一菱銀行目黒支店

あれは五時間前。


一菱銀行の目黒支店。


法人第二課に所属する私を含む店の全員が、針の上を歩くような緊張感を漂わせ、期末の目標達成に向けて追い込みをかける振りをしていた。


三月の終わりだというのに。


冬のように凍てつく雨が降りしきっていた。




管理職の目に届かない範囲で、誰もが好き放題やっていた。


噂のレストランでコースのランチを堪能し、


営業の帰り道にカフェでコーヒーを飲み、


駐車場で昼寝をしたりしていた。




七年間、銀行で働いて分かったことがある。


目標なんてどうでもいいのだ。


月極めで給料をもらう私たちにとって。


年明けの時点で達成できないことくらい、


脳内の大半を女と酒が占める伊藤でも勘付いていた。




それを口にすると、支店長室へ呼び出され、人事部へ通報される。


次の配属地が、人間より動物の数の方が多い地方店になる。


あるいは、銀行へ来た封筒をひたすら仕分けし続ける文書管理センターになる。


国内最大のメガバンクである一菱銀行の行員にとっては、とんでもない話だ。


自尊心という、繊細で高級な砂糖菓子が、粉々に砕かれてしまう。




だから皆、忙しそうに振る舞っていた。


いつもの店だった。銀行の店なんてどこも同じだ。


白を基調とした壁に、灰色のデスクが四つのシマに分かれて並ぶ。


法人第一課とか二課とか三課とか法人事務課とか、そんな名前を与えられる。


人数分のデスクには灰色のデスクトップパソコンと椅子がある。他にはなにもない。


ここで育つと、白と黒と灰色しか知らない大人になるだろう。




私はデスクで炭酸水を飲み、パソコンで稟議書の申請画面を更新する、


動作を繰り返していた。


画面を眺めるか電卓を叩いていれば、仕事をしているように見える。


難しい顔もつけば、もう何も言うことはない。


別のことを考えていても。


ただ、この時ばかりは本当に仕事のことを考えていた。








稟議を上げた融資案件の実行予定は、月末だ。


私はデスクに立て掛けたカレンダーを見た。


三月二十八日金曜日。あと四日しかない。


そして私は異動が近い。


今期に案件をねじ込まなければ、後任の誰かの実績になってしまう。


今さら出世を焦っていたわけではない。


無論、店のためでもない。


後任においしい思いをさせてやることが癪だっただけだ。




「黒川代理ぃ」




法人事務課の小谷さんが話しかけてきた。


透き通るような肌。薄茶色の目。入行二年目という若さ。


世間一般の男性の好みを一通り揃えている女の子だ。


彼女は裏で疫病神と呼ばれていた。


ペアになった営業担当者の数字がことごとく悪くなる体。


そして、彼女は今期から私の担当だった。




「三末に実行予定のA財団。まだ稟議の承認、降りないんですかぁ?」


「まだ。橋本調査役で止まってる」


「明日が土曜だから、来週月曜には承認もらわないと、今期の実行は無理ですね。もう異例事務は出せないって、課長が言ってたし」




私は彼女が気に入らなかった。


そそる格好をして、親友のような口を利く態度が。


彼女は横目で、法人二課長と支店長の不在を確認した。


そして、私に囁いた。




「ま、別に来期でもけど。お客さん、急いでないんでしょ? でも黒川代理としては異動が近いから、なんとか今期にねじこみたいよね」




その言葉をぱっくりと口を開けて待ち構えていたかのように、


デスクの隅にある内線が不快な音を立てて鳴り響いた。


電話機には着信元を示す、四桁の数字が表示されていた。


入行以来に重ねた嘘の回数は忘れても、この番号だけは嫌でも忘れない。


融資部第二グループ。橋本調査役。


私は受話器をとった。

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