第8話 来る夏に備えて

「まじか」


 周囲に人がいるのも忘れて、そこそこのボリュームで独り言を漏らしてしまう。


 店前に一人残る網野に対し、既に店内に入っている釣井は手招きをする。


 網野は一歩踏み出すことを躊躇ったが、今日は釣井の買い物に付き合うと決めたのは自分自身なのだと心の中で繰り返し叫び、意を決して彼女の元へ向かった。


 アパレルショップ巡りが一段落ついたのは網野が持っている紙袋が三つになったときだった。先輩に荷物を持たせるとは度胸のある後輩だが、網野が普段優しいからこそなのだろう。その優しさにかまけて十店舗梯子するのはどうかという話だが。


 時刻は間も無く一三時。お昼のピークの波が下り始める頃だ。今ならレストラン街も寄りつきやすいかもしれない。朝食から時間も空いて、網野のお腹もちょうどいい感じに空いている。


「釣井、そろそろ昼飯にしないか?」

「そうですね。私もお腹空いてきました」


 網野の提案に釣井は頷き、下に降りるエスカレーターに乗ろうとしたときだった。


「あ、ちょっと待ってください」


 片足がエスカレーターに向かって浮いていた状態で袖を引っ張られ、後ろ向きに転んでしまいそうになる。なんなら三つの紙袋の中身をぶちまけてしまいそうになったが、山遊び時に鍛えられた体幹を駆使して無事に体を安定させた。


「急に引っ張るなよ」

「いや面白いもの見つけたので」


 釣井の指差す方向を見ると、そこにはなんと水着の特設コーナーだった。一瞬見間違いかと思った。なぜなら今は四月。春真っ只中だ。服なら夏ものが店に並び始めるのはわかる。しかし水着は早いのではないだろうか。網野が知っているプール開きや海開きは六月頃だ。いくらなんでも二ヶ月前にこれほどしっかりとしたコーナーを作るのは早すぎると思うのだ。


「え、ここって沖縄だっけ」

「年々暑くなってるんですから、海開きもそりゃ早くなりますよ。私も今年の夏こそは海行きたいので水着を新調します」


 しばらく水着なんてものを着る機会がなかったので、釣井が言ったような水着界の新常識を網野は知らなかった。一つ勉強になったなと小さな喜びを噛み締めながら、網野はベンチを探す。さすがの釣井も水着選びに付き合えとは言わないだろうと思ったのだ。


「網野先輩、消えないでください」


 釣井が網野の方に手招きをする。デジャブではないようだった。


「いやいや何考えてるの。女性ものの水着コーナーに男がいるのはマズイでしょ」

「全然不味くないですよ。水着を一緒に選ぶカップルは多いですよ」

「そりゃカップルはいるかもしれないよ。でも僕らカップルじゃないし、水着選びは友達と来た時にしな?」

「友達と来たときはそのときにまた見ます。今日はせっかく男性がいるので、男性の意見聞きたいです。試着するだけではわからないこともありますからね」

「え、試着するの? 僕それ見ないといけないの? 無理無理」

「どうしてですか」

「どうしてですかって、ちょっとその思考回路危ないよ。そんな下着と変わらないのに、それを付き合ってもない男に見せるなんて……」

「そんなこと言ったら海水浴場とかプールとかみんな下着で泳いでるみたいになるじゃないですか! ちょっと網野先輩、水着をそういう目で見ていたんですか」

「そういうわけじゃないけどさ」


 彼女に続いて水着コーナーに入る。よりによって派手なビキニばかりが並ぶコーナーだ。アロハ柄や無地、色んな柄がある。そしてとにかく生地の面積が小さい。こんなに露出が高いものを着ようとする今時の女性の気持ちがわからない。下着と変わらないという意見は何も間違っていないのではないかと思ってしまう。とにかく、網野はなるべく並んでいるものを直視しないように心がけた。


「あ、これいいかも」


 釣井が手に取ったのは真っ白の無地のもので、フリルが唯一の装飾だ。他の商品に比べて生地面積も広めで、少しだけ安心をした。


「ちょっとこれ試着してきますね。前で待っていてください」

「一人で待つのか……」

「そうですね。今日は二人で来てますし。一緒に待ってくれる人はいませんね」


 そう言い残し、試着室に入った釣井は勢いよくカーテンを閉める。周りはビキニだらけ。そこにある閉じられた試着室の前に一人立つ男性。網野は周囲の目が不安で仕方がなかった。あまり周りを気にしないマイペースな性格だが、犯罪と疑われる可能性が出てくると話は変わってくる。すぐそばでビキニを選んでいるカップルの会話が自分を通報するかしないかについて離しているように聞こえてくる。


