第15話 後宮の代書屋さんは大繁盛!?④
広い家屋のなかは、一瞬、しん、と静まりかえり、可不可も衡子も夏月に気を遣って、言葉を出せないようだった。するとそこに、
「あらあらぁ……代書屋さんは準備が遅れているのかしら? もう開店時刻は過ぎているのではなくて?」
あたりの空気を一変させる、やわらかな声が響いた。
目を向ければ、鮮やかな緋色の
華やいだ後宮の空気を引き攣れて、
ありきたりだが、そこに大輪の花がぱっと咲いたかのように目が惹きつけられる。
「
夏月は手に手を重ねて拱手し、頭を下げる。
紫賢妃は部類としては美人に入るのだろうが、ややふっくらとした、ほわほわとした愛らしさを持つ女性だ。
痩せた美人より、ふっくらした顔立ちを好む男性は実は少なくない。
しかし、その中身は言葉遣いのやわらかさと対称的に、理知的なところがある。商売で鍛えた人を立てる気遣いと、世事に詳しく豊富な話題で、他人を自分の意図に巻きこんでしまう天才的な話術の持ち主だった。
宴で国王に見初められ、後宮入りをした、現在、もっとも寵愛を受ける妃のひとりだ。
「さっきいたのは……
去っていった先を気にするように振り返る紫賢妃は、なにか物問いたげな様子だった。「え、ええ。そう名乗っておりました……まさか、後宮に外廷の官吏がいるとは思わなくて、驚いてしまいましたが、なにやら巻物を虫干ししたいそうで、衝立の向こうは使ってもいいことにしてしまいました……まずかったでしょうか」
衡子も反対しなかったから、いいかと思ったが、夏月は後宮の規則に詳しいわけではない。問題があったら、姉に迷惑がかかってしまうかと思い、焦って訊ねる。
「いえ……
「そうなの……ですか」
確かにさっきの巻物は相当古そうだった。
――古い霊廟に収められていた巻物なのでしょうか?
秘書省という言葉に誘惑されていたが、古い巻物にも気が引かれてしまう。本が読み放題という言葉は、夏月の心をまだ揺さぶっていた。
――秘書省の文倉にはいったいどれだけの書物が収められているのだろう……見たい。ものすごく見たい……。
夏月のなかの好奇心が、うずうずと顔をのぞかせたのをいち早く察したのだろう。
「お嬢、墨を摩る手が止まってますよ」
可不可の突っこみの声がかかった。
はっと我に返ると、確かにそのとおりだった。用意された水を柄杓で掬い、ゆったりとした手つきで墨を摩る。
そもそも墨というのはゆっくり摩ったほうが粘り強い墨ができるのだが、それとは別に、規則正しい動きには気持ちを落ち着かせる効果がある。
しばらくして、紙を座机の上に広げ、文鎮で押さえる動きで、いつもの夏月が戻ったと思ったのだろう。紫賢妃がやわらかく、ふふっ、と笑いながら言った。
「夏月、私が最初の客で構わないかしら?」
姉とは言え、拱手して頭を下げる。
「もちろんです、紫賢妃……どなたに差しあげるお手紙にいたしましょう?」
いつもの口上を口にしたとたん、仕事の頭に切り替わる。
――朱銅印様のことは、明後日、お会いしたときに取り繕うことにしましょう。
そう思ったきり、文字を書くことに没頭してしまった。
後宮の代書は、ほとんどが女官の依頼で、手紙の代書ばかりだが、まれに宦官からも依頼がある。彼らのなかには学があり、手紙を書ける上役がいるのだが、上役に手紙の内容を知られたくないのだろう。夏月の代書屋が評判になるにつれ、宦官の依頼も多くなった。
宦官というのは、まだ幼いうちに去勢し、多くはそのまま後宮で一生を終える。彼らは女官や
あるものは、ほかに職がなくて仕方なく、あるものは、一族の繁栄を背負わされて、後宮へとやってくる。
気軽に、故郷へ手紙を出して、「帰りたい」という泣き言さえ許されない存在なのだと、夏月でさえ知っていた。
だからこそ、代書屋のように、なんのしがらみのない相手を頼ってくるのだ。
――どうしてなのだろう。見ず知らずの他人のほうが心の裡をさらけだしやすいというのは。
師匠の手伝いをしているときから、不思議で仕方がなかった。
身近で自分のことをわかってくれている人を相手に話すほうが、ちょっとした心の機微が伝わりやすいと思うのに、師匠と話しているうちに、「家族には話せなかったんです」などと泣きだす客がいた。
