第42話 やさしい幽鬼の殺し方

 夜半、夏月が昼間の疲れでうとうととしているところに、とんとんと戸を叩く音がした。

 灯籠の火さえ風になびいて吹き消されそうな夜だ。あらかじめ忠告されていたから、『万事、代書うけたまわります』と書かれた看板は下げたままになっているが、文字を読むのが難しいほど風に揺られていた。

 運京のなかには、夜中、篝火が焚かれ、衛士が交代で見回りに来るような大路もあるが、『灰塵庵』がある山裾の通りは侘びしく、夜になれば真っ暗である。必然、訳ありの客くらいしか夜は訪ねてこなかった。

「夜分遅くにすみません。こちらで代書をお願いできると聞いて、おうかがいしました」

 そう言って入ってきたのは、すらりとした物腰の女だった。

 はっきりと明かりで照らさなくてもわかる。瓜実顔の美人だ。夏月は眠たい目をこすりながら客を観察して、いつもの口上を述べた。

「こんばんは……こんな風の強い夜に店へと足を運んでいただき、ありがとうございます。代書ですね……もちろん承っております。どのような内容でしょう? 手紙、台帳の書き入れ、本の写しや看板書きと内容によって値段が違います。手紙の場合ですが……紙の種類はこちら。普通料金ですと飾りのない書面で駅伝いに送ることになります。送り賃は別料金になります」

 小さな巾包みを手に持ち、地味な上着を纏って町娘の格好に身をやつしているが、体にしみこんだ香の匂いは隠せないのだろう。ふわりと、雅な香りが漂ってくる。夏月は紙を机の上に並べ、墨の用意をしながら、世間話をするように女に話しかけた。

「外は寒かったのではありませんか。清明節が近いとは言え、運京はまだまだ寒い時期ですから……どうぞ、火に当たってください」

 そう言って火掻き棒を操って、火鉢の炭を熾した。ぼうっ、と炭が赤く光り、あたたかさが増す。ずっと部屋のなかにいた夏月でさえ、火鉢にずっと当たっていたくなるここちよさだった。

「え、ええ……ありがとうございます」

 女が誘いに乗って手をかざしたのは、やはり夜道で体が冷えたからなのだろう。白魚のように美しい手を見て、夏月はやっぱり、と思う。労働者の手ではない。日がな、畑仕事をしたり繕い物に明け暮れる町人は、どうしたってその働きぶりが手に現れる。女のすらりとした手は、特徴的なたこがあったが、力仕事で苦労した手とはまた違っていた。

「なにか楽器を弾かれるのですか?」

 何気ない振りを装って、夏月は問いかける。琴を弾く人は、バチを持つ親指の付け根と人差し指のあたりにたこができる。これは世間話の延長としては、ありきたりな話題のはずだった。なのに、女はまずいものを見られてしまったとばかりに、さっと手を隠してしまった。その仕種は、泰山府君がいつまでも治らない手を咎められたときと似ている。女の顔に緊張と焦りの色が浮かんでいた。

「手慰みに覚えた程度なんですよ、お恥ずかしい……それであの、手紙の代書をお願いしたいのですけど……」

 話をしながら、夏月のなかで腑に落ちることがあった。

 幽鬼の客が来たとき、夏月はわからないふりをしながら、いつも幽鬼が来たことを感じとっていた。蝶の着物の幽鬼が来たときもそうだ。顔に落ちる拭いきれないような陰の気配。あれは、死んだというのに、なにか心残りがあって現世に戻ってきた幽鬼が見せる、生きている者とは違う雰囲気だった。こうやって客と会話をしていると、ほんのわずかな違いが際立って見える。

 ■から、なおさらだ。

「ええ、手紙ですね。では、相手の方のお名前と住所からおうかがいしましょうか」

 夏月は手慣れた様子で砂盤に書きつけをとる。

「楽鳴省護鼓村ですね。知っています。楽器の演奏者が多い村ですよね。では、運京へは出稼ぎでいらしたんですか?」

「ええ、そんな……そんなものです。すみません、代書屋さん。手紙は二通お願いしたいのです」

「はい、わかりました。紙は同じものでいいですか? 宣紙は値段が少し高くなります。そういえば、お客さん。今夜は蝶が舞う図柄の襦裙ではないのですね」

 墨を摩り、作業を続けながら、何気なく付け加える。

 夏月は今宵の客の顔に見覚えがあった。さっき台帳を見て、記憶をよみがえられたばかりだというのもあるのだろう。後宮に出向いたときの瑞側妃との会話が、そのとき目にした蝶の襦裙が、鮮やかに目蓋の奥によみがえったのだ。

