出産 (不動の焔 番外編)

桜坂詠恋

第1話

「ゴトリ……。誰もいなくなった蒸し暑い部屋から男が出ようとした時、棺の中からそんな音がしたんだって。それで不振に思った男は、恐る恐る棺の蓋を開けて悲鳴を上げた!

『死体が! 死体が一つ増えてる!』

そう……赤ん坊だよ。死んだ女が、赤ん坊を生んだんだ……。

そして、次の瞬間、赤ん坊がの目がくわっ! と開き…………オギャーッ!」

「いやぁぁぁぁぁぁっ!」

 就業時間もとっくに過ぎたある日の夜。

 T大法医学教室の事務室のソファーで眠りこけていた監察医の月見里は、本郷中に響き渡ろうかと言う金切り声で飛び起きた。

「な、何? どうし……」

「うわぁぁん! せんせぇぇぇっ!」

 体を起こすや否や、月見里の白衣の胸に何かが勢いよく飛び込んで来た。

「ど……どうしたの」

 ずり落ちた眼鏡を直しつつ、自分の懐を見下ろすと、そこには見慣れたつむじが見えた。秘書の深田栞だ。

 その栞が月見里の背中に手を回し、ぎゅうぎゅうとしがみついて来る。よほどの事があったに違いない。

 と、そんな栞を指差し、コーヒーテーブルを挟んで向かいに座っている写真係の品川が、腹を抱えて笑い出した。

「あはははは! スゲー顔!」

「栞、チョービビリ!」

 品川の隣では、シュライバーの庄司も同様に大口を開けて笑っている。

 すると、栞は今にも零れ落ちそうなほどに涙を溜めた目で、キッと品川を睨み、精一杯の抗議の声を上げた。

「しっ、品川君のウソツキ! 面白い話だって言ったじゃない!」

 しかし、栞の童顔ではいささか迫力に欠ける。

 案の定、品川は「面白かっただろ?」と、栞とは対照的な、笑いすぎで浮かんだ涙を拭いながら、隣の庄司を見た。

「なぁ? 庄司?」

「栞がね」

 庄司もすかさず答える。二人は再び笑い出した。

「ぶはっ、ぶははははは!」

「ひー、ひー! おか……おかし……」

「なによう! うえっ……」

「おいおい……」

 一人蚊帳の外に置かれた月見里は、子供のように泣き出した栞の背中を摩りながら、目の前の二人の顔を交互に見た。

 自分が寝ている間にどんな話が合ったのか、全くもって見えてこないが、栞が二人にからかわれたらしい事は窺える。何事にも寛大な月見里も、事と次第によっては、二人にお灸を据えねばならない。

