家に帰る

少しの坂道を上って、レンガの門にたどり着いた。

花壇には四季咲きの薔薇が小さな花を揺らしている。


_____帰ってきたんだ、私


新卒で内定をもらって、ワクワクしながら一人暮らしを始めてからまだ1年も経っていない。

もうずっと昔のことのような気がするのに。


「部屋はそのままにしてあるからね」

「…うん…ありが…と」


懐かしいリビングのソファに腰掛けた。

家族4人で、座る位置は決まっていて、私の席には犬柄のクッションがそのまま置いてあった。

とても落ち着く空間だ。

家にいた頃は、そんなふうに感じた事はなかったのに、いまはとても私を包んでくれて癒してくれる。

会社を辞めたことで、毎日のストレスからは解放された。

気持ちも軽くなった気がする、だけど。


「さぁ、今夜は何が食べたい?浩美の好きなもの作るから、なんでも言って」

「…ん…あ、と…」

「ん?なぁに?」


小さな子どもをあやすように、私を見つめるお母さん。

言いたいことがあるのに、言葉がうまく出てこないのだ。

スムーズに話すことができなくなってしまった。

伝えたいことはたくさんあるのに、それが脳から口へ降りるまでに言葉として降りてこない感じがする。


「はい、これ」

「?!」

「なんとなくね、浩美は疲れ過ぎてると思って。きっと言葉を話すのも疲れてしまうんじゃないかな?だから、書けるなら文字でもいいし。落書きでもいいし」


お母さんに手渡されたのは24色の色鉛筆と黄色と黒のスケッチブックだった。


「あ、うん…」


もう何日もスケッチブックも色鉛筆も持っていなかったと思い出した。

描くということがあんなに好きだったのに。


クリーム色とピンクと焦茶色と、グリーンと。

サラサラと描いたのは…。


「あ、わかった!グラタンね?それもサーモンの?」

「…ん!」


伝わった。

ホッとした。

ここ《家》にいれば、私は守られて暮らしていけると思って安心した。




「浩美、お帰り。ん?ちょっと痩せてしまったか?でも大丈夫だ、またお母さんのご飯を食べたらあっという間に元通りだからね」


仕事から帰ってきたお父さんは、椅子に座って絵を描いていた私の頭を優しく撫でた。

大工をしているお父さんの手は、ゴツくて大きくてそしてあったかい。


「あ…」


すんっと鼻を啜ってしまう。

泣きたいわけじゃないのに、ただいまって言いたいのに。

こんなに泣いてしまったら、きっとお父さんも心配する。


「そっか、そっか…今夜はサーモンのグラタンなんだな。しばらくはご馳走が続きそうだな」


私の絵を見て、さらに頭を撫でてくれた。

ご馳走…お父さんはお母さんが作るご飯は、全部がご馳走だと言っていた。


“大好きな人が心を込めて作ってくれるご飯は、ご馳走に決まってる”


それがお父さんの口癖。

結婚して20年以上も経つのに、いまだにことあるごとに“大好き”を言い合う夫婦は、珍しいんだと一人暮らしを始めてから、知った事だった。

家にいる頃は、それが当たり前だったから。


「ただいま!あ、姉ちゃん、おかえり」

「あ、ん…」


ただいまが言えない、もどかしい。


「やったね!今日の晩飯はご馳走だ!グラタンに生ハムサラダにかぼちゃのスープだ!あ、俺はご飯大盛りだからね、母さん」


弟の太一たいちは、高校3年生。

また背が伸びた気がするな。


家族が4人揃って、やっと私は帰ってきたと実感した。


_____誰も私を問い詰めたり、ひどく、いたわったりもしない


きっと今の私は家にいた頃の私とは違う。

それでも“そんなことはなんでもないよ”と言われてるようで、うれしかった。

こんなに幸せな家にいたんだなぁ、私。


何を食べても味を感じなかったのに、その日のご飯はとても美味しかった。

やっぱり、お母さんのご飯はご馳走だと思ったら、また涙があふれてきた…。




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