あなたに出会う前の私を、思いっきり後ろから殴りたい!!

kazuchi

チャンスの神様には前髪しかない!

「――大林おおばやしさん、私なんかで本当にいいの?」


 別れを告げに来たはずだった……。

 なのに、何でだろう、彼の顔を見た途端、いろんな感情が湧き上がってしまう、

 頬を伝わる涙、優しく拭き取ってくれる細めの指先、


春樹はるきと呼んでくれ、知世ともよさん、君じゃなきゃ駄目なんだ」


「……これからは春樹さん、って呼んでもいいんですね?」


 その手の暖かさ、たとえ歳を重ねておばあちゃんになっても、

 この人と出会えたことを生涯、私は忘れないだろう……。

 下弦の月が二人のいる歩道橋を照らし、二つのシルエットが重なりあう、

 忙しく行き交う車道の騒音も今の私達には聞こえない、

 何故だろう、強く抱きしめられ誰よりも近くにいるはずの彼、

 その存在が曖昧に感じられるのは――どうしてなの?




 *******




「芳山さん! 芳山知世よしやまともよさん!」


 怒気を含んだ言葉で我に返った。

 目の前のデスクには雪崩を起こしそうな山積みの資料、

 慌てて起き上がり、タンブラーのコーヒーをこぼしそうになる、


「は、はい! 支店長、すみませんでした……」


「勤務中に居眠りとは困るね、それとも今月は契約件数必達するのかな?」


 壁面に張り出された今月の契約グラフを一瞥しながら、

 支店長がお決まりの嫌みを言う、今月の契約件数は一件も取れていない……。


「余裕だな、当営業所のエース、ひろ子君はもう五件契約しているぞ!

 月半ばでお団子とはね、呆れて物が言えないな」


 お団子とは業界用語で契約ゼロ件の意味だ……。

 悔しさと恥ずかしさで耳まで赤くなる、

 こんなはずじゃなかった、今月は大口の契約が取れるはずだったんだ、


「支店長、訂正してください、私の契約は六件です」


 隣の席に座る金剛寺こうごうじひろ子さんが涼やかな声で訂正を促す、


「おお、ひろ子君、悪い悪い、昨日の契約を忘れていたよ!」


 支店長が猫撫で声で答えるのを聞いた瞬間、気分が悪くなってしまった……。

 私、芳山知世、二十二歳、結婚までの腰掛けとしてのんびり会社勤めしたかった、

 なんで弱肉強食の世界にどっぷり浸かってしまったんだろう。

 わが生命保険業界は、いわゆるブラック企業が多い、

 会社勤めしている人なら経験したことはないですか?

 会社のお昼休みに企業訪問する、生保のお姉さん(おばさん?)

 良く人数分、薄いテレビの番組表やお菓子を置いていく彼女達を、

 知ってた? あの置いていく冊子やお菓子は全部、自腹だって事。

 もちろん、契約が取れれば金額に応じてインセンティブが貰えるけど、

 今月の私みたいにお団子だと、基本給以外、一銭も貰えないんだよ。

 えっ? でも基本給が良いんじゃないって、とんでもない!

 契約が取れない営業はペナルティがあるの、

 基本給から差し引かれて、同年代の友達よりお給料水準が低いかも。


「えっ!? 知世、あれだけ残業してお給料それっぽっちなの」


 昨日も親友の典子に携帯越しに驚かれたっけ、


「考えた方がいいんじゃない? 割に合わなすぎだよ 知世」


 数少ない友人の典子は親身になって私を心配してくれる。


「そんなとこにいると、人生の幸せも婚期も逃すよ、

 チャンスの神様は前髪しかないんだよ!」


 出た! 典子の口癖だ、その意味は人生の好機が訪れても、

 モタモタしているとチャンスを逃す、神様と向き合って前髪を掴む、

 後ろには髪はないので掴めないと言う意味だ……


「特に知世は結構可愛いのに、彼氏居ない歴、年齢なんだから!」


「うっ!? それを言われると返す言葉もないんだけど……」


 小学校の頃から仲良しの典子は何でも知っている。

 もちろん、気になる男の子は過去にも何人かいた、

 だけど、私が気に入った男の子は典子以外の友達と被るんだ、

 私が勇気を出して告白しようとすると、いつも先を越される、

 そして恋よりも友情を取り、心で泣きながらキューピット役に徹して来た。

 きっと生まれつき、私はそんな役回りに違いない。


「ねえ、知世、私に良い考えがある、チャンスの神様を今から送るから」

 携帯越しに典子の意味深な微笑みが目に浮かぶようだ、


「えっ、何? 何、チャンスの神様を送るって……」


「殻を破らなきゃ駄目だよ! 人生変えなきゃ」


 言っている事は正論だ、最近、仕事にも心底疲れている、

 パワハラ上司に、劣悪な労働環境、一人暮らしのアパートに帰って寝るだけ、

 休日も普段の仕事疲れて、寝だめをしないと死んでしまいそうだ……

 昔から続けている小説を書く趣味もご無沙汰だ、何もやる気力が残っていない。


「とにかく、知世、神様に繋がるアドレスを送るから、

 踏み出すか踏み出さないかは、知世次第なんだからね、

 じゃあ、切るね!」


「ちょ、ちょっと待って、典子!」


 問いかける間もなく、典子は電話を切った、


「何、チャンスの神様のアドレスって……」


 間もなく、携帯の待ち受け画面に典子から通知が入った、

 そこにはURLが記載されていた。


「早っ! 一体何なの? このアドレス」


 普段の私だったら、典子の口車に乗らなかっただろう。

 でも、その日は違ったんだ、親友に心配を掛けたくないとかだけじゃない、

 きっと今の自分を変えたかったんだ。


 思い切ってアドレスを開く、携帯アプリのダウンロードページに移動する。


「ベアーズ?」


 可愛い熊のアイコン、

 説明文を読むとマッチングアプリみたいだ。


『チャンスの神様はね……』


 典子の格言が頭の中をリフレインする、


「ええい! 入れちゃえ!」


 ダウンロードボタンにタッチする、

 瞬時にアプリのアイコンがメニュー登録された。

 この瞬間、チャンスの神様の前髪は掴めただろうか?



 次回に続く。


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