「何なんだい、一体」

「都市伝説ですよ。怪談。『恐怖! 出産する死体!』ってやつ」

「あー……。なるほど……」

 庄司の答えに、月見里は、溜息混じりに小さく何度も頷いた。状況説明はそれで充分だ。

 何も怪談が罪だとは言わないが、女の子を泣かせてしまうようでは悪戯が過ぎる。

「あのね……」

 少しお説教をと口を開いた月見里の眉間の皺に気付いたらしい。

 品川はパン! と手を打つと、自分の腕時計を、指先で何度か叩いた。

「庄司! 時間、時間! そろそろ行こうぜ。合コン遅れちゃう」

「げっ。ホントだ。行こ行こ。んじゃな、栞」

「そういう訳で! お先っす!」

 二人は小走りに廊下へ出るとヒラヒラと手を振り、まるで掃除機に吸い込まれるように顔を引っ込めた。

 脱兎の如くとはこういうことを言う。その見本のような素早さだった。

「逃げたか……。困った奴らだなぁ……。栞が怪談が苦手だって知ってて。大丈夫……?」

 月見里は、栞の頭を何度かポンポンと優しく叩くと覗き込み──、眉尻を下げた。

 ちっとも大丈夫そうではなかったからだ。

「参ったな」

 静かな事務室に、栞の「ふえっ、えっ、えぐっ」と言う、しゃくり上げる声が響く。

「ほら、もう泣かないで」

 小さな女の子でもあやすように言いながら、テーブルの上のティッシュを引き寄せ、栞の膝に乗せてやる。

 先日、給油をした際に、ガソリンスタンドで貰った景品だ。

 本当はハンカチを貸してやるべきなのだろうが、生憎と今日は持ち合わせていなかった。

「あんまり強く擦らないようにね。安物のティッシュだから」

 栞は元々色白だ。

 だが、今の栞は色を失っていると言っても過言ではない。

 そんな中、目と鼻だけが赤く、それが余計に可哀相で、それでいて白兎のように愛らしかった。

「かっ、帰れないよぅぅぅ」

「送ってあげるよ」

 こんな状態で、衆人環視の電車に乗せるのも忍びない。そう思っての申し出だったのだが──。栞は小さな頭をふるふると何度も振った。

「え……。どうして?」

「だって、今日ウチ、誰もいないんですもん。りょ、両親は旅行、行っちゃったし、ナオちゃんも、合宿……行っちゃって……。ふ……ふぇ……っ」

 直輝は栞の弟だ。8つ違いの高校生ながらしっかりとしており、頼りない姉のナイトを自称している。

 ――とい言えば聞こえは良いが、実際は重度のシスコンで有名だ。

「うーん。なるほど……ねぇ」

 言いながら月見里は、もう一度栞の様子を見た。

 ボロボロと涙を流し、嗚咽を堪えようと引き結んだ唇も真っ白で、最早失神寸前といった様相である。これでは、帰すに帰せない。

「じゃあ……」

 月見里は暫し考えた後、一つの提案をした。

「ここ、泊まる?」

「!!」

 月見里の突飛な提案に、栞は文字通り飛び上がった。

『ここ』とは法医学教室。つまり、下世話な言い方をすれば異常死した人間の関所であり、死体のデパートである。いくら慣れた職場と言えど、泊まるとなれば話は別だ。

 栞は、首が千切れるかと言うほどにブルブルと振った。

「やっ、余計こわ……」

「大丈夫。僕も残ってあげるよ。それなら平気?」

「え……」

 不謹慎だ。

 そう思いながらも、栞は頬が熱くなるのを抑え切れなかった。

 月見里にそう言った類の期待をしても無駄だと言うのも、これまでの経験から知っている。

 彼は『仏の月見里』の異名通り、誰に対しても分け隔てなく優しいのだ。

 そう、生きとし生けるもの、生を全うしたご遺体に対しても、分け隔てなくだ。

 それでも、心臓が先程とは全く別の、期待に満ちたリズムを刻んでしまう。

 それを悟られまいと俯くと、栞はスカートの裾を、見えない糸と針で縫い始めた。

「で、でも先生……、お疲れですし……」

「心外だなあ。僕は、怯えてる女の子を放っておくような薄情者に見えるんだろうか」

「そんな。先生は優しいです! ホントです! ホントに……」

 ムキになる栞に両手を挙げて「参った」のポーズをすると、月見里は両手を合わせた。

「ごめん、ごめん。ウソだよ。実を、言うとね──」

 ソファーから腰を上げた優しい監察医は、首の後ろに手を当て、何やら言いあぐねている。

「どうしたんですか?」

「その……、うん。事務仕事、ため込んでたんだ」

「へ?」

「さぁて。そろそろやろうかな」

 両手を組んで伸びをすると、月見里はパタパタとスポーツサンダルの底を鳴らしながらデスクへと向かった。

「ウソばっかり……」

「ん? なんだい?」

 月見里が仕事を溜めた例はない。それは秘書である自分が一番よく知っている事だ。

 栞は、新しい涙を目尻に浮かべたまま笑顔で答えた。

「何でもありません」



 栞は事務所のソファーで、解剖チームが仮眠時に使う毛布にくるまり横になっていた。

