死ぬまで恋人

大雅真矢

「バー・ヨヨギ」

 駅から線路伝いに並ぶビルの裏の路地。昭和の名残りを思わせる薄暗く湿気感の強いその路地に、ひっそりとこの店の入り口はあった。「バー・ヨヨギ」とカタカナで書かれた小さな看板とサビだらけの緑色の鉄製のドア。このドアの向こうには、路地の雰囲気とは真逆の趣の南国リゾートを思わせる空間が広がっていた。

 決して予約がマストではなかったが、入店の際には必ず「ご予約は?」と聞かれる。「いいえ」と返事をすると、「すみません、今日は予約でいっぱいです」と言われてしまう。特に男性ひとりやカップルで来ると、このパターンで帰らされてしまう。そんなことから、このバーに訪れるのはいつしか女性ばかり、とりわけ、何故か離婚した女性が多く集まる店となっていた。

 その理由はこの店を切り盛りしている店主にあった。バーというと店主は男性のイメージが強いが、この店の店主は川口穂乃果という29歳の女性であった。客からはマスターと呼ばれる彼女は、訪れる女性たちの話を親身になって聞いていた。未婚の彼女は何かをアドバイスできるわけでもなく、ひたすらに聞き役に徹していた。それが客にとっては心地よく、リピーターになっていた。

ただ、彼女は年齢を訊かれる度に「29歳になったばかりです」と必ず答えていた。

[なったばかり]

 年齢のことを気にしているようには見えない落ち着いた物腰の彼女。このフレーズが彼女にとってどんな意味を持っているのか、店の常連客の間ではずっと疑問であった。

「マスターは、なんか20代にこだわってるの?」

 昨年くらいから常連となっていた藤沢ミキがその疑問をストレートに穂乃果にぶつけてきた。その思い切りの良さに敬意を払いながら、カウンターで隣に座っていた工藤真奈美は緊張しながら耳をマスターの返事に集中させていた。

「ミキさんは、30歳になった時、どんな気持ちでしたか?」

「そうね。特に何も思わなかったかな。気がついたら誕生日も過ぎてて」

「そんなに忙しかったのですか?」

「6年前のことだけど、確かに、仕事に忙殺されていたかな。キャバ嬢だったら、年に1度の最大のノルマデーだから絶対忘れないだろうけど、地味な証券会社ではね」

「証券会社って、地味なのですか?」

 証券会社に勤める藤沢ミキのファッションは決して地味ではなかった。バッグから靴まで、見事なまでに女性誌に載っているラグジュアリーブランドで武装していた。誰が見ても地味とは無縁の女性としか思えなかった。

「やってることが地味ってこと」

「前にひどく酔った時に、ニューヨーク市場が、ロンドン市場が大変なんだと騒いでましたけど、それでも地味なのですか?」

 自分の質問からどんどん引き離されているのに気づいた藤沢ミキは、諦めてグラスの中の泡盛をグイと飲み干した。

「同じものにしますか?」

 穂乃果はコースターごとグラスを自分のほうに引き寄せた。

「泡盛ばかりのバーって、今更だけど、珍しいよね。マスター、沖縄出身ではなかったよね?」

「ミキさんは沖縄の出身でしたよね?」

「そう、あたしは久米島の出身よ。両親が離婚したあと、母親と一緒に東京に来てから、ずっと沖縄には行ってないけど」

「そうなんですね。で、おかわりは?」

「ダンハイにしようかな」

「暖流のハイボールですね。承知しました」

 暖流と書かれたラベルのボトルが3本並んでいるうちから1本を選ぶと、穂乃果は手際良くグラスに大きめの氷を2個入れた。氷の隙間にゆっくりと暖流、そして、炭酸を注ぎ入れると軽くステアして、ミキの前に置いた。

