嘘をつけない銀行員が異能力を使って粉飾決算を暴きに行くようです

綾部まと

地下のバー

バーの店員に押し倒された瞬間。

私は電卓のことを考えた。


男のかすかな息遣いに合わせて上下する胸と、かたちのいい鼻と唇を見つめた。

彼に見つめられたら、どんな女だって脳みそがぐちゃぐちゃになる。

こんな男はほかのどこにも居ない。


「これが、あんたの取り分ってわけだ」

「給料と呼んで欲しいな」

「良い響きだ」


辺りを見渡した。感じの良い部屋だ。 長身でいかつい美男もいる。

ただ今はそういうことに感心がなかった。

望んでいるのは、決算書に登録されている美術品が、現存するか確認する。

融資部に稟議を上げる。貸出を実行する。

今回ばかりは、それを心の底から望んでいた。


ところが、私はベッドの上にいる。

今に始まったことじゃない。頼んだメニューと違うものが出される。

それが、人生というレストランなのだ。


「ほぉ。叫んだり、泣きわめいたりしない」。

どこまでもソフトの声が私の耳に届いた。私は泣かなかった。

「誰かこいつを辞めさせろ!」。

課長が店中に響き渡る声で怒鳴り、机をバンバン叩いていた時も。

「稟議書き終わるまで、席立つなよ!」

ゴリラみたいな女の先輩に言われ、膀胱炎になった時も。一度も泣かなかった。


私はスーツのポケットに手を入れた。

冷たくて固い無機物を探り当てた。

ポケットにある、固い違和感。

ずっと邪魔に感じていた。

押し倒された時から。

それは電卓だった。

ナイフでもない。

銃でもない。

どうして。


私は今更ながら考えずにいられなかった。

雑居ビルの一室で、こうして貞操の危機に瀕している原因を。

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