山野人虎伝

「心当たり、本当に無いんですか? まだ奥さんたちや私にも話してないこと―――ありませんか?」


 全く、李徴にとっては意外のといであった。

 李徴は自らが虎と化してしまった事実を認めた時、日に数時間戻るの頭で可能な限り考え、この不思議の原因は、己の心の醜さにこそあると結論づけていた。斯様かような怪異が成したことなのだから、その原因もまた、生き物の心や魂といった、人間の凡庸ぼんよう智慧ちえの及ばぬ、ある種超然とした部分にしか見出せないものとばかり思い込んでいた。


 しかし、袁傪に促され、改めてよく検討したところ、いささか引っ掛かりがあることに気がついた。

 これまでは、複雑な思考が戻っても、それに値する知的な会話をすべき相手が周りになかった。それが袁傪という話し相手を得て、日に日にかすむばかりであった過去の記憶が蘇り、李徴は常よりも深く考えることが叶ったのである。


「そう言えば―――――。……、……どうして忘れてたんだ……? ……そうだ。これは、本当に。虎の所業とおにゃじくらい恐ろしいことで……、君にも妻にもずっと隠してきた。恥を忍んではにゃすのだけれども……」


「はい……! はい!」


「もうずっと昔のはにゃしで、名前にゃまえは思い出せにゃいが、夫に先立たれたある女性と、ひそかに交際していた時期があったんだ。言い訳ににゃっちゃうけど、それはきっと若気の至りだったと思う。その時は結局、先方の家族に難色にゃんしょくを示されて付合いは終った。ただ、どうしてもそれがかんさわって……」


 李徴はひどくが悪そうに口籠り、虎の耳を項垂うなだれさせ、やがて意を決してこう言った。


「ボクは、彼らの家に火をはにゃった。当然、法にも人道にも反していることだ、いざという段ににゃっても躊躇ためらいがあった。ボクはにゃるべく被害が小さくにゃるよう、はやく火が回ってしまわにゃいよう計算して放火をした。だから結果として、彼ら家族は家を焼け出されただけで済んだにゃん。その後どうにゃったかは……怖くてとても確認できにゃくて、その家族とは二度と会わにゃかった」


「ただのひねくれ者だと思ってた旧友からとんでもない自白が出てきた」


「全くだにゃん……。これはきっと、正直に罪を告白し、刑に服さにゃかったボクに対する天罰に違いにゃい。成程にゃるほど、件のおこにゃいをつぐにゃう為の罰だと思えば、にゃんのことはにゃい。ボクが異類にゃどに堕ちるのも、当然の帰結だにゃん」


 李徴の自嘲癖は愈々いよいよ最高潮を迎え、その声は冥府めいふ死人しびとくやといった風情のか細さであった。


「う~ん……その話自体は驚きですけど、まだちょっと具体性に欠けますねぇ……。そうだ、虎になる前の晩とか、どうだったんですか?」


「ああ……ああ、ああ。すまにゃい、少し待ってくれ……。朧気おぼろげだけど、僅かずつ思い出して来たにゃん。あの夜、ボクは旅の疲れで相当参ってしまっていた。抑々そもそも、虎ににゃる寸前は、常日頃から全く余裕がにゃかった。あの日もそうだ。ボクは下僕として連れていた女性を、些細にゃことできつく叱責しっせきし、鞭で打ってしまった記憶がある」


「げぇっ罪状追加! ……ま、まぁこの際それは置いときましょう。その後は……?」


「その時の彼女の眼差まにゃざしが、どうにも暗く、恐ろしかったので、ボクは後から謝罪しようとしたんだ。宿の屋外で風にあたり、気をしずめた後、部屋に戻ると彼女が茶をれていた。お互い椅子にすわり、ボクは謝って、彼女もボクの謝罪を聞いて受け入れてくれたよ」