 しかし、どうにも眠れない。

 枕が違う眠れないタイプでもないし、パジャマじゃないからと言う訳でもない。

 勿論、着替えなど持っている筈もなく、かと言って、ブラウスとタイトスカートでは窮屈だ。だが、そう思っていた時、月見里が気を利かせて新しい術衣を用意してくれた。

 原因は、ソファーを沿わせてある壁に着いた染みだ。

 気にしないよう目を逸らしているのに、壁に背を向けているのに、そこにある事は随分前から知っているのに、染みの存在が気になって仕方がないのだ。

 栞は何度目ともつかない寝返りを打つと、ちらりと、机に向かっている月見里を見た。

 事務仕事と言っておきながら、やはりする事がないらしい。

 灯りを落とした室内で、デスクライトの灯りの下、文庫本を手にしていた。

 読んでいるのはミステリーのようだ。長い指に隠れ、タイトル全ては見えないが、「温泉殺人事件」と書かれているのが垣間見える。

 結局、自分の為に残ってくれたのだ。

 そう思うとまた、いけないと分っていながら、少しは「特別」なのだろうかと淡い期待に胸が躍る。

 そんな自分を嗜めると、栞は頭まで毛布を引き上げた。

 と、その時だった。


 グ……ヴヴヴヴ…………


 突如として聞こえた唸り声に、栞は反射的に身を固くした。

 どこか深いところから、低く、密やかに、しかし長く尾を引くような──。

 毛布の中で、思わず瞑ってしまった目を恐る恐る開けてみる。

 もう、何も聞こえなかった。

 聞こえるのは、静かに時を刻む秒針の音、文庫本のページを捲る乾いた音、そして、自身の早鐘のように打つ心臓の音だけだ。

 月見里は聞こえなかったのだろうか。

 気になった栞は、意を決して、引き上げた毛布をソロソロと鼻先まで下ろした。

 顔をほんの少し横に向けると、窓際の月見里のデスクが見える。そこでは相変わらず、頬杖をついて本を読んでいる月見里がいた。

 しんと静まり返った室内。

 デスクライトの光に浮かび上がる、月見里の無表情。

優 しいはずの月見里の顔が、酷く冷たく見えた。

 直ぐそこにいるのに、何故か水族館の厚いガラスに阻まれたような気がして不安になった。

 ひょっとしたら、自分の声は月見里に届かないかもしれない。

 いや、あそこにいるのは、本当に自分の知っている月見里なのだろうか。

「せ、先生」

 小刻みに震える声で、栞は月見里を呼んだ。

「ん? あ……ごめん。ひょっとして、ライトがまぶしくて眠れなかった?」

「いえ……あの……」

「どうしたの?」

 文庫本から顔を上げて栞を見た月見里は、少々驚いた様子ではあったが、いつもと変らない柔和な表情だった。

 その様子に栞はホッとし、同時に恥ずかしくなった。

 臆病にも程がある。これだから、あの二人にからかわれてしまうのだ。

「す……すみません……なんでもない……です」

 ぽそりと言って、背後の染みをちらりと見る。

 いつだったか、庄司とふざけていた品川が、うっかりコーヒーを引っ掛けた跡。

 改めて見ると、やはりなんて事はない、ただの染みだ。

「誤ることないよ」

 穏やかに響く優しい声に、栞は視線を戻した。

「僕にだって経験がある」

 そう言って文庫本を閉じると、月見里は入り口のドア脇にある、部屋の電気をつけた。

 薄闇に慣れていた栞の目に真っ白な光が差し込んで、軽い頭痛にも似た感覚に襲われる。

 両手で何度か目を擦り、次に目を開けた時には、月見里が向かいのソファーに腰掛けていた。

 背中を丸め、肩幅に開いた長い脚の上で肘をつき、じっと正面の──、栞の背後の壁の染みを見ている。

 そして、手を組んだまま、指だけを伸ばして指し示すと言った。

「ああ言う壁の染みが、顔に見えるんだよね。僕も子供の頃は、染みだってわかってても怖かったよ」

「う……。すみません、コドモで」

 小さい体が、益々小さくなる。自然と頭も下がった。

 だが、月見里はそんな栞を笑う事無く、そっと手を伸ばすと、ポンポンと栞の頭を優しく叩いてからその手を乗せた。

「いいんだよ、栞はそれで」

 月見里は大きい。

 こうやって、全ての人をそのまま受け入れられる。

 だから、誰もが彼を慕い、付いていく。居心地が良くて離れられないのだ。

 栞はそっと目を閉じると、僅かな間ではあったが、じんわりと伝わる月見里の手の温もりに身を任せた。

「よし」

 月見里は栞の頭から手を浮かせると、その手で自身の膝を打った。

「じゃあ、僕がさっきの話をもう一度しよう」

「ええっ?」

「科学的にだよ。そうすれば、僕のお腹の音が『唸り声』に聞こえる事もなくなるよ」

「先生も気付いて……って、え……? あれって?」

「ごめん、またお腹空いて来て……」

 怪談の真相とは、案外こんなものなのかもしれない。苦笑する月見里を見上げながら、栞は思った。



