第2話 ファルとの日々

 旭川市の郊外に一軒家のマイホームを持つ栗原家は、普段は未玖とその母方の祖父・栗原道郎くりはらみちろう の二人暮らしである。

 未玖の両親は二年前に離婚しており、父の宏信は未玖とは別居して故郷の室蘭へ帰郷、考古学者としての仕事で世界中を飛び回っている。未玖の親権を預かることになった母の佳那子も、今年の春から仕事で東京へ転勤することになってしまった。未玖の祖母にあたる道郎の妻も既に他界しており、一人きりで寂しくなってしまったからちょうどいいと、道郎は保護者のいないまだ小学生の孫娘と一緒に住むことにしたのである。


「ねえ、うちで飼ってもいいでしょ? お願い! おじいちゃん!」


「僕からもお願いします! この子を助けてあげたいけど、うちではもう犬を飼ってるし……」


 嵐の中、心配しながら孫の帰りを家で待っていた道郎は、赤い小さな竜を抱えながら息を切らして玄関に入ってきた未玖と拓矢を見て呆気に取られた。


「ううむ。これは……」


 捨て犬か捨て猫でも拾ってきたのなら、動物好きで気のいい道郎は二つ返事でOKするところだが、ドラゴンとなるとさすがに驚いて困惑せざるを得ない。だがそれでも、目に入れても痛くないほど可愛がっている孫とその一番の友達の必死の願いを断るというのは道郎にとっては無理な話だった。


「分かった。仕方あるまい。駄目だと言って、この雨の中で外に放り出したりしたら寒くて凍え死んでしまうだろうからな。どんな生き物だろうと、そういうわけには行かんだろう。とにかく、まずは早く暖かい所に運んで看病してやらなきゃならん」


「ありがとう! おじいちゃん!」


「ありがとうございます!」


 未玖はすぐにドラゴンを居間に運んでタオルに包み、柔らかいクッションの上に乗せてやると、押し入れから取り出してきた電気ストーブをその前に置いてスイッチを入れた。


「お願い。元気になって!」


「死ぬなよ。頑張れ!」


 意識を失って眠り込んでしまっている子竜は、ストーブで体を温めてもなかなか目を覚まそうとしない。未玖はずっと、生死の境を彷徨っているこの幼いドラゴンの傍にいて背中を優しくさすっていた。拓矢もそれに付き添い、そろそろ家に帰って夕飯を食べなければいけない時間になっても、未玖の家で一緒にドラゴンの看病を続けた。そして夜になって、それまで死んだようにずっと動かずにいた竜はようやく息を吹き返したのである。


「やったぁっ! 助かったんだ!」


「良かった! 元気になったぜ!」


 体に巻かれていたタオルを押しのけて二本の後ろ脚でゆっくりと立ち上がったドラゴンの子供は不思議そうに周囲を見回し、それから傍にいた未玖と拓矢を見上げると、しばらく怪訝そうに二人の顔をじろじろと見つめていたが、やがて助けてくれた礼を言うように背中をのけ反らせて可愛らしく鳴いた。未玖が恐る恐る手を差し出すと、竜は顔を近づけ、未玖の手にそっと自分の鼻を押しつける。何とか一命を取りとめた生まれたてのドラゴンは、死にかけていた自分を保護してくれた二人を親だと思って甘えてきたのである。


「でも、どうやって飼えばいいんだ? 竜なんて、まず肉食か草食かも分からないしな」


「うーん、それはとにかく、色々試してみるしか」


 犬や猫や鳥や魚や昆虫ならともかく、竜の飼い方なんて誰も知らないし、書店にガイドブックが売っていたりインターネットに解説サイトがあったりするはずもない。

 何を食べるのか。どんな生態や性格なのか。雄なのか雌なのか。それ以前に、そもそも性別という概念はあるのか。寿命は何年くらいで、成獣になればどれほどの大きさになるのか。散歩や運動は一日どのくらいさせたらいいのか。食べたら毒になるものなど、害になるので避けなければいけない注意事項は何かあるのか。逆にアニメやゲームやファンタジー小説などでよくあるように、火を吐いたり人間を捕食したりして飼い主の側が危険ということはないのか。

 何もかも分からず手探りのまま、未玖と拓矢は道端で拾ったこの小さなドラゴンをとにかく一生懸命に育てた。獰猛で人には全く懐かないという可能性もあり得なくはないと思っていた二人だったが、ドラゴンの赤ん坊は敵意や凶暴性を見せたりはせず、飼い主たちに噛みついたり口からブレスを噴いて家を火事にしたりすることもなく大人しくしていた。


「可愛い! 子犬みたい」


「人懐っこくて良かったな。かなりの甘えん坊みたいだ」


 ティラノサウルスに似た前屈みの二足歩行で、手のような前脚とは別に背中に二枚の翼が生えたこの不思議な生き物は決して人間の手に負えないような猛獣などではなく、まるで愛玩犬のように賢く温厚で、少しだけヤンチャでとてもフレンドリーな気質の持ち主だった。未玖も拓矢も、自分たちを慕って積極的に甘えてくるこの可愛い竜の子供にすっかり心を奪われてしまったのである。