「マスターが30歳になるのを嫌っているのはなぜ?」

あえて、再び、同じ質問を投げかけた。

「嫌っていると思います?」

「では、質問を変えて。なぜ、30歳にこだわっているの?」

「結婚っていいですよね?」

 カウンターに並ぶミキと真奈美は、穂乃果の結婚という言葉に思わず驚いた。

「結婚するの? 30歳になったら?」

 穂乃果は軽く頷くと「そう決めてますけど、変ですか?」と控え気味なトーンで言った。

「決めてますけど?」

二人の声が見事にハモっていた。

「決めたけど、実は悩んでる。でしょ?」

ほどよく酔っていた真奈美が間髪入れずに言葉を重ねた。さらに「お相手はどんな人?」と、芸能記者の如く間を詰めてきた。

「愛情豊かな人ですよ。それだけで、結婚を決めてはだめですか?」

 穂乃果の真っ直ぐな問いかけは、ふたりを一瞬にして圧倒するほどの強さを持っていた。ミキはその答えに戸惑った。

「ダメってわけはないけど」

「30歳で結婚すると決めた。でも、その意志が揺れているってこと?」

 気持ちの盛り上がり過ぎたのか、真奈美はカウンターに半身を乗り出していた。

「震度1くらいですかね」

「そんなには揺れてないけど、悩んでるのね」

「で、いつプロポーズされたの?」

「3年前ですかね」

「3年前!?」

 ミキと真奈美の声が再びハモった。

「プロポーズされた時に30歳になったらとお返事しました」

 天井をみて、思い出すように穂乃果は言った。

「何で? 結婚って勢いでしょ」

「それは真奈美の考えでしょ。マスターなりに悩んだ上での結論だったのよ」

「えー、そーなんですかー」

「でも、確かに3年という期間を決めた理由は興味深いけど…」

 ミキはあえてダイレクトに穂乃果に質問する口調ではない少し遠回しな言い方をした。穂乃果はその意図を察知していたが答えることはなかった。

「でも期限が近づいてきて、少しマリッジブルーになってきたのね。そんな風には全然みえなかったけどね」

「みえなかったですか?」

 穂乃果は泡盛が並ぶ棚にもたれかかったまま、どこか遠くを見ているようでもあった。

「そうね。いつも淡々と、アタシたちの夫婦崩壊話を聞いているようだったから。でも、悩んではいるけど、彼を愛しているのね?」

 穂乃果は静かにコクリと頷いた。

「もしかしたら、もしかしてだけど、彼って既婚者?」

 芸能記者っぽい質問攻勢を続ける真奈美をミキがジロリと睨んでいるのをよそに、穂乃果が再びコクリと頷いた。

「略奪愛なの!」

真奈美の大きな声がBGMの音楽を一瞬掻き消した。

「略奪された側のアタシたちが、略奪する側の人に質問している?」

 穂乃果は笑顔でコクリと頷いた。

「ここ、そんなに可愛く頷くとこじゃない!」

「それもあって、3年という期間を彼が設定したの?」

 穂乃果は静かに首を横に振った。

「もしかして、彼はまだ離婚できていないのでわ?」

「別居中です」

「もしかしたら、もしかしてだけど、結婚は単なるマスターの希望?」

 穂乃果は下を向いたままであった。

「では、質問を変えて。彼は離婚については何と言っているの?」

「妻はもう自分の妻ではない。だから、自分も義務として夫でいる必要性はない」

「奥さん、浮気でもしたの?」

「母になった、と」

ミキも真奈美も穂乃果の答えを沈黙したまま、頭の中で一度反芻した。

「子どもがいるのね、その人」

 穂乃果はコクリと頷いた。

「じゃあ、父親の義務があるでしょ」

「それは、お金で、と」

「そう言っておいて、ドロンしたのが私のクソ亭主だったけどね」

 真奈美は3年前、28歳の時に離婚し、8歳の娘とふたりで暮らしていた。シングルマザーであることに劣等感のようなものを持って生きてはいないが、養育費を踏み倒し続け、そのまま消息不明となった元夫を許すまでの寛容さは持っていなかった。

