫、安心して”と女教師。“先生も死んでしまったってこと?”“違うよ、二人とも生きているよ。残念だけど…”

 男の子は、しっかりと目を見開いていた。ただ、医者の問いかけに反応しない。天井を真っ直ぐ見つめているだけ。ほぼ一週間ぶりということで、時空間への適応能力が戻るにはもう少しかかるのだろうか。女教師が病室に入ると、そばに誰もいなかった。他の関係者がいた時と同じように彼は身動きせず、表情も変えなかった。しばらくのあいだ、男の子の顔を見ていた。なぜか声をかけられなかった。彼もこちらに顔を向けようとしなかった。たしかに現象面はこういう状況だったが、彼女には「彼の声」が聞こえていた。“先生、僕は向こうへ行けなかった。どうして…”。男の子の白い手を握った。涙がこぼれ落ちた、彼女の目から、彼の目からも。

 もう少し様子を見ようということで関係者は帰って行った。“また会えてよかった。今夜はずっと居るからね”“うん、こっちへ戻って来て残念だけど、先生がいるから”。メールをやり取りするように異界での「会話」が進む。“これからどうするの?”“わからない”。この世に見切りをつけてあの世へ行きたがっている相手に対し、愚問だった。“次の世界で何をしたいの?”“向こうで?心と身体がきれいに重なり合うよう努力していこうかな”。彼も、いわゆる自同律の不快に、自分が自分であることの違和に、その原因でも結果でもある分裂症に苦しめられてきたのか。“この世界はすべてズレているものね”“合わせようとみんな一生懸命…”。矛盾を乗り越えて進もうと、必死で整合性を保とうと、偽りの世界にフィットしようと。“いいよ、そんなもの。どうでも…”“そうだね、どうでも…”。心身合一、虚と実の融合、本質と現象のマッチング。“そんないかさま、信じないよ”“ズレをそのままに、これからも?”。排除されるものの論理、そう異次元としての可能性。女教師はじっと男の子の横顔を見つめていた。

 精神の行き場をしっかり担保すること。身体という器に過度に依存しないこと。“一致したかと思うと、そのしりから…”“ズレと戯れる、矯正しようなんて、そんなこと…”。男の子は産まれたときから、このズレと、どうしようもない差異と共にいる、そうした苦悩の中で生きてきた。“また、こっちへ戻って来て大丈夫? 何度も聞くけど”“どうかな、正直分からない。でも…”。彼にとって生と死は明確につながっている。切断でも不連続でもない、非連続の連続? “このままでもたいして変わらない”“そうだね。先生もそう思う”。彼の身体の内側、ガイストと呼ばれている精神や霊魂、精霊を、迷わず内心を生きていけばいい、これからも。彼の皮膚より外の世界、外殻、対象、他者。男の子にとって、そんなもの、けっきょく…。

 でも彼は有機体として、この身体をもって、これからも存在していかねばならない。“生きている限り、僕も客観だからね”“そうだよ、目の前にいるもの”。お互い内心でつながっているけど、それぞれ主観だけれど、同時に客観同士、いまここに。“仕方ない”“そう仕方ない”。身体という殻を取り去って残る清きものに、そう宗教の世界の中で、いや…。“そんな! 祈ったりしない、安易に”“ふつう、内省していくと、そっちへ行ってしまうよ”。とにかく心身を一つにしようと、ぴったり合わせようと、でもいくら努力しても、ただ無駄骨折って…。“そうじゃなくて、生み出すこと”“創り出すこと、そう、しがらみのない”。彼が描く透明な線、果てなき道行き、無底の底、流動体、そう男の子の世界…。“どこへ”“分からない”。ようやく男の子がこちらを向いた。いつものやさしい笑顔を見せた。女教師は微笑み返した。彼がやっと意識を取り戻した。


 麻酔医が気づくと薬物中毒になっているように、精神科医も人の心を覗き込んでいるうちに自らを磨耗させ、心の病を悪化させていく。精神を病んだ、自己が壊れた患者を診ていると、正常と異常の境目が曖昧になってくる。主観と客観が、善と悪が、正と邪が、それこそ私と他が、その違いが、差異があやふやになり、何が何だかわからなくなってしまう。精神科医は自分という患者を孕(はら)みながら人を診ていかなければならない。ミイラ取りがミイラになる、それを地で行く不幸な生業を恨んでも仕方がない。患者が患者を診る特異な分野である精神医療の世界。他者の領域に、異界に足を踏み入れて、そこに仮住まいするのはいいが、用事を済ませたらすぐに引き帰さないと、ドライに身を引かないと、心身ともに泥沼へ沈み込んでしまう、けっきょく死を引き寄せてしまう。行ったり来たりしているうちに、こちらがあちらに、此岸が彼岸に、手前が彼方に、またその逆へと相互浸透して、にっちもさっちも行かなくなる。確たるものがないかわりに、少しの可能性に触れることも? いや、暗闇の中で蒙昧に囲まれるだけで…。精神科医の女は、紛れもなく漂流民だった、ノマドにその身の落ち着き先があるはずはなかった。

 「先生、元気そうですね。精神科のドクターに言うことじゃないですが」。一日の診察が終わり振り返ると、若い看護師が人懐っこい笑顔を向けてきた。女医は表情をゆるめ、軽く背伸びした。“躁に見られるのも悪いことじゃない”。そう思いながら今日診た患者のカルテの整理に取りかかる。それは必要な業務だったが、それよりも自分の精神状態を保つための不可欠なルーティンだった。クールダウンの域を超えて癒しの領域に入っているのだから、彼女にとって精神科医は天職なのかもしれない。いずれにしても、一日のあいだに崩れた精紳のバランスを修復する機会になっていた。「先生、お先に失礼します」。看護師の声に引き戻されて、作業に戻る自分を意識して、あらためて内側に耳を澄まして、精神を、この心を…。

