旧校舎の階段で

ミドリ

旧校舎の階段で

 旧校舎と新校舎を繋ぐ渡り廊下の旧校舎側には、鍵が掛けられ上がることが出来ない屋上へと続く階段があった。わずか五段しかないその階段にしゃがみ込めば、折り返したそこは新校舎からも校庭からも死角になる。


 はあはあと苦しい胸を押さえながら、私はその死角で必死で息を整えていた。苦しくて悲しくて恥ずかしくて、今すぐ家に帰って布団をかぶって泣きたかった。


 原因は、全てこの極度のあがり症にある。人前で発言するのが苦手で、慣れ親しんだ相手なら普通の声の大きさで喋ることも出来るのに、授業で指されるともう駄目だ。我ながら蚊の鳴くような声との自覚はあるが、でもどうやったって出ない。中学校に上がって、クラスメイトの面子メンツが変わってしまってからは、その度合いが更にひどくなった。


 周りを見なければ、まだ何とか出来た。だけど、斜め左前の男子の田宮たみやまことが、毎回わざわざ振り返って私をじっと見るのだ。馬鹿にする様な呆れた様なその視線は、彼の見た目の明るさも相まって、私を更に追い詰めた。


 田宮真はサッカー部に所属しており、どこかの国のサッカー選手をリスペクトしているとかで、その髪型を真似た日に焼けた少し茶色い髪と綺麗に刈上げた後頭部がこれまた日に焼けた健康的な肌に合っている男子だ。目はぱっちりと大きく、小学校の時は同じクラスになったことはなかったが、他のクラスにも格好いいと騒ぐファンがいた、明るい雰囲気の男子。


 日陰で育ったもやしの様な白く細い、髪だけは異様に黒い私とは別世界の人間だ。


 言いたいことは分かってる。聞こえないからもっと大きな声で喋ればいいだろ、きっとこれだ。だって、これまで色んな人が私にそう言っては馬鹿にしたから。


 どうしたら治るんだろう。そう思って、家で頑張って練習もした。誰の視線もなければ、それなりに声は出せた。だけど、いざ大勢の前で発言しようとすると、頭が真っ白になるのだ。無理、私には無理――。


 クラスメイトの嘲笑と、先生の呆れ顔。沢井春香、もういいと言われ着席した後は、俯いて震える手で教科書を支えるのが精一杯だった。授業の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、私は逃げた。田宮真の視線が追ってきている気がしたが、それを振り払う様に走った。


 今は昼休みだ。新校舎からはざわつく声が聞こえてきたが、もう誰もいない旧校舎側から聞くその音はやけに現実離れしていて、ああ、私にはこのくらいの距離がお似合いなのだと悟る。


 前から、ここに死角があることは知っていた。旧校舎には幽霊が出るなんていう噂もあるから、誰も近付かないことも。


 ぐう、とお腹が鳴ったが、今更お弁当を取りにあの場所に戻りたいとは思えなかった。膝を抱え、顔を伏せて縮こまる。


「……死にたい」


 弱音を口に出すと、少しだけ焦りが収まった。すると。


「死んでもつまらないし暇だと思うよ」

「え?」


 誰もいないと思っていた階段の上の壁の影から、ブレザー姿の男子生徒が私に声を掛けてきたのだった。



「――なるほどね、あがっちゃうのかあ。それは困ったね」


 三年生の長谷川と名乗った男子生徒は、これまで会ったどの男子よりも話しやすかった。多分、見た目が私と同じく細いからかもしれない。色白で、賢そうな銀縁の眼鏡をかけている。顔の作りは整っていて、儚げな雰囲気には覇気がなく、それでいて優しそうだった。


 どうしたのと聞かれ、初対面の人間なんて本当だったら緊張して何も言えなくなってしまうのに、次々と言葉が溢れ出してきた。自分でも驚きだ。どうしちゃったんだろう。どうしてこの人の前ではこんなに普通に喋ることが出来るんだろう。