「一括で払うと」

「お金持ちなのね。素晴らしい!」

「そこ、感心してどうするの」

「まあ、彼は甘えん坊さんなんだね。父親という立場になっても、かまって欲しいのね」

「それもあるかもだけど、彼の理想としていた夫婦というかたちではなくなった」

「子どもができて、男女ではなく、単なる両親になってしまったパターンだわ」

「オンナでいるよりも、母親になってしまったほうが楽という人もいるからね。彼、実は妻を女性としても愛していたかったのね」

 そう言いながら、グラスの中の大ぶりの氷を指で回す藤沢ミキも1年前から冷めた夫婦関係となっていた。

 理由は、彼女が仕事を優先し過ぎたことで、夫が他の家庭的な女性に奪われたということであった。そして、彼女のハンコが押されないままの離婚届は、彼女の会社の袖机の一番上に入れられたままとなっていた。

「子はカスガイといっても、マスターの彼は元サヤには戻る気はないのだろうなあ」

「結婚前は、男も女も、それぞれシングルスで戦っているけど、結婚したら混合ダブルス」

「でも、混合だから、常に男女だしね」

「ただのダブルスではないのがポイントということ」

「なんか、いいね、それ」

「一緒にいると、いつしか家族になり、空気のように当たり前になる」

「当たり前からの馴れ合いかー」

「良くないね。常に男女の賞味期限はお互いにリフレッシュしないと」

「ミキさんは簡単に言いますが、難しいですよー」

「簡単ではないことは知ってるわよ。アタシもハンコを押せないままでいるわけだし」

「まだ、彼に未練があるからですか?」

 ずっと黙っていた穂乃果が口を開いた。

「やり直せない状態にまでなっているのに、どうしてハンコを押せないんですかあ」

 真奈美はだいぶ酔いが回り始めているようであった。

「社会的にバツイチのオンナということをカミングアウトする勇気がないからかな」

ミキの本音とも思える返事に、真奈美は思わず驚きの表情となっていた。

「社会的とは何ですかあ?」

「社会的って、会社とか世間的に恥ずかしいからかな」

 ミキは左斜め上を見上げたあと、グラスについた水滴を指でいじっていた。

「仕事はバリバリこなして出世したけれど、でも、家庭との両立はできなかったことを非難されるのではないかと思っているのですかあ?」

 真奈美の問いかけに、ミキは静かに頷いた。

「親も離婚してるから娘もか、みたいな根拠のないことを言われるのもイヤだし」

「今どき、そんな古臭いこと言う人、いますかあ」

「真奈美さん、酔いすぎです!」

 穂乃果は真奈美が飲んでいたグラスをカウンターの中に下げた。

「ダイバーシティだ、ジェンダーレスだ、なんて言ってる人はいても、所詮はまだまだ男性優位社会でしかないでしょ、この国も」

「経済も社会も大きな過渡期だと、ニュースでやっているのをみました」

「過渡期ですかあ?」

「そうね、移り変わりの不安定な時期ね。良く変わることを祈っている人もいれば、まだ、変わって欲しくないと思っている人もいる」

「実際、男性が育児休暇を取れる会社もほんの一部だと言っていました」

「そうね、ウチみたいな外資で規模の大きい会社は別として、日本の小さな会社は、そもそもの職場環境すらもキチンとしていないから夢の話よね。女性に対しても、育児休暇取りますか、会社辞めますか、の横暴なロジックで押さえつけてくるわよね」