 この社会に生きていれば誰でもちょっとしたきっかけで不安神経症やパニック障害に罹患し得るし、気づかずに潜在していて、いつ表に出てくるかわからない。なかでも死に直結する重篤な躁鬱症や統合失調症は、器質に、脳の構造的な変異にかかわるだけに厄介だった。とくに統合失調症はその旧称が示す通り、精神が分裂状態になって正常と異常のあいだをトランスポートする。異常時に見える幻影、聞こえる幻聴が精神状態を不安定にするが、第三者に危害を及ぼすのは例外で、本質的にはその症例に攻撃性はない。被害妄想を併発すると注意を要するが、たいていは内心の葛藤に終始し奇妙な言動の域にとどまる。必要以上に恐れて監禁に近い処置入院を施せば、本人にとって不幸であるばかりか、親族をはじめ周りにも精神面で悪影響を与えてしまう。ただズレ方が半端でないだけに、いやそれ故に、そこに可能性をみるべきだと、閉塞感ただよう社会を、矛盾でがんじがらめの世界を突破する力を秘めているのではないか、女医はそんな非科学的な見方を否定しきれないでいた。人の情緒を科学すること自体、無理があることだし…。

 女にとって精神の領域は異界であり魔界だった。表の世界から裏の世界、実から虚、真から偽、けっきょくは生から死…。異常は正常の相対概念であり、現今の社会意識・概念に合致するから正常、そこから逸脱するから異常、ただそれだけのこと。そうした論理自体に限界があり、本来そこに備わる潜在性や可能性を否定する論理矛盾ではないか。異常から生み出されるものに対する恐れ、いや畏れから正の、多の保存本能が働いて、ということではないか。社会を退屈に安定させるための手段として正常を尊んでいるだけで、その反対に安寧を揺るがしかねないという幻想を植え付けて異常を排除する。あくまで権力サイドの論理で、異常を狂気として牢屋へ押し込めて、自らに都合の悪いモノどもコトどもに蓋をして、矛盾を覆い隠そうと、ただそれだけのために狂とされ、悪とされ、邪とされて、文字通り異なるモノとしてコトとして。カルテの備考欄に、整理しきれない言葉が散らばっていく、コンテクストの拡散と収縮を繰り返して…。そこに精神を病むドクターの不安と恍惚が、少しばかりの矜持が垣間見られた。

 “僕だよ、ママ。またこっちの世界へ来ちゃった”。診療所に一人残っていると幻聴なのか、暗い部屋の隅から男の子の声が聞こえてくる。もう午後10時を過ぎていた。“どこにいるの? 安心して顔を見せて”。そう頭の中でつぶやくと男の子はいつも笑い声を上げる。“もともと顔なんてないじゃない、そうでしょう?”。のっぺらぼうの男の子が次第に成長していく、女医の心の中で。“ごめんなさい。すべて私のせい…”。この内側で養い保っている男の子との会話、癒しと贖罪の内通。“僕は生まれて来なくてよかったと思っているよ”。男の子はママ想い、ずっと母体の中にいる。“償い切れない罪。どんな罰でも受けるつもりでいるのに…”。懐胎と堕胎。いまなお彼女の中に男の子がいる、幻想ではなく。

 “しっかり感じているよ、ママ”。精神科医の女の想いが男の子を創り上げていく。“ママも。ずっとそばにいるよ”。ふたたび、はらむこと。外に出さずに内へ保つこと。安らかに健やかに浮遊つづけること。“僕は外の世界を知らない。でも構わない”。男の子は彼女の中で「成長」していく、外気に触れずに、透明の膜に包まれて、カタチを拒んで。“それでいいの? ママが悪くて…”。この社会の中へ放り込まれなかったことの、生まれなかったことのハピネス? “うん、僕はママの中で十分。いつも感じられるし、温かい”。微温の体(胎)内ですくすく育っていく。“あまり大きくなっても困るけど…”。めずらしくママが冗談を言う。“大丈夫、安心して。ママを困らせたりはしないから”。内側から男の子が笑いかける。“こそばゆい…”。この幸せ。

 人は誰しも内容を、内実を、コンテンツを蔵している、世界を持っている、結界に隔てられ守られている。内側が聖域、外側が俗域。清浄と不浄。男の子の世界はママで完結している、宇宙に見合うこの空間、母体という聖域で。外へ出なかった幸運、穢れなき身をエターナルに。社会へ出てしまった不幸、鎖につながれて、改造されて、跡形もなくなって。“身がなくても、ここにいる、心が、魂が…”。堕胎って? 血肉よ、さらば。ただそれだけのこと。内側でガイストがしっかり浮遊している、どこに過不足があるの? 非存在の存在、見えないものを感じている、それもはっきりと。“そう、ママは感じている、あなたを”。この不埒な子宮を中心に放射線状へ広がる、内側の襞に一つひとつ触って、緩やかに融け合って、細胞分裂を繰り返すように、優性も劣性もなく…。僕は“大きく”なっていく“カタチ”にとらわれず“創り”出されていく。創造の源、母体の力。外に出ると反作用ばかりが、牙をむいて、ただ濁りを引き寄せるだけで。生を得るって? 死に向かい、その繰り返し、輪廻転生。けっきょく無意味の意。