 記憶というのは、普段、意識していないだけで、決して失われていない。人によって覚えて引き出しやすい記憶に差はあるだろうが、頭のなかにはきちんと記憶が残っている。だから、同じ記憶を共有する者同士で話をすると、忘れていた記憶が、会話の端から連鎖するように意識の表層へと浮かびあがってくるのだ。

「え、ええ……そうなんです。よくわかりましたね、代書屋さん」

 女の声が震えた。『蝶の襦裙』という夏月の言葉に、大きく動揺しているようだった。

「客商売なので、人の顔というのを覚えてしまうようでして……差し出がましいようで申し訳ありません。瑞側妃でいらっしゃいますね?」

 どうやって後宮を抜け出してきたのだろうとは、もう考えない。泰山府君の言うように、後宮は開かずの匣ではない。大半の者が無理に抜け出さないと言うだけで、なんらかの抜け道はあるのだ。

「ええ、そうです……覚えていてくださってうれしいわ。もう一通は宣紙でお願いできる? 恋文なの……清明節の前の晩に待っていると、うまく歌に織りこんでちょうだい。自分で持って帰るから、宛先はいらないわ」

「かしこまりました。もう一通の……護鼓村宛ての手紙の内容はいかがいたしましょう?」

「そちらは……私宛の手紙があったら、こちらに送り直してほしいと……もう村には帰らないから」

 女の口にした『帰らない』という言葉が、かすかに震えている気がした。どんなに辛い思い出があったとしても、故郷に帰らないと言い切るのは、強く感情が揺さぶられるのだろう。

 夏月の筆先が、さらさらと滑らかに動いて、先に紙を広げていた護鼓村宛ての手紙を書きあげる。おそらくは夏月のなかにも、『もう故郷には帰らない』という言葉に思うところがあるせいなのだろう。短い手紙だが、筆が進むうちに強い感情が吐きだされた気がした。次に上等な紙を引き出しからとりだして、もう一通の手紙にとりかかる。別れても別れてもなお、時を経て巡り会う恋人同士を詠った有名な漢詩になぞらえて、元の歌では『いつか出会う』となっているところを清明節の前の晩に変えてやる。これで、ちょっと洒落た恋文のできあがりだ。元の漢詩を知っているような知識がある貴人相手ならば、気の利いた手紙だと思われるはずだ。学がある相手同士だけに通じる遊びなのである。

「墨が乾くまで少しお待ちくださいね」

 手紙を棚に移して、宛名を書いてしまおうと夏月が中腰になったときだ。

「ええ……お待ちしてますわ……代書屋さん……ッ!」

 手荷物のなかから鋭い刃物をとりだして、勢いよく振りかぶられた。

 さっきから火に当たろうとして身じろぎするたびに、荷物に手を伸ばしていたことには気づいていた。なにか企んでいるだろうと言うことも。意識していたおかげで、とっさに身をかわしたものの、鋭利な刃物なのだろう、夏月の黒髪が幾筋か切れて散った。このまま終わるわけがないと身構えていなかったら、首筋に刃物を突き立てられて事切れていたかもしれない。とっさに硯に残っていた墨を女の顔に向かってぶちまけると、「きゃあああっ」という癇癪を起こしたような悲鳴があがった。その甲高い声に可不可が気づいてくれればいいが、という考えは楽観的すぎた。実際には誰かが助けに来る余裕などないまま、死にもの狂いになった女に馬乗りになられ、力任せに首を絞められていた。

「あんたがいけないのよ、姉さんの手紙なんていまごろ持ち出して……私を脅す気なんでしょう? やっと食べるのに困らない暮らしを手に入れたのよ。私は嫌……もう空きっ腹を抱えた苦しい生活に戻りたくない。邪魔をするなら……あんたにも死んでもらうッ!」

 激昂した様子からは、夏月を殺さなくては自分が殺される――そう思いこんでいるのが、よくわかった。

 どうも話がちぐはぐだが、その違和感のなかにこそ真実があるという、強い確信があった。

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