第2話 私は無力な私じゃ嫌なのです

 安西くんを抱きしめる腕の力の強さが、彼の鼓動を聞きつつ休んでいると、段々と力が抜けていった。やがて眠気に飲まれ、体は弛緩する。安らぎに満たされる。


 ……これは間違ってないだろうか。

 私は無力感から逃げるように、あなたでない、誰かにすがって……。


 そう言ってしまったら、あなたは、大丈夫と言うでしょうけど……。


 鼻歌がささやかに聞こえる。童謡のようだ。安西くんが歌っているのだろう。眠りの阻害になるかもしれないので、彼は基本的に私が眠りだしたら、じっとしている。

 けれど、今、ささやかに密やかに……歌は聞こえている。何の童謡なのだろう……眠くて頭が動かなくて、思い出せない。なんと言えばいいのか、正確にはわからないけど、寂しい鼻歌だった。


 まどろんだまま、横に転がったら、何も触れなかった。安西くんは一足先に起きたようだ、ベッドから出ていた。

 まぶたをゆっくりと開けると、天井が見えた。深く息を吸うと、安西くんだろうか、控えめなノックが聞こえてきた。


 ハーブを組み合わせたブレンドティーを、安西くんは煎れてくれた。ふんわりと甘い匂いするお茶を口にする。眠っている間に乾燥した喉に、お茶は染み渡った。


「ありがとう、とてもおいしい」


「いえ、喜んでもらえて嬉しいですよ」


 安西くんはきゅっきゅと、使った薬缶などを拭いている。


「いいモノそろえてますよね、キッチンにあるもの……使い心地がいいですよ」


 私は頷いた。


「私の家族がね、この家を設計して、家具も道具も熱心に考えて用意してくれたのよ」


「家族がいらっしゃるんですか?」


 安西くんはきょとんとする。確かに、この家には、人の気配が独りしかない。他に人がいる気配がないのだ。

 私は何でもないように言った。


「ああ……亡くなってるの。もう、随分前よ」


 安西くんの目が僅かに伏せる。何をいえばと一瞬迷ったようだ。そんな彼を尻目に、私は窓を見ていた。雨はしとしと降っている。雨の日の休日は、とても長く感じた。


 近所の商店街で買い物をして、家に帰る。雨がまた降らないうちに、食品を買っておかないといけない。

 スーパーだけではなく、揚げ物が美味しい肉屋や、ちょっと変わった調味料も、輸入品ショップで買ってきた。

 一人で何もかもをやる生活であるのだが、不思議と辛くない。寂しくない、と思う。日々やることはあるし、仕事もそれなりに忙しい。何より、しょげて生きてしまったら、あの人は、そのことに悲しむだろう。


 彼がそばにいて、何も言わず見守ってしまっていたとしたら、彼に安心してもらえるよう、私は振る舞いたいのだ。


「何もできなかった、けどね」


 ただ一つの心残りが胸のうちによぎり、思わず自嘲するように呟いてしまって、ハッとする。

周囲を見渡すと、誰もいなかった。ほっと胸をなでおろす。自分でも驚くくらいの声の大きさだった。


 ふうと息をつき、ちょっと落ち着こうと、近所の公園に入っていった。ベンチの方へ向かうと、先に誰かが座っている。私は立ち止まった。


「安西くん……?」


 青年は、私の声にのろのろと顔をあげた。


「李紅(りく)さん……」


 彼の頬は腫れて、唇が切れていた。けれどそれ以上に、気になったのは、彼が憔悴しきった目をしていたことだ。

 まるで雨に打たれた猫のようだった。


「ここで、会うとは……変な姿見られちゃった」


 彼は立ち上がり、席を譲ろうとする。そして自身は立ち去ろうとする。彼の整った姿を見たことしかなかったので、驚いたが、それ以上に焦燥感が募る。

 彼を、ここで、一人にしちゃいけない……。


「待って」


 私は彼の腕を掴んだ。

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