第5話

 奈緒子のこしらえた、ご飯と味噌汁と焼き鮭と菜の花のおひたしの質素な食事を終えて、ふたりはそのままテーブルをはさんで向かい合っていた。

 栄太はなんとなしに話をするきっかけがつかめずにいたし、奈緒子もなにか栄太が戸惑いのうちにいることをさっしていたのであろう、ふたりはずっと無言であった。食事の間じゅうもそうだった。

 栄太は湯呑みを持って、ほうじ茶をひとくちすすって、湯呑みをおいた。

 奈緒子はその手をじっと目で追っている。

 そうして、やがて、栄太が言った。

「やめておくのだ」

 奈緒子は黙然としたままであった。ただ、上目づかいに栄太の目を凝視した。

「君はちゃんと新人賞を取らねばならない」

 奈緒子は左を向いた。なにも映ってないテレビの画面を見ているようであった。彼女の目にはその真っ黒な画面になにかが見えているのかもしれない。そうして、鼻で、すっと小さな音をたてて、息を吸った。その後、音もなく息を吐いた。彼女は瞬きをする。出会った頃より、ずっと美しくなった横顔の、長いまつ毛をふるわせて、ひとつふたつ瞬きをする。そして、席を立った。部屋を出、廊下を歩き、自分の部屋に入った。

 これでいい、と栄太は思った。

 自分の想いは奈緒子に通じたであろう。

 今は通ぜずとも、ひと晩考えれば彼女もきっと理解するであろう。

 栄太は大きく溜め息をついて、椅子の背に大きくもたれかけた。

 テーブルの上には、片付けられぬままの食器が、整然と並んでいる。


 翌朝、奈緒子は消えていた。

 栄太はひと晩中眠ることができず、ずっと布団の中で起きていたのに、まったく物音ひとつさせず、彼女の姿は霧か霞が散じたように消えていた。

 ただひとつ、彼女の部屋の、彼女の愛用の白いちいさなテーブルの上におかれた手紙が、わずかに彼女の存在していた事が幻想でないあかしであった。

 ――わたしは先生に失望いたしました。

 いびつにちぎりとった手帳の一ページに、ボールペンで、子供の書いたような丸い字で、そう書いてあった。

 栄太は立ったまま、その文字を見つめた。

 なんどもなんども読み返した。

 読み返したところで、その文言の語意が変じるわけではないのに、ひたすらに読み返した。

 彼女との一年は、彼の生涯においてのほんの短い間であったのだけれど、それは安息の日日であった。

 桜の下で彼女は微笑んだ。

 そうしてすべてが始まって、いっしょに食事をして、小説論を語り合い、教え、叱り、笑った。

 彼は彼女を愛していると思っていた。

 だがほんとうは愛してなどいなかったのかもしれない。

 はたして、自分が彼女の小説家としての才能を開花させたのかどうかすらも、わからない。

 栄太は彼女の才能に嫉妬して、彼女の書いた文章の、瑕疵をみつけて責めてさいなんでいただけではなかったろうか。

 俺はお前よりも優れていると誇示していただけの生活ではなかったのか。

 奈緒子はどうであったろう。

 奈緒子は栄太を愛してくれていたのだろうか。

 わからない。

 栄太は人を愛したことがない。

 愛されていることがわからない。

 顔をあげ、部屋を見まわした。

 片隅のきれいにたたまれたひとそろいの夜具と、白いテーブルしかない部屋である。

 部屋にはもう虚無しかない。

 この家にはもう彼しかいない。

 そう思うと、この場所に立っているのがひどくつらく、ひどく堪えがたいものに思えてきた。

 部屋を出た。

 一階に降りてマンションの前に立った。

 桜が散っている。

 そのなかに、奈緒子の影を求めたが、ただ花が舞っているばかりであった。

 薄紅色のひとひらひとひらが、奇妙に眩しい。

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