カニクリームコロッケの思い出

カラミティ明太子

しばらくコロッケは食べなくて良いかもしれない

 煙草の吸口を噛み潰したことに気づいた私は少しだけ──訂正、かなり苛立ちながら灰皿に煙草の先端を押し当てた。

 無理やり当てた歯ブラシの穂先のように潰れた煙草から茶色い葉が少しだけ溢れ出る。同様の様相を呈している吸い殻が5本あった。

 僅か30分ばかりの間に私は5本も吸っていた。

 喜べない新記録だ。



 付き合っていた彼氏は普通の人だった。

 適度な距離感で、適当に浅いところで話題が合う。服装だって目立つ要素は無いし身なりも程々に整っている。顔立ちも探せばもっとかっこいい人はいるはずだけど、妥協してこのラインでも悪くないかなって言える程度。

 ザ・普通。オール平均点。

 けれど私には勿体ないくらいに良い人だった。少なくとも彼は煙草を吸い、自ら臓器を痛めつけて寿命をいたずらにすり減らすような人じゃなかったからだ。

 別れたのは数時間前。

 朝起きていきなり。

 寝耳に水とはまさにこのことで、最初は何の冗談かとカレンダーを確認してしまった。4月1日なんてとっくのとうに過ぎてるし、テーブルの上にアルコールの類があるわけでもない。それに彼はアルコールが入ったくらいで変なことを言うような人でもなかった。

 昨夜は付き合ってちょうど半年だった。


 駅前の喫茶店で時間を潰して早3時間。今日泊まるところはどうしようか、なんて考えながら知らずのうちに半分近く減ったメロンソーダのグラスに刺さったストローも先端が噛み潰されているのに気づいて気が滅入ってしまった。

 ストローを噛むのはB型の特徴だなんてどこかで聞いたことがある。そんなの嘘だ、なんてあの時は笑い飛ばしたけれど今はそうとも言い切れない。きっとその時のB型代表さんも今の私と同じような心境だったのだろう。

 哀れなB型代表さん。顔も声も知らない愛すべき同胞よ、あなたも失恋したらストローをこれでもかと噛んだりするのかしら?

 


 夜

 サイタマ・コロッケバー


「それ全部食べるの?」

「おう。ここのメンチは絶品なんだ」

 ウスターソースが注がれた紙コップを皿の上に大量に盛られたメンチカツへ掛ける彼は、私のただ一人のセフレ。

「しかし珍しいな。お前から連絡してくるなんてよ」

「振られた」

「だろうな」

 大きく口を開けてメンチカツに齧り付いた彼は眉間にシワを寄せて満足気に頷くと親指で口の端についたソースを拭い、ビールを流し込んで一息つくと言った。

 どういう理屈かは分からないが、このお店のメンチカツは再生代替料理用油ではなく『本物』のサラダ油で揚げているらしい。

 なんでも、ちゃんと店の奥に菜種油を絞る装置があるだの何だのとよく噂されているが本当のところは分からない。

「じゃなきゃ、そっちから連絡なんかしてこねえ」

「悪かったね、薄情者で」

 薄情者だからといって味覚が変わっているわけではないのは救いだ。私にだってこのお店のコロッケが美味しいことくらいは分かっている。

「お互い様だろ。メインの相手がいる時は誰だってそうなるさ」

「あんたはどうなの?」

「絶好調」

 ちょっと前の私を訂正。こいつは元セフレ。

「良かったの、今日来たりして?」

「どうせすぐ別れる。それに、お前に呼ばれて無視するなんざ俺にはできねえよ」

 まあでも、と彼はメンチカツを食べる手を止めずに言う。

「俺が一番抱きてえって思ってたお前は、アイツと付き合ってる時のお前だった」

「なにそれ」

「最高の女に見えてたよ。今でもそうだが、輪をかけてイイ女に見えた。とびきりの笑顔のお前に俺はゾッコンってやつだ」

「あんたと付き合ってた時じゃなくて?」

「ああ。俺と付き合ってた頃よりも良かったし、事実、俺たちは別れてからのほうがセックスは情熱的だ」

「それってつまり、あんたは他人の女を寝取りたい趣味があるってこと?やめたほうがいいよ、そうやって自分から問題起こすのは」

「半分同意するが、別に問題を起こしたいわけじゃねえ」

「じゃあどういうこと?」

「マジで向き合ってるお前が好きだって言ってんだ。俺達は結局セフレだ。それ以上になったところですぐ冷めちまう。けどな、他の誰かを見てる時のお前は……悔しいが、マジで惚れる。その中でもアイツの話をしてる時のお前はとびきりのイイ女だった」

