第2話

「雫(しずく)ちゃん。こっち来て。ほら」

 その名前を呼ばれるだけで体に震えが起きてしまう。虫唾が走るとは、この事かもしれない。

 瀬南(せなみ) 雫(しずく)。

 嫌な名前。

 私を捨てた父親の名字と母親が考えた名前。例え無一文になっても決して捨てられないもの。

 それが、自分の名前。

 

 自転車で十五分程の所に母親の唯一の妹である叔母さんの家がある。従兄弟が四人いて、いつも騒々しい。

 母親に見捨てられているも同然の私を見かねて、時々晩ご飯を食べさせてくれる。

 でも、叔母さん家(ち)の家計も厳しいのは、よく分かっている。お邪魔するのは、出来るだけ避けている。

 特に叔母さんが世話好きという訳では無い。それほど、母親の行状が目に余るものがあったのだろう。

 手持ちの金が無くなると、母親は親戚や知り合いに金の無心に彷徨う事が多い。その為、知り合いと言える人も親戚付き合いしれくれる人も全くと言っていい程いなくなった。でも、さすがに娘を見捨てる訳にはいかない。親戚の話し合いで、私の事は、叔母さんが注意して見るようになったらしい。

「雫(しずく)。また来たんか。お前が来るとおかずが減るんだよなー」

「馬鹿。そんな事言わないの」

 同い年の連(れん)君の憎まれ口に、二歳上の長女、奏(かなで)ちゃんが連(れん)君の頭を後ろから叩いた。

「いってえなー」

「うるさいっ」

 ふたりの弟が連(れん)君に向かって笑っている。

 連(れん)君は、いつもテンション高くて落ち着きが無い。相手構わずに正直に口にするから、いらない軋轢を生みがちだ。

「母ちゃん。早くー。お腹空いた」

「ごめんね。雫(しずく)ちゃん。相変わらずうるさいのよ。あいつ」

「ううん。大丈夫です」

 奏(かなで)ちゃんは、三人の弟のお姉さんだから、しっかり屋さん。両親が共働きで忙しい中、連(れん)君とまだ幼稚園のふたりの弟達の面倒を見ている。少し気持ちの浮き沈みが激しく、気分が優れない時は学校を休みがちになる。私が時々学校を休むのも、奏(かなで)ちゃんを見て、「学校って自分の意志で休んでいいんだ」と気付かされたからだ。

「雫(しずく)ちゃん、また痩せたんじゃない?」

 奏(かなで)ちゃんが私の腕を握ってくれた。

「よく分からない。体重計ってないから」

 奏(かなで)ちゃんは、静かに私の腕をさすってくれた。

「姉ちゃんなんか。お菓子食べてばっかだから、太って来たんだぜ」

「こらー。余計な事は言わないっ」

「だって、本当の事じゃないか」

「ごめんね。この子、嫌な事ばかり言って……」

「いえ。大丈夫です」

 私がお菓子のひとつも買えない状況を知っている奏(かなで)ちゃんは、必死で言い繕った。

 気持ちのこもった行為は嬉しい。私の事を気に掛けてくれる人がいるんだと嬉しくなる。正直、叔母さんは、親戚の体面もあって、表面的に私と付き合ってるようにしか見えない。「ご飯食べてる?」「ちゃんと寝れてる?」「お母さん、どうなの?」大体聞く事はこの三つだけ。

 でも、奏(かなで)ちゃんは、私の体と気持ちを大事にしてくれる。私の心を大事にしてくれる。唯一の人。

 以前、母親にお金を取られた時、ひどいパニックを起こした事がある。手に負えず母親に家を追い出され、道端で警官に保護された事がある。その時も、奏(かなで)ちゃんが警察に連絡をしてくれた。叔母さんは自分から電話する気になれないらしい。いつも、奏(かなで)ちゃんを挟んで連絡して来る。私の状況をまともに見る勇気が無いのだ。それに、あまりこっちに関わると、また母親が顔を出して来て、金をせびりに来かねない。

 叔母さんは、自分の家族を守る為に、私がいてくれないといけない。問題は全て私の所で終わらせて欲しい気持ちはよく分かる。だから、辛いけど被害者は自分ひとりだけにしないといけない。

 叔母さんが悪い訳では無い。奏(かなで)ちゃんが良い訳でも無い。

 私が一番悪いのだ。もっと、母親と向き合い、話し合わないといけないのだろう。

 でも、私は生まれてから、親の圧力の元に生きて来た。あの同居人と対等に付き合う術を教わらなかった。いつも、上から押さえ付けられて来た。反発する気持ちなど持てない。何かを隠そうとしても、バレた時の嵐が怖くて、とても隠し切れない。

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