「何だ、よかったぁ……仲直りできたんだ。それにしても、自分の非を認めて目下の人に謝るだなんて、李徴さんも成長しましたね……」


「その夜から、だったかにゃ? 体調を崩してしばらく寝込む羽目になって、やっと息を吹き返したと思ったらこの通りだ」


「ちょっと待って!! 急に雲行きが怪しくなってきたんですけど!?」


 袁傪は変わらず自嘲的な態度を取る李徴をさえぎり、一度考えを巡らせると、自身の率直な見解を伝えた。


「あの……私、話を聞いている限り、その下僕の女性が淹れてくれたっていう"お茶"が気になりますぅ」


「……袁傪。君は聡明そうめいだけど、時に理窟りくつに囚われ過ぎるとボクは思うにゃ。自分に都合の悪いことが起こると、何者にゃにものかが悪意を持って己を陥れようとしているのだと考えるのは、人間のにゃのかも知れにゃいね」


 そして必ずしもそうではないことは、かつてあやまちをおかし、この因果応報の天罰にうた自分という例を見れば一目瞭然だ。繰り返すが、この世では、全く何事でも起こり得るものだ。李徴は袁傪に神妙に語って聞かせた。

 李徴が附加つけくわえて言った。


たしかにあの時の茶は異様にが強かったし、匂いは涙腺にくるし、喉越しもどろりとして不快だったが。それはきっと当時、既にボクが虎に変貌する直前であった故の異変に決まって―――」


「どう考えてもそれが原因ですよぉ!! 頭が獣になるってのは本当みたいですねッ!」


「そ、そんにゃ!? う……嘘だ、だって彼女は良く出来た部下だったにゃ。思えば辛く当ってしまったことも何度にゃんどもあったけど、文句一つ言わずに仕事の手伝いをしてくれていた。妻や君に出会わず、ボクがもう少し若かったら、彼女のようにゃ娘に恋慕れんぼしていたと言ってもよいくらいだにゃ!」


「人間だった頃もそのくらい素直ならよかったのに……」


 袁傪が身も蓋も無い感想を述べ、李徴はしょんぼりと肩を落とした。




――――――――――――――――――――――――――――――




 東の空がにわかあかくなり、ついに曙光しょこうが地に差し掛かる刻限となった。


 すると袁傪の部下が、行列へと近づく人影に気づき、やお誰何すいかの声を張上げた。


「何者か? 我らは陳の監察御史、袁傪の一行である。勅命ちょくめいたまわり嶺南につかいする道中だが、この地にて出没の噂ある"人食い虎"に遭遇し、もって周囲を警戒中だ。此処は一度、引き返されるがよろしかろう」


「ええ、知ってるわ。けれど心遣いは無用」


 答えたのは、よく言えば気丈きじょうで、悪く言えばけんのある、年若い女の声であった。


「―――界隈かいわいを騒がす人食い虎を、飼い主が責任持って引き取りに来てあげたってわけ。さあ、そこを通してくれる?」




――――――――――――――――――――――――――――――




 李徴が、一晩を明かして尚、己が理性を保ったままであることに内心驚愕していると、ある一人の女が現れた。


「やっと見つけたわ―――李徴子」


 長い髪を側頭部で二つ結びにした、豊満な肢体したいの美女であった。

 袁傪の知己ではない。となると、李徴を知る者であろう。しかし、李徴がちまたで噂の人食い虎その者であることを知る人物は、この場に居合わせた袁傪一行を除いて他にないはずだった。


「き、君は! ボクの部下の……!」


「久しぶりね。そう、アンタが毎日のようにパワハラをしてくれてた下僕……そして、アンタがたぶらかし、家を焼いて追い立てたママの―――末の娘よ!!」


「にゃ―――にゃんだってえぇぇぇ!?」


「そんなことだろうと思ってました」


 李徴の鼻を明かして一頻ひとしき満悦まんえつしたのか、女はそのたわわな胸を張り、腰に手を当てて仁王立ちとなった。


 曰く、李徴と交際していたかの未亡人の家族は、家を焼け出されあわや道塗どうと飢凍きとうする(道端で飢え凍える)かと思われた。

 そこで家族は、古い伝手つてを頼り、山奥の名も無き小村に移り住むことにする。

 衣食住の代価に、家業である呪術を周囲に広め、時折村に訪れる旅人を"神"への生贄いけにえに捧げては、貴重な糧食りょうしょくとして村人たちに供するようになった。

 だがある時、旅人の一人が運良く生贄の儀式から逃げおおせ、討伐軍を連れて村に戻って来た。村人たちは必死に抵抗し、襲撃して来た兵士らのむくろ屍山血河しざんけつがを築き上げたが、奮戦もむなしく村は蹂躪じゅうりんされ滅びた。