「あれは確か、僕がまだ研修医だった頃だから……。そうだね、10年近く前になるかな」

 栞が用意してくれたカップ麺で空腹を満たした月見里は、空になったカップに割り箸を突っ込んでテーブルに置くと、話し始めた。

「そう、猛暑続きの夏だったよ」

 出勤して直ぐに運び込まれたのは、まだ若い妊婦の遺体で、死因は溺死。自殺だった。

 妊婦の自殺──。

 本来なら、幸せの絶頂期だ。だが、彼女にとってそれは、辛い──いや、おぞましい現実だった。

 彼女は、レイプ被害者だったのである。

 日に日に大きくなる腹に、彼女は怯えた。

 そして、腹の中の生き物がぐるぐると動き出した時、彼女の精神は限界を超えた。辛うじて正常を保っていた心の糸が、プツリと切れてしまったのだ。

 辛かっただろう。誰とも知らぬ、悪魔の子を宿し、どれだけ恐ろしかったか。男の月見里ですら、それを思うと身震いがした。

「その女性の遺体がね、栞が聞いた話と同じように……といっても、解剖室で、僕らの目の前でだけど、出産したんだよ。正確に言えば、出産じゃなくて排出……瀉出かな」

 ムダに栞を怖がらせないよう、月見里は女性の身の上のくだりを端折り、事の結果を先に述べた。

 聞く者を怖がらせたければ、ここは最後持っていくのが常套手段だが、今は逆効果だ。先に何が起こったかを伝え、恐怖心を和らげた方がいい。

 そんな月見里の心遣いが効いたのか、栞は怯える事無く、月見里に質問をした。

「しゃしゅつ……ですか?」

「流れ出る事だよ」

 しかし、実際はそんなあっさりしたものではなかった。

 何の処置もなく死体が赤ん坊が瀉出する様は筆舌に尽くし難く、恐ろしくグロテスクだった。

 しかし、その原理は簡単だ。

 監察医や医者、刑事でなくとも、身内の死に立ち会ったり、葬儀に参列した経験のある者なら誰でも知っている通り、普通、遺体は冷たいものだが、あの遺体は生きている人間よりも体温が高かった。

 岩場から海へと身を投げて死亡した彼女の遺体が、波に煽られ、揉まれた後打ち上げられ、発見されるまで夏の炎天下に晒されていた所為だ。

 その為に、死後下がるはずの体温が下がらず、それどころか上がってしまったのである。

「それによって腐敗が進んでガスが溜まり、筋肉の弛緩している母体の子宮から胎児が押し出されたんだ。勿論、胎児も死亡してたよ」

「じゃあ……品川君達の話も」

「自然現象だよ。それにおヒレがついたってとこだろうね」

「そうなんだ……。それでどうなったんですか?」

「もう一枚、検案書を書いたよ。遺体が増えた以上、検案書も……ね? 火葬にするにしても、遺体の数と検案書の数が一致しないと」

「そうですね」

 栞は、前のめりになっていた体をソファーの背に戻すと、ふーっと息をついた。緊張でずっと上がっていた肩が、ようやく下りた感じがした。

「ちょっとはスッキリしたかな?」

「はい」

「それは良かった。それじゃあ、今夜はもう遅いから。どうぞ、お休み下さい、お姫様?」

 ポンと頭に手を乗せ、軽くかき回すと、月見里は背中を向けた。

 お姫様と言いながらも、月見里のそれは、まるで子供にするようだ。

 栞は軽く竦めた肩をストンと落とすと、聞こえないように小さく溜息をついて苦笑した。

「はい。おやすみなさい、先生」



 改めてソファーに横になると、栞は瞬く間に眠ってしまった。

 薄く開いた唇からは、規則正しい寝息が零れている。

 月見里はずり落ちたタオルケットなおし、頬に張り付いた髪の毛をそっと耳に掛けてやると、再び机に向かい、ふうっと息をついた。

 遺体の出産の原因は間違いない。

 だが、栞には話さなかった事があった。

 あの時、母体と同様、長時間炎天下に晒されていた胎児は、遺体の陰部から、湿った湯気を上げながらぬるりと、しかし、ゆっくりと滑り出てきた。

 その様子は、今思い出しても身の毛が弥立つが、月見里が見たのはそれだけではなかった。

 女の股から生えた小さな物体は、腐った体液に塗れた頭を完全に露出すると、突如大きく瞼を開き、白濁した目で、月見里の向かいにいた女性刑事を見た。

 そして、ゲラゲラと一頻り笑うと、赤黒い唇を吊り上げ言ったのだ。





 次はお前だ!!





 胎児の異常に、その場の誰も気づかなかった。

 だから月見里も思ったのだ。

 連日の解剖で疲れていただけなのだと。

 しかし、それから半年も経たぬ間に、彼女は“患者”となって解剖室へ戻ってきた。

 あれは、連続婦女暴行事件の幕開けだったのだ。

 そして、付け加えておかねばならない。



 事件はまだ終わっていない事を。





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