今日の縁

「それでね、尚兄様」

 ことし十五になる妲己は、その歳の娘らしくよく喋る。このしんという埃臭いむらであったことや仕入れてきた噂などを、問われもせぬのにしきりと語った。

 呂尚は節目ごとに、んん、とか、ああ、とか喉を鳴らすばかりであるが、彼にとっては貴重な情報源であり、思考の種になる。


 頼りない相槌を打つ以外は、粗末な食事を粛々と口に運んでいる。むろん、彼らがいるのは肉小屋ではなく、おなじ敷地の粗末な居宅である。

 長く、二人で暮らしている。暮れたばかりの橙が差し込んでいるほかは、なにもない。


 呂尚が釣った小魚は五匹。釣りは上手くないらしい。三匹を呂尚の皿に、二匹を自分の皿にと妲己は盛り付けたが、呂尚はじぶんの最後の一匹を、ひょいとつまんで妲己の皿に入れた。


「いつも、わたしばっかり」

「いいんだ」

「でも、尚兄様は男の人です。お仕事で、力も使います。わたしなんかが食べても、仕方がないのに」

 この時代のひとびとは、のちに孔子の思想を体系化した儒教やそれにともなう倫理感覚が備わっておらず、そのもとになった習俗や倫理にゆるやかに支配されているに過ぎなかった——古代の人とされる孔子すら、その生誕まであと六百年ほども待たねばならないだろう——こうして庶民の場にあってはが向かい合って食事の場を同じくすることは別に変ではなく、家長の役割は糧を家人に平等に分配すること、という始原的な彼らの倫理観の方が強かったから、平等に割り切れぬ魚を多く妲己にくれてやるという行為は理解できる。


「お前に食わせるため、おれは釣ってきたのだ。おれは、腹が鳴らぬ程度にものを口にしていれば、べつにそれでいい」

 あまり、多くを食わない。呂尚は、痩せている。人間の脳というのはその活動のため思うよりも多くのエネルギーを必要とし、成人であれば脳が一日活動するだけで四百キロカロリーほども必要となる——筆者が想像している彼の体型であれば、おそらく一時間ほど休まず強めのランニングをし続けられるくらいの莫大な熱量である——わけだから、彼ほどさかんに脳を回転させ、夜は力のいる肉の切り分けをして、朝になれば川まで歩いて出掛けてゆく生活にはもっと多くの食事が必要なはずである。

 それは、現代科学や医学を知らぬ呂尚でも、その身体が知っている。だが、呂尚は、みずからの意思で、今、皿の上の小魚を妲己にくれてやった。


 ——それができるのが、人だ。

 と、高尚なことを考えたかどうかは分からない。我が知る人により多くのものを与えてやりたいと無自覚に思うのがなぜなのか、はっきりと説明する必要もない。


 ただ、彼はそういう行いというものはにんげんとして行う動作のうち、正直なものであり、実際、妲己は申し訳なさそうにしながらも結局は杏のような頬にまたうっすらと色を浮かべて笑い、塩を振って在所の者から分け与えてもらった菜——呂尚が瓢虫のことを教えてやった者だろうか——の茎に乗せて蒸し焼きのようにして焼いただけのものを美味そうに口にしたのだから、善い行いであるわけである。


 空腹の解決というのは、生き物である以上抗うことのきわめて難しい安息である。

 それを得れば、今度は眠りについての欲求がやって来る。

 呂尚があくびをしたのを見て妲己がふふ、と喉を鳴らし、木をくり抜いて削った食器を片付けはじめた。裏の流れで洗うのだ。夜の間、いかに呂尚が血をそこに流したとしても、きまって朝にはそんな事実ははじめから存在しなかったかのように清らかになっている。当たり前のことであるが、呂尚にとってはそれも疑問のひとつであるかもしれない。


 眠る。部屋割りなどあるはずもない粗末な小屋だから、できるだけ呂尚の眠りの妨げにならぬよう、妲己が隅の方でなどの日常の作業をしている。


 妲己は、やはり屠肉小屋の娘だということで、産まれてからしばらくは在所の者からひどく避けられるような毎日であった。

 彼女の父親は、放っておけ、と取り合わなかったが、母もほかのきょうだいもなく、在所の子供からは屍臭いなどと言って石を投げられ、孤独であると感じていた。


 そんな彼女にはじめてできた理解者が、呂尚であった。妲己があとから聞けば、呂尚がこの肉屋に起居するようになったのは、宮から逃げてきたためここならば人の目に触れにくいだろうと思ったからだと言う。

 しかし、呂尚にとってそれはこの施設に対しての先入観であり、妲己個人に対しては物腰のやわらかい、紳士的な接し方であった。


 そもそも、この肉屋の存在を知ったきっかけになったのが、妲己であった。

 呂尚がこの申の街に流れ着いてすぐのとき、在所の子供の群れにまだ幼い娘が責められている場に遭遇した。幼いとはいえ肌は白く髪は艶やかで、すぐに大層な美女になるものと思える風貌であったが、そのやわらかな曲線を持つ横顔は暗く沈んでいた。


