透き通った歌声が、柔らかに木々に響く。

歌詞が古過ぎて意味はわからないが、何故か恋歌のように聞こえる。

彼は歌声に惹かれるように森を歩く。

むせ返るような新緑の香りと若芽たちの中に、色鮮やかな薄紅の被衣かつぎが引っかかっている。

「……黒曜こくよう様、何でそんな所にぶら下がってるの?」

太い木の枝に引っかかって、風に揺れている被衣……否、被衣を被った女性の歌が止まる。

「待っておったのじゃ。中太郎らが帰って来て、この状況から救ってくれぬかとな」

被衣を押さえる帯が、うまい具合に木の枝に引っかかって取れないらしい。

そんな彼女に『中太郎』は大きな溜息を零す。

「黒曜様、俺はすぐ戻るから庵で大人しく待っててねって言ったよね?一人で外に出たら、こうやって落ちたり帰ってこれなくなったりするんだから」

「春は草萠ゆるかきいれ時。ひと時も惜しいのじゃ」

被衣を被っているので顔は見えないが、口調は言い訳じみている。


中太郎は呆れながら木に登って、引っかかっている女性を引っ張りあげる。

そして軽々と女性を抱き上げ、木から飛び降りる。

「はい。……ったく。時間を惜しんで振り子みたいになってたら、余計に時間がかかるでしょ」

地面に置かれた布の塊は、しょんぼりと籠を抱えている。

中太郎は苦笑する。

彼が『黒曜』と名付けた女性……いや、女性と呼ぶにはどこかにいとけなさを残す彼女は、優に五百年は生きていると豪語する、ものである。

しかし物の怪と言う割に、出来ることは殆どない。

空を飛べるわけでもなく、火や水を自在に操れるわけでもなく、怪異を起こしたりすることもできない。

ここ七年彼女と暮らしたが、彼女ははっきり言って物の怪と言うには及第点を満たしていない。


「せめて一人で行動したいなら被衣かつぎを外してって言ったよね?それ、視界が狭くなるから転けたりするんだよ」

「……うむ……」

大きな背負い籠に、項垂れた布の塊が入ってしまいそうだ。

随分と年上のはずなのに、怒られて小さくなっている塊から、中太郎は被衣を外す。

「心配してるんだよ?わかってる?」

『黒曜』と呼ぶきっかけになった、その一本一本が磨き抜かれた黒曜石で作られたかのような、硬質な輝きを持った髪が露わになる。

「外を一人でうろつくなら、コレは絶対に外して」

「あ!こら!!それは外してはならぬ!!」

黒曜は素早く自分の顔を押さえる。

そして大慌てでたもとに挟んであった目隠しを顔に巻く。


普通に歩くしかできない、身体能力も全く普通の人間。

足元が見えなかったり、周りの障害物を見落せば当然色々なものにつまずく。

しかし彼女は頑なに外にいる時、その視線を隠す。

誰かがいる時は目隠しをつけて外すことは無い。

「恐ろしい事が起こると言うておるではないか!」

そう言って怒るのは、およそ物の怪らしからぬ彼女が持っている最大の能力が、その目に隠されているからだ。

七年一緒にいて中太郎も、その目を見た事すら無い。

古参の侍従である左太郎、右太郎は彼女の目を見た事があるらしく『あれそこ磨き抜かれた黒曜に雲母を散らしたかのような煌めき。あれを見た事がないとは中太郎は気の毒になぁ』と自慢される始末だ。