「うざいんだけど?」

「いいか、俺が言いたいのは──」

「ヨリを戻せ、でしょ?」

 分かってる。こいつはそういうことを言ってくれる男。

 欲しいときに欲しい言葉じゃなくて、ちゃんと自分の意見をぶつけてくれる最低の男。女心なんて何一つ分からない正論野郎。それでいて彼女がいるのに誰かと寝たりするような奴。

「うるさい。もう無理なの」

「何でだよ?荷物全部捨てられたわけでもねえんだろ?」

「そうだけど……」

「最悪、ヨリを戻さないにしろ今日は帰った方がいいんじゃね?」

「嫌だ」

「なんで」

「顔見たらまだ好きなんだって分からされる」

 泣きたい。今すぐ声を上げて泣いて、自分をめちゃくちゃにしたい。けれど、これくらいで泣くのも癪だ。なんで私が泣かなければならないんだ。そうとも、私を振った彼が後悔で泣くのが相応しい。

 あるはずがない。

 あるわけがない。

 そんな涙を流すようなら、もっと早くに別れてるだろう。彼は絶対に私を想って泣かないだろうという自信がある。なんだよ、ちくしょう。私の一人相撲かよ。

「……ウチ来るか」

 見かねたように溜息をつかれた。何なんだよ、今の私はそんなにみっともないっていうのか。

「うわ、さいてー」

「だから言いたくなかったんだよ」

「別れたばっかのセフレをここぞとばかりに呼ぶなんて……」

「ヤる目的以外で女を家に呼ぶことくらいあるっつーの」

「どうだか。言っとくけど、私今日はそういう気分じゃないから」

「知ってる」

「ホック触ったらタマ蹴る」

「分かってる」

「……」

「他には?」

「うるさい、馬鹿」

 ついでにアホと付け加えてこいつの皿からメンチカツを1つ強奪してやった。どうだ、ざまーみろ。こういう時に優しさなんか見せやがって。

 本当に損なやつ。

「俺はさ」

 聞いてもないのに何かを語りだした。少し照れくさそうな顔までしてる。今から何かカミングアウトでもしようっての?どんな心境してんのあんた。

「マジで惚れた女と別れた時……決まっていつも、カニクリームコロッケを食べるんだ」

「いきなり何?」

「ガキの頃、カニクリームコロッケのクリームはカニ味噌だって親に言われててさ。ずっとそれ信じてたんだよ」

「待って。それ、何か関係ある話?」

 変なスイッチでも入ったか。まずオチを言え。いきなり変な話なんかしやがって。

「おまじないって信じるか?」

「いいや」

「そうか。……まあ、昔の俺は少しは信じてた。純粋なガキだったんだ。……別れた日にカニの味噌を食べると、付き合った思い出が永遠に残るっていうおまじないみたいなものを信じててさ。だから、俺はカニクリームコロッケ食ってた。それが今も続いてる」

「中身がカニ味噌じゃないって知ったときにやめれば良いのに。つーか呪いじゃんそんなの」

 馬鹿なのかと問いたい。けど、それを躊躇うくらいにはこいつの瞳は真摯に私を見てくれていた。

「かもな。でも付き合ってた間、俺が全力でそいつを愛して、そいつからも愛されてた事実は変わらない。その時の感情は記憶に結びついて思い返すたびにその頃の自分に心が置き換わる」

「よく言うよね。男は名前をつけて保存って」

「せっかく作ったファイルを上書きも名前をつけて保存もせず消去しちまうよりはずっと良い」

 だから、とこいつは皿に残った最後のコロッケを私に差し出した。

「もしヨリを戻さねえんなら、せめて忘れずにいろよ。その時の自分と、あいつを。互いに全力だったんだからよ」

 本当にこいつは。

「損するタイプだよね、あんた」

「は?あー、いや、奢りのつもりで食ってくれて構わねえって。別にお前から金取るとかそんなんじゃ……」

「そうじゃなくて」

 私はコロッケを箸でつまみ、一口で全て口の中へと放り込んだ。

 もうだいぶ冷えてきていたコロッケは齧ると同時に中のクリームが甘い似合いを携えて口中に広がった。

 忘れるもんか。

 忘れたくない。

 悔しいけれど、全力だったのは本当だ。

 全力で愛していた。彼からもきっと、全力じゃないにしろ本当の愛は受け取れていた。

 涙が出ていたことに気づいたのは私の皿に少し深めの水溜りができていることを指摘されてからだった。

 泣いた。きっともう、カニクリームコロッケを食べるたびに今日は泣く。

 こうなりゃヤケだ。胸焼け上等。気を紛らわせるなら胃もたれの不快感なんて大歓迎。

「悔しいよ」

 本心が不意に口から飛び出ていた。まるで衣から溢れたクリームのように、一度飛び出たらもう戻らない。

 私の感情の奔流はだんだん荒れる夜の海のように力を増した。

「何なんだよもう」

「そうだな」

「わけ分かんないよ」

「だろうな」

「好きだったんだよ、私は!」

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