乱痴気騒ぎのその後に

「俺…いやこの子がサウスエッジ通りに……?」


 コークスの煤に塗れた顔のまま、アリスは誰にも聞こえない声で小さく呟いた。


「ま、あたしには関係の無い事だけどね。でも、一つだけ言っておくわ。お嬢ちゃん」


 おもむろに立ち上がり、ドレスについた煤を払い落としていたアンゼリカがアリスを見下ろして、何やら深刻そうな表情で言った。


「これ以上知りすぎたら、危険よ。分不相応な事はしないほうが身のためね」


 意味深な言葉にアリスが口を開いた時、アンゼリカは既にふわりと船の外へ身を躍らせていた。


「おい!」

「じゃあね。可愛らしい探偵さん」


 彼女は停泊していた遊覧船に飛び移ったのか、既に乗客達に紛れてその姿はもう見えなかった。


「はぁ……」


 どっと疲れた。溜息と共にコークスの山の上に仰向けになる。空はさっきまで晴れ間が見えていたのに、黒々とした雲が渦巻いていて、今にも降り出しそうだ。

 考えなければならない事が山ほどあったが、今はくたくたで何も考えたくない。

 だが、そうもいかない事を思い出して、がばりと身体を起こす。


「あ、あいつ忘れてた」


 成り行き上仕方なくガラクタ街に置いてきてしまった、育ちのいい貴族のお坊ちゃんは無事だろうか。

 流石に置き去りにするのも気が引けたので、アリスはコークスの山から身を乗り出し、船首で舵を取っていた中年の男に声を掛けた。


「船長。この船、ガラクタ街まで行ってくれないかな?」

「嬢ちゃん、こいつぁ辻馬車じゃねえよ……」


 船長はぶっきらぼうにそう言った。


 アリスがやっとの事でガラクタ街に戻って来た頃には、辺りはもう薄暗くなっていて、ガス燈の灯りがぽつりぽつりと点き始めていた。

 あのバカ真面目そうなライアンの事だ、広場の片隅で所在無く突っ立っているかもしれない。身ぐるみが無事ならいいのだが。

 そんな事を思いながら、アリスは早足で広場へ向かっていた。


 街灯の下に、一際目立つ背の高い男の後ろ姿が見えて、声を掛けた。


「いやー、すまんすまん!遅くなっちまった……」


 アリスがへらりと悪びれずに言った言葉は、子供たちの歓声にかき消された。


「えい!やあ!」

「そう、もっと肘を上げて。いいぞ! ほら!キミは腰が引けているぞ!」


 ライアンと浮浪児数人が棒切れを持ってフェンシングの真似事をしているようだ。その周りには十数人の子供達が目をきらきらとさせながら見守っている。

 その光景を何となく見つめていると、こちらに気づいたライアンがパッと顔を輝かせた。


「ミス・ガーフィー……じゃない、アーサー! おかえりなさい!」

「何やってんだお前」

「見ての通り剣術を教えていたのですよ。お礼にね」

「お礼?」


 事情が呑み込めずに首を傾げていると、棒切れを振っていた少年が歯抜けの笑みを浮かべながらアリスを見た。


「この兄ちゃん、アルフの店でケツの毛までぼったくられそうだったから、見てらんなくてね。ガラクタみたいな壺に五十ポンド出そうとしてたんだぜ」

「あのお婆さんからレディ・ミリアムの壺の行き先までは教えて貰ったのですが、アルフという男から買い取るのが難しくて途方に暮れていたのをこの子達に助けてもらったんです」


 あ、そうなの……と脱力しそうになった時、少年の一人が声を上げた。


「でもアルフの奴、用心棒を出してきやがってさ、そしたらこの兄ちゃんが棒切れで用心棒をあっという間に叩きのめしちまったのさ」


 まだ興奮が冷めやらないのか、少年が熱っぽく言うのを見て、ライアンが照れくさそうに笑った。


「だからアーサー。無事に壺は取り戻しました。ララちゃんも」


 二人の少女がそこら辺の骨董屋で二束三文で売っていそうな黄土色の素朴な壺と真っ白な愛玩犬を抱えて持ってきた。

 アリスは参ったな、と頭を掻きながらもライアンを見上げた。


「まあ、ブサイクなやり方だったが、結果的にはよくやったじゃねぇか」


 ライアンの肩を拳で軽く叩くと、ライアンは飼い主に褒められた大型犬のように目を輝かせた。


「本当ですか!? では、私も探偵の仲間入りですね!」

「おい、誰が探偵だ。お前はせいぜい小間使いだよ」


 子供達には若干多すぎるくらいの駄賃を渡して、二人はララちゃんと盗まれた壺を手にして帰路についた。


「あの、アーサー」


 街灯の点いた路地を歩きながら、真っ白なペキニーズを抱えたライアンが壺を抱えたアリスを遠慮がちに見た。


「なんだよ……そいつ持ってこっち来んなよ」


 ライアンから不自然に離れて歩くアリスは、実のところ犬が苦手である。


「全身真っ黒ですよ。帰る前に着替えた方が」


 コークスの山に突っ込んだのだ。炭鉱にでも入ったのかと言う位に、アリスの身体は煤だらけだった。


「やっべえ……これはマーサさんにぶっ殺されるな」


 げんなりと肩を落とす。ライアンの腕の中でララちゃんが「ワン!」と吠えた。


「うお! いきなり鳴くんじゃねえ! クソ犬!」


 あまりにも必死なアリスに、ライアンは声を上げて笑った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る