3-6:


 屈強な男に挟まれながら、トオルは五階でエレベーターから降りる。フローリングの廊下を伝って導かれるまま扉を開くと、本革の応接ソファがガラステーブルを囲む、ヤニ臭い事務所に脚を踏み入れた。


「よう、兄ちゃん。待ってたぜ」


 深く腰掛けながら出迎えたのは、藤沢組の若頭であった。咥えた煙草を更かしながら、部下を人差し指で使う。

 執務机の横にある黒金庫のダイヤルをひねり、書類やら札束が積まれた中から一つの封筒を持ってきた。それを若頭が机に投げる。トオルは生唾を飲み込みながら、封をあけた。


「約束どおり五十万だ。ま、山川組代理の闘士相手にゃ、少々物足りんかもしれんが」

「い、いえ、十分です」


 中には、一万円札が五十枚も入っている。

 手が緊張で震え、いそいそと懐に仕舞うのもおぼつかなかった。


「それにしてもいいのか? アンタが金を取りに来て」


 席を立とうとしたトオルを見て、若頭はソファの背もたれに両肘を預けながら、どこか探るよう言った。


「雑務は僕の仕事だと言われていますので」

「ま、話がついてるなら構わんがね」


 飲みへ誘われるが、それとなく断って足早に立ち去ろうとする。

 切り札があろうと、白昼堂々、大立ち回りするつもりはない。金さえもらえれば用はなかった。


「やっぱ違うか」


 ん? と振り返るも、若頭は手でヒラヒラ追い払うだけ。一階で屈強な男たちから解放されたトオルは、フロント企業らしい貴重品売買店を通り過ぎ、ついでにパンフを一枚拝借していった。

 往来は二月の木枯らしが吹き荒んでいた。コートを着込む学生や社会人がそそくさと風を切っている。人波に飲まれながら、さきほどのパンフを広げた。

 貴重品を取り扱うだけあって、ジュエリーやネックレス、宝飾品などの買取価格がずらりと並んでいる。むろん、用があるのは買取ではない。彼に貴重品など持ち合わせはない。


『なんだ、これ。マジックリングか?』

「腕時計だよ、腕時計」


 シルバーが光り輝く腕時計に、機能美よりもヴィジュアル面を追求した近未来的な時計。トオルが現在付けるワンコインのものと比べれば、中古でも眼が飛び出るような値段だ。けれど、決して買えないということはない。手が届く現実的なラインだ。

