第3話

 寝起きのぼんやりしている夫を席に座るよう促す。

 彼はそれに従おうとはしなかったが、私が彼のスマホをテーブルの上に置くと、察したのか椅子に座った。

 私は彼が寝ている間に指紋認証でロックを解除して勝手にメッセージを見たことを告げた。

「すまなかった」

 彼は勝手にメッセージを見たことに怒ることもなく、そして言い訳もせず素直に頭を下げた。

「気の迷いなんだ?」

「意味不明」

「いや、その、迷いじゃなく……そう! 弱っていたんだ!」

「はあ?」

「すまない」

 彼はもう一度私に謝った。

 謝ったところで、はいそうですかと許すことできなかった。

「きっちり相手とは別れるよね?」

「ああ」

 彼は何度も頷く。なぜか残念そうな顔をしているのがムカつく。

 けれど──。


「すまない」

 夜、帰宅した彼がいきなり頭を下げた。

「へ? 何?」

「実は佐々木のやつ……妊娠したんだ」

「は?」

 その時、スタンプ帳が頭に浮かんだ。あのスタンプ帳には大量のスタンプが押されていた。それだけの行為があったのだ。中には避妊せずにした時もあったのかもしれない。

「避妊しなかったの?」

「……したと……したか……な?」

 曖昧に彼が返事をするので私はイライラする。

「すまない」

「…………とりあへず堕ろして……ええと」

 もう本当に煩わしいな。お腹だけでなく頭も大きく、重くなった気がする。

 私が額に手を当て、考えていると。

「それがあいつ堕ろしたくないって」

「は?」

「堕ろしたくないそうなんだ」

「なんで? 意味不明」

「産みたいらしいんだ?」

 ウミタイラシインダ。

 頭の中で彼の言葉を反芻し、変換。

「…………なんで? 堕ろさせなさいよ。というかなんで産むの?」

 産んだところでアイツになんの得があるのか?

 そもそもアイツは手当たり次第つまみ食いする奴で本気なんてなかったはず。

 ましてや彼だ。

 自分の旦那だが、普通の外見でキャリアも普通。

 モテる要素はない。……自分で言ってて悲しいが。

 それなのにどうして産みたいのか?

 考えられることは──。

「金か?」

 堕ろすから金を出せと?

「いや、そうでもないらしい」

「…………ええ!? もう! 何よ?」


  ◯


 泥棒猫に会いたくなかった。私のいないところで終わらせて欲しかった。それなのになぜか話し合いということで佐々木菜々緒がやって来た。話し合いというか罵倒にしかならない気がする。

 なにより──。

 自分は悪くないのに、相手に向き合うのが怖い。

 堂々としないといけないと分かっても手が震える。


 久々に会った佐々木菜々緒は脱色をやめて黒髪に戻し、化粧もモデルメイクからナチュラルメイクになっていて、最初は別人かと感じた。でも、香水で彼女だと気づいた。その香水は彼女のお気に入りだったと記憶している。そしてその匂いは彼が浸み付けてくる匂いと同じだった。

 彼女が私の対面に座るのに対して、我が夫は私の隣りではなく直角の位置に座っている。意味不明なんだけどと彼に視線を投げるが、彼は目を逸らし俯くだけ。

 こいつなんなんだよ。みっともない。

「ねえ、匂いきついんだけど」

 まず私は彼女が付けている香水について告げた。普通、妊娠すると匂いに敏感になるはず。

「私はあまり匂いとかに敏感でないらしくて。つわりも全然で〜」

 佐々木菜々緒はへらへらと笑う。

「本当に妊娠しているの?」

「してますよ」

 と言い、バッグから母子手帳をテーブルに置きます。そして、

「私、産みますから」

 堂々と本妻に産みます宣言をした。

「何で? 産んでどうするの?」

「育てます」

「1人で?」

「違います」

「恋人でもいるの? そいつと共に育てるってこと?」

「俺と育てるんだ!」

 急に彼が大声で宣言するので一瞬、理解できなかった。

「俺がこいつと!」

 彼は真剣な顔で私に言う。

「何言ってんの? へ? 私は?」

「ごめん。別れてくれ」

「は?」

 おいおい嘘だと言ってよ。ねえ? なんで何も言わないの?