「名前は、ファルハードにしようかな。ファルハード。ファルちゃん。うん、いい感じ!」


 フルネームで呼べば勇ましくて格好よく、略称にすると柔らかでチャーミングな響きがある。未玖はこの優美で愛嬌のある赤いドラゴンの子供をファルハードと名づけた。ファルハードというのは古代の王の名で、喜びという意味のペルシャ語に由来する人名から取ったものだ。


「さあファル、お腹空いたでしょ? どれがいい?」


 ハム、シーチキン、レタス、ニンジン、リンゴ、オレンジ。それから、シベリアンハスキーを飼っている拓矢の家から持ってきた大型犬用のドッグフード。餌になりそうなものを手当たり次第に目の前に並べて好きなものを選ばせようとしてみた二人だったが、ファルハードと名づけられた子竜は肉にも野菜にも果物にもペットフードにも全く興味を示さず、ただ水だけを飲んでいた。まだ短いながらも鋭い牙のようになっている歯の形からして恐らく肉食性かと推測されるにも関わらず、ジンギスカンやフライドチキンや焼いたサンマの切れ端を見せて匂いを嗅がせてみてもこれが食べ物だとは認識していない。


「やっぱり、普通の動物の肉は食べないのかな。もし本当にファンタジーの世界みたいな所から来たんなら、向こうには地球と同じ羊や鶏やサンマなんていないのかも知れないし」


「でも、何か食べなきゃ死んじゃうじゃない。どうしよう……」


 食事をさせることがどうしてもできないまま数日が過ぎたが、すっかり元気になったファルハードが空腹や栄養失調に苦しんでいる様子はなく、好奇心旺盛に家の中をあちこち歩き回って探検したり、ソファーやベッドの上に寝転がって気持ち良さそうに寛いだりして健康に、そして快適に過ごしているようだった。

 もしかすると、生命活動を維持するためには食事が必要だという地球の生物の常識自体が、このどこか別の世界からやって来たような奇妙な生き物には当てはまらないのかも知れない。ふとそんな考えに至って、未玖は無理に餌を食べさせようとするのをやめ、もう少しこの不思議なドラゴンを自由に行動させてよく観察してみることにした。とにかくこれは未知との遭遇なのだから、できるだけ頭を柔らかくして、何事も最初から決めつけたりせずにあらゆる可能性を考慮に入れなければいけない。


「どうだ? 何か食べた?」


 ファルハードの様子を見ようと、拓矢は毎日のように幼馴染の未玖の家を訪ねては、試行錯誤が続くこのドラゴンの世話を手伝っていた。

 ファルハードは普段の生活ではそれほど特殊で理解困難な習性を見せたりはせず、普通のペットのように背中や腹を二人に撫でてもらったり、熊の縫いぐるみと取っ組み合いをしたり、投げられたテニスボールを追い駆けたりして遊び、人間と活発にコミュニケーションを取りながら生き生きと暮らしていた。知能はなかなか高いようで、ティッシュペーパーを箱から次々と引っ張り出して散らかしたのを未玖に叱られると反省してもう二度としなくなったし、お座りやお手などの芸もすぐに覚えることができた。「新聞」という言葉を覚えて、道郎に言われると机の上の新聞を咥えて持って来るということもできるようになった。ただ食事だけは、何日経っても一向にしようとしなかったのである。


「ううん。まだ何も。でも……」


 ファルハードは体力を消耗したような素振りを見せる度に部屋のガラス窓に近づいては、外から射し込んでくる太陽の光を浴び、まるで体力を充電するかのように日光浴をしていた。外に出たがっているわけでもないようで、道郎が時々窓を開けて空気の入れ替えをすると、吹き込んでくる冷たい風から逃げるように暖かい部屋の奥へと素早く引き篭もってしまう。寒い日にストーブの電源を入れると、ファルハードは事あるごとにその前に立って後ろを向き、二列に並んだ背中のひれ を小さく左右に揺らしながら暖を取った。寒さを嫌い、暖かさを好む。動物にとっては当たり前のことかも知れないが、ファルハードはその点が極端なくらいにはっきりしていた。


 ちょっとした事件が起きたのは、ファルハードを飼い始めてから十日目の朝のことであった。


「ファル、ベーコンは食べない?」


 その日、食卓に着いて朝食を食べていた未玖は皿の上のベーコンを一枚、箸で摘まんでファルハードの口に近づけてみたが、ファルハードは相変わらず意味が分かっていない様子で無反応のまま、むしろ頭を撫でてほしいと喉を鳴らして未玖にねだるだけだった。しょうがないわね、と溜息をついた未玖が箸を持ち上げてベーコンを自分の口に放り込むと、次の瞬間、突然キッチンに向かって歩き出したファルハードは両足で床を蹴って大きくジャンプし、ベーコンとスクランブルエッグを焼いたばかりでまだ熱くなっているフライパンの上に飛び乗ったのである。


