第6話 倒錯

 あれから数日して、純花さんはマンションから退居したらしい。らしい、というのも、わたしが純花さんとあれから会わなかったから。いつ出て行ったのか、それすらも知らない。いや、知りたくなかった。ある時から、純花さんの部屋から音がしなくなった。それでようやく、彼女が出て行ったことを悟った。


「瑠美、コーヒーはまだ?」

「もう少しでできるから、待ってて」


 せい君との喧嘩は、しばらくしたら自然消滅していた。喧嘩の根本的な原因は、解決してはいない。でも、お互い日常を送るためは喧嘩したことを忘れるのが一番だった。

 何事も無かったかのように、わたしの日常は戻ってしまった。勿論それは、ストレスを抱え続ける日々に戻ったとも言える。

 ひたすら、ストレスを溜め込み続ける。吐き出す先なんて無いから。

 信じられる愛なんて無いから。



 お昼前、家のチャイムが鳴った。扉を開けると、見ず知らずの男女が紙袋を持って立っていた。


「初めまして、隣に引っ越してきたなつめです」


 棗と名乗る男が、爽やかな笑顔で挨拶をしてきた。


「妻の、恵真です。どうぞよろしくお願いいたします」


 明るい髪色をした、恵真と名乗った女性。まだ若く、二十代中頃といった印象だ。長いまつ毛に、発色の良い口紅。キラキラとした可愛い笑顔。

 彼女を見た瞬間、胸の奥がぞわっとした。まるで、毛先の柔らかいブラシに撫でられたかのように。


「アタシ達、昨日婚姻届けを提出してきたばっかりなんです! 新しい生活環境で慣れない事ばっかりだと思うんで、ご迷惑をかけちゃうかもしれませんが、よろしくお願いします」


 新婚だという二人は、揃って丁寧にお辞儀した。

 でも、わたしにはそんな事どうでも良かった。二人が越してきたのは、純花さんが住んでいた部屋。可愛い顔をした棗恵真ちゃん。そして、ストレスを吐き出せないでいるわたし。

 悪い考えが脳裏を過る。それが悪いことだとわかっていても、抑えきれない。



あぁ、淫らな劣情を身体の芯から感じる。



 あれから、数か月が経とうとしていた。わたしとせい君の関係は相変わらず。自己中な彼に、わたしは自身を押し殺して尽くすだけ。


「それじゃあ瑠美、しばらく家の事は頼む」

「うん、任せて。せい君も、出張頑張ってね」


 玄関で革靴を履き、ネクタイを整えるせい君。今日から三日間、彼は遠方に出張となる。


「行ってくる」

「いってらっしゃい」


 スーツの後ろ姿に、わたしは笑顔で手を振る。扉が閉じると、小さなため息を一つ。作った笑顔を維持するのも疲れるものだ。


「さて、と」


 流し台に置かれた食器たちを見下ろす。これが片付けば、しばらくはせい君のお世話から解放されるんだ。そう思うと、なんだか体が軽い気がする。

 上機嫌で洗い物を片付けようとすると、玄関からチャイムが鳴った。何となく、誰が来たのかはわかる。だって、昨日も会う約束をしたから。


「おはようございます、瑠美さん!」


 ウェーブのかかった茶髪を揺らしながら、笑顔で現れたのは恵真ちゃんだ。


「いらっしゃい。何か飲む?」


 部屋へ招き入れると、わたしはそのままキッチンに向かう。食器棚から、ティーカップを二つ用意する。そして、茶葉を選んでいると背後に気配を感じた。


「瑠美さんがいい」


 後ろから抱きしめられる。そんな事してくる人は、この部屋には一人しかいない。恵真ちゃんだ。


「アタシ、我慢できなくて……。佐藤さんが出て行くの、ずっと待ってたんですよ」


 佐藤さん――きっと、せい君の事だろう。恵真ちゃんには、今日からせい君が出張だという事は伝えてある。


「あらら、そんなにしたいの?」


 わたしの体を包み込む彼女の腕に、手をそっと重ねる。恵真ちゃんの体温が上がっていく気がした。


「……はい。したい、です。瑠美さんといっぱい」


 熱っぽい吐息が、首元をくすぐる。わたしの方が、若干恵真ちゃんよりも背が大きい。こうして抱き合うと、彼女の口元は首の位置に来る。

 だから恵真ちゃんは、わたしの唇よりも先に首筋にキスをしてくる。今回も例に漏れず、柔らかい感触が首に触れる。一回だけじゃない。何回も、求めてくるようにキスをする。

 そんな彼女の甘えてくる姿が、とても愛らしく思えた。それだけで、背筋が喜びで震える。


「わかったよ、恵真ちゃん」


 わたしは振り向き、恵真ちゃんと向き合う。そして、唇を重ねた。長く、深いキスは甘美なものだった。

 唇を離し、お互い肩で息をする。


「恵真ちゃん、今日もいっぱい気持ちよくしてね」

「……はぃ、もちろんです」


 蕩けた瞳で、熱に浮かされたように頷く恵真ちゃん。わたしは、これを知っている。純花さんと同じ、欲情した熱い視線。


「愛してます、瑠美さん」


 わたしを求めてくれる、認めてくれる声。


「愛してる、恵真ちゃん」


 何も我慢しなくていい。全てを脱ぎ捨てて、さらけ出せる相手。わたしは、新しいストレスのけ口を見つけた。



 愛し合う事を誓ったのに、夫にナイショで別の人を愛した。愛って、こんなにも脆く薄っぺらい言葉だったんだね。

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夫の愚痴を言ったら隣人(♀)に抱かれた ジャックハント @JackHanto

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