「その恐ろしい事って崖を見落として落下した挙句、木に引っかかって動けなくなるより状況が悪くなるの?俺には黒曜様が、そんな目に合う方が問題だと思うんだけど」

中太郎が言うと、黒曜はプイッと顔を背けてみせる。

「ちぃと失敗しただけじゃ。普段ならこんな失敗はせぬ」

「黒曜様はその『ちぃと』が多くて心配してるの!」

「口煩いのぅ。まるで世に聞く姑じゃ」

「誰がそうさせてるの!!」

口煩い中太郎に唇を尖らせていた黒曜だったが、何かに気がついて籠の中を漁る。


怒る中太郎の顔に黒曜の柔らかな手が当たる。

その手は中太郎の顔の位置を確かめるように動き、唇を見つけると、もう片方の手がその唇に何かを押し込む。

思わず中太郎が噛むと、甘酸っぱい味と香りが口の中に広がる。

「………野苺」

「美味しいかえ?」

「………はい」

「もうそんなに怒ってたもうな。この時期には珍しく沢山生っておったから、ほれ、こんなにたんまりとったのじゃ。食べ放題じゃぞ」

黒曜は嬉しそうに籠を中太郎に見せる。

本来薬草でいっぱいになっているはずの籠の中は赤い実が敷き詰められている。

「…………〜〜〜〜」

中太郎は何か言おうとして、言えなくて、赤くなって項垂れる。


野苺は中太郎が好んで食べる。

黒曜は中太郎を喜ばせようと、夢中で野苺を摘んで、結果、崖から転落してしまったのだろう。

母代わりに育ててはもらったが、もうその立場は身長と一緒に逆転してしまったようなものだ。

それなのに黒曜は、とにかく中太郎を甘やかそうとする。

それは母心なのか。

「嬉しかろ?嬉しかろ?まだ熟れていないのもあったから、また今度たんまりとってきてやろうぞ。遠慮なく食べるのじゃぞ」

黒曜の手が中太郎の頭を探して、まるで小さい子にするように、自分より大きな中太郎を柔らかに撫でる。

そんな黒曜に中太郎の顔は歪んでしまう。

喜びたいのに喜べない。

嬉しいけど嬉しくない。

自分のために一生懸命集めてくれた野苺は嬉しい。

自分に注がれる惜しみない愛情も嬉しい。

でも中太郎が求める形とその愛は大きく異なってきたのだ。

もう中太郎は母の愛を求める年頃ではないのだ。


「……あまり嬉しそうではないのぅ……不味かったかえ?……早摘みしすぎたかのぅ……」

中太郎の頭を撫でていた黒曜は、眉尻を下げてションボリと籠を抱える。

「あ………違う!違う!美味しいよ!!」

中太郎は慌てて心に蓋をする。

その隠された目の能力の副産物なのか、黒曜は触れた相手の心を読む。

心を読むと言えば、凄い力のようだが、直に相手に触れないと見えない上に、相手が『見せたくない』と思うだけで見えなくなってしまうという、大変使い所のない能力だ。

ただ、気を抜いてしまうと気持ちが漏れてしまう。

「良い、良い。中太郎ももう大人になって来たのじゃ。美味なものは世に溢れておるからの。食べきらなんだら甘く煮てを作るとしよう。気にするではないぞえ」

心を閉ざした中太郎に、黒曜は少し寂しそうに、しかし鷹揚に微笑む。

野苺に対する不満を隠されたと思ったようだ。


「黒曜さ―――」

「御方様!すまねぇ!!」

違うと否定しようと口を開いた所で、小さな塊が、中太郎の横を通り過ぎる。

そして黒曜の肩に飛び乗る。

「美味いメシを食ったら、お天道様が気持ちよくなっちまって……!!」

小さな狩衣かりぎぬを着た犬は、そう言って黒曜の耳に掴まる。

「ふふふ、良い、良い。右太郎の眠る姿は可愛いでな。わざとそのままにしておいたのじゃ」

その犬を愛おしそうに黒曜は撫でる。

手で探るような動きがなくなったのは、黒曜に触れた右太郎が心を読ませ、その目の代わりになっているからだ。

右太郎はバツが悪そうながら、気持ち良さげに炎の尾を揺らす。

「中太郎、庵に戻って籠を替えてきてたも」

黒曜の愛情は皆に等しく注がれている。

昔は嬉しかったその事実が、今では寂しい。


昼は右太郎か中太郎。

夜は左太郎。

それぞれ黒曜の目の役割をする時間帯は、その目の見え方で決まっていたが、ここの所中太郎はその役割を果たせていない。

心を閉ざす者は黒曜の目になれない。

「…………………。まだ薬草探しをするの?そろそろ夕飯の支度もあるから帰った方が良いんじゃない?」

そう言うと、黒曜は胸を張る。

「大丈夫じゃ!昼に時間が空いておったから既に準備はできておるぞ。あとは帰って竃に火を入れるだけじゃ。夕には使いに行ってくれておる左太郎も帰るからの。今日はしっかり集めるぞよ!」