 “さようなら、ママ。また呼んでね”。時空間が戻ってくる、肉体と精神が偽りに和合する。“待ってるよ、マイ・リトルボーイ…”。女医は机に突っ伏したまま目覚める、意識が戻る。死を前にして同じ夢を何度も見る、あれなのか? 向こうの世界へ行けば男の子に会えるのに、そう思って額の汗を拭って、しだいに意識を上らせて…。仕方ない、この世界、また、始まる、男の子を襞の陰に押しやって、奥底に宿しながら。彼はやさしい、一緒になろうとすると背を向ける。もう少し、そちらに居ろってこと? “それがママに対する仕打ちなの? ホント、やさしいね”。机に手をやり、椅子から立ちあがる。形而下のことなんて…。また、生きていくしかない、けど。

 診療所を出ると、湿度を含んだ外気が身体にまとわりついて来た。歩を進めるごとに重圧感が増してくる、鉄製の足枷を引きずっているよう。ボール・アンド・チェーン。帝国に支配された植民地の囚人のごとく、拘束されて。等間隔に生える電灯の下を通り過ぎるたびに、意識が覚醒していく、不安になっていく。ただ、次の電灯へ向かうあいだ、そのインターバルに、闇に包まれて安堵感が広がっていく、支配されていく。駅には若い女と年配のサラリーマンがいた。女を加えて三人が等間隔になるよう、プラットホームの端へ移動して。なかなか電車は来なかった。だれも位置を変えようとしないどころか、ほとんど動かなくて。三者三様、ケータイを凝視する顔がほのかに照らし出されて、時期外れのホタルのように、澱んだ空気の中でたゆたって。電車が速度を落としてホームへ入って来た。開いた扉から車内へ、同じように足を踏み入れる、三人とも右足を、それも見事に同じ歩幅、タイミングで。女だけが意識していた、日常の濃さを、カスタムの強さを、個の弱さを。

 「どうですか、気分は? 変わりないですか」。あれからもう一カ月が過ぎていた。2週間ごとに来なければいけないのに、薬が切れてるでしょうに、悪化してしまうじゃないの。もしかして、調子がいいから? そんなはずはないだろうに。たんに来づらいから、元カノだから? そんなこと…。調子がよくないのは一目瞭然だった、表情を見ればすぐに分かった。「お薬、飲んでいますか」。後ろに看護師がいなければ叱責しているところだった。それに、顔を近づけて“彼女とうまく行っていないの”と聞いてやっていたかも。「お薬、出しておきますね。今日のところは…」。彼はほとんど何も言わず、診察室を出て行った。付き合っていたころ、彼が元気のないときは決まって…。いまの彼女に教えてやりたかった、その対処療法を。症状は間違いなく悪化していた、せっかく再会したというのに。もしかして私と会うようになったから? それってどういうこと。

 “どうしたの? 何かあった?”。午前の診察を終えて、遅い昼食を簡単に済ませて彼へメールして。“さっきはごめん、顔見たら急に話せなくなって”。待っていたかのように返信してきて。“薬、ちゃんと飲まないと駄目じゃない”。ふつうに担当医として、でも強めに指摘して。“ごめん、飲んだり飲まなかったりで、途中から…”。申し訳なさそうな、気弱な、いつもの顔が浮かんできて。“自身の問題だからね。飲み続けないと”。精神科医としてはそう送信するしかなくて。“彼女とうまく行っているの?”。ここからは元カノとして。でも、なかなか返して来なくて。“別れたよ”。しばらく経って。“………………”。今度はこっちが返信するのに時間がかかって。

 午後の診察が迫っていた。返す言葉が見つからず、ケータイをしまい込もうとしたタイミングに着信音が鳴って。“仕事、がんばって”。付き合っていたころ、彼がよく返して来た、このフレーズ。このあと、続けて“また、メールするよ”。これもまた同じ。戻っていた、付き合っていたころに? そんな…。もちろん意識の中で、だけど。そう、よく送ってくれて、ちょっとした励ましのつもりだったんだろうけど、でも何度も救われて、こっちは、その言葉に。薄っすらと目が赤くなっていたかもしれない。“ありがとう”くらいは返せばよかった、けど。でも、そんなことすら、思いつかなくて、そんなざまで。「先生、患者さんをお呼びしてもよろしいですか?」。看護師の声に阻まれて、揺り戻しが来たけど、この感じ、意識に上ってきて、胸の辺りにほんのり感じて。「お薬、出しておきますね。お大事に」。最後の患者を見送ったあと、ケータイを開いて彼のメールをもう一度読んだ、味わいながら、というのも変だけど。“大丈夫だよ、ぜんぜん…”。診察後のルーティンもそっちのけに「あとはよろしく、お先に」。看護師の驚く表情をあとに、駅へ向かった。

 改札をくぐりホームへ出た。ケータイを開くと同時に、彼から電話がかかってきた。電車を一本やり過ごし、ホーム端のベンチへ、ゆっくりした足取りで向かった。「そろそろ診察が終わるころだと思って。いま大丈夫?」と彼。付き合っていたころの時間配分を覚えていたの? 習慣として、思い起こして…。「いま駅だけど、大丈夫。どこかで会う? 症状のこともあるし」。彼は、昔よく待ち合わせた喫茶店の名を挙げた。「分かった。じゃあ、いまから向かうね」。電話を切ると、タイミングよく急行がすべり込んで来た。ケータイを握ったまま、電車へ乗り込んだ。そのまま進んで向かい側のドアの脇に立って、車窓から流れる景色をただぼんやりと眺めた。彼との思い出が頭を駆けめぐった。時をさかのぼり、隔たりを越えて、彼のもとへ。電車が停止し、ドアが開いた。ホームへしっかりと足を踏み出した、この充たされた感じ…。

