第4話

「やめさせてください、夏木さん」

 編集者Kは、栄太が仕事場にしている自室に飛び込むように入ってくると、唐突に言った。

 夏木というのは――フルネームで夏木泉人せんとというのは――栄太のペンネームである。先生、と彼が呼ばないのは、最初に出会った時に栄太が言ったたしなめの言葉に従順にしたがってくれているのであった。彼はそんな生真面目な三十半ばの優男である。

 ほんの三カ月ほど前に月刊ライトノベル誌の連載の話を持ってきた担当編集者であったが、しかし栄太とK氏のつきあいは、もう十年近くになる。

 言葉の意味がまるでわからない栄太に、その彼が、まさに血相を変えて言うのだ。

「仲野さんがデヴューするなどと言っています」

「デヴュー?小説家のかい?」

「他に何がありますか」

 栄太は沈黙した。

 なぜ突然奈緒子がデヴューすることになるのか、まるでわからない。

 Kは栄太のその戸惑いを察したように、説明をはじめた。

「仲野さんがウェブ小説サイトに、著作を投稿していたのはご存じでしょうか。そうです、そのサイトです。連載をしている小説がそうとうなPV……、というのはページヴュー、つまり閲覧数のことです、ああ知っていましたか、これは失礼、そのPVが十万単位に達したものですから出版社から打診がいったようです。ちなみに、うちの出版社ではありません」

「それをどうして君が知っているのかね」

「蛇の道は蛇と申しましょうか、同業者のやることは、必ずどこかから漏れ聞こえてくるものです。先ほど仲野さんご本人に確認したら真実だとわかりました」

 栄太はうなった。そうして、机の脇の窓から外を見た。見たとて、道の向こうに建つビルの、無機質な壁しか見えはせぬ。

「彼女には才能があります」Kは続けた。「仲野さんは、権威ある文芸誌の新人賞に応募させて受賞させて、それで正当なデヴューをさせるべきです」

「そこそこ権威ある賞を取っても、作家として成功を収められなかった男が、君の目の前にいる」

 K編集はちょっと眉をひそめたが、栄太は続けた。

「裏を返せば、別に新人賞をとらなくとも、うまくやってる作家などいくらでもいるだろう」

「いいえいけません。彼女にはちゃんとした新人賞を受賞させて、鳴り物入りで売り出さなくてはいけません。いま先生が……、失礼、夏木さんがおっしゃったではありませんか。小説界は、賞をとっても成功するとはかぎらない世界なのです。賞すらもとったことのない作家に対して、世の中、誰が着目しますか。いわんや、あのような文才はあれども華のないのにおいてをや。だいたい、ウェブ小説のPV獲得での作家デヴューなんて、がんばっている素人へのご褒美みたいなものです。小説サイトのコンテストなんてものは、学生の学芸会のようなものです。そりゃあ、そのなかには、瞠目にあたいする作家もいます。でもそんなものは、ひとつまみです。無名の新人が注目されて大ヒットを飛ばすなんて、宝くじに当たるようなものです。小説家として生きていく決心があるのなら、ちゃんとした新人賞を取るのが筋道というものなのです」

 ずいぶん辛辣なことを言うものだ、と栄太は思った。

 それは、紙媒体の書籍畑を歩いてきたKの、多分に偏見のふくまれた持論なのであろう。そうしてその言葉の陰には、彼女を使ってひと儲けたくらむ出版業界の闇の顔が、ちらほらと見え隠れしているようであった。

 栄太の周りにウェブ小説出身の作家の知己がいないこともあって、彼はKの話をそんなものかくらいに聞いていたが、腑に落ちる話ではあるのだ。

 たしかに、奈緒子には才能があった。

 彼女の生来の感受性や着眼点、観察力や洞察力、そこからほとばしりでる文章の描写力や表現力は、春の陽射しのようなぬくもりと秋風のような哀切をあわせもって、鮮烈極まる印象を栄太にあたえた。それは確実に栄太の文才を凌駕するものがあった。

 栄太はこころのどこかで、それを嫉妬していた。師であるものが弟子に嫉視を向けるなどは恥ずべきことであるとは、理性においてわかってはいたが、それでも、ほんの種火のような小さな嫉妬であっても、一度ついてしまえばその火を消すことはできないのであった。おそらく、多くの天才を育てた師たちがそうであったように。そうして彼らは皆、苦しんだのだ。

 その苦悶のなかで彼女をじっと見つめると、Kの言うところのちゃんとした筋道をたどらせさえすれば、奈緒子は必ず大成する、小説家として一流になると確信ができた。

 栄太は溜め息をついた。そうして窓の外をまた眺めた。

 ヴェランダの、はるか下方には桜花が舞っているだろう。桜の下で彼女と出会い、また桜が咲いて、また散っている。

 なにか嫌な方向に、自分と奈緒子の未来が進み始めている気がしていた。この一年あまり心の深淵に隠れ潜んでいた、彼の長年持ち続けていた言い知れぬ不安が、闇の底から浮かびあがるように、ゆっくりと姿をあらわしてきたようであった。

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