雫と雫の運命の物語

いちふじ

第1話

 いつの頃からだろうか。

 頭の奥が重く感じ。始終、体が鈍く、意識して体を動かさないと何もかも億劫で仕方が無い。

 視界は常にフィルターがかかったように薄曇りを帯びている。

周囲の出来事と距離を感じ、何を言われても自分の感覚に届くのが遅い。そのせいで、どうしても反応が薄くなる。

 朝起きるのが辛く、高校は遅刻しがち。授業も身に入らず、赤点を避けるのがやっと。低浮上な所が友達を寄せ付けず、ひとり机に座り、無言状態が続く。

 若者特有の未成熟な喧騒や狂騒や享楽とは無縁で、地蔵を決め込む八時間。正直、周りの目を気にする余裕は無い。自分の心を平静にする事に精神力を費やしている。


 バイトを終えて夜九時。駅を望む小さな丘の上のささやかな公園。その遊歩道に木製の痛んだベンチが置いてある。

 ゆっくりと足元に力を入れて丘を登る。これだけでも疲れて来る。空腹の日常が全身と心から意欲を奪っている。

 ちらほらと、目の端に映る綺麗な花びら。散り始めの桜。優しいピンク色の桜が道や芝生に晴れやかな絨毯を広げている。桜の花びらが足元に落ちても何の感慨も持てない。散り行く桜を見て儚さを感じる人には、その前提として桜を楽しめる生活や希望を持ち得ている。

 でも、ピンクの彼らは、今の私の目を楽しませてくれない。

 それらの自然現象は、私に何の影響も与えない。

 駅のホームを望むベンチに座り、蛍光灯が灯す三両編成の普通電車とまばらな人の流れを飽かず見詰めるのが日課になっている。

 あの電車に乗ればどこへでも行ける。

 誰もいない田舎にだって、綺麗な景色広がる土地にだって、大勢に隠れて目立たない都会にだって行ける。

 でも、その為には、偉い人の肖像が描いてあるしわくちゃの紙が必要になる。

 あのひと切れを手に入れるのが難しい。

 高校生が将来を望むくらいのお金を手にするには、どれだけ働かないといけないのだろうか。それも、放課後の数時間の合間を使って。

 私が私の人生を掴むには、どうしても大人の協力を必要とする。

 反吐が出そう。


 古びた昭和の共同アパート。甲高い足音を響かせながら外階段を上がる。

鉄錆がペンキを浮かせいて、触れば次々と剥がれてしまう。

 ドアを開けたら、2LDKの黴臭い部屋が暗闇で待っていた。

 母親とのふたり暮らし。どちらも片付け下手だが、部屋がすっきりしているのは、それほど物が無いという事。

 誰も居なくて、ほっとする。あの女とは顔も合わせたくない。

 お風呂はシャワーだけ。お湯を溜めてもいいが、水道代を押さえる為に簡単にシャワーで済ませる。それでも冬場だと節約の為、数日はシャワーも浴びない。お風呂が短いのは、他にも理由がある。お風呂に入っている間に母親が帰って来て欲しくない。もし、知らない男が一緒だったら、恐ろしいし、おぞましい。

 空っぽの胃が存在を主張する。

 普段から食が細い為、ヨーグルトとサラダでも十分だが、それでも冷蔵庫の空きっ腹具合には敵わない。

 入っていたのは、2Lのお茶と少しの野菜だけ。

 冷蔵庫の上には、朝食用のパンが数個。いい加減そろそろ補充して欲しい。

 母親の帰りは、週に数回。帰っても十二時を越える事が多い。

 でも、今日だけは違う。

 アパートの階段を上る音が耳に届く。特徴的な足元を踏み締めるハイヒールの騒音。気まぐれバイトをしているスナックから途中で抜け出して来ている。

 荒々しくドアを開ける音。古いアルミのドアがギシギシ悲鳴を上げる。

 私は、「おかえり」も言わず、半ば睨むように入って来た中年女性に視線を投げる。

 白髪の混じったぼさぼさのパーマヘアにへの字に曲がっただらしない口元、眉間に皺を寄せ、小さな目をまん丸に開いて獲物を逃すまいと気合いを入れている母親は、タバコの臭いを身にまとわせながら、一直線に私に向かって来た。