 この喫茶店に入るのは何年ぶりだろう。彼と別れてから、その前を通ることすら避けていたように思う。いまは、その変わらぬ外観がふつうに見えて、やさしく感じられて。ドアを開けると彼が奥の席に座っていた。“いつもの場所”。彼は、軽く手を上げる代わりに少しバツの悪そうな表情で、白髪が増えたマスターはカウンター内で変わらぬ無表情で、それぞれ迎えてくれた。やさしく時間が経過して、隔たりはそのままに、この構図、柔らかな光景に癒されて。「紅茶でよかった?」と聞いて、マスターにミルクティーを頼んでくれた。彼はいつものアイスコーヒー、氷が溶けてグラスは汗をかいていた。

 この既視感、これほど精神が和らいだのはいつ以来だろう、彼の精神状態をよそに。「身体の具合はどう? さっき聞いたばかりか」。そう言って苦笑すると彼は顔を少し上げて表情をゆるめた。「やっぱり、薬飲まなきゃだめだよ。何度も言うけど」。彼はいつもの癖であごの先を軽く触り、話し出した。「言ってなかったけど、彼女、自殺未遂をして、あんなふうに…」。そんなことくらい、わかっていた、手首のためらい傷を見ずとも、あの表情で、何年やっていると思ってるの、精神科医…。「僕が悪くて、僕が原因で…」。そう思っているのも、わかっていた、一応むかし彼女やってたんだから。「だから、別れられないって?」。彼の代わりに言ってあげた。やっとアイスコーヒーに口をつけて、コクリとうなずいて、虚ろな目で、助けを求めるように。むかしもこんなこと、あったような…。

 彼は、理不尽に別れを告げるには優し過ぎた。“私のときもそうだった。たんに優柔不断なだけかもしれないけど”。「せっかくだから、ご飯でも行く?」。そう言うと、ちょっと躊躇しているようで、彼女のこと気にして、戸惑いを隠そうともせずに。“変わってないね、きほん真面目で正直なんだから”。でも、それで傷つくひともいるんだよ、こうして彼女以外の女は…。喫茶店を出て、ふたり並んで歩くのはいつ以来だろう。“そう、付き合っていたころから、手をつないだり、腕を組んだりするの、苦手だったね”。向かう先は決まっていた、ここの次はあの店、しぜんと身体がそっちの方へ、流れていって。猫背気味の姿勢、治ってないね、その傾き加減、深くなってない? 気のせいかな。“ひとのこと言えないけど、このたるみ、しみ、しわ。エイジングに勝てる術があるはずもなく…”。こんな下らないこと、ぼんやり考えて、忌み嫌っていた、変わらぬ日常に、包まれて癒されて、この私が、彼とともに。「変わってないね」「うん、変わってない」。あの角を曲がると懐かしいパン屋さんがあって、その先に洋食屋が見えてきて、ふたり並んで、いつものように彼が重い扉を開けて私を中へ…。

 名の通ったホテルの元シェフが開いた店で、当時から人気だった。「予約なしでよく入れたね」と言いながら座り、店内をゆっくり見まわした。「何か不思議な感じ、時間が戻ったよう」と彼、しんみりと。「こっちは歳とったけどね」と私、自虐的に笑顔で。「そうかなあ、あまり変わってないよ。僕は変わってしまったけど」。微妙に表情を硬くしてフォローする彼を前に、むかしの情景が広がっていく、メニューに目を落とす彼の、うつむき加減の、その表情に…。あのときもこの席だった? 彼から誕生日のプレゼントをもらった、マフラーと手袋だったような、そう、冬に生まれた女の子はよくもらうもの、少し期待はずれだったのを思い出して、いまに思えばぜいたくな…。「なんかいろいろと、戻ってくるね、思いとか、感じが…」。同じことを思い出して懐かしんでいるわけじゃないだろうけど、穏やかな表情の彼に、こっちもしぜんと笑みが出て。“あのときといま。どこが違うの?”。同じわけないだろうけど、大きく異なるんだろうけど、でも…。

 彼はいつものように送ってくれた。でも、マンション前で別れた。“上がっていく?”なんて、とても言えなかった。疲れていたせいもあったけど、お互い別々に過した長い時間がそうさせたのだろう、きっと。いずれにしても今日はここまでで精一杯、だからといって次があるかどうか、分からないけど…。ただ、彼が見えなくなるまで見送ろうと思った。付き合っていたころ、そんなこと、した覚えないけど、一度してみたかった、あのときできなかったこと、いまさらながら。彼は振り返りそうになかった、その姿がしだいに暗闇へ消えていく。彼が見えなくなっても、しばらくのあいだ、そのままで、なぜか動けなくて。彼と最後に会った、連絡がつかなくなった、打ちひしがれた、あの日…。彼の表情に気づいていたら、もっとしっかり彼を感じていたら、ほんとうの気持ちに正直だったら、いや、そんなこと、いまさら…。ただエントランスの照明がまぶしくて。

