ぱぁ

六野みさお

第1話 ぱぁ

 彼の欲求不満な右手は、今にも前に伸びようとしていた。しかし、理性を保った彼の左手は、右手の手首を握りしめて、必死にそれを抑えていた。


 彼が悩んでいることは、目の前に置かれてある、新しいカードゲームのデッキを買うかどうかだった。彼はそのカードゲームが大好きで、デッキは欲しくてたまらなかった。しかし彼の一番欲しいものは、本当はここから少し行ったところにある電気屋に売られているゲーム機だった。


 彼が初めてそのゲーム機を買いたいと思ったのは、もう一年も前になる。あるとき、彼の同級生の一人が、自分はそのゲーム機を手に入れたのだが、それは非常に面白いと言い出したのだった。そこでその友達の何人かが実際に遊ばせてもらったところ、そのゲーム機なるものは、いつも遊んでいるカードゲームよりはるかに面白いことを発見した。


 ゲーム機は彼のクラスに急速に広まった。運良く兄か姉がいる者たちは、彼らと共同で使うことができた。いない者も、親に頼んで買ってもらった。これを持ってないと友達の話についていけないんだ――と言えば、たいていの親は一発だった。


 だが、彼の親だけは違った。彼の親は小遣い至上主義者であったのだった。彼の親はこう言った――我が家では、お小遣いは月に学年掛ける千円と決まっている。君はその中で自分の娯楽品を買わなければならない――。


 それで、その当時の所持金が約二千円だった小学一年生の彼は、二万円――正確には一万九千八百円――のゲーム機を買うことはできなかった。それで彼は貯金を始めた。彼は月に千円のお小遣いをほとんど使わなくなった。使ったのはたったの二回――遠足のおやつと夏祭りの屋台だけだった。さすがにこの二つには使わないと、友達に変な目で見られるのだった。


 そして彼は、お年玉という臨時収入もあって、昨日の二千円で(彼は二年生になっていた)所持金が二万五千三百円になったのだった。これで彼は、ゲーム機に加えてゲームソフトもひとつ買えるだけの金額を手に入れていた。彼は何回も計算をやり直して、自分の所持金が目標額を三百三十円上回っていることを確認した。


 この日彼は、家に帰るとすぐに財布を握りしめて家を飛び出した。彼の心は一年ぶりに高揚していた。彼はまっすぐ電器屋まで走っていくつもりだった――しかし彼は、『新デッキ発売!』と手書きで大きく張り紙がされた駄菓子屋の前で、足を止めてしまったのだった。


 彼は確かに一年間小遣いをほとんど使わなかったが、カードゲームをするのをやめたわけではなかった。彼は節約を始めるまでにいろいろなデッキを買っていた。


 そして、彼は技術的にそのカードゲームに優れているという特長を持っていた。つまり、戦略が上手だったのである。もちろんカードゲームのデッキには優劣があり、彼は(特に新しいデッキを買わなくなってからは)自分のものよりも強いデッキを相手にすることが多くなっていた。しかし、それでも彼はほとんど負けることがなかった。


 その理由は、彼の徹底性と集中力にあった。小遣いを一年間ほとんど貯金につぎ込み続けたことからもわかるが、彼は一度決めたことは必ず納得するまでやる少年だった。彼は一試合ごとに相手の戦略を詳しく分析し、自分だけの必勝法を構築した。そして、試合中には一ターンたりとも気を抜くことがなかった。


 しかし、彼はいつまでも無敵ではいられなかった。特に最近は、高価で優秀なデッキを持つ者に苦戦することが増えていた。そして、ついに三日前、彼は高級デッキの友人に完敗を喫したのだった。それはまさしく戦力の差がありすぎる試合だった――そもそも彼がそれまで勝てていたことが奇跡的だった。


 だが、その屈辱も、やっと今日で終わるのだ――と、彼はさっきまで考えていたはずだった。揺るぎない事実として、すでにゲーム機で遊ぶ子どもたちは多数派だった。カードゲームを主要な遊ぶ媒体にしている人は探さないといないようになっていて、それは彼の人間関係にも影響を与え始めていた。


 だから彼は、この日まっすぐに電器屋に走っていくはずだった。彼はそうすることによって、ゲーム機を手に入れることに加えて、ゲーム機で遊ぶクラスの主要派の仲間入りができると信じていた。だが、彼の体は『新デッキ発売!』という文字を見た瞬間に緊急停止してしまったのだった。