「賢い奴らだけがトクする社会は許せない!」

 真奈美が拳でいきなりカウンターを叩いた。

「そうね、賢い奴がトクするのがずるいと思うのであれば、自分も学ぶしかないわね」

「勉強は嫌いですからあ」

「勉強するって日本語が良くないわよね」

「そうですか?」

「勉強って、イヤだけど仕方なしにという強制的な言葉に思えない? 学ぶとか、習得するといったほうが、自主性があるような気がするけど」

「確かに、そうですねえ。学びたい、習得したいのほうがいい響きですねえ」

「勉強できる環境のある国の贅沢な言葉遊びだけどね」

「ミキさんには、もっと向いている男性が現れますよ」

 穂乃果の意外な言葉に、ミキは思わず笑顔になった。

「離婚したことを自分から発表する必要もないですし」

「そうです、言う必要はありません! 向こうから聞いてきますから!」

「なるほどね。聞かれたら答える。その考え方、いいわね」

「ネトウヨと一緒で、悪口を言いたい連中は裏で言うでしょうけど、ミキさんは、いつものゴージャスなスタンスでいればオッケー」

「なんか、マスターが結婚で悩んでいるという話から、アタシの離婚の決着に無理やりに持って行かれたような気がするけど…。ま、ふたりに元気をもらったわ、ありがとう」

「言葉のお礼はいいですから、何かご馳走してくださいよお」

「真奈美さんは、もう限界点を超えてます」

 穂乃果は水の入ったグラスを真奈美の前に差し出した。

「まあ、夫婦が男女のまま家族を築いていくって、欧米の理想的な夫婦のかたちよね、それって」

「欧米の理想的?」

「もちろん、この国にもそんなスタイルの夫婦はいるだろうけど、レアでしょ」

「レアなケース?」

穂乃果はミキの言葉に少し不快感を感じ始めていた。

「レアとまでは言わないけど、親世代の熟年離婚とかが良い例じゃないのかな。父親、母親、それぞれの役割が完了したら、夫や家族の面倒をみてきた母親はひとりのオンナに戻りたいから離婚する。マスターの彼氏さんは、その逆のパターンなのではないかな」

「逆のパターン?」

「そう。父親としての役割はとりあえず完了したのではないのかな。彼氏さん、だいぶ年上の人でしょ?」

 またもや、ミキの言葉が見事に命中したからなのか、穂乃果はさらに不快に感じていた。

「ミキさん、私の頭の中を透視してます?」

「やっぱり、だいぶ年上なんだ。50代とか?」

「それでは父親と同じになってしまいます。それは、有り得ないです。46歳です」

「お父さんとそんなに大差はない年齢だと思うけど」

「うちの父よりはひと回り下です」

 ミキの発言を否定し、自分の選択を肯定するような少し強い口調であった。

「で、46歳でお役目完了なんだ?」

「23歳で結婚して、すぐに子どもが出来たそうです」

「それは、随分と早い結婚ね。そうなると、子どもは社会人ね。ちなみに、奥さんはどんな仕事をしている人なの?」

「専業主婦」

「やっぱり専業主婦か! 今や絶滅危惧種となっている専業主婦の最後の世代くらいってことね」

「専業主婦であり、母親であり、しかし、妻ではなかったということかー」

完全なる、ただの酔っ払いに成り果てた真奈美であった。

「そういうふうに彼氏さんが言ってるのね。すると、マスターが悩んでいるのは、妻、母、そして、仕事という3股状態をコナして行けるかという不安ね」

「3股って。ミキさんの表現、面白すぎです」

そう言うと真奈美はカウンターに覆い被さったまま静かに寝息を立て始めた。

「そもそも、結婚しても、このお店は続けるつもりでいたの?」

「いえ。ここは元々、亡くなった祖父がやっていたお店で、来年のビルの建て替えまでということで引き継いだだけです」

「え? このビル、来年、解体されるの?」

「そうです」

「で、結婚したら、仕事はどうするの?」

「今も、お店以外の空き時間でやっているのですが、翻訳の仕事をしています」

「翻訳?」

「はい、海外の書籍の翻訳を」

「手に職持ってる人だったのね、マスター」

「職ってほどではないですけど」

「ちなみに、彼氏さんは何をされているの?」

「その書籍の翻訳の仕事を発注してくれている出版社の人です」

「仕事関係?」

 穂乃果と彼の出会いがあまりにも普通であったことにミキは少し拍子抜けしてしまった。

「そういうことです。なんか、今日、めっちゃ話してますね、自分のこと」

「そうね、知り合ってから、こんなにマスターのこと聞いたことなかったわね」

ここまで垣根を越えて話す穂乃果は確かに初めてであった。

「結婚したら、子どもは欲しい人?」

「そうですね。女性の唯一の特権ですから、行使しないのも勿体ないかなと。ミキさんは、次の結婚では産みたいと思っていないのですか?」

「まだ、離婚届を出していないアタシですが、ひとりぐらいは産んでみたいとは思っているわよ」

「ですよね。生命の誕生って、凄いことですよね」

「でも、産むことで、自分の何かが変わるかもしれないという恐怖はない?」

「母性に目覚めて母親になるとかですか? もちろん、子どものママではありますが、ママとパパは恋人ですから、死ぬまでずっと」

 穂乃果が無意識に無邪気に発した言葉は、ミキの頭のなかでリフレインしていた。

[ママとパパは恋人ですから、死ぬまでずっと]