 もしかしたら、先輩の眼差しが終始優しいもので、合間に打つ相槌すらとても優しいものだったからかもしれない。努力を強要されないのは、私には居心地がよかったから。


「そうかあ。僕もさ、そういう時期があったよ。すごくよく分かる。うんうん」


 そう言って隣に座って慰められたら、物凄くほっとしてしまった。更に、自分の失敗談をあははと笑いながら話してくれて、ああ、これは元気づけようとしてくれているんだなとは思ったものの、こんなしっかりしていそうな先輩ですらもそういうことがあったのかと思うと、自分がくよくよしているのが段々恥ずかしくなってくるから不思議だ。


「――でさ、結局言い出せなくて、チャイムと共にトイレに駆け込んでさ。残念ながらギリギリセーフとはいかなくて、自分でも信じられないほどの速さでノーパンで保健室に駆け込んだよね」

「あはは、先輩ってば」


 さっきまでは死にたいと言っていた私の口から、笑いがこぼれた。そのタイミングで、昼休みの終わりを告げるチャイムが学校中に鳴り響く。途端、心が凍りついた。


 先輩が、微笑みながら私の頭をぽんと撫でる。


「……辛くなったら、いつでもおいで」

「え? でも、ここって先輩の特等席なんじゃ」

「ここは誰の席でもないよ」


 よく考えたら、先輩は何故ここにいるんだろうか。もしかして、私と同じ様にクラスから逃げてきたのか。私の探る様な視線にも、先輩は笑みで返した。その笑顔に励まされ、ぽろりと言葉が飛び出す。


「……お弁当持ってまた来てもいいですか?」


 この人に、また話を聞いてもらいたい。この人の話を聞いて、さっきみたいに笑いたい。こんなこと、これまで誰にも要求しようとも出来るとも思ってなかった。だけど、何故か先輩には自然に出来た。


「――うん。僕がいる限りは、いいよ」

「ありがとう……ございます!」


 それはどういった意味かはよく分からなかったが、学校の中に逃げ場所を得られた私は、ここに来た時よりも大分晴れやかな気持ちで教室に戻ることが出来たのだった。



 それからというもの、昼休みの時間になると、私はチャイムと共にお弁当を引っ掴んでは先輩が待つ階段の影へと走って行った。私と同様教室以外の場所で食べる生徒もいるにはいたから、きっと悪目立ちはしていない筈だ。


 あの人と会える、そう思ったら、午前中の授業で嫌なことがあっても、嘲笑に傷つくことがあっても、辛うじて耐え忍ぶことが出来た。


 相変わらず田宮真は私を観察する様に見ていて正直嫌な気分だったが、目を合わせて私を見ないでと言ったところで、陽の当たる場所の住人である彼にジメジメとした場所の住人の私が何を言っても相手にされず、自意識過剰だと言われるのがオチだ。