 ――そして、場面は冒頭に戻る。彼は必死に新デッキを手に取ろうとする右手を抑えようとしていた。確かに彼は新デッキが欲しかった。しかし、彼にはまだ一片の理性があった。ここでその千二百円の新デッキを買えば、彼のこれまでの一年間の努力がぱぁになってしまうのだ。ゲーム機を買うのが、次に小遣いが入る一か月後まで持ち越しになってしまうのだ。


 それでも彼は新デッキへの欲望を抑えがたかったので、まずは新デッキから目をそらさないと始まらないと考えた。そこで彼はひとつ右の棚に目線を移して、その棚の前に一人の男の子が――彼より小さい、五歳くらいの子がいることに気づいた。


 その男の子が立っている前の棚には、比較的安い駄菓子が置いてあった。ガムとかチョコレートとか、一個百円もしないものが中心だった。そして、さらにその男の子をよく見て、彼の胸の中には衝撃がわき上がってきたのだった――その男の子は、さっきの彼と同じポーズを――今にも駄菓子を取りそうな右手を左手で抑えるポーズを取っていた。


 彼はそれを見て、その男の子に親近感を持った――まさに彼は、数年前にその男の子に近い経験をしたことがあったのだ。


 当時ーー彼がまだ幼稚園児だったころ、この駄菓子屋はただの駄菓子屋だった。つまり駄菓子だけを売っていたのである。だが、人の良い駄菓子屋の店主は、年上の子どもたちの要求に押されて、駄菓子屋にカードゲーム用のカードを導入することになったのだった。


 この出来事は、近所の子どもたちにとっては大きな変化だった。だれもが喜び勇んで駄菓子屋にカードを買いに行った。ちょうど基本的な字を覚えて、カードゲームができるようになったばかりの彼も例外ではなかった。


 しかし、金銭的には彼は背伸びをしていた。というのも、当時の彼の小遣いは、一週間に五十円だった。そしてボーナスが出ることは絶対になかった。彼は一番安いたぬきのデッキを買うのにさえ、六週間の貯金を必要とした。


 そして、当時の彼には、まだ十分な節約感覚が育っていなかった。彼はよく誘惑に負けて三十円や五十円の駄菓子を買ってしまい、一週間分の貯金をぱぁにした。


 だが、彼は何回かの失敗を繰り返したあと、ついにデッキを買うだけの金額をためることができたのだった。彼はそれまでの人生で一番といえるほどの達成感をかみしめて、何度もデッキの表紙の狸に頬ずりしたものだった。


 もちろん、そのデッキは一番安いのだから、すなわち最弱のデッキであった。ほとんどの子どもたちは、だんだん高いデッキを手に入れるにつれて、狸のデッキを使うことはほとんどなくなっていった。


 しかし、彼だけは例外だった。彼の主力デッキはもちろんもっと上位のものだったが、彼は定期的に狸のデッキで試合をした。他の者とは違って、大変な努力の末に狸のデッキを手に入れた彼は、それへの愛着を捨てきれなかった。そして、あえて弱いデッキで試合をすることが、彼の戦略眼を育て、彼をカードゲームの達人にする一因になったのだった。


 彼はそのことを思い出して、なんとなく気持ちが軽くなった。それまで自分が強い欲望に負けそうになっていたことが、ひどくちっぽけなことに思えてきた。がまんするから余計にうれしいんだ――と、彼は自分のモットーを再確認した。


 そのとき、彼は視界の右端に動きを確認した。


 例の男の子が駄菓子を手に取っていた。その男の子は、まるで何かに取りつかれたかのように、手に持った八十円のビスケットを見つめながら、ふらふらとレジのほうに歩き出した。


 それを見て、彼は心を決めた。彼はぱっとデッキをつかむと、レジへの最短距離をダッシュした。何年も通い詰めた、勝手知ったる店だ。彼はその男の子がレジに着く寸前に、なんとかレジに滑り込んだ。


 彼は店主にデッキを差し出し、代金を払い、デッキを受け取った。そして、まだぽかんとしているさっきの男の子の手に、今買ったデッキを――例の狸のデッキを握らせた。


 彼は店を出て、ゆっくりと歩き出した。彼の所持金は、まだ最低ラインを三十円超えていた。


 彼はさっきの男の子を思い浮かべた。なんだか自分が大変なことをしてしまったような気がした。でも、それでいいのだ。そうやって、優しさとか厳しさとか、喜びとか悲しみとか、そういういろいろなものを経験しながら、僕たちは大人になっていくのだ――と、彼は少し感傷的に考えた。


 彼はとんとんと助走をつけて、まっすぐに電器屋への道を走っていった。


 


 


 


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ぱぁ 六野みさお @rikunomisao

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