その、胸に迫るような思いを引き出す術を、夏月はまだ、師匠ほどには心得ていない。
だからこそ、やってくる客の言葉にきちんと耳を傾けていないと、本当に伝えたいことを見落としてしまいそうで、もどかしい気持ちになってしまうのだった。
次の順番で宦官がやってきたことに気づいて、夏月は衡子に離れているように指示した。
相手が宦官なら、可不可に手伝いをさせたほうがいいと思ったのだ。
「まず、お名前と宛先をうかがっておきますね。どちらへ手紙を出しましょうか」
最初は、あえて事務的に話を進める。
まだ幼さが残る宦官だ。代書屋へ頼みに来ると決めることさえ、一大決心だったのだろう。その表情は硬かった。
「楽鳴省護鼓村へお願いしたいのです……」
宦官独特の高い声がか細く吐きだされたと同時に、なぜかどきりとした。
――深夜の客が依頼したのと同じ村だ……。
夏月の知るかぎり、鄙びた小さな村だったはずだ。いくら運京に出稼ぎに来るものが多いとはいえ、こんな短期間に同じ村の人から代書の依頼が来るものだろうか。
――偶然か、それとも。
夏月の頭のなかで、なにか奇妙だった幽鬼の言葉が判じ絵の謎が解けていくかのように、蠢いた。
――『故郷では食べていけなくて……みんな芸を仕込まれたあとは村を出されるんです』
――『もうひとつは、宣紙で……早く……早く迎えに来てと……――ああ、どうして? ここは暗くて冷たくて……震えが止まらないっ……』
――『早く運京に来てって言ったじゃない……今度は私の番だったでしょう? それなのにどうして……どうして、私のしあわせを邪魔するの? 許せない許せない! ああ、あなた……どこ? 私と一緒になってくれると言ったのは嘘だったの? どうして……』
ふたつの宛先への手紙の内容。
ひとつが故郷の村への依頼だとして、宣紙で書いてほしいと言ったもうひとつは後宮だという可能性もある。
宣紙と言うのは高価な紙である。厳然とした格差がある琥珀国では、宣紙で手紙を送っていい相手というのはかぎられていた。
――貴族か上級の妃嬪か……あるいは王子か。
この宦官は後宮ではどこの部署に属しているのだろう。
夏月は文机から顔を上げて、宦官の顔を盗み見た。
幽鬼の客が訪ねてきたときのことが頭をよぎる。
――暗がりだったから、幽鬼の着ていた服が、妓女のものなのか、後宮の妃のものなのかはわからなかった。ぱっと見には、どちらも結い上げた髪に簪や笄を刺し、華やかで綺麗な装いをしているように見える。
しかし、妃の着る衣服のほうが上質な絹でできているはずだ。手にとってじっくりと見れば、区別がついただろう。
「蝶の舞う図柄の襦裙……」
自分の記憶を追いかけるように、幽鬼の着物の柄が口を衝いて出たときだ。
「ああ……それって
頑なな顔をしてきた宦官が、ぱっと弾けるような笑顔を見せた。瑞側妃というのが、彼の心を開く言葉だったようだ。
「瑞側妃……? もしかしてその方は楽鳴省護鼓村の出身の……」
「ええ。同郷だというので、ときどき声をかけてくださって……手紙を出したいときは、ここの代書屋さんに頼むといいと教えていただいたんです」
はにかんだ笑顔はまだ幼さが残ってかわいらしいが、やはり、彼の表情には拭い去れないような陰がある。
幽鬼の客もそうだった。年齢のわりに苦労を重ねてきたもの特有の、もの悲しげな佇まいがあり、夏月でさえ、女に感情移入したくなるような哀れみが漂っていた。
その陰を本人が意図的に作っているにせよ、暮らしぶりから染みついているにせよ、どこかしら蔭のある顔立ちを好く男というのはいるものだ。それで妓女ではないかという印象を覚えたのだった。
少年宦官が出したい手紙は、親に向けたものだった。
食い詰めた家族から、後宮で宦官になってくれと頼まれたときには、恨んだこともあったこと。けれでも、自分はいま後宮で食べ物には困らない生活をしていること。
だから、自分を宦官にしたことを悔やまないでいいと、少年は訥々とした口調で語ってくれたのだった。
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