第17話 王都の片隅の、とある恋人たち

 毎日同じ時間に来ていたリディアが顔を見せなくなって、数日。


 時を同じくして、イグナスが毎朝早くに出掛けて、夜遅くに戻って来るようになった。

 聞いた話によると、たまっていた休暇を消化中らしい。


「おーい、イグナス卿」


 この日もいそいそと出掛けて行く彼に、門番が声を掛ける。


「リディアちゃんが最近来ないんだが、何か知っているか?」


 彼女が来なくなったのは、酷く慌てた様子のイグナスが門番であるパーシヴァルに彼女の所在を訪ねた、次の日からだ。


「もう、ここへ来る必要がなくなったんだ」


 呼び止められたイグナスは淡く微笑み、告げた。


「ということは、会えたのか?」


 返って来たのは、無言の首肯だった。

 それを見たパーシヴァルは、安堵の息を漏らす。


「知り合いなんだったら、もっと早くに会ってやれば良かったのに」


 毎日、どんな天候でもやって来て、イグナス宛の手紙を託して行った彼女。

 彼女はずっと、あんなにも、イグナスに会いたがっていた。


「彼女が、彼女なのだと気付けなくて……」

「どういう知り合いだったんだ?」


 少し迷った後で、イグナスは答える。


「仕事で、助けたことがあったんだ。彼女は、そのお礼を伝えようとしていた」

「へえ。余程、感謝していたんだな」

「……そのようだ」


 穏やかな表情で出掛けていくイグナスの背中を見送りながら、もう一人の門番がパーシヴァルへ話し掛けた。


「最近のイグナス卿は、なんだか憑物が落ちたような様子だよな」


 身体も心も出来上がる前の少年だった彼が、初めてこの門を潜った時からの付き合いだ。

 長いこと暗く沈んでいたイグナスの表情が明るく解けていたことに、パーシヴァルは胸を撫で下ろす。


「彼も、ようやく前へ進めるようになったんだろう」


 恐らくその切っ掛けを与えたのは、帽子を被った、あの少女だ。



   ※



 王都の商業区内にある、とある帽子屋の店先。朝の日課の店頭清掃へ出てきた少女を、待ち構えていた近隣の店の従業員達が捕まえた。


「リディア、ちょっと」


 リディアと呼ばれた金髪にアメジストの瞳を持つ少女は、「皆さん、おはようございます」と微笑みで応じる。


「ここ数日、貴族っぽい男が出入りしてるだろう?」

「グウィニスの新しい男にしては品が良すぎるし、若いじゃない?」

「リディアが変な男に付き纏われているんじゃないかって、みんな、気になっててさ」

「あなた美人だから、もし面倒なのに目を付けられたんだったら、力になるわよ」


 困っているなら助けるぞと言われ、リディアは破顔した。


「ありがとうございます。でも彼は……私の、恋人なんです」


 頬を桃色に染めたリディアの姿に、若い男はショックが隠せず、女性陣は色めき立つ。


「なんだ、そうなの?」

「いつの間にそんなのが出来たのよ?」

「店に来るってことは、グウィニスも認めてるってことよね?」


 一斉に浴びせられた質問に、リディアは照れながらも、一つ一つ答えていく。


「彼は、お城の騎士様なんですけど、前に助けていただいたことがあって」


 最近再会して、リディアから交際を申し込んだのだと説明した。


 店先に集まった人々が上げる黄色い声。


 更に詳しく聞き出そうとするのを止めたのは、背後から掛けられた、静かな男の声だった。


「ーーおはようございます」


 誰もが振り向いた先。そこに立っていたのは、黒髪に夜空色の瞳を持った背の高い男。

 彼こそが、この場で話題になっていた人物だ。


「あ、おはよう。イグナス」


 リディアの表情が、とても嬉しそうに華やぎ。


「おはよう、リディア。……何か問題か?」


 リディアへと向けられた夜空色の瞳は、極上の砂糖菓子よりも更に甘く、とろけた。


 一見して、相思相愛だとわかる二人。


「世間知らずのリディアに悪い虫でも付いたんじゃないかって、心配してたんだよ」

「まあ、あんたは合格ね」


 これからよろしくと、それぞれが自己紹介をしてから、去っていった。


「一体、何の騒ぎだったんだ?」


 きょとんとした表情で首を傾げた彼を見上げ、リディアが顔を綻ばせる。


「みんな、いい人達なの。私のことを心配してくれていたんだって」

「君の周囲から見れば、俺は突然湧いて出た謎の虫ということか」

「そうなっちゃうみたい。今日は、アヴァンさんは?」

「もう付き合ってられんと言われた」


 楽しそうに笑ったリディアの手から掃除道具を受け取って、当然のように、イグナスが掃除を手伝う。


「今日こそ、持ってきてくれた?」


 返されたのは、無言。


「私の物でしょう?」

「……書いたのは、俺だ。今更、読まなくてもいいだろう」

「あなたは読んだじゃない」

「あれは、俺の物だ」

「自分だけ、ずるいわ」

「大したことは書いていない」

「それでもいいの!」


 腰に手を当てて唇を尖らせたリディアを見つめ返してから、素早く、イグナスが距離を詰めた。


 掠めるように、唇へ触れた温もり。


「他愛もない日常を書き綴っただけの、くだらない手紙さ」


 至近距離で夜空色の瞳を見返すリディアの顔が、じわじわと朱色に染まっていく。

 イグナスの耳も、ほんのり赤い。


「は、初めてなのに……っ!」

「それなら、もう一度。しっかりと」

「待って待って!」

「君は、待てばかりだな」

「急に触れ合いが増え過ぎなのよっ」


 待てないとばかりに、再びイグナスが距離を詰める。

 観念したのか、慌ててリディアは目を閉じた。


「ちょっと、お目付け役はどこ行ったのよ」


 少し離れた場所から掛けられた声には、盛大な呆れが含まれていた。


「グウィニスさんっ。お、おはようございます!」

「店先でイチャイチャすんじゃないわよ」

「中でなら、構わないということでしょうか」

「そういうことじゃないわよ、この色ボケ男」


 大股で歩み寄ったグウィニスが、イグナスの手中から、全身を赤く染めたリディアを奪い取る。


「渡さないとは言ってないの。手順を踏みなさいと言ってるだけ」

「手順……」


 片手の親指を顎に当て、イグナスは考える。


「取り潰し……いや、壊滅させるか」

「何をよ? バカなの?」

「冗談です」


 温度のない笑みを浮かべたイグナスへ視線を注いでから、グウィニスはため息を漏らした。


「あんた、本当にこんな男でいいの?」


 リディアはそれに、迷わず頷く。


「私は、イグナスじゃなきゃダメなんです」

「俺も、君がいないとダメなんだ」


 勝手にしてちょうだいとでも言いたげに片手を振り、グウィニスは店へと入っていく。

 掃除と後片付けを終えた二人も、それに続いた。


 そうして帽子屋は、今日も平和に開店する。

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