第39話 格物致知の至るところ②

 薄暗闇のなかで表情が見えないからだろう。普段なら気がつきにくい、ちょっとした息遣いや声の調子のわずかな変化が、逆によく感じとれる。不幸中の幸いと言おうか。おかげで、いつもよりもはっきりと洪長官の感情の機微が感じとれた。

「洪長官、地下の風穴にはたくさんの女子どもの頭蓋骨がありました。天原国の霊廟に納められていた人骨ではありません」

「どういう……意味だ?」

 地下の祭壇の前に累々とさらされていた頭蓋骨を見ていない人には、話がいきなり飛んだと思ったのだろう。とまどい混じりに聞き返される。

 夏月としては、清明節の祭祀よりも重要なことを聞いたつもりだった。

「後宮で誰かがたくさんの女性を殺して、この霊廟に遺体を捨てた形跡があります。おそらくは、女性たちは望まぬ妊娠をしたがゆえに殺されたと思われます」

 ここまで言えば、なぜ夏月が王子たちの宮の場所を知りたがったのかを理解してもらえたようだ。薄明かりのなかでさえ、身をこわばらせた彼の姿がはっきりと見てとれた。

「まさか……まさか君は、王子のうちの誰かが後宮の妃に手を出したと、そう言いたいのか?」

「その可能性は否定できません」

 ――運命とはなんて皮肉なのだろう。

 夏月は巡り巡ってきた因縁の糸をいまはっきりと感じていた。

 前に辞めた女官が、夏月の婚約者と恋人同士になり、あの夜、朱大人の手紙を携えてやってこなかったら、夏月もここまで突飛な考えに辿りつかなかっただろう。

 でも、良良は言っていた。

 ――『それに……女官というのは立場が弱いですから、さりげなく助けていただいたこともありました』

 先日話を聞いたじには、後宮で夏月が絡まれたように、身分が高い妃が無茶を言ったのかと思っていた。しかしあれは、本当はもっと断りにくい相手――王族から誘いをかけられたという意味ではなかっただろうか。

 朱銅印は知っているはずだ。立場が弱い女官相手には居丈高になり、ひっそりと悪事をしている相手が誰なのかを。

「洪長官は本当に心当たりがありませんか? わたしを写本府に勧誘したときに言っていましたね? 『藍家という後ろ盾があるならなおさらいい』と……あれは、万が一、身分が高い者から無理に口説かれるようなことがあっても、わたしなら断れるだろうという算段があったからではありませんか?」

 一段声音を低くした夏月は、洪緑水に詰めよった。

「もしわたしがやんごとなき方に困らされたとしても、姉――紫賢妃の名前を出せば、さすがに難を逃れられるだろう。そう考えたのではありませんか?」

 夏月の言葉の真剣さを前に、さすがにいつもの人をごまかすような仮面が崩れたのだろう。

「君は私にどうしろというのだ……」

 洪緑水は崩れ落ちるような声を漏らした。

「あなたは……殺されてまで後宮の奥に囚われている魂が憐れだとは思いませんか」

 夏月はひっそりと袖のなかに忍ばせてきた小さな頭蓋骨をとりだした。

「それは……」

「赤子の白骨死体です。ほかにもいくつもありました……おそらくは妊娠させられた事実をなかったことにするために殺されたのです。去年のように……人がたくさん亡くなるようなときは、後宮のように管理された場所であっても、混乱があったでしょうから」

 夏月の頬には、濡れた髪から流れ落ちたのとは違い、熱い涙が零れていた。

「わたしごときがどうこうできる問題だとは思いません。でも、事実はすぐにあきらかになります」

 王族を裁く権利など、夏月のごとき下っ端の女官にはない。一部署の長官でしかない洪緑水にだって無理だろう。

「でも、死亡名簿と後宮の地図を照らし合わせれば、わかるはずです。おそらく、去年、王子の宮の近くでは、たくさん女官が死んだはずです」

 ――そして、使っていない井戸のどれかはこの風穴と繋がってるはず……。

 手近な井戸に遺体を放りこめば、遺体の処理に困らない。

「また、遺体が放りこまれた井戸を使った女官は、その痛んだ水が原因で体を壊し……亡くなった者もいるはずです」

 貴人はともかく、庶民は医師にかかるほどの余裕がない。後宮でもそれは同じで、体調が悪くても働き続けて、あっけないほど簡単に死んでしまう。

 ――だから、去年後宮ではたくさんの女官が亡くなった。

 国王の徳が足りないとか、天原国の呪いだとか市井では噂されているが、実際には呪いではなく人間の所業だ。

 祭祀を行うよりその原因を絶つほうが、明確に不審死を減らす効果がある。

「すべて書物に書き記されており、照らし合わせれば、はっきりすることです」

 記録はそのままではただの文字の羅列に過ぎない。

 しかし、記録に法則を見いだす者がいれば、そこに意味が浮かびあがる。わざわざ文字にして記録を残すことは、その読み解きをする誰かへ手紙を書くようなものだった。

「夏女官の言いたいことはわかった。しかし、ここは祖霊廟だ。君の手にしている頭蓋骨が殺された女官の赤子だと、どうして言えるのだ。琥珀国の王族の頭蓋骨はそろっていたとしよう。しかし、余分に見つかった頭蓋骨は、天原国の霊廟から出てきたものではないか」

「格物致知――」

「え?」

「洪長官、秘書庫には『白骨標本図』という本が収められているはずです。天原国の医師が書いた本で、その書物のなかには、天原国の人々と琥珀国を初めとする近隣の国々の頭蓋骨の特徴が、絵図とともに書いてあるんです」

「頭蓋骨の特徴……だと……?」

 洪緑水は夏月が戯言を言っていると思っていたのだろう。本に書いてあるという言葉にあきらかに動揺していた。

「ここがもともと天原国の城だったのなら、秘書庫には天原国の本も残っているはず。その本を見ればわかります。男性と女性でも頭蓋骨の形が違い、天原国人と琥珀国人でも、形が違うのです。天原国も琥珀国も、霊廟に納められている骨は、男性の王族だけ。しかし、地下に無数にうち捨てられていた頭蓋骨は女性か子どもばかりでした」

 きっぱりと言ってのけた夏月に対して、洪長官は言葉が出てこないようだった。こうしている間も、風穴の間には風が吹き抜け、物悲しい音が遠くから響いてくる。

 夏月としても、洪緑水に事実を告げるのは賭けだった。

 目の前にいる青年も容疑者になり得る。宦官ではない、後宮に出入りしている『男』のひとりだ。万が一、洪緑水が犯人だった場合、この場で自分が殺される可能性もあった。緊張して、出口を意識しながら身構えていたのに、「くくくく………」という押し殺した笑い声が洞穴に響いて、その不気味な響きのほうが怖かった。

「夏女官……わかったぞ。なぜ、朱銅印が君との婚約を破棄したのか……君は厄介事を自分で引きよせる性質だろう?……並の男では手に負えないぞ」

「……はぁ。さようでございますか」

 予想とはまったく違うことを切りだされて、夏月としては拍子抜けしてしまった。この場合、なんと答えるのが正解なのだろう。そこまで言うなら、『並の男』ではない人を紹介してくださいとでも言うのが、上司に対する正しい応答だろうか。考えあぐねているうちに、また激しい震えが来た。鼻水が出て、くしゃみが止まらない。いっそ寒さで死んでしまうのではないかと思ったが、痛みは生きている証だ。

「この話し合いは後日詳しく聞いたほうがよさそうだ。仕事で風邪を引かれては困る。ともかく、帰りなさい」

 そう言って上司は、また深い深いため息を吐いたのだった。

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