 あれから彼は2週間に一度、真面目に受診しに来た。こちらの言うことを聞いてしっかり薬を飲んでいるせいか、調子が良さそうだった。いつも長くて15分程度、医者として私情を交えず淡々と対した。この前会ったときから、彼への思いは高まりも深まりのしないのが不思議で、ちょっと残念な気がした。あのときは、もちろんお酒も入っていたし、センチメンタルになってもいたし、そう感情失禁の一歩手前、コントロールできなくて、ただそれだけ、のはずだけど。こうしてデイリーにルーティンをこなして、気を紛らわしていたら、そうでもなくて。そう、関係性から、煩わしさから、解放されて。自分と向き合って、ズレを修正して、目の前のモノどもコトどもにアジャストして。幻影を抱きながら、やって行くしか、もちろん面倒なんだけど、仕方なく、ただ自同律を生きていくしか。精神を壊しながら、二律背反を忌み嫌って、まだ見ぬものを、可能性かもしれないものを、もしかして、いやきっと、かけがえのないものを捨て去って…。


 うすうす分かっていたとはいえ、真実かもしれない事実を突きつけられると、さすがに動揺してしまう、表面的には取り繕うことができても。だからといって、何か善後策を講じようとか、無駄に動いても仕方ないと思ったりして。こちらにも十分非があって見込み違いだったのだから、相手ばかりを責められない、そう気持ちを収めるしかなくて。“こういう気持ちになるの? 因果応報とはこのこと…”。まったくその通り、さらに四字熟語を付け加えるなら“自業自得”か。

 彼と連絡が取れなくなって1カ月が過ぎていた。合わせて800万円余り、彼に貸し込んでいた、いや貢いでいた。結婚詐欺を生業にしている女がどうして? こうなるとわかっていたはずなのに…。そう思われるだろうけど、蛇の道は蛇、とばかりにいかないこともあって。途中から何かおかしいと思いつつ突っ込んでしまう、一種のギャンブルのようなもの。どこかで軌道修正できる、引き返せると思っていてズルズルと、そう底無しに、そんな感じ。

 相手の気持ちを忖度して真実に目を向けようとしないとか、相手を疑うことが自分の否定につながってしまうとか、そういうことで? だからと言って、もちろん全幅の信頼を寄せていたわけじゃなくて、なにかこう、浮ついて踊らされて、でも内側でちょっと違うんじゃないかと思うところもあって。それとはなしに何度か、いや何度もニュアンスを漂わせて確かめようとしたけれど、どうしても追求の手がゆるくなって。最悪このままでいいかと、いまさらことを荒立たせなくても、と。

 けっきょく、そんな収まりの悪い感じになって…。騙す側から騙される側へ移って、初めて知る、分かる、ことの本質って? なにもかも、まったく想像できなかったことじゃないけど、どうしてここまでアンコントロールなの? そこいらの小娘でもあるまいに、いとも簡単に引っかかってお金だけじゃなくて、この内側のものまで持っていかれるなんて。もしかして途中から、ボクサーが両腕を下げて打たれるにまかせるように、ダウンされるまで? そんな思いだったのかもしれない、あの男に対して。騙したの男たちへの罪の償いになる? いやそんなこと…。

 詐欺師かどうかは別にして、結婚を餌に金を引き出そうとする男に心残りはなかったし、警察沙汰はもちろんのこと、細い糸をたどって、彼の足取りを追おうとか、ふつうの女のような未練も、じめっとしたものもなくて。その代わりに嫌悪感を、嘔吐感を覚えないわけにはいかなくて、当然だけど、同じ生業の女として。騙された男たちがどう思っていたか、実際にその側に立ってみると、思いのほか恨みがましいところ、怒りも悔しさもあまり感じなくて、それほどでもなくて。悪行を生業にしてきた女だから、堅気の善良な彼らの心情と同じように並べるのはおかしいけれど、それこそお門違いだけど、どうしても致命的な打撃を与えたとは思えなくて。妙にスッキリした気分で、これも自己を保つための本能なんだろうけど。

 もっと複雑で矛盾を含んだプロセスがもっとたくさん、そこいらに転がっているのだから、こんな些細なことで…。こうして理屈に合わない正当化をして、女は得意の思考停止で逃れようと、処理しきれないモノどもコトどもから目を背けて、内側に皮膜を張りめぐらせて、身体を硬くして、この情況を凌ごうとして。それに、罪の意識を強く感じるほどナイーブでも、神経過敏でもないと思っていたし、罰を受けるのが怖いわけでもなくて、もともと精神がやられているからだろうけど。いずれ審判が下されて、最高刑に処せられるのを期待すらして。重い罰を執行されて身も心も引き裂かれる、そういう姿を想像して。そうして自虐的に、男を騙し続けてきたってこと?

 いつからベッドに突っ伏しているのか。たしか昼下がりから、ウトウトしているうちに、この部屋がしだいに薄暗くなっていき、月明かりがぼんやりとカーテン越しに感じられるように。ゆるやかに間延びした、外なのか内なのか、わずかな音の気配に導かれながら、夢と現(うつつ)のあいだを彷徨って。しぜんなトランス状態に沈んで、クスリに頼らず生理のプロセスに従って、どうにかこうにか、この身を保持しながら。いつの間にか、陽の光が闖入してきて、薄っすらとカタチを描き出し、次元を浮かび上がらせて、現象を起こして。この身が同化していく、それらに引き寄せられて、時空間に連れ戻されて、何ごともなかったように、また一日が、日常が動き出す。ガイストを残して、外殻に守られて、繊細で傷つき易い精霊を内側に秘めて、やっていくしか、正常と異常の境を漂うように、その繰り返しで。