 惨劇さんげきを唯一生き延びたこの未亡人の末娘は、それ以来、家族が都を追い出され、寒村かんそんに住み着く元凶となった李徴に復讐を誓ったのだった―――。


「そんにゃっ……そんにゃことが……!? にゃ、にゃんてことをしてしまったんだ、ボクは……!!」


「……あの。ごめんなさい、李徴さんの放火が決定打になってしまったのはわかるんですが、一つだけ。もしかして、その未亡人の夫……つまり、あなたのお父さんが亡くなった理由って、お聞きしてもいいですか」


「? そうね、都の屋敷で"儀式"をしてたところを見咎められて処刑された、って聞いてるわ。それが何? ―――だいいち、そのことからして冤罪えんざいよ……パパは無実だったの! パパはね、どうしようもないくずどもを供物くもつに変えて、腫脹之女■■■■■■■■■■■■様の一部となる栄誉を与えてあげてたんだから!」


 袁傪は目元にてのひらを当てて天を仰いだ。袁傪には最早、誰にどのような非があって彼らが今の状況に逢着ほうちゃくしてしまったのか、まるで判断がつかなかった。


「身分を隠して街に戻り、下女としてその男に近づいて、アタシは復讐の機会をうかがったわ。やがてその時は来た。一年前、アタシは宿の部屋で淹れたお茶に、秘伝の霊薬を混ぜて出した。あの頃のアンタはとにかく冷静さを失っていたから、毒でも何でも盛るのは簡単だったわよ?」


「秘伝の霊薬……、呪術の家系の娘……!」


「かつてママをもてあそび、アタシたち家族を踏みにじったようにッ! 今度はアタシが、人ならぬ獣になったアンタを、死ぬまで飼い殺しにしてやるのよ!! 餌も住処すみかもアタシに依存しなきゃ生きていけない―――愛玩動物としてね!!」


「う……うわあああああぁぁぁぁぁぁぁ!?」


「いや餌も住処も自力で何とかしてましたよこの人。愛玩動物ペットにも種類があるでしょ、虎にしたのは失敗だったんじゃないですか?」


 冷静に女の計画の瑕疵かしを指摘しつつも、袁傪は内心穏やかではなかった。

 色々と――"色々"の一言で済ませてよいかは最早はかりかねるが――問題の多い男、もとい虎女ではあるが、他でもない李徴は己の親友なのだ。

 当人が、自分はもう人の世には戻れそうもない、今後は虎として山野に在るべきだ、と言うのだから、袁傪はその悲愴ひそうながらも切実な決意を尊重する心積もりだった。

 しかし、このようなよこしまな考えのやからに身柄を脅かされているとなれば話は別である。


「ぶっちゃけもうそろそろ何もかも諦めて帰りたいフェーズに入ってますけど―――李徴さんは、私の大事なお友達ですっ!! で引き渡すわけにはいきません!」


「袁傪……!」


「愚かなことを。アタシには腫脹之女■■■■■■■■■■■■様の加護がついてるんだから! たかだか数人程度の護衛じゃ、アタシは止められないわよッ!!」


 女は懐から、不均整な形の、奇怪な彫刻の施された小箱を取り出した。箱の中には、赤い線の入った黒光りする宝石がおさめられており、それが名状めいじょうし難い異様な輝きを放っている。

 李徴は類稀たぐいまれなる野性の勘にて危機を関知し、袁傪をかばって女の前に躍り出る。虎は咄嗟に思いあたって、殴った。


「グエエェェェ―――――!!」


 獣の力で殴りつけられた女の身体からだは、冗談のように宙を舞い、林の向こうの太いに背中から激突した。女は人間中で一番獰悪どうあくな種族に相応ふさわしい、怖ろしい叫び声と共に、気を失ってその場にくずおれた。