 無言で手の平を差し出して来る。

 私は、その圧に抵抗出来ず、学校帰りに下ろして来たバイトの給料を財布から取り出した。

「それで全部じゃないでしょ」

 貰ったお金を無造作にポケットに入れながら、もう片方の手で財布を取ろうとする。

「これは、お昼のお弁当代よ」

 それでも一か月の半分もつかどうか。

「何言ってるの。キッチンにあるパンを持って行きなさいよ」

 唇の半分しか動かさず、強欲の片鱗が口端から顔を覗かせる。

 今まで何度見たか分からない表情。よく、嫌悪感を顔に出さない自分を褒めてあげたい。

「あれは、朝食の分でしょ。それでも、いつも足りないのに」

 朝食がパンひとつだけという事に疑問を挟まない母親は、呆れた顔をして私を見返した。まるで、聞き分けの無いペットを扱うかのように。

「足りなければ自分で買いなさいよ。贅沢ね」

 お腹の底の重しが更に重量を増す。この黒い怨念がいつどのように破裂するのか、自分にも分からない。

「私の給料は、お母さんが取り上げるじゃない。どうやって買えばいいのよ」

 しかも、問題は朝食と昼食だけでは無い。この女は、私が晩ご飯をどうしているのか、興味さえ持っていない。

「うっさいわねっ」

 母親は、私の手元に向かって強引に手を捻じ込むと、あっさり財布を奪い取った。

 小さながま口財布を覗き込む姿は、浅ましい獣以外の何物でも無い。

「それ全部持って行くの?」

 自分の子供に対して、目を向いて敵意を見せる母親は、血の繋がりが何の意味も持たない事を教えてくれる。

 財布を高く掲げ、たったひとりの娘に投げつける。散らばった小銭が様々な音を立てて跳ね返る。

 反射的に両手で頭を守り、地べたに這いずるようにしゃがみ込んだ私に向かって、自分のポケットに残る小銭も叩き付けた。

「それぐらいあれば何とかなるでしょっ。本当に腹の立つ子ね。他所(よそ)の子は、もっと聞き分けがいいわよ」

 他所の子になりたい。

「あんたには、学費も掛かってるんだからね。それで我慢しなさい」

 あんたが払ってる訳じゃ無いでしょ。

 父親は、数年前に私達を捨てて連絡を取る事も無い。それでも、私の学費と生活費だけは振り込んでいるらしい。だから、この女が自分の財布を痛める事は無い。

 その生活費が私の元に届く事は無い。

 大変な浪費家だ。お金があればあるだけ使ってしまう。手元に無くなると、半ばキレながら乞食同然の感じで手に入れようとする。

 父親は、そんな母親に愛想を尽かして出て行ったのだ。

 とは言え、父親も褒められたものでは無い。

 両親共ネグレクトだった。母親は現在進行形。

 父親は、子供が苦手なのか、私と遊んでくれた記憶が無く、家庭が苦手なのか、家にいた記憶も少ない。

 それなりの大企業に勤めているらしく、送金が滞納した事は無い。

 いつ離婚したのか、離婚しているのかも分からないが、中学以降、父親は家に帰って来る事は無かった。

 母親も自分勝手な性格で、それだけでなく、お金に対する執着が強く、家の金は全て自分のものだと思っている。勿論、お金を人に貸すなんて有り得ない。それでいて、パチンコや酒には気前が良い。手元にあれば、すぐに使い切ってしまう。私の食費すらも渋々ながら渡してくる。それも満足にひと月分渡された事は無い。

 親戚曰く、母親は病気なのだそうだ。精神的に我慢が効かない性格。でも、自覚症状は無い為、病院には行かない。

 自分が遊ぶ金だけの為に、知り合いのスナックで働き、更に何人もお男に頼る生活を続けている。私のバイト代もむしり取り、更には、恥ずかし気も無く、叔母さんや親戚の家に行ってお金の無心に努める。

 小さい頃から、父親に貰ったお小遣いや正月のお年玉を母親に取られて来た。父親に注意されても逆切れして、近所中に響く声で狂った様に叫びまくった。父親が戻らなくなってから、今までに何回も違う男が家にいたのを見た。一度ならず、「新しいお父さんよ」と紹介された事もある。でも、あの女は、男を男として見ているのだろうか。只のお金をくれる存在としか見てないのではないか。

 そんな感じだから、私は、母親を恐れて、昼夜中関係無く逃げるように外に出て時間を潰すようにしている。

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