 テーブルの静物がときに反応する、醜悪な生き物のように歎声を上げて遠慮がちに、でも自己主張して、点る。視認できる唯一の現象で、確かなものに違いなかったけど、その数をかぞえていくうちに…。“よりによって、こんなものしか、いまの私には…”。皮膚の外側で感じられるサイン、辛うじて生きていることを確認できる、その存在、いや非存在。そこに証を求める過酷な状況から、脱け出せる方法を見つけたかったけど、また、点る、もう意識の隅にもないはずの、のっぺらぼうな男たちが浮かんでは消えていく。ある者は哀願するように、またある者は攻め立てるように、点る。“許して。どうすれば引っ込んでくれるの?”。この機に及んで、もう騙しは通用しない。ゾンビのように、この内側を徘徊して、恨み辛みを孕んで、死へ誘って…。

 男の子の自殺未遂、もう限界だった。産んだだけとは言え、わが子に違いなく、だからと言ってどうすることもできず、ただこの身を、この内側を八つ裂きにするしか、致死的なダメージを与えるしか、なくて…。自虐だなんて容易いことじゃなくて、自らに処刑を宣して、耐え難い痛みを感じながら、当分のあいだ、死を猶予されて、逃げ道を塞がれて、この世の地獄に漂い彷徨うしか…。立ち上がろう、直ろうとする気力も、意思もなくて、ここで、このまま衰弱していくのが唯一の望みだった。地虫が身体じゅうを這いまわって、鼻からも口からも穴という穴から、蛆虫あふれ出すように。しだいに液状となり一部気化して、有機質から解放されて、土へ帰れるなら。そんな高望みが叶えられるはずもなく、たんにマットレスからカーペット、床材に、そしてコンクリートに阻まれて、無機質と同化して異化して、染み入っていくのが関の山で。

 出来の悪い、罪多き有機体のなれの果てってこと? でも、しっかりとイメージは出来ていた、あとは時間が解決してくれる、空間に漂う有機物が何とかしてくれるだろうと。結婚詐欺師の女は男の子より先に逝きたかった。それで償えるわけではないけど、ただ先に往って待っていたくて。“ごめんね、ママって言える道理なんて、どこにもないけど”。この世で声をかける勇気はなかったし、もちろん資格は当然なくて。だから、許されるかもしれない、次の世界で…。いまさらながらって言われそうだけど、そばに居たくて、ただそれだけで。

 男を騙して、心を病んで、苦しみ、もがき、死んでいく。それが贖罪なのかもしれない、女はそう思うしかなかった。遠いむかしに男の子を捨てた罪を贖うため、この儀式を延々と続けてきた。この血肉、もしやこの精神にも宿る確かなもの、かけがえのないもの、ただ一つのつながり、それが男の子だった。時空を超えた、論理を逸脱した、愛と情が通い合うもの、それが彼だった。引き剥がそうにもはずれない、内と外の分離を一体化させる、この愛しき分身、それがわが子。どんなことがあっても踏みにじってはいけない聖域、それがこの清き子…。“私の男の子、なぜ死に急ぐの”。愚問と分かっていても問わずにいられなくて。女は重い身体を起こし、深いため息をついた。“まだ苦しみが足らない”。男の子の声が耳元に響いてきて。“どうすれば…”。死ぬことすらできなくて、このまま地獄の淵をよろめきながら。


 彼にとって、あれは自殺未遂ではなかった、ふつうの、それでいてスペシャルな最期のはずだった。でも、舞い戻って来てしまった、いま目の前に広がるこの世界はただただ異質で、その日常に疎外感を覚えるだけで。あの世とこの世のまにまに、生死の境をさまよった挙句の、この体たらく…。男の子は先に逝った彼に申し訳なくて、このまま消え入りたい気分だった。なぜ向こうへ行けなかったのか、これまでの行いが悪かったから? いや良かったからじゃないかと。品行公正だったわけじゃないけど、少なくとも妬むとか、出し抜くとか、欺くとか、それこそ傷つけるとか、そういう普通の関係性の中で日常茶飯事に行なわれていることから距離を置いていたから? 透明な膜に覆われて、守られて、清らかなものに誘われて、純化の途上を、すっと延びるプロセスを歩み続けて来たから? だからと言って、そんな仕打ちって…。この違和感、そうかんたんに処理できそうになくて、これまで以上に神経に障る、どうしようもない、この不快感。ベクトル変えて、もう一度チャレンジして、あの境まで、淵まで、異界まで、そんな…。

 男の子は3日前に移った一般病棟で天井を見つめていた、というよりベッドで仰向けになって、そこへ虚ろな目を向けていただけで。“生きているのか、死んでいるのか”。確かめる気力も意思もなくて、もちろんその術も持ち合わせていなくて。あちらへ往っていたとき、見たことも感じたこともない、イリュージョンか、そこでのリアリティーなのか。それでいてどこかしっくりくる、懐かしくも感じるモノどもコトどもに囲まれて。底に漂う潜在するもの、無意識が運んでくる、断片的で、見たことのない残像、聞いたことのない残響。取りこぼしていた、かけがえのない、偽ならざるもの。手触り感というか、確かなものを求めて、漂流するなかで。静かに流動体が行き来する、その動き、ベクトルを定める暇(いとま)も隙(すき)もなくて。余りの不規則ぶりに、それらを内に含む構造体、身体が持て余し気味になって、またしてもガイストを置き去りにして。非連続の連続、エターナルを思わせる流動に心を奪われて、合一する奇跡を信じて、シャッターを切るのも忘れて、彼はそこで…。