 妹のような年齢の穂乃果であったが、自分はガソリンで走り二酸化炭素を撒き散らす車で、穂乃果は音も静かで二酸化炭素の排出ゼロの電気自動車に思えるくらいの差を感じてしまっていた。

「それって、やっぱり凄い理想だよね。なんか、心配だわ」

「心配?」

「そう。マスター、いや、もう名前で呼ばせてもらうね。穂乃果の考え方が理想的過ぎて、彼氏さんがそれに応えられるだけのオトコなのか、心配。実は、自分でも、それが一番不安に感じているのでしょ?」

「自分が三股をこなせるかですか? 不安はないです」

「三股、気に入っていただいて嬉しいけど、妻、母、仕事人の三役ね」

親指、人差し指、中指の3本指を立て、笑いながらミキが言った。

「その指の立て方、外人みたいです」

 自分としては普通のことなので、穂乃果が笑っている意味をミキは分かりかねていた。

「彼も、夫、父、仕事人をこなせる人です」

「最初はいいけど、時間とともに経年劣化する可能性はゼロではないからね」

「結婚してからの不安は全くないです」

「が、しかし、なぜか悩んでいると?」

 穂乃果はコクリと頷いた。

「アタシはそんな歳でもないけど、お節介をやかせてもらってもいいかな?」

「お節介?」

「そう、お節介。彼氏さんに会って、穂乃果の不安を解消できる人物かどうか、アタシの率直な意見も聞いて欲しいの?」

「ミキさんが、彼に会うのですか?」

 戸惑いの色が穂乃果の表情にうっすらと出ていた。

「人の色恋に第3者が関わるというのもアレだけど、穂乃果の気持ちに応えられる人なのかどうなのか、アタシ自身としても答えを出したくなったの。余計なお世話だとは重々分かっているうえで」

「そうですか…」

 ミキが垣根を越えすぎて入って来ている嫌悪感を抱きつつも、それを受け入れることの安心感のようなものも同時に穂乃果の心の中で混ざり合っていた。

「ミキさんがそこまで言ってくれるのであれば」

「じゃあ、近いうちに、彼氏さんとセッティングしてくれる? 親に会って欲しいとか言って」

「親って…」

「呼び出しの理由は任せるから。ただ、あなた抜きで会うということで、彼氏さんも、穂乃果が悩んでいるということは察するだろうけど」

「ずっと恋人だから大丈夫です」


 46歳、出版社で外国書籍の担当、妻とは別居中。これだけの情報でどうやって向こうの内面を初対面で引き出せるのか。正直、ミキも情報が足りなさ過ぎる状況で、会う当日まで戦術をまとめることが出来ずに苦労していた。

 穂乃果は、姉のように自分のことを大切に思ってくれている人なので、一度会って欲しいとだけ彼に伝えた。彼もそのリクエストを快く受け入れたということだった。

 待ち合わせの時間よりも1時間早く、ミキは彼氏さんが指定したカフェに到着していた。

 今日のファッションは事前に決めていたが、出かける前になってあれやこれやと悩んでしまい、結局、いつも通りのブランドのスーツを選択していたのだった。

 彼氏さんも待ち合わせの時間より30分早くやって来た。ノーネクタイのスーツスタイルであった。顔立ちは怒ると怖いだろうが、ドライヤーで乾かしただけであろう無造作なヘアスタイルと相まって、優しい雰囲気に感じられた。