 網野は何も考えないように努めた。しかし、そうしようとすればするほど周りの音がはっきり聞こえてくるのが世界の真理である。


 カーテンの向こうからベルトのバックルが床に当たる音が聞こえてくる。頭の中に紺色のスキニーパンツを脱ぐ釣井の姿が浮かんできて、慌てて違うことを考えようとした。


 そうだ、ティナのことを考えようと網野は閃く。我ながら天才的なアイデアだ。研究者なら自分の研究対象についていくらでも考えることができる。網野はこの勝負に王手をかけた気分になった。


 今頃ティナは何をしているだろう。ちゃんと大波田にお昼ご飯をもらっただろうか。雑ではあるものの、きっちり自分の仕事をこなす大波田のことだ。あげ忘れということはないだろう。そういえば、大波田がティナの名前を呼んだらティナは反応しているのだろうか。いや、そもそも大波田はティナと呼ばずに識別番号を使うか。でも見慣れた以外の人間が名前を呼ぶことによって反応を示すかという実験はいずれしたいな。名前を呼ぶ人間と会う頻度と反応にどんな関係があるのか興味が湧いてきた。


 もう網野の頭の中はティナのことでいっぱいになっていた。釣井のことを忘れていることさえも忘れていた。


 そのため自分の名前が呼ばれていることにも全く気がついておらず、釣井に腕を引っ張られて初めて意識が現実に戻ってくる。


 白い肌の腕が網野の腕を引っ張っていた。


「あ、ごめん。考えごとして……た」


 よく見ると白い肌は肘を越えて二の腕まで続いている。さらにその先はカーテンで隠されており、隙間から釣井が顔を覗かせていた。


「あの、試着したのを見てもらおうと思ったんですけど、下着がはみ出ちゃって見せられないので水着コーナーの外で待ってもらって構わないですよ」

「ちょっとそんなこと言うために顔出さなくていいから、早く腕しまって! 心臓に悪い!」


 網野は釣井の腕を試着室内に押し込む。


「え、ちょっと! うぎゃ」


 変な声を出す頭も奥に押しやり、カーテンを外から隙間が無くなるまで閉めた。全く危ない女性だ。


 再びベンチ探しをしようと考えたが、せっかくなので網野も水着を見てみることにした。もちろんビキニではなく男性用のものだ。こちらもハイビスカスが描かれているものなど、派手な柄があるがビキニほど多くない。黒や紺の生地にスポーツメーカーのロゴだけ書かれているものが大半だった。


 並んでいる商品たちを見ていると、網野も少しだけ水着が欲しくなった。事務から許可が降りればティナを海に連れて行ってあげたいと彼は考えている。綺麗な海の中をティナと泳ぐことができたらどれだけ幸せか。網野ほどの人魚愛好家じゃなくとも、人魚研究者のほとんどが思い描く夢だ。


 網野自身も泳ぐのは得意なのだ。運動は苦手だが、水泳はできる。


 彼は幼い頃、海で溺れた経験がある。離岸流により陸から離れてしまい、当時まだ泳げなかった網野はそのまま溺れてしまったのだ。その後は運良く再び陸に流れ着き、大人たちに助けられた。網野は人魚に助けられたような記憶があったのだが、当然大人たちには信じてもらえず、網野本人も成長にするにつれ記憶が曖昧になっていた。どちらにせよ、その一件が網野の人魚に対する異常な好奇心を生み出したと同時に副産物として水泳を習いたいという欲求にも駆られた。その結果、水泳ができる異常人魚愛者・網野光来が出来上がったわけだ。


「あれ、網野先輩まだこんなところにいたんですか」


 先ほど試着していたであろう白いビキニを持った釣井が気付けば近くに来ていた。


「うん。せっかくだから僕も買おうかなと思って」

「お、いいですね。こんなのとかどうです?」


 網野も水着を買おうとしていることがわかるや否や、彼女はノリノリで水着を選び始める。もしも性別が逆でこの状況だったらと考えると、網野は鳥肌が立った。


 釣井が勧めてきたのは真っ赤な下地に絵の具をぶちまけたような、例えるならばエナジードリンクのパッケージにありそうな柄のものだった。


「選ぶならちゃんと選んでくれる? 絶対ふざけてるよね」

「えへへ。じゃあ真面目に選びます。あ、ほらこれとかいいじゃないですか!」

「いや、こっちを買う」


 釣井が至ってシンプルな紺色のものを手に取るのを横目に、網野はその隣にあった上着付きの無地の水着を選んだ。セイレーンオリジナルのもので目立たないほどの大きさのロゴがついている。


「先輩意地悪! 買うもの決めてたのに私に選ばせたでしょ!」

「そうだよ」


 レジへ足を運ぶ網野に、釣井は頬を膨らませながらついて行くのであった。

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