第24話 11日目 2022年5月24日 (火)

 朝、1時に目が覚めた。普段と違って喉の閊えとか尿意とかない代わりに咳がでる。肺炎は後遺症として一番気を付けなければならない症状である。慌てて熱を測ってみたが35.8°と平熱であり一安心。水分を少し摂取してベッドに戻る。

 次に目が覚めたのは4時半。昨日の就寝時間が11時なので少し睡眠時間が足りない。そうした睡眠不足はやはり表に出てくるもので昨日も喫茶店で30分ほどうとうとした。ベッドを電動に変えれば眠れるものかしら?でも病院でも結構頻繁に目覚めた記憶があるし、そこはベッドでは解決しない問題なのかもしれない。

 のろのろと起き出して、昨日の夕飯の残りの麻婆豆腐を温めて麻婆丼にして食す。麻婆丼は他の丼物と違ってスプーンで食べるので楽だ。ちょっと品がないけど。

 腸瘻をしている間の音楽は高橋悠治のサティのピアノ曲集。

 サティが日本ではやり始めたのはいつのことであろうか。僕が最初にレコードを買ったのはまだ高校生だったころだから今から50年弱前、その頃日本コロンビアというレコード会社から廉価版で出たフランシス プーランクとジャック フェブリエの共演で「梨の形をした三つの小品」を買った時だから、わりかし世間より早かったんじゃないかと自負している。高橋悠治の録音が1976/1979年なのでそれより2、3年前には聴いていたことになる。ちょっと自慢できるのかしら?

 でもないか。

 とはいえ、記憶にある限り最初に耳にした音はタイトルと共に「なんだ、これ?」と思わせるものだったわけで、音楽性を十分に理解していたわけじゃない。やはりラヴェルやらドビュッシーのちょっと前の世代で彼らに影響を与えた作曲家だと聞いて手を出したのだろう。それでも何度か繰り返して聞いた記憶は鮮明に残っている。


 昼飯は朝炊いたご飯の残りでひき肉と卵、それにネギでチャーハンを作る。体温が35.3°。どうして昼間に体温と血圧の値が低くなるのだろうか?


 ベッドを新調するにあたって、いくつかのものを捨てなければならないもののうち、昔アムステルダムの空港で買ったサムソナイトのアタッシュケースを粗大ごみとして捨てることにして、その引き取りが明日なので今日のうちにシールを貼り玄関前に出しておく。

 このアタッシュケースの前任はミラノで買った明るい茶の色調のアタッシュケースで、空港で突如取っ手が壊れたので買い替えることにしたんだっけ。物に纏わる思い出というのは時折際限なく遡っていって、捨てるという行為を妨げようとする。でももう海外へ出張することはないし、厚い書類を持ち歩くという事もないであろう。そう思いながら玄関の前にそっと置いた。


 久しぶりに銀座に出向く。病院にいた時に聴いた「モンセラートの朱い本」のCDを買おうと思い立ったのだ。以前歯の治療で銀座に行った時、たぶん2年前の4月頃だったけど、その頃の銀座は本当に人手がなく、中央通りでさえ、遠くに何人かの人影がまばらに見えると言った様子だった。今はCovit19問題が解決したわけではないのに、人出はそれ以前に戻っている。JRの有楽町の駅から三省堂の前を通って、中央通りの方角へゆっくりと歩む。ゆっくりと、というのは心の余裕ではなく、体力の低下のせいである。相も変わらずAppleの前には人が屯しているが、何人かの店員が店の前に立っているのはどういうわけなのだろう?新製品の発売日ならともかく、そんなところに立っていても仕方ないと思うけど。店の前に店員が立つというのは威圧的なものだ。この店では一度ケーブルを買ったことがあるがやはり店員が高ぶった感じで、あまり買う気を起こさせない。


 山野楽器がビルの一部を売却、或いはフロア貸しして商品スペースを縮小したのはCovit19が流行し始めた頃に一度行って知っていた。その時はグールドとバーンスタインによるブラームスのピアノ協奏曲を1枚買って、もう少し頑張ってほしいと思ったものだけど。でもCDを買う人は年々少なくなっているのだろう。どんどんとCD売り場は縮小されて、今ではワンフロアに演歌を交えたCD売り場が纏まっている。なぜ演歌、と書いたかというと、エスカレーターで上っていくと最初に演歌のコーナーが出迎えてくれるからで、この演歌についてはCDよりも更に時代を遡ったカセットが良く売れていると聞いたことがある。

 音楽そのものは不変なはずなのに、それを伝える媒体は短い間にどんどんと変化をした。クラッシック音楽好きは昔はレコードとFMのエアチェック。エアチェックにはオープンリールのテープデッキかカセットのデッキ。そのころはテクニクスやらTEACやらAKAIなどの国内メーカーがひしめいていて、いつかは高性能のデッキを買おうなんて夢見ていたものだけど、いつのまにかCDが出てきて、MDやらいわゆる大容量のメモリ、その上ストリーミングやらと、どんどんと変わっていった。その変化の恩恵を受けた人々もいれば、逆に被害に遭った人もいると思う。本来なら世に出るべきレベルのものでないものが世に出ることもあったし、埋もれていたものが日の目を見たという場合もある。

