(6)

「私を、このままここに置いて下さいませんか」

 そう告げた瞬間、一瞬だけ秋満さまの赤紫がぱっと輝いたように見えた。しかし、すぐにその煌めきは鳴りを潜め、彼は慎重そうに口を開く。

「それは……神界には戻らずこのまま地上にいる事を希望する、という事か?」

「はい。秋満さまがお許し下さるなら」

「心春は俺の恩神だ。そんな心春が望むというのならば、勿論叶えるさ」

「ありがとうございます」

 ひとまず彼の傍にはいられそうだ。その事にほっとしていたら、目の前の秋満さまが急にそわそわし出した。手を握ったり離したり、視線を左右にさ迷わせたり、いつになく落ち着かない素振りだが、どうしたのだろう。

「……部屋はどうする?」

「どうする、とは?」

「心春がこのまま俺の妻でいてくれるならば、部屋を今の場所から移動する必要はない。だが、婚姻関係は解消するというのならば、本邸から離れの方に移動してもらう必要があるんだ。勿論、どちらを選んだとしても不自由の無い様に計らうが……」

 揺れていた赤紫の瞳が、真っすぐに私の方を向いた。なるほど、今、私は大きな決断を迫られているのか。

「きっと、気楽でいられるのは離れで居候として暮らす方だ。こちらから要求する事は特にないから、思う存分医術の勉強をしたり町に行ったり好きにしていい。だが、このまま本邸に……俺の妻のままでいるなら、当主夫人として家の管理とか来客の相手とか、そういう事を心春にしてもらう必要がある。確実に、居候より大変だ」

 口ではそう言っているけれど。だから無理をせず婚姻関係を解消して気ままな居候を選んでいいと、そういう流れにしようとしている気がするけれど。

 でも、私の覚悟はとっくの昔に決まっていた。

「……秋満さまが了承して下さるのならば」

 必死に息を整えて、声が震えないように言葉を紡ぐ。口にするのは怖いけれど、でも、心から望むのならばきちんと伝えなければならない。

「私は、このまま貴方の妻でいたいです。妻として、貴方の隣に立って、一緒に生きていきたいです」

 どのくらい一緒にいられるかは分からないけれど。私に務まるのかという不安はあるけれど。でも、貴方の隣はもう誰にも譲れないって、その気持ちは確かだから。

 彼の返答を待つ間が無限のように感じられた。しかし、待てども待てども、秋満さまは何も言っては下さらない。流石に催促した方が良いかと思ってもう一度口を開きかけたその瞬間……手首を捕まれ引っぱられて、彼の腕の中に囲い込まれた。

「あきみつ、さま」

「一目惚れだったんだ」

 上ずった声で彼を呼んだら、予想外の言葉が聞こえてきた。ばくばくと音を立てている心臓は、真夏のように熱い体温は、果たしてどちらのものなのだろう。

「最初は、解呪の依頼のための結婚だから、礼を失さないようにだけ気をつけて、割り切ろうと思っていたんだ」

「そう、ですか」

「だけど、式の日に心春を見て、一瞬で心を奪われた。女性を見てこんなにも心を動かされたのは初めてで、当初の目的を忘れ解呪後も傍にいてほしいと思った」

 目尻の方が熱くなって、視界がゆらゆらと揺れ始める。ぎこちない動きで彼の背中へと腕を回すと、更に強い力で抱き締められた。

「でも、心春は神様だ。人間よりも高位の存在で、困っていた俺に力を貸してくれるために来てくれただけなのだから、俺の欲だけで地上に留めてはいけない、目的ありきの結婚の目的が果たされたなら無理強いは出来ない、何より神を私欲で望むなんて罰当たりだと。この想いは、諦めなければならないのだと」

 この人は、どこまで真面目なんだろう。どこまで真面目で、不器用で、優しいんだろう。そんな彼が愛しくて堪らなくて、私の方の腕にも力を込めた。

「私も貴方が好きです」

「こはる」

「私は、一緒に過ごしていくうちに、貴方の事を好きになりました」

 好きになった経緯は違うみたいだけど、そんなのは些末事。今確かに、互いが互いを愛しているという事実の方が、余程大切なのだ。

 自分の頬に、涙が一筋伝ったのが分かった。伸びてきた彼の手の平に包まれて、その温かさに口元の緊張が解けていく。


 そしてそのまま、重なっていく吐息を受け止めた。

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