 だから、田宮真の視線には気付かないふりをし続けた。分かってる、こういうウジウジしたのを見ていると腹が立つのだろう。自分だって分かっている。


 だけど、そんな私だって、先輩の前では素の自分でいられるのだ。最近は顔を見るだけで嬉しくて、昼休みが待ち遠しかった。


「長谷川先輩っ」

「春香ちゃん」


 気が付けば、先輩は私のことを下の名前で呼んでくれる様になった。それが、少々こそばゆいけど嬉しい。笑顔で迎え入れる先輩は、今日も何も食べていなかったけど。


「先輩、お腹空かないんですか?」

「耐えきれなくて早弁しちゃってるんだよ」

「やだ、先輩ってば」


 こうして笑いあえるのは、昼休みの間だけ。昼休みの終わりが来るのが、毎回嫌だった。


「先輩とここで会うようになってから、学校に来るのが楽しみになりました」


 これは本当にそうだったから素直に伝えると、先輩が一瞬驚いた顔になった後、柔らかい笑みを浮かべる。


「……手放したくなくなっちゃうことを言われると、いつまでもここから離れられないよ」

「え、先輩、どういう……」


 もしや、先輩はクラスに居場所がちゃんとあるのに、私がくよくよしているが為に毎日こうして私に時間を費やしてくれていたのだろうか。


「あの……ごめんなさい……」

「ああいや! そういうつもりじゃないんだ!」


 先輩が、慌てた様子で私の頭を撫でる。この人の、こうして子供扱いしてくるのが堪らなく幸せだった。


「ただ、夏休みに旧校舎の取り壊しをするからさ、ここで会えるのもあとちょっとなんだよね」

「え……」


 クラスメイトとまともな会話も出来ない私は、そういった話題には疎い。もしかしたら親宛のプリントに記載があったのかもしれないが、見ていなかった。


「……そんな顔、しないでよ」


 先輩が、困っている。困らせたい訳じゃないのに、笑って誤魔化したいのに。


 この人の前では、誤魔化すことも忘れていた。


「来週には、工事の人が来て封鎖されちゃうみたいなんだ」


 来週って、今週はもう明日しかないじゃないか。私が愕然として言葉を失っていると、先輩はまた私の頭を撫でて笑ってくれた。


「明日、ここでぱあーっと打ち上げしようか。放課後に」

「……はい!」


 先輩は、ここがなくなった後に別の場所で会おうとは言ってくれなかった。そして、私にもそれを尋ねる勇気はない。二人のこの関係は、この場所だから成り立った特別なものなのかもしれない。


「……待ってるね」

「はい」


 その日は、微笑み合って別れた。



 次の日は、朝から雨だった。雨の日は、あそこでは待ち合わせないことになっている。だけど、今日は最終日だ。先輩が三年何組か聞いていなかったけど、先輩を探して放課後だけは雨でも会いたいと伝えようか。ソワソワと考えながら、一人机でさっとお弁当を食べた。味気ないことこの上なかったが、仕方ない。


 私以外のクラスメイトは、もうとっくにグループが出来上がって楽しそうに机を寄せて食べている。苦しかった。


 ――なんとなく、三年生の教室の近くを彷徨いてみようか。


 先輩の顔をちょっとでも見れたら、それでいい。これまで、そんな勇気のいる行動を取ろうなど考えたこともなかったが、先輩と会える最後の機会かと思うと居ても立っても居られず、教室を後にする。


「――沢井!」


 いきなり、背後から呼び止められた。男子の声だ。思わずビクッとして振り返ると、教室から出てきたのは田宮真だった。何の用だろうか。


「……いつもどこでお昼食べてんの?」

「あ、きゅ、旧校舎の所、だけど」

「一人で食べてんの?」


 私は今、何故呼び止められているのだろう。だけど、他の人が注目していないからか、いつもよりは自然に答えを返すことが出来ていた。もしかしたら、先輩との会話のお陰かもしれない。


「さ、三年の先輩と……」


 私がそう答えると、田宮真の眉毛がピクリと動いた。なんだろう、怖い。


「……それって男?」

「そ、そうだけど……」


 でも先輩は怖くない。田宮真みたいに、真っ直ぐ刺す様に私を見たりしない。


「なんて奴?」


 どうしてそんなことを聞くんだろう。


「は、長谷川先輩だよ。……じゃあ!」

「あ! おい!」


 訳が分からない。一体何の用があって、何を知りたくて声を掛けたのか。私は田宮真に背を向けると、三年の教室がある三階まで走って行った。


 三年生は、さすがに皆大きい。大人と変わらない背丈の人もいて、一気に恐怖で身が竦む。すると、女子トイレから出てきた近所の顔見知りの女子生徒が、私に声を掛けてきた。


「春香ちゃん、どうしたの?」

「あ、静香ちゃん……」


 そうだ、静香ちゃんなら知っているだろうと思い、尋ねる。


「長谷川先輩って何組なのかなあ……?」

「ハセガワ? ハセガワハセガワ……いたっけそんな人?」

「あ、ご、ごめん! 大丈夫!」


 普段からあの場所にいる人だ。もしかしたら影が薄いのかもしれない。――あんなに穏やかで素敵な人なのに。静香ちゃんに手を振ると、私はぱあっと各教室を覗いたが、先輩の姿は見えなかった。