 え? マジなの?

「いやいやいやいや、おかしいでしょ。え? この子はどうするの?」

「堕ろしてくれ」

 彼の即答に私は口をあんぐりと開いた。

「頼む」

「……馬鹿なの? 何で妻の子を堕ろして、不倫の子を産ませようとするの? 言っとくけどもうすぐ臨月よ?」

「ごめん」

「いや、おかしいからね」

「別れてくれ」

「え? 別れ……ええ!? 別れる? え? どういうこと? どうしてそうなるの? 馬鹿なの? 妻の赤ちゃんを堕ろさせて、離婚して、そいつの子を産ませて、そいつと一緒になるってこと?」

「すまない」

「アホかーーー!」

 私は怒鳴った。佐々木菜々緒が来る時から怒りはあったがなんとか抑えていた。でも、彼の発言で抑えていた怒りは爆発した。


  ◯


 その日から彼は帰ってこなかった。

 私はお義母さんに連絡して、彼の離婚提案についておもい止めるように相談した。

 しかし、お義母さんは自分の愚息を守り、被害者である私を罵り、加害者扱いにした。


  ◯


 その後、母から電話が来た。

『アンタ、一体何があったの? いきなり向こうのお母さんから電話があったわよ』

 私は心配をかけたくなくて不倫と離婚の件を告げていなかった。

「ごめん実は……」


『何よそれ。最低ね』

 電話の向こうで母が憤慨していた。

「……うん」

『弁護士雇いなさい』

「ええ!? 別れろってこと?」

『まずは泥棒猫を訴えるように動きなさい。こっちが弁護士を雇ったら、もう一度話し合いが出来るわ』

「ううん。でも離婚話が進みそうじゃない?」

『じゃあ、どうするの? このままでいるの?』

「産んだら……向こうも戻ってくるかな?」

『う〜ん。産んだら……ねえ。子供可愛さに戻ってくる……かな?』

「私は信じてみようと思うの」

『分かった。でも、何かあったらいいなさい』

「うん。ありがと」


 それから一人の……いや、お腹の子を足して三人の生活が始まった。

 彼からは離婚届が送られてきた。それは破き、ゴミ箱へ投げ捨てた。

 スマホのメッセージからは離婚届に判を押してくれというものが届く。

 それらも全力で無視。

 お義母さんからの電話も着信拒否。

 弁護士に相談に行かなかったけど、前の同僚から佐々木菜々緒についての情報を手に入れた。


 花はずっと咲かない。花開けばあとは朽ちるのみ。

 佐々木菜々緒もずっとは女王の座に君臨し続けることはできない。

 新たな女王が現れたら、席を譲り、さっさと寿退社を目指すのみ。

 けれど遊び過ぎたのか。

 蜂は新しい花には群れ、古い花には誰も寄らなかった。

 彼女は売れ残った。すりきれた女。

 その女の行き着く先が……これだった。


 同情は……なくはないかな。

 でも自業自得だし。

 それに私は負けない。負けたくない。

 このままお腹の子を産めば全て丸くなるだろう。そうすれば彼は戻ってくる。私の勝利は約束されている。


 でも──。


 スーパーからの帰り道だった。

 階段を降りようした時、ふと匂いが引っ掛かった。今の私にはむかつく匂い。振り返ろうとしたところで、後ろからおもいっきり押された。体が前へ飛び、足下は何もなく、一瞬浮遊感を感じる。そしてすぐ重力により、体はすとんと落ちる。

 転がる際、私を押した男が目に入る。

 黄色フードに若い男。

 知らない男だった。

 そして私は頭を何度も強く打ち付けて、意識が落ちる。

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