 だが、全体としてみれば猛烈にレベルは低下したような気がする。カルチュア全般に言えることだと思うが、悪貨は良貨を駆逐するというグリシャムの法則は皮肉にも文化の世界で起こったのだ。

 ついついそんなことを思いつつ、目指す品物は「モンセラートの朱い本」(LLIBRE VERMELL DE MONTSERRAT)入院中にNHKのFMで聴いたあの曲である。ざっと古楽のコーナーを見渡したけど見当たらないので店員に尋ねた。「モンセラートの朱い本」と言っただけで通じたのはさすがだけど、

「あるとしたら、棚のここからここまでの間なんですけど・・・ありませんねぇ」

 と答えた。昔だったらきっとあったのだろう。

「最近、売り場がどんどんと縮小していますもんね」

 というと、

「お客様も減っていますから」

 と残念そうに答えた。

「どっかにありますかねぇ?」

「そうですねぇ、HMVさんかタワーレコードさんに行けばあるかもしれません」

 と他の店舗を紹介してくれた。それでも・・・あるだけましなのかもしれない。文学も音楽も所詮は情報に過ぎず、ネットのどこかにあり、それが有料であろうと無料であろうと公開されていればアクセスすることができる。本である必要もないし、レコードやCDである必然性もない。

 だが・・・そうした本質的な情報に纏わりつく副次的で個人的な断片こそ、個人にとっては大切な情報である。新潮社の世界文学全集のロマンロラン「ジャンクリストフの生涯」を見るたびに浪人時代にこの小説に深くはまっていたことを思い出す。三島由紀夫の「豊穣の海」シリーズ4巻を見れば、市ヶ谷の陸自の基地に彼と盾の会のメンバーが乱入し、そして三島由紀夫の割腹自殺で、日本の「小説」が終焉したと感じた多感な時期を懐かしむ。銀色のジャケットが斬新だったホロビッツの「月光」ソナタとシューベルトの  レコードを見て、最初で最後、クラッシク音楽を聴きながら泣いた記憶が蘇る。だから僕は大切な本もレコードもCDも捨てられない。

 あの曲もこれからどれほど生きていくのか知らないけど、僕の大切な思い出の一つになるかもしれない曲だから、こうして探しに来たのだけど。


 もっともAmazonやHMVでネットで購入することだってできるのだ。以前どうしても欲しかったウィリアムカペルの全集はHMVからネット購入したことがある。8ほとんど唯一のネットでの購入だ)けれど、さっきも書いた通り、物を探して尋ね歩くその行為さえ、副次的で個人的な情報の一つであることは間違えない。

 買い求めに来たCDを入手できなかったことにがっかりしながら帰宅する。山野楽器からは当然有楽町の駅の方が近いのだけど、新橋まで歩く。Covit19騒ぎで、相当のダメージを受けたであろうバーやキャバレーが立ち並ぶ通りを歩くと、前と変わらない看板の数があって、持続(目的)給付金(持続化給付金)で生き延びたのだろうか?<ちなみに持続化給付金の「化」という字には違和感がある。制度そのものにも違和感があるけど>

 土橋の交差点近くには時々通っていた店があって、そこもネオンには名前があるままだったので、まだやっているんだとちょっと懐かしかった。だがビルの中のエレベーター脇のプレートを覗いてみると店の名がない。つまり、店がなくなってもネオンを取り外す作業をしていないという事で、当然跡に店も入っていないのだろう。なんだかうすら寒い思いがした。店のママは高輪あたりに住んでいて、時折タクシーで送らされ(まあ途中という事もあるのだけど)ハワイにやたら行くという話を聞かされたが、このご時世ではハワイに行くこともままならないだろう。

 店の女の子にソフトバンクファンの福岡出身の女の子がいて、頼まれて日本シリーズを神宮まで観戦しに行ったことがある。日本シリーズ自体はソフトバンクが勝ったのだけど、その一試合だけは山田哲人のホームランのせいでソフトバンクが負けてしまった。そんなことを思い出しながら、建物を出た。通りを隔ててあった洋菓子店も廃業していて、店の誰かの誕生日にケーキを買って行ったことが何度かあったことも思い出す。そういう客もいなくなり洋菓子店ももたなくなったのだろうなぁ。家に戻ってチンジャオロースとサラダを作った。残念ながらチンジャオロースが喉に閊えた。ピーマンを縦に切ったせいだろうか?とにかく野菜が喉の閊えの鬼門なのは他のものと違って崩れたり解けたりしないからだろう。今後も注意しないと。

 今日は12401歩、体温は36.3℃と普段より高く、血圧も132/60と130を超えた数値。脈拍は67と普通である。



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