「……」


「………………」


「…………、……えっと」


「……にゃん……」


「「……―――――」」


 衣服の糸のこすれる音すら聞こえてきそうな、徹底した静寂が、林中を支配した。


 袁傪は部下に命じて女の身の回りをあらためさせ、縄で縛って、荷物運びの車に乗せた。

 辺りはすっかり明るく、昼間になってしまっており、これより向かう嶺南の役所には、遅参ちさんを謝罪する旨の書をしたためる必要があるなと袁傪は思った。


「慥か荷物の中に、羊のお肉がありましたねぇ。干し肉ですけど、食べます~?」


「ああうん……、ありがとう。じゃあ、その辺に置いといてよ。みんにゃが立ち去ったら取りに戻るから」


「立ち去ったらというかぁ……。ねぇ、李徴さん」


にゃにかにゃ?」


 言いながら、李徴は己を見つめる袁傪の眼が、少しばかり熱を帯びているように見えた。

 それが先刻の女の、嗜虐しぎゃく愉悦ゆえつに満ちた眼に似ていたので、李徴は思わず身構えたが、親友を信じて次の言葉を待った。


「実は私、昔から猫、飼ってみたかったんですよぉ。でも、言葉も通じない動物を責任持って最期まで飼うって、ちょっと怖いというか、何だか重い話じゃないですか」


「うん? そうかもね。……って、まさか」


「はい! そのまさかですぅ! 李徴さん、いや李徴ちゃん、私のお家に来ませんか!?」


「にゃあぁ!?」


 袁傪は李徴の異形いぎょうたる腕、人虎じんこの手をつかんでぶんぶんと振り回しながら、昂奮こうふんした様子で叫んだ。

 何分なにぶん、あまりに唐突な申し出であったので、李徴は初め、先刻までの暗憺あんたんたる雰囲気を払拭ふっしょくするための冗談であると思った。だが、どうやら袁傪は、本心よりそう言っているらしいということが、時間を経るにつれて李徴にもわかって来た。


「妖怪変化へんげ下手人げしゅにんも捕まえたことですし、きっとその内、元の姿に戻れますよぉ! それまでは私が頑張って李徴ちゃんを飼います~!」


「今飼うって言った!? それじゃあのおにゃじじゃにゃいか!」


「大丈夫ですっ、優しくしますから! ……ああ、でも、もし元の姿に戻れたなら、その時は李徴ちゃんだって家族の下に帰りたいですよねぇ……。残念だなぁ。ずっと一緒に居たいな~……」


「君ってそんにゃキャラだったのにゃ……? い、いくら君の提案とはいえ、ボクは妻以外にみさおを立てるつもりはにゃいからね! 子供にも申し訳が立たにゃいしっ。大体、君、その、僕らはずっと関係じゃにゃかったろう! ボクは財産や地位や顔貌かおかたちが目当てでにゃく、お互い対等にゃ個人として接してくれるから、君を得難い友だと思っているのであって―――」


「だったら問題ないですね。今は男と女ではなく、女と女なので浮気にはなりません! ていうか李徴友達としてはさておき、生涯の伴侶としては全然微塵みじんも魅力的じゃなくないですか? 私、李徴さんが結婚したって聞いた時、奥さんのことめちゃめちゃ尊敬しちゃいました」


「にゃっふ!?」


「さ、行きましょうか李徴ちゃん! 差し当たっては、李徴ちゃんに似合う服が必要ですねぇ。嶺南には良い服屋さんあるかな~♪」


 虎は、既に煌々こうこうと輝き始めた太陽を仰いで、二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと、袁傪に尾を引かれて行った。


 全てが去ってから、一匹のたぬきが現れて、獣道の向こうを覗き込んだ。林の外には、ただ、茫漠ぼうばくたる白昼があるばかりである。

 袁傪と人虎と呪術師の行方ゆくえは、誰も知らない。




【了】

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萌え萌え山月記 ごまぬん。 @Goma_Gomaph

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