 男の子の望みはもう一度、穏やかで小さな、それでいてすべてが備わった世界へ、そう非存在の、いわゆるイノセントワールドへ戻ることだった。隔絶させた充足した空間、時が刻まれているかどうかも定かでない、無限に感じられる緩やかな流れの中で。微かに聞こえる外界の物音も、そこでは心地よいリズムのように感じられて。包まれている、この感覚がいつまでも続くように願って。“放り出さないで。ここでしか生きていけない”。そうした流動体の望みを、神はどう思っているのだろう、そこで授かる力と傾き、どうしても避けられず、備わってしまうことに。さらに強弱、深浅、表裏、遠近、そして真偽までが付け加わろうとして。旅立つときのために、外界仕様へ形づくられていく、血肉を与えられて、流動するガイストを無理やりに、この魂は…。“ここでこのままって、許されないの”。ふたたび、胎内へ。彼はただ、それを願って、ベッドの上で身動きせずに。

 “僕も、先に逝った彼も、不幸にしてここに、現世に来てしまって…”。彼は帰ると言ってきかなくて、止めても無駄なこと、わかっていたので、彼の言うとおり手伝ってあげただけ。願っていた、肉体からの決別、自同律の不快からの解放を、やっと成し遂げて、清らなやさしい笑顔で、彼は。僕はただ介錯(かいしゃく)するだけで、一振りの刀をかざして、という訳じゃなかったけど、看取ったよ、いや送ってやったよ、この両手で、あの世へ、彼岸へ、異境へ、桃源郷へ。ガイストになって、煩わしい外殻を脱ぎ去って、精霊の、魂の、そうカタチのない、ただ流動する、その淵で、果てで、縁暈のように。

 彼は一度として、こちらへ来ていなかった? この世にいたためしはなかったのかもしれない、現象的に、物性としては、それこそ有機体として。非存在の存在なんだから、非連続の連続、流動体に過ぎないのだから、たんに像として幻影の二重写し。どちらが裏か表か知らないけど、その境を行ったり来たりして、供儀のように、サクリファイス、精霊となって。それなら、こうしてベッドに横たえている僕だって…。彼も、僕も小宇宙でゆっくりと流れていた、円環を描くように。でも突然排出されて、機が熟したということで、小さいながらもこの身が成った、外殻が備わった、そこから出てもやって行けるだろうと。胎内に別れを告げて、ガイストを置き去りに、精神が追いつかなくても、魂が充たされていなくても、外界へ強いて、それが当然のプロセスと言わんばかりに、ただ放り出されて。

 ガイスト、精神という、正にも邪にも、善にも悪にも、真にも偽にもなる、フロンティア。精霊であろうと、悪霊、死霊であろうと、そこで充たされようと、この身と、肉体と、外殻と対峙しながら。“身体を貸してくれている、この子に申し訳ない”。先に逝った彼は独り言のように、虚ろな眼(まなこ)で、よく言っていたっけ。外に出れば、胎内から排出されれば、ガイストとして漂うだけでは…。清らな流れを阻む肉塊とともに、あまりに痛ましい境遇の中で。血肉を身にまとい、リアルを欲するしか、ガスからリキッド、そしてソリッドへ? 漂い、流れ、固まる、その普遍のプロセス。固化への憧れと蔑み、身を堕としてまで、なぜ? 彼はミッションについて触れたがらなくて、ひとときの個体に充足して? いや瞬時に揮発し、自在に流動体となり、数限りない襞をくぐって淵へと。“あの女に復讐する必要はないの? 僕が手を下そうか”。そう言うと、彼は仮住まいの男の子から脱け出す瞬間、首を横に振った。“彼女も十分苦しんだ”。もういいよ”。ママを許せたの?

 “僕は彼と違って…”。幸か不幸か、血肉を備えて漂うことになって。ただ、肝心のガイストが、なかなかうまく伴わない、この絶望感。“ママは僕を棄てた”。男の子はその肉体を羨んだ、分裂を繰り返す細胞を、成長する有機質を。しだいに拡大していくフレームについて行けない、細胞一つひとつに魂を植えつける、そんな作業を高望みしても。もっともっと初期の段階、一人じゃあとても、内側を創り上げるには、無数の襞にそって。“吐き出し、放り出すだけで…”。ガイストはどうなる? 遺棄された血肉だけあって、頼りないフレームだけで。病室の隔たり、その枠内、天井が流動している、この感覚。内側の流れに呼応して、確かなものがなくても、固化から免れる焦燥と愉悦と。男の子は血肉を憎んでいた。まだ見ぬ、出会わぬ、ガイストを求め、羨(うらや)んで。

 “僕はママのこと、よく知ってたよ、だめなママのことを”。男の子は彼女を感じ、生きてきた。排出され棄てられてから、ずっと。男を騙そうが、最後に騙されようが、彼にとって、そんな彼女のこと、どうでもよかった。“一度だけ、会いに来てくれたね。それでご破算というわけにはいかないけど”。カタチを与えてくれたことに少しは感謝して? 甘えちゃいけないって、ガイストに魂込めるのは…。自由に漂えたのも、彷徨えたのも、彼女のお陰なのかもって。男の子はそれだけ強くなり、モノやコトの道理、真実を誰よりも分かるようになって。“その分、苦しいけど、ここでは…”。ただ、施設にいたから救われた、ただ異質だと、劣性だと、気持ち悪いと蔑まれ隔離されて、そんな尊い彼ら彼女らに囲まれて。“僕は幸せだったよ。ママ、心配しないで”。その優性、可能性に触れて、異界へのとばりに。