「あっ、ファルっ!」


 すぐに気づいた未玖は慌てて大声を上げて椅子から立ち上がったが、ファルハードはまだ余熱の残っているフライパンの上で平然と寝転がると、背中の鰭を鉄板に押しつけて気持ち良さそうに猫撫で声を発した。この竜は肉体の頑丈さも普通の生き物とは違い、料理に使った後のフライパン程度の熱さでは火傷などしないし、苦痛さえ全く感じていないようだった。


「ひょっとすると、この背鰭がソーラーパネルみたいになってて、ここから熱を吸収してるのかもな」


 この話を未玖から聞いた拓矢はそう推測したが、未玖が注意して見てみると確かにその通りのようで、ファルハードは事あるごとに熱のある場所に来ては、背中に並んだステゴサウルスのような鰭を熱源に向けながらじっと動かずにいるのだった。

 このドラゴンは口から食物を摂取するのではなく、まさに太陽光発電のように背中の板状の突起から熱を取り込んでエネルギーに変えているのだ。だとしたら肉食動物のような口の牙は何なのかというのは疑問だったが、もしかすると餌を噛み砕くためではなく、純粋に戦闘用の武器として噛みつき攻撃に用いる刃なのかも知れない。縫いぐるみに噛みついてボロボロに破ってしまう悪戯は、ファルハードも何度かやっているのだ。


「ファル、一緒にお風呂入ろっか」


 未玖がバスルームに誘うと、ファルハードは嬉しそうについて来て、熱い湯船の中に飛び込んで背鰭をパタパタと動かしながら極楽だと言わんばかりに目を細めて唸った。例え液体からでも、この鰭で熱を吸収することはできるのである。未玖に体を綺麗に洗ってもらいながらシャワーの湯を一杯に浴び、風呂に漬かってゆったりとエネルギーを補給する毎晩の入浴が、ファルハードにとっては一番の楽しみのようであった。


「さあ寝るわよ。お休み。ファル」


 未玖が就寝する時には、ファルハードはいつも喜んでベッドの上に飛び乗り、布団の中に潜り込んで未玖に抱かれながら一緒に眠るのだった。そして朝になると必ず枕元に顔を出してきて、まだ眠っている未玖の頬に自分の鼻を押しつけて起こそうとするのだ。モグラのように地面に潜る習性でもあるのか、ファルハードはよく前脚で土を掘るような動作をして布団やカーペットの下に入り込み、身を隠してしまう癖があった。


「本当に可愛い……。ねえファル、私のこと好き?」


 質問の意味をちゃんと理解しているかのように、ファルハードは顔を上げて未玖の目を見ながら、口を大きく開けて母性本能をくすぐるキュートな甘え声を上げる。


「ありがとう。私もファルのこと、大好き!」


 この幸せが、いつまでもずっと続けばいい。未玖はこの時、そう願っていた。




 ファルハードが栗原家の家族となってから二ヶ月ほど過ぎた、クリスマス直前のこと。この時、日本を揺るがす大事件が首都圏で発生した。


「テロか……。全く物騒な世の中になったもんだな」


 昼間のワイドショーを中断して放送されているテレビの臨時ニュースを見ながら、道郎は煎茶をすすって嘆息した。東京の渋谷、そして川崎の重化学工場を狙った同時多発テロが計画され、日本に潜入したテロリストたちが密かにその準備を進めていたことが発覚したのである。幸いにも計画は直前に公安警察に察知され、テロ組織の構成員であるロシア人が十数名、その手引きをしていた協力者のカタール人と日本人が一名ずつ逮捕されてテロは未遂に終わった。


「逮捕された容疑者の一人が供述したところによりますと、テロを計画していたのはロシアの反体制組織・ウラルヴォールクのメンバーで、京浜工業地帯を爆破した上で更に渋谷のショッピングセンターを占拠し、人質を取って政府に身代金を要求する手筈だったとのことです」


「怖いよね。お母さんも東京にいるのに……」


 原稿を読み上げるニュースキャスターの声を聞きながら、未玖も仕事で東京に出張中の母を案じてうつむく。飼い主が暗く沈んでいるのを心配してファルハードが近づいてくると、未玖は苦笑して優しくその頭を撫でた。

 警察の捜査により、ロシア政府の打倒を掲げるウラルヴォールクが無関係の日本をテロの標的にしたのは、多額の身代金を日本政府に要求して革命の軍資金を調達するためだったと判明した。その後、ロシア国内でもこの事件を受けてウラルヴォールクの一斉摘発が行なわれ、組織はほぼ壊滅、悲惨なテロの発生には至ることなく事件は解決したかに見えた。


 だが、事はこれで終わったわけではなかったのである。

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