「おい、子供」

 と、呂尚は呼びかけた。


「なんだ、おめえ。見ねえ顔だな」

「なにゆえ、その娘を責める」

 一人が、笑って答えた。

「こいつ、よそものだな。妲己は屍を弄ぶ不届き娘だ。こいつの家は肉屋だからな。こいつの体のどこを剥いても屍の臭いがすらあ」

 また別の一人が声を合わせた。

「そうだ、そうだ。このよそものに、おまえの屍の臭いをくらわせてやれ。それ、服を脱げ」

 脱げ、脱げ、と声が声を呼び、たちまちのうちに大合唱になった。妲己は、顔を真っ赤にして俯いている。


「子供」

 怒りはおろか、何の色もない声である。ただ、残酷な合唱を繰り返す子供らに、呂尚は語りかけた。

「不届きは、お前たちではないのか。屍を弄ぶのが不届きであるならば、婦人を辱めることについてはどうやって答えるのだ」

 子供たちが、言葉に詰まった。手近な一人と目を合わせ、呂尚はさらに継ぐ。

「教えてくれないか。お前が、どう考え、己は正しくこの娘が誤っているとして忌むのか」

「そ、それは——」

「この世には、分からないことばかりだなあ、子供」

「よ、よそもののくせに」

「どこの者かは関係ない。おれは、お前と話をし、お前の考えを教えてほしいと言っている」

 子供は、ついに黙った。


「娘」

 続けて、呂尚は背後の妲己に声をかけた。

「お前は、この子らを恨んでいるか。いわれなく己をそしるものとして、憎く思うか」

 妲己はしばらく考えて、桜桃のような唇を開いた。

「ううん。憎まれているのは、あたし。あたしが憎いのは、この子たちではなくて、この子たちがあたしに言うひどいことに、いわれがないっていうこと」

「そうか」

 と呂尚がいきなり大きな音を立てて手を合わせたから、萎縮しかかっている子供たちはさらに身を縮めた。

「たしかに、そうだなあ。この子らを憎く思っても、仕方がないものなあ。憎むべきは理不尽であり、それをする人そのものではない、か。なるほど、ひとつ分かったようだ」


 だが、と呂尚は子供らに鋭い視線を向ける。

「聞いたか。この娘は、お前たちを憎いと思うかと問われ、憎まれているのはあたし、と答えた。それを聞いてもなお、お前たちはこの娘を責めることができるのか。人とは、それほどまでに心ないものなのか」

「いや……俺たちはべつに——」

「では、わけの分からぬことはせぬことだ。娘。お前も、許してやれるな」

「許すもなにも、あたしが許してもらえるなら」

「だ、そうだ。どうだろうか?」

 子供は少し俯き、顔を上げ、妲己を見た。

「わかった。これきりにする」

「ほんとう?」

「今まで、間違っていた。母ちゃんが、あの肉屋の娘は穢れているから、って言ってたんだ。だけど、たしかに、この人の言うとおりだ」

「死んだ獣が臭いとしても、この娘がそうだとしてはならない。ものの理とは、それほど易いとは思えない」

 呂尚は、しつこい。この時点でそうなのだから、彼のこういうところは、もはやもって産まれた性格なのだろう。さらに、彼は多弁になる。その言葉や視線の先にはもはや子供はなく、自らに語るようであった。


「そうならば、では、王はどうか。王であるとしても、この世の理そのものであるとはならないのではないか。そうであるならば——」

「なあ、旅の人。もう、行っていいかい」

 そこで呂尚は、また子供の存在を思い出したように眼を現世に戻した。

「ああ。仲良くな」


 いや、待て。踵を返した子供らを、また呼び止めた。

「お前、母が誤った道理を説いたと言ったな。ほかの子も、そうか」

 みな、それぞれ頓首した。

 それを受け、呂尚は、子供らの家一軒一軒を回り、それぞれの父母に対して子の行いの誤りを説き、なにか言い返してこようものなら舌を矛にしてたちどころに論破した。一軒済むごとに、彼の理屈は明瞭になっていった。


 そうして家々を回り終えた頃には、もうすっかり世は茜であった。

「ずっと、着いてきていたな」

「あたしのことだもの。一人、帰るわけにはいかないわ」

「妲己、と呼ばれていたな。肉屋なのか」

「そう」

「なるほど。では、厚かましいかもしれぬが、今日のことを何かの縁と思い、おれを助けてくれぬか」

「いいよ。どうすればいいの?」

 こうして、呂尚は申の肉屋に居付くようになった。


 妲己を責める者はいなくなったし、呂尚は肉屋に変わった奴が居候をしているとして少し評判になった。どうやら知恵者であるらしい、というところから、どこから漏れたか——おそらく妲己が在所の者にうっかり口を滑らしたのであろうが——宮仕えをしていたらしい、となり、果てはあの若さであるが王の帷幕にあってたすけていたらしい、などと吹聴する者まであらわれた。


 季節がひとつ移ろうまでの間くらいは、彼に教えを乞いたいとして様々な人が訪ねてきたが、彼自身、ただとんでもないものを見て宮仕えから遁走しただけの男であるから、人から問われるたびそのことを己に問い、考えた。そういう素振りがに映ったのか、人々の間での人気は収束し、やはり血肉を扱うということで、一目置かれてしばしば知恵を求める者がやって来つつも、やや気味悪がられるようになったということで物語のはじめに戻る。

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