第17話 出立の前夜

 ライハナはそれからしばらく、チリーノを訪れようとはしなかった。

 出発前日の夕方になっても、一向に姿を現さない。


 チリーノはぽつんとソファに座って、書物を見ていたが、頭の中では別のことを考えていた。


 これまでライハナは一日最低一回はチリーノの部屋に顔を出していたから、全く顔を合わせないのは寂しい。

 寂しいというのはどういうことだろうか。まだ奴隷になってから日が浅いのに、ちょっと会えないだけで寂しいなんて。

 明日からはまたしばらく会えなくなる。戦争の時は魂だけで会いに行くことも遠慮しているから、本当にちっとも会えなくなるのだ。

 もっと会いたいと思っている自分に、チリーノは気づく。


「ライハナに会いたいなあ」


 小声で口に出して言ってみる。途端に気恥ずかしくなってきゅっと目を瞑った。

 そこに、声がした。


「聞こえたわよ」

「えっ」


 目を開けると、目の前には水の精霊レマが浮かんでいた。


「会いたいなら会いに行けばいいじゃない」


 精霊は何でもないことのように言ってのける。チリーノは困った顔をした。


「でも、ライハナは忙しいし」

「何を遠慮しているの? 遠慮されたらライハナは傷つくわよ」

「そう、なの?」

「そうよ。逆に積極的になってみなさいよ、そりゃ喜ぶわよ」

「そう、かも……」

「喜びすぎて動転するかもしれないけれど」

「……」


 目に浮かぶようだとチリーノは思った。手が触れただけであんなに動揺していたライハナだ、チリーノが積極的な姿勢を見せたらそれこそひっくりかえりそうである。

 そこまで考えてから、チリーノは慌てて手を横に振った。


「待って待って。それって僕がライハナを好きな前提じゃないか。僕の気持ちは決まっていないのに、いたずらに期待させるようなことはできないよ」

「まあ」


 精霊は呆れ返った顔でくるりと後方に一回転した。


「もうほとんど決まってるじゃないの」

「そうなの?」

「全く駄目な王子様ね。そんなにぐずぐず言うならいっそ、ずっとライハナと会えないまま、寂しい思いをするがいいわ」


 つんと精霊はそっぽを向いて見せる。


「そ、それは、嫌だなあ……」

「じゃ、今すぐ行きなさい」

「……」

「言っとくけど、ライハナは来ないわよ。私たちがどんなに説得しても駄目なの。あなたに命令したことを心底反省してるんですって」

「……そんなに気にしなくていいって言ったのに」

「慰めに行ってあげなさいよ」

「……」

「それとも会いたくないの?」

「……会いたいです」

「じゃ、行きましょ」


 精霊はチリーノの手の指を引っ張って廊下の方に誘導した。

 ライハナの部屋の前でチリーノは唾を飲み込んだ。思えばこうして正式にライハナを訪ねるのは初めてだ。

 今度こそ普段通りに振る舞おうと決意する。魂飛ばしで会っていた時と同じように。

 それから、ノックをした。


「……はい」

「チリーノです。会いに来たよ」


 ガタンと何かがぶつかり合う音がした。


「ライハナ? 大丈夫?」

「……」

「お邪魔してもいい?」

「……。……どうぞ」


 ぶっきらぼうな声が答えた。チリーノは扉を開けた。

 ライハナもさっきのチリーノと同じように、ソファに座って書物を見るともなしに見ていたが、虚ろな目でチリーノを見やると、平坦な声で言った。


「どうした、チリーノ」

「あ、あの、ライハナが会いに来てくれないから、僕から会いに来たんだ」

「……」

「毎日会ってたから、会えないと何だか寂しくなっちゃって。明日はもう出発だから会えなくなっちゃうし。……邪魔、だったかな……?」


 ライハナの目に少しずつ光が戻ってきた。


「別に、構わないが」

「良かった」


 チリーノはライハナの方に歩み寄って、ソファの脇にしゃがみ、ライハナを見上げた。ライハナはいくぶんたじろいだ。


「……何をしてるんだ?」

「僕、気にしてないって言ったでしょ。ライハナが主人として振る舞ったこと」

「……」

「僕、ライハナのお願いを聞くの、そんなに嫌じゃないよ。そんなことで関係が壊れるなんて思ってないよ。だからどうか気に病まないで」

「……」

「元気を出して。何か僕にできることある? 何でも言って」


 ライハナは明らかに動揺した。それでもしばらく沈黙を保っていたが、やがてぽつりと言った。


「手……繋いでほしい」

「手?」

「その」


 ライハナは気まずそうだった。


「最初に触れた時、びっくりしちゃったから……。やり直したい」

「ん、分かった」


 チリーノは手を伸ばして、ライハナの左手をそっと握った。ライハナはぴくっとしたが、恐る恐るチリーノの手を握り返した。

 それから恥ずかしそうにそっぽを向いて、ぱっと手を離した。


「ありがとう。……迷惑じゃなかったか」

「ちっとも」

「そうか」

「元気出た?」

「……うん」

「良かった」


 チリーノは微笑んだ。


「それじゃ、僕は戻るね」

「……ああ。……おやすみ」

「おやすみなさい」


 チリーノは自分の部屋に戻ると、一直線にベッドに向かって飛び込んだ。

 思ったより恥ずかしかったのだ。

 それから仰向けにごろりと寝転んで、綺麗な模様の施された天井を見上げた。


「明日から、寂しくなるな……」


 ライハナは、チリーノが母国へ帰されるまでに、仕事を終えて戻れるだろうか。


 それから、本当に、チリーノの寂しい日々が始まったのだった。

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