§9

(……許せない……許すもんですか! マーベルにお願いして、すぐにでもあの男を『抹消』してもらうんだ……)

 それだけを頭の中で繰り返しながら、マグは街外れにある崩れかけた廃屋の中で、身を屈めていた。今すぐにでもマーベルと連絡を取りたいのは山々であったが、彼女が人型を形成して対話が可能になるのは夜間に限られる為、日が暮れるまで待つ必要があったのだ。

(故郷に帰るとか、そんなのはもう、どうでもいい……とにかくあの男との繋がりを、一刻も早く消し去りたい!)

 刻印を消した後の過ごし方など、全く考えていなかった。とにかく、この不愉快さを早く何とかして、清々したい……マグの頭の中は、その事だけで一杯になっていた。

(夕方かぁ……日暮れまでもう少しだ。月が昇ったら、マーベルに来てもらうんだ。そうすれば……)

 と、そんな事を考えていた時、同じ廃屋の中に一人の男の子が入り込んで来た。

「へへっ、この中なら見付からないだろう!」

 男の子は、その手にオモチャのピストルを携え、顔を覆面に見立てたハンカチで覆っている。恐らく、ギャングかガンマンの真似事でもやっているのだろう。程なくして、その子の友達と思しき男の子達が、やはり同じような姿で廃屋の傍まで近寄ってきて、キョロキョロと周辺を探し始めた。

「こっちに逃げて来たと思ったんだけどなぁ……」

「もしかしたら、この中かも!」

 徒党を組んだ男の子の一人が、廃屋を指差して指摘する。その声を聞いて、隠れていた男の子が更に奥へと身を隠そうとして、身を屈めながらジリジリと移動を始める。そしてその先には、マグの姿があった。

(ちょっとぉ、先客がいるのよ? もう……)

 無論、男の子はマグがそこに居る事を知らないので、そのままジリジリと前進してくる。しかし、マグとしてもそこを動く事は出来ない。彼女は建物の奥で、壁を背にして座っていたからである。

「あー、犯人に告ぐぅ! 君は完全に包囲されている、速やかに武器を捨てて出て来なさい!」

 どうやら、屋内の男の子が逃走中の犯人役で、周囲の男の子達がそれを追う警官に扮しているらしい。実に少年らしい遊び方であったが、今のマグにとっては迷惑この上ない事だった。

(もう! あっち行ってよ! 今は誰にも邪魔されたく……ん?)

 少年が壁に背を付けて銃を身構える真似事をした瞬間……彼の頭上の壁の破片が、パラリと落ちて来たのだ。ハッとして、マグが天井を見上げると、少年の直上の壁が崩れかけ、既に一部は骨組から剥離して、落下を始めていた。

「危ないっ!!」

 言うが早いか、咄嗟に身を乗り出したマグに突き飛ばされ、少年は瓦礫の直撃を回避していた。見ると、少年はすっかり顔面蒼白になり、ガタガタと震えている。

「……大丈夫?」

「う、うん……あっ! お姉ちゃん! 上!」

「……!!」

 先程の崩落でバランスを失った柱が、彼女達の方に倒れてくるのが目に入った。回避に移ろうとしたマグだったが、少年を置いては行けない。と言って、先程のように助走を付けて慣性に頼る事も出来ない。マグの腕力では少年を抱き抱えて逃げる事も出来ない。まさに万事休す……彼女は最後の手段として、自らの身体を盾にして、少年に掛かる衝撃を最低限に抑えようと試み、その身体を包み込むようにして蹲った。

(……?)

 次の瞬間、自分に圧し掛かってくるであろう重圧と激痛は感じられず、少量の小石がパラパラと落ちてくるだけだった。どうしたのだろう……と、マグは顔を上げて様子を伺った。すると……

「……無事か?」

「……!!」

 何と、バッカスが倒れてくる柱を支え、彼女達を守っていたのだった。

「動けるなら、早くそこをどけ……長くは持たん!!」

「はっ、はい!!」

 すっかり腰の抜けた少年の体を引き摺るようにして、マグはその場を離れた。それを見届けると、バッカスは一瞬だけニヤリと笑みを浮かべ、そのまま力尽きたかのように倒れた。そして、その身体の上には、柱と無数の瓦礫が容赦なく降り注ぎ、彼の姿をすっかり覆い隠してしまった。

「誰かぁ! 誰か来て!! 生き埋めだ、おじさんが壊れた家の下敷きになった!!」

 先程マグに助けられた少年が、近くに居る大人に救助を求めに走った。程なくして数名の男手が集まり、その後を追うようにして野次馬が群がった。そしてバッカスの身体は瓦礫の下から引き出されたが、彼は既に虫の息だった。

「……おい、坊主……」

 瀕死の重傷であるにも拘らず、バッカスは大人を呼びに走った少年に声を掛けた。

「……オッサンじゃねぇ、俺はまだお兄さん……だ……」

「そ、そんな事に拘ってる場合じゃないです!!」

 医者と思しき男性がバッカスの様子を見ているが、どうも芳しくは無いらしい。首を横に振り、そっと彼の傍を離れていった。

「……なぁ、嬢ちゃん……」

「喋らないで! 身体に障ります!」

「……俺が……ゲフッ! ……居なくなれば、嬢ちゃんは自由に……なれるん……だろ?」

「た、確かにそれは……でも……でも!!」

 マグは揺れていた。激しく揺れていた。目の前で倒れている男は、確かに自分にとって迷惑な存在であり、その存在が消えれば自分は自由になれる。だが、本当にそれでいいのか? と。

「……だったら、迷う事は……無ぇじゃねえか。ほれ、早くしないと……悪魔に引き渡す前に、死んじまう……ぞ……」

「……!!」

 冗談じゃない……貸しを作る形で逝かれてたまるか! と言わんばかりに、マグは嘗て無いほどの力を発揮し、バッカスを救う為に奮闘した。

「……何……してる?」

「動かないで……」

 マグは、バッカスの首筋に牙を付き立てた。吸血鬼は血液を吸う代わりに、自分の体液を相手の体内に流し込む。その殆どの場合は毒素なのだが、彼女達の一族は違っており、血を吸う事で減退する相手の体力を補う為、治癒能力を高める効能を持った薬物を送り込む事が出来るのだ。既に彼の身体からは大量の血が流れ出ている為、その行為は一か八かの大博打だったが……放置しておいても彼は逝ってしまう。ならば……と、彼女は決断したのだった。

(出来るだけ、血を吸わないようにして……このままジッとしていれば、私の体液だけが流れ込むはず……)

 時間にして数十秒というところだろうか。野次馬がざわめきながら見守る中、マグはバッカスの首筋に吸い付いたままジッとしていた。そして彼女は、バッカスの身体を抱き抱えると、そのままスゥッと宙に浮き、飛び去ってしまった。

「え……?」

「そ、空を飛んだ……!?」

 残された野次馬は皆、夢でも見ていたかのように呆然と……マグたちが飛び去った後の空を見上げていた。

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