 放課後には、雨は小雨に変わった。これなら、打ち上げも出来そうだ。時折灰色の雲の合間から太陽が顔を覗かせているので、きっと大丈夫。掃除の時間を無言で乗り切り、鞄を引っ掴んで待ち合わせの場所へと急いだ。


「沢井!」

「ひゃっ」


 新校舎側の渡り廊下入口で、いきなり手首を掴まれる。驚いて思わず大きな声が出た。慌てて手首を掴んだ人物を確認すると、またもや田宮真だ。怒った様な顔をして、私を真っ直ぐ見ている。どうしてこの人は、私を見る時いつも怒った様な顔をしているんだろう。私はこの人に何もしていないのに。存在しているだけで、そんなに腹立たしいのだろうか。


「な、なに……」

「長谷川なんて三年、いなかった」

「へ?」


 訳が分からず間抜けな返答をすると、田宮真が真剣な顔で続けた。


「だけど、昔旧校舎の屋上から飛び降りた人が長谷川って人だって」


 何の冗談だろう。あの人はちゃんとあそこにいた。笑って私の頭を撫でてくれた、実在する人間なのに。


「は、離して」


 思ったよりも強い力で手を振りほどいた私は、そのまま小雨の渡り廊下を走る。何、何なの。どうしてこんな意地悪を言うの。


 先輩に会いたかった。会って、大丈夫だよって笑って欲しかった。


 旧校舎側に辿り着くと、屋上への階段を駆け上る。


「先ぱ――」

「……雨だったのに、来ちゃったの?」


 悲しそうな笑顔で私を見下ろす先輩の身体は、雨がすり抜けて半透明になっていた。


「はは、バレちゃった」

「先輩……?」

「雨の日はね、どうしても誤魔化せないんだ。……黙ってて、ごめんね」


 透けた先輩が、ぽつりと呟く。


「それにどっちにしろもうタイムリミットは近かった。丁度よかったのかもね」

「やだ……やだ、やだ、先輩、私、だって先輩のこと……!」

「駄目だよ、春香ちゃん」


 先輩が、口に指を当てる。雨に混じり、涙が滲んできた。やだ、嘘だ、先輩、先輩。


「僕に未練を残さないで」


 その言葉に、好きになっていたのは自分だけじゃなかったのではと気付く。先輩に向かって手を伸ばし――。


「――沢井!」


 階段を上がろうとした私を後ろに引っ張ったのは、またもや田宮真だった。


「は、離して!」

「嫌だ! 駄目だよ!」

「やだ! 先輩!」


 すると、もみ合う私達を見下ろしながら、先輩がふわりと笑う。


「春香ちゃん、ちゃんと声が出るじゃないか」

「え? ――あ、本当だ……!」


 無我夢中で藻掻いていたら、相手は田宮真だというのにこんなにも大きな声が出ていたのだ。その田宮真は、私をぐいぐいと下に引きずり降ろしていく。


「沢井! あれは幽霊だ!」

「でも、私は……!」

「春香ちゃん、君を心配してくれる人、ちゃんといるじゃないか」


 先輩が、どんどん雨に溶かされていく。やだ、いっちゃやだ、だって私は――。


「この人はっ私をいつも睨んで……っ」

「睨んでない! いっいいなって、みっ見てただけだし!」

「え?」


 田宮真を振り返ると、真っ赤な顔をして私を真っ直ぐに見つめる目があった。いつもと一緒の、意思の強そうな目だ。


「ねえ君、春香ちゃんを任せていい?」


 先輩が、階段を一歩踏み出す。その足は、宙を踏んだ。


 田宮真が、睨む様に先輩を見上げ――頷く。


「当たり前だ!」

「え? どういう……」


 先輩と田宮真を交互に見るが、意味が分からない。すると、先輩が寂しそうに笑った。


「最期に会えたのが、春香ちゃんでよかった――」

「……先輩っ!」


 雲の間から、日光が差す。


 そのまま先輩の姿は掻き消え、もう二度とその姿を現すことはなかった。

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