まだらの紐は奇妙に絡む
四、五人だと思っていた男達は、いつの間にかわらわらと集まっていた。
人数にして十人ほどだろうか。
アリスとアンゼリカは互いに背を向け、ギラギラと殺意に溢れた眼でこちらに近づいて来る男達を見つめる。
いつ爆発するか分からないブービートラップのワイヤーみたいに、ぴんと張りつめた空気が辺りに漂っていた。
「なめんなこのクソガキ!」
その空気を打ち破るのは、先程飛び蹴りを喰らわせた男だった。
男はいつの間にか起き上がり、怒声を上げながらアリスに掴みかかって来た。
「おっと」
アリスはその腕を掴むと、くるりとダンスを踊るかのように回った。
そのまま軸足を払い、バランスを崩した男の顔面を思いっきり蹴り上げた。
男が悲鳴を上げてテムズ川に落ちる。派手な水飛沫が上がった。
男達が呆気にとられたようにそれを見つめる。男装の令嬢とはいえ、姿かたちは年端もいかない少年が、大の男を倒したのだ。
バーティツという格闘術と護身術を組み合わせたマーシャルアーツがある。昨今はあまり流行ってはいないのだが、英国内で開発されたものだ。
日本で数年を過ごした英国人が自己防衛の為に創り出したと言われているが、その真偽は定かではない。
(師匠に習っておいて正解だったな)
息を整えながら狼狽える男達を見て、心の中で独りごちた。
地下ボクシング時代にアーサー・バートレットはとある人物に師事していた。大変な変わり者の東洋人で、中国武術から柔術、剣技に精通しており、齢六十を超えていたが一度も勝つことが出来なかった。
己の拳には絶対の自信を持っていたし、ボクシング以外の技術を身に付けるのは些か消極的だったが、師の『膂力は衰えるものだが、技は老いても衰えぬ』と言う言葉に、アーサーはボクシング以外にも様々な武術を学んでいた。殆どが師にボコボコにされているだけであったが。
まさかこの頼りない身体になってからそれを感謝するとは、アリスは思いもしなかった。
「クソが! やっちまえ!」
ボーラーハットのネズミ男が叫ぶ。男達が一斉に二人に襲い掛かった。
先頭の、拳を振りかぶって来た男を軽くいなす。そのままアンゼリカの方へ背中を蹴り付けた。
「ほら! お前もちったあ働け!」
「ああん、もう! こっちに来ないで!」
アンゼリカもそう言いながらも手にしていた日傘の先端部分を両手で持ち、たたらを踏んだ男の後頭部をフルスイングでぶん殴った。
鮮やかな一撃に思わず口笛を吹く。
「いいね、良い一撃だ!」
そう言いながら目の前の男の顎に強烈な右フックを喰らわせた。
アンゼリカはアンゼリカで、まるで猫のように立ち回り、男共を翻弄している。
「たかが女とガキに何手こずってやがる!」
ネズミ男が甲高い声で怒鳴った。するとその後ろから大きな影がぬっと現れて、二人の前に立ちはだかる。
「おお! ミハイル!」
ミハイルと呼ばれた大男は、アリスが男だった頃よりも頭二つは大きいかもしれない。ネズミ男と同じボーラーハットを被っているが、まるで人形の帽子を頭に乗せているかのようだ。
それが城壁のようにアリスの前に立ち塞がる。
「何を食ったらそんな図体になるんだ?」
ピッチフォークみたいな手がアリスに伸びる。それをひょいと避けると、鳩尾あたりに思い切り拳を叩きつけた。
が、分厚い壁を殴ったような感触で、びくともしない。見上げれば、ミハイルが低く唸るように笑った。
「レンガかなんか食ったのかよデカブツ!」
悪態を吐くのと同時に、ミハイルは両腕を広げて襲い掛かって来た。
アリスは身を低くしてその腕をかいくぐる。
図体も力もデカく強いが、速さはそれ程でもないのが救いだった。
だが、今のままでは到底敵わないのは目に見えている。
迫る大男を尻目に、アリスは身を翻して、脱兎の勢いで走りだした。
手入れされていなくて久しいだろうガタガタの桟橋を走り抜ける。後ろから重たい足音が自分を追っているのが聞こえた。
「おい! ケツが重くて走れねえのか?」
走りながら後ろを向いて中指を立てる。すると激昂した大男が怒りに顔を歪ませて、アリスに猛然と追い縋る。その背に大きな手が伸ばされようとした時、アリスの姿がいきなり消えた。
否、消えたのではない。
細い両腕は川の浅瀬に突き立っている乱杭の一本をしっかりと掴んでいた。
身体が杭を軸にしてぐるんと回る。
ミハイルが何が起こったのか理解する前に、アリスは背後を取っていた。
「うらぁ!!」
走る勢いを殺さずにそのまま全体重と遠心力を乗せた足がしっかりとミハイルの背を捉え、濃緑色の川の中へ突き落とした。
大きな水柱が立ち、他の男達が驚いたようにそれを見つめる。
「アンゼリカ!」
アリスが呼ぶと、彼女はハッとした後、合点したと頷いた。
二人が走り出す。男達が気づいた時にはもう遅かった。
二つの影が桟橋から跳ぶ。
アリス達は下流へ向かうコークスの運搬船に飛び移ったのだ。
貨物部によじ登ったアリスが、もたついているアンゼリカに手を貸そうと右手を伸ばした。
だが、アリスを見上げたアンゼリカが意外そうな顔をした。
「坊やじゃなくてお嬢ちゃんだったのね」
その言葉に、アリスは今更ながら帽子を失くしてしまった事に気がついた。
アンゼリカを引っ張り上げると、バツ悪そうに彼女から顔を逸らした。
「あら? 貴女、前に会ったわね? あの時はちゃんとしたドレスだったけど」
「何だって?」
アリスは驚いて彼女を見た。アンゼリカは煤で汚れたドレスを叩きながら続ける。
「ひと月前くらいかしら。サウスエッジ通りのジミーのバーに居たわよね? 人探しで酔っ払いに絡まれてたのをあたしが助けたもの。でもこんなに強いなら一人でも大丈夫みたいねぇ」
雷に打たれたように、アリスは凍りついた。
そのバーは、人喰い狼事件で重要参考人が通っていた場所。そして、アーサーはアリスになる前に捜査で訪れていた。
(本物のアリスもあのバーに行っていたのか……?)
アリスは呆然としながら、ぼう、という遊覧船の汽笛を遠くに聞いていた。
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