「藤沢さんですか?」

 他に客のいない店内であったので、入り口から躊躇なくミキの方に歩いてくると、そう声を掛けてきた。ミキは椅子から立ち上がると、軽くお辞儀をした。

「初めまして、藤沢ミキです」

「初めまして、織田慎太郎です」

「オダさん」

「はい、信長と同じ織田ですが、何の縁もゆかりはないです」

 そう言うと、織田は椅子に腰をかけ、アイスミントティーを注文した。

「彼女のお店によく行かれてらっしゃるそうで」

「はい、場所もですが、泡盛ばかりのバーという変わったお店ですが、居心地がよくて」

「泡盛は瓶詰めしても熟成していく珍しい酒というのは聞いたことがありますが、なかなか飲む機会がなくて」

「アタシは沖縄の血が入っているせいか、他のお酒よりも泡盛が好きです。というか、あのお店には行かれたことはないのですか?」

 織田は笑顔のまま静かに首を横に振った。

「そうなんですか。穂乃果さんから来ないように言われているとか」

「いえ、そこまでは立ち入らないようにしているだけです」

「立ち入らない?」

 店員が織田の前にミントの葉の色が鮮やかに映えるグラスを置くと、彼はストローを使わずにそのままひと口飲んだ。

「お店では、彼女は普通に仕事をしているのですよね?」

「普通に、というと?」

「いや、居心地がよいと話されていたので、きちんと接客しているのだろうと思いまして」

「そうですね。アタシたちも穂乃果さんには愚痴なんかも言いやすいというか」

「そうですか。ちゃんと聞き役になれているのですね」

 織田の表情がどこか満足そうなのをミキは感じた。

「彼女の言動で不思議に思うことなどはないですか?」

「知り合って1年ぐらいですが、彼女、滅多に自分のことは話さないので。先日、珍しく話したくらいです」

「何の話を?」

「ですから、あなたとの結婚に関することを少し」

「私との結婚?」

「そうです。それで、お節介は承知のうえで、今日、お会いさせていただいたわけです」

「お節介?」

いっぽう的な質問の連続としっくり来ない会話にミキは戸惑い始めていた。

「今日のことは、彼女からは何と言われたのですか?」

「仲良くしてもらっている姉のような人が私に会いたがっていると」

「その理由は?」

「いえ、何も。それだけです」

「それだけ?」

「はい、それだけです。でも、彼女が知り合いを紹介してきたのには驚きました」

 自分のイメージしていた人物像とはかけ離れた、織田の口調の温もりの無さにミキは違和感を感じていた。

「織田さん、彼女と結婚する気はないのでしょ?」

「彼女は私と結婚すると、あなたに話したのですね」

「ええ、翻訳の仕事で知り合った、出版社勤務のあなたと結婚すると」

「私が出版社勤務で仕事は翻訳」

 ミキは目の前の男が話とは全く別人であることを確信した。

「あなたは誰ですか?」

「私は織田慎太郎です。出版社勤務ではないですが」

「彼女との関係は何ですか?」

「本当は守秘義務で話せないのですが」

 マドラーでグラスのなかのミントの葉を織田は潰していた。

「守秘義務って、誰に対する守秘義務ですか?」

ミキの口調が詰めるようなものになっていった。

「職業上の守秘義務です」

「職業上?」

「私は穂乃果さんの主治医です」

「主治医? 彼女は病気なのですか?」

「ですから、私からはこれ以上はお話しできません。ただ、彼女には、今から言う通りに、お伝えいただけるとありがたいです」

そう言うと織田はグラスに残っていたミントティーを一気に飲み干した。

「楽しくていい人だった、と。あとは、藤沢さんのほうでアレンジしていただいて結構です。彼女の症状は社会生活的には何の問題もありませんので。これからも、店では彼女と仲良くしていただけますと嬉しいです」

「症状? 彼女、心の病なの?」

ミキは質問ではなく、ひとり言のように呟いた。

「ママとパパは恋人ですから死ぬまでずっと。あれは彼女の妄想の世界…」

「今日、お会いできたのがあなたのような方で良かったです。今後に役立つ情報も色々とお聞きできましたし、ありがとうございました」

 織田はテーブルに五千円札を置くと、ミキに深々とお辞儀をして店を出て行った。

「ママとパパは死ぬまで恋人。最高の妄想じゃない…」

 織田の後ろ姿を見送りながら、そう心の中で呟いたミキの表情は、大切な妹を思う優しさに満ちていた。

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死ぬまで恋人 大雅真矢 @tiida-sun

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