 でも、どこへ戻ればいいの? どの時点へ返ればいいの? そんなこと、わかるはずも…。きっと、いつまで経っても答えの出ない道行き、彷徨の果てに。いまさら、ママの胎内へ戻るわけにもいかず、これまで通り、ただ漂うだけで、死ぬわけにもいかず。“すべてを抱えて、また軌道へ、円環へ戻るの?”。変わらぬ日常に耐えて、陳腐でも、仕方なく、どうしようもなくて。ママじゃない、新しい子宮、コスモスを遊泳して、憧れのエターナルへ。男の子の内側に広がるフロンティア、しっかりとした手触りのあるものを創造して。

 気がつくと窓が開いていた。病室に漂うアルコール臭が薄らいだように感じた。あれほど嫌悪していた外界からそよぐ、心地よい風。内心に届く手応え感、確かなものらしき初めての停滞。“喜ばしいことなの?”。戸惑う男の子は天井から目を離した。視線の端に女、いや聖女、もしかしてマリア? 処女懐胎なんて、そんなはずは、でも…。外の世界とつながる、この内なる流れ、そのまにまに、あいだに、介して女が、彼女が、確実なものを、その優しい眼差しで。流動しなくとも、無際限でなくても、かりに可能性がなかったとしても、愛を信じて…。彼は彼女に微笑みかけた。

                   ◆

 「どうでしたか、お薬は効きましたか?」

 「…………」

 女は処方箋に別の薬名を記入し、看護師に次の患者を入れるよう促した。患者一人ひとりの精神の闇に入り込んで病因を探り当てていく。良質な推理小説よろしく因果関係をたどって犯人を見つけ出せればいいが、怪奇小説のごとく魑魅魍魎(ちみもうりょう)とした世界に足を取られて身動きがとれない、そんな状況に陥るのが関の山だった。だから深入りをせずに、水際で止められる不法薬物とそう変わらないクスリに頼るほかなかった。大脳皮質に起因する生理学的症状と、いわゆるトラウマなど精神に巣食う負の連鎖。先天的なものと、後から付け加わったのもとのせめぎ合い。両者それぞれの質と強度、そしてバランス。そもそも神のみが差配できる審判に、手を出せる道理はなかった。

 ましてや、周りにガイストが浮遊しているのなら、ことはさらに複雑にならざるを得なかった。第三の作用要因として個体を自在に操る誘導体、精霊であり死霊でもあるガイストが内側へ息を吹き込む。内心へ広がっていく、充たされていく、意識が芽生えて、個体が成っていく。男の子は死霊として、成仏する場所を探し求め、いまだ彷徨っている、精神科医の女に中で。生や死の意味どころか、非存在に、ただ漂い彷徨うだけで。ガスで浮かび上がらせ、リキッドで溺れさせ、ソリッドで縛られて。どこにも終局の帳(とばり)はなくて、怨恨を抱えて循環し、輪廻するだけで。深い霧のなかをボートで漕ぎ出すも、河岸があるかどうか、彼岸へたどり着くことは、此岸とのあいだをたゆたうだけで…。胎内の男の子は? 母体は耐えられる? この世、現在、社会を包む非連続の連続。新生を創造できるか、それとも流動のままで?


 女はソファーにもたれかかり、しばらく動けなかった。いつものように暗闇に安心感を得ようとした、でも遮光カーテンから微細な光が漏れていて。床から壁へ伝っていく一筋の線、天井へ届きそうだった。細い線の中で光が浮動して、流れる絵画のように、一場面を切り取り、また流動していく。ソファーの前まで、せめてテーブルの脚の辺りまで延びて来てくれないか、その光源に促そうにも。心身ともに利かなくて、暗闇の中で戯れるのも気が進まなくて、それこそガイストと外枠、精神と肉体、心と身体の遊離を修復させる手立てを微光に求めるのは…。

 モノやコトを現象と化す光輝に。この変わり身にそれほど違和感を覚えなかった、不思議と嘔吐感もなくて。気のせいか、身体だけでなく内心も軽く感じられた。光を肯定すること、広がる現象を受け入れること。これまで拒んできた表の世界が目の前に開けていく、底に溜まっていた澱のようなものが徐々に融解していく、リキッドの透明度を高めていく、流れを速めていく。男の子の面影を残して、ガスが立ち込めていき、揮発していく、拡散していく。光の筋に沿って霊気が立ち上り、彼が暗闇から離れていく、内心に留まっていた負のガイストが飛翔していく。彼を捨てたことの、罪を贖おうと、これまでも、これからも。男を騙しながら、この世にいることが、罰なのだから。偽りの恋に戯れることで…。


 男の子の優しい横顔が戻ってきた、それで十分だった。女はそこで、心地よく思考停止し、ぼんやりしていた。彼の透明感のある手の甲がまぶしく見えた。この世に生まれ出たばかりの、再臨した穢れなき表情に引き込まれた。この内側へ、すっと入り込んで来る、枠内のすべてを蘇生させる、尊いものが全体にしみわたっていく感じ。浮遊するガイストが、男の子という外枠を巧みに操っているのではなくて、きれいに内側と重なり合い、内心と同化して、カタチを創り上げて。悪霊や死霊として、この身を悩ます負の霊気ではなくて、精霊や聖霊として運命の道標になる流動体。正のベクトルを指し示せるか、彼はミッションを遂行できるか、合一を、統一を果たせるか、そうこの世で…。少なくとも一緒にいることはできる、寄り添っていける、愛でもって、無限の力を尽くして。そう一体となって、彼のすべてを感じて…。こちらへ顔を向けて、透明な優しい笑顔を、私に。(了)

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ギレン(偽恋) オカザキコージ @sein1003

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