黒曜は早くも地面にしゃがみこんで、草達の中にある有用な薬草を探し始める。

右太郎は黒曜の目役を務める以外にも、匂いで薬草の在り処を探したり、大きくなって黒曜を運んだりも出来る。

妖は人より出来る事が多い。

人間の中太郎は、黒曜の為に出来る事が殆どない。


「何か最近、薬作りばかりしてない?家の前は草ばっかり干してあるし。黒曜様、今年に入ってから、本を読んだり花見をしたり、全然していないよ?」

去年の春までは花見をしながら、絵草紙を中太郎が読み聞かせたりして、のんびりと過ごしていた。

薬草取りもしていたが、それ程頻繁ではなかった。

黒曜が忙しく働き出したのは去年の『祭』が終わった頃からだ。

「今年は色々と物入りなのじゃ」

せっせと袂に草を入れながら黒曜は笑う。

「物入りって……いつも米とたまに書物を買うぐらいで……特に何も無いよね?」

「次の『祭』が最後じゃからの。盛大にやらねば」

「……祭のお供え物なんて殆ど山にあるじゃないか」

少し拗ね気味の中太郎に、黒曜は軽快な笑い声をあげて立ち上がる。

「なんじゃ、中太郎は花見がそんなにしたかったのか。すまんの。しかしほれ、見てみぃ。中太郎、そなたの着物はもうちんちくりんじゃ。ほんにタケノコのように大きくなる子じゃ、少し大き目の良い着物を新調せねばならん」

「………俺の?」

「うむ。妾らはずーっと同じ大きさじゃが、中太郎は素晴らしい若者に育っておる。下の世では『しゃつ』とか『ずぼん』が流行っておるのじゃろ。新しい着物に加えてそれもこさえてやろうと思っての」

中太郎は頬に熱が集まるのを感じる。

「………べ、別に、そんな……俺、新しい着物なんて……」

そんな中太郎の頬を、黒曜は優しく撫でる。

「何を言うか。ほれ、こんなに男前に育ったのじゃ。良い着物を着ておれば、もっと見栄えがするであろ。妾は中太郎がこんなに立派に育って鼻高々じゃ。もっと自慢させておくれ」

望む形ではないが、そこには深い愛情が溢れている。

可愛くて、可愛くて堪らないと言いたげな黒曜に、中太郎の頬は益々赤くなる。

「〜〜〜〜俺を見てるのは黒曜様ぐらいだろ!!」

黒曜はまた笑い声をあげる。

「何を言うか。下の世の寺子屋で、そなたは皆の注目を集めておると、右太郎が言っておったぞ。……着物を新調して行ったら皆がそなたに魅入られるじゃろ。もう妾は鼻が折れそうな勢いで伸びてしまうぞよ」

黒曜の肩でニヤニヤと右太郎が笑っている。

「御方様、中太郎の奴、恋文も何通か貰ってるぞ。家を確かめようとついて来る女子も後を絶たねぇ。巻くのに一苦労だ」

人里近くまで中太郎を送り迎えしている右太郎が、下品な笑い声をあげる。

「うむ。流石、中太郎。選び放題じゃ。よーく見て素晴らしい嫁を娶るのじゃぞ」

黒曜は嬉しそうに頷いている。


嫁は器量が良いのがいい、いや、愛想が良いのが良いと勝手に嫁談義を始める黒曜と右太郎。

「…………籠、代えてくる」

そんな2人の物の怪に、中太郎は肩を落として踵を返す。

その様子に黒曜は首を傾げる。

「中太郎、夕には左太郎が沢山金平糖を買ってきてくれるからの!甘〜いぞえ!」

彼女にとっては、自分より大きくなっても、中太郎は可愛い子供なのだ。

中太郎は振り返らずに力なく手を振る。

もう庇護の下で震える事しかできない子供ではない。

少なくとも物の怪落第の黒曜よりは、頼り甲斐のある男になっているつもりだ。

しかし有能で強力な妖である右太郎、左太郎と比べられると、生身の人は無力過ぎる。

右太郎と左太郎は、何故何も出来ない黒曜に仕えているのかわからない程、様々な能力を持ち、彼女を助けている。


どうやったら『子供』ではなくなれるのか。

悩む中太郎は知らない。

「本当に大きくなって……早いものじゃ。………子の成長は目覚しい。当然の事なのに、久しく人と触れ合わぬと忘れるものじゃな……」

寂しそうに微笑む黒曜を。

「………次で祭も最後。あの子に向かって吹く逆風さかかぜも完全に消える」

悲しげな彼女を、耳に掴まった右太郎が、気遣わしげに見上げていた。

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