 最近トオルは装身具全般に興味があった。いや、あったのは昔からだろう。ただ、自由にできるお金がなくて買えなかっただけだ。

 だから、エルという仮面の魔王が金になり、欲望のタガが外れつつあった。


 お金がないから買えない。

 つまり、お金があれば買える。

 懐には五十万ある。それも、たった一試合のことだ。一試合目は十万だったが、ニ、三試合目が十五万ときての、この額である。

 たしかに、貯蓄は大事だ。家族の自立資金や教育費も積立をしなければならない。

 けど、十万ぐらいならいいのではないだろうか。だって、次もその次も、いくらだって稼げる。

 アークを見れば一目瞭然だ。三分間とはいえ、負ける気はしない。すべてをたった一太刀で葬り去る技量の前には、いかなる敵さえ路傍の石でしかない。

 もうまともに学校へ通い、汗水垂らして働くよりも、このまま裏街道の覇王となったほうが楽なのではないか。

 トオルはときおり、そういったことを考えるようになっていた。


『なあ、それにしてもなんであのなおみとかいう女の誘いを断ったんだ。いい感じに緩そうだったぜ?』

「なんか、いきなりすぎて」


 モテない男は、急にモテだすと混乱してしまう。あまりにも悲しいサガだった。


『手頃だったのによぉ』

「わかったわかった。あとで好きなだけキャバクラでも連れていってあげるから」

『なんだそれ?』

「あー、あんまり知らないんだけど、女の子とお話できるところ、かな?」

『なんの需要があんだよ。突っ込めるとこはねえのか、突っ込めるとこは。ってやべっ!』

「風俗はちょっと……あっ」


 気まずげに固まったアークの視線を追い、トオルもまたぽっかりと大口を開けていた。

 想像してみてほしい。未成年の高校生が、ひとりぶつくさキャバクラだの風俗だのと言っているところを。

 たぶん、誰しもが眉間に皺をよせるだろう。たとえば、必死の思いで街に繰り出した幼馴染の夏目光なども。


「ト、オ、ルーー!」


 心細そうにモニュメント前で立っていたひかりは、一転顔をぷんぷんに怒らせて両足で地団駄を踏んだ。


「ふけつ、ふけつ、ふけつ! トールのふけつ!」

「ああいや、これは違うんだよ。さっき通りがけにあった店が変わった名前でさ。どっちなのかなぁっていう、興味本位で」


 あまりにも拙い言い訳、それもそれも極めて水売りを嫌うひかり相手に、そんな甘ちょっろいお為ごかしが通用するはずもなかった。

 ポコポコと胸を叩かれる。周囲の目を気にして、トオルは必死になだめすかした。


「トール、ふけつ」


 クリームを口の端につけながら、クレープを食むひかり。店員に小銭を手渡したトオルは、彼女と手を繋いだ。

 餌でもやっとけ、とアークは女子高生の観察に余念がない。物で機嫌を取るって有効なんだなぁと苦笑する自分もいた。


「で、ふけつなトールは何がしたいの」

「たしかこのへんなんだけど。あった、ここだ」


 歩調を合わせていた二人は、美容室が入るビルの前で立ち止まった。

 二階ビルの外装には、髪をかきあげた美しいモデルが描かれている。茶髪、パーマと艶やかで、枝毛などないように見える。いつも家族同士で散髪し合う人間からしてみれば、遠い存在だ。


「言ってたでしょ。ストレートあてたいって。今日は、お外に出る練習のついでってことで」


 無理矢理背中を押す。踏み出さなければ未来は開かれない。ぐずるひかりを諭しながら、そんな真理を思い浮かべていた。

 非ナンバーズは悪であり、社会から冷遇される存在である。それはいつの世も厳然と横たわる現実であり、逃れることはできない。

 しかし、ただ手をこまねいているだけでは、無意に時が流れるだけだ。

 差別はある。侮蔑はある。それを認めたうえで、なお踏み込まなければ、価値のあるものは掴めない。

 航海の先には、新大陸が開けるかもしれない。そう願い、ひかりを連れてきたのだ。


「クラスの女の子がね、この系列のお店がオススメだって」


 吉永奈緒美という女子生徒のことを思い出していると、ひかりはボソボソとつぶやいた。


「……あんな女なんかに負けないもん」

「何か言った、ひかり?」

「ふん、だ。ふけつなトールはあっちいってて」


 ひかりは頬を膨らませ、美容師を押し退けながらシートへ飛び乗った。二、三時間必要といわれ、あてもなく街中をさまようことにする。

 しばらく歩いて、公園のベンチに腰を下ろす。風に揺られるブランコが虚しくギィ、ギィと音を立てていた。

 社用端末を立ち上げ、ファンサイト「インビジブルズ」を閲覧する。この前の大会で活躍したからか大盛況だった。ファン同士が喧嘩腰なのはご愛嬌だが。


(そういえば最近、開催されてる試合を調べなくなったな)


 交通費と参加費は事務所持ちなので、昔は端末に齧り付いてエントリーしたものだった。名残でけたたましく通知を出すそれを、スワイプして消した。

 暇つぶしにニュースサイトを巡っていると、一つの見出しが目に入る。「闇に舞い降りた最強の正体とは」と名打たれ、閲覧数やコメント数はまずまずだった。


『お、オレ様のことか、これ』


 なんだかんだ満更でもなさそうなアークと二人ネットサーフィンをしていると、ふと、とんでもない記事に出くわした。

 裏闘技場の関係者控え室に入ってゆく、制服姿のトオルである。どうやらこの記事は、出入り口を待ち伏せして正体を推測しようとしているらしい。

 トオルは顔を青ざめさせた。正体がバレたからではない。記事内では他にも五、六人候補が挙げられており、重要度が高くない扱いだ。

 しかし学生、それも事務所契約選手であるトオルが出入りしているのは、非常に好ましくなかった。


「ひゃっ!」


 ぷるぷると携帯のバイブレーションが作動する。

 画面上には、社長、という文字が。

 タイミングの悪さに、恐る恐る端末を耳にあてる。開始早々、凄まじい剣幕で社長が怒鳴り立ててきた。


『テメェ、どういうことか説明しろ!』



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