第52話 網野光来

「これは……」


 誰に説明を求めたわけでもないが、網野の呟きに天海は目を逸らしたまま答えた。


「ティナが自分の手首を切って、お前の傷に血を入れた。きっと、傷を治すためだ」

「人魚の、治癒効果?」

「そうだ。けど、ティナのDNAが入っちまったせいで、鱗が、人魚化が始まってしまった」


 天海は目頭を人差し指と親指で押さえながら続けた。


「ティナのおかげで、お前が一命を取り留めた。その事は嬉しい。だけど、お前がこんなになっちまうなんて……。いくら何でも早すぎだ……。八尾比博士だって、あんなに進行はゆっくりだったのに! ものの数時間でこれだ……」


 玲と時は噛まれた傷からと言っていたことを思い出した。唾液か血か。そして、その量に寄って人魚化のスピードは変わるのだろう。


 目を覚まし、傷も癒えた網野は冷静だった。


「ティナ、わるい?」


 暗い雰囲気を読み取ったのか、ティナがそう呟く。網野は天海に抱えられたまま、ティナの髪の毛を撫でた。


「ううん。僕はティナに感謝してる。ティナは悪くないよ」

「悪くないなんて、思えない……」


 網野の言葉を遮るように、釣井は漏らす。彼女の涙は未だに止まらない。溢れる雫を拭いながら、


「ごめんなさい。今は、ティナのせいで網野先輩がって思っちゃう。私、良くないですよね。ティナのおかげで網野先輩が無事なのに……。ごめんなさい。私、頭冷やして来ます」


 と、反対側である左舷のデッキへ走り去った。誰も釣井を止める声を発しない。皆、彼女の気持ちも十分に理解できたからだ。


「網野、現状、人魚化を食い止める方法はわからない。もちろん海王会の奴らが目論んでいるように、人間と人魚のDNAの近似性に着目すればいずれ解明されるかもしれない。だけど、そんなのわからない。未知数だ。この海王会の一件が落ち着いた時、『人魚化』の事実が公表されるのか、今までのように隠されるのか。それすらもわからない。今わかっているのは一つ。お前はこれまでのようには生きられないぞ」


 天海は大波田の方を向き、MMSまであと何時間かを問う。「一日と半日」という答えが返ってくると、再び網野へ視線を向けた。


「着くまでに、網野はどうしたいか考えておくんだ」


 網野はもう一度、自分の横腹を覆う鱗を見る。不思議と何も感じない。怖くもなければ悲しくもない。ずっと前から、そこに鱗があったように感じる。


 天海が立ち上がると、網野もそれに続いた。


 二人は船室内にある水槽にティナを戻し、その後、網野は着替えをした。もちろん、濡れたままだった髪の毛も船内にあったタオルで拭いた。


「いるか?」


 天海がケトルを片手に紙コップを差し出してきた。湯気が沸き立つコップからは香ばしいコーヒーの匂いがしていた。「ありがとうございます」と、それを受け取ると、


「これも食っとけ」


 と、カロリーメイトを一袋投げてきた。


「鷹生さんからもらってたんだ。こういう時は腹減ってなくても食っとけ」


 天海は新しく紙コップにお湯を注ぐと、船室を出てデッキへ向かった。


 室内に一人残された網野はコーヒーを一口飲む。冷えた体が温まっていくのを感じた。


 目の前にある小さな水槽の中で、窮屈そうにティナは眠っていた。一定の感覚で鼻から泡が飛び出ては、水面へ浮かび上がる。その様子を見ながら、カロリーメイトの袋を破った。


「これからどうするか、か」


 パサパサとした食感が口の中を支配する。


 八尾比や玲と同様に人魚のDNAが入ってしまった網野。人魚化の進み具合では、八尾比のように隠しながら研究を続けることはできるはずだ。しかし海王会のこともある。あの後、玲や鷹生がどうなったのか、網野らはわからない。家族としてのけじめがつけられたのか。はたまた、考えたくないが浦田に屈する結果となってしまったのか。後者なら、網野らの逃亡はまだ続くこととなる。前者ならばこの逃走劇も終わるのだろうか。網野らの疑いが晴れ、再び日の光を浴びることができるのだろうか。


 それはないだろう、と網野は思った。MML襲撃。『小さな水の星』襲撃。浦田が真実を隠そうと、この事実は日本中で報道されている。誰かが何かを語らなければならない。問題はどこまで語るのか。


 海王会のこと。人魚化のこと。ティナのこと。


 網野の体は玲や八尾比以上に人魚化が深刻だ。既に傷周り以上の範囲まで広がっている。長くは人間の形を保っていられないだろう。そうなるとティナだけが心残りだ。


 自分がすべきことはティナのことを一番に考えることだ。


「ティナを守ることができる最善策は何だろう?」


 網野は静かに水槽に手を当てる。


 狭い水槽では掌の間近にティナの顔があった。





「よっ」

「天海先輩……」


 天海は紙コップを持ったまま釣井の隣に立ち、手すりに重心をかける。


「お前も飲みたいなら中にあるぞ」

「いえ、……私は大丈夫です」

「まあ、頭冷やすって外にいるんだもんな。ホットは飲まないか」


 緊張を解すかのように笑う天海に吊られて釣井も口元を緩ませてしまった。彼は本当にこういうことが得意だな、と釣井は今更感心する。


 釣井の笑顔を確認した天海は、前髪ごとメガネを頭上に上げる。やや長めの髪の先端は潮風で揺れていた。


「どうだ? ちょっとは気持ち落ち着いたか?」

「はい。さっきよりかは少し」

「なら良かった」


 空が黄色がかり始めている。釣井は会話を続けられず、天海は黄昏ながらを紙コップを口に運ぶ。俯く釣井を気にしながらコーヒーを飲み込むと、


「深月たちは無事かなあ」


 と呟いた。


「……、連絡取れないんですか?」


 横目で天海を見る釣井に対し、彼はスマホを取り出す。そして電源ボタンを押しても起動しない画面を彼女に見せた。


「取れない。物理的に」

「充電切れですか」

「そう。近代文明のハイテク製品は電気がなければただの鉄の塊だよ」


 彼はスマホをポケットにしまい、話を変えた。


「網野が心配なお前の気持ちはすごくわかる」


 網野の名を口にすると、釣井は顔を上げて天海の方を向いた。


「あいつはすごい奴だ。俺たちよりも、どこまでも遠くに行く。だけど、その凄さが不安になるんだ」

「わかります。遠くに行って、どんどん走って行って……。今は何だか、もう網野先輩に追いつけなくなってしまう気がする。」


 「でも……」と、釣井は続ける。


「網野先輩に「待って」って言いたくないんです。網野先輩には止まってほしくない。自由に走り続けてほしい。もちろんすごく不安です。離れていってほしくないです。今は網野先輩と目を見て話せない……。でも、網野先輩が出す答えはなんとなくわかるし、それを受け入れるつもりでいます」


 彼女の目に空が反射する。さらにやや潤いを持っているせいで、瞳が金色に揺れて輝いて見えた。

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