第9話 ザニンガム・クエスト


 調査委員ザニンガム・ウルフェウスは、飛行船のタラップから降りて、その堅い靴で大地を踏みしめた。

 背後では、魔法の風をはらんで、飛行船がふたたび空中に浮かび上がる。

 飛行船は、水上を行く船と原理的には同じだ。魔法で呼び起こした風を帆に受けて、空を飛ぶ。ただしそれが浮かぶのは空気の上だ。高価な魔法によってミッドガルド界の重力を無視する仕組みだ。

 飛行船の無料調達は、魔術師調査局に認められている特権だ。調査委員に徴発された飛行船は、現在の職務が何であれ、無条件にその命令に従わなくてはならない。罪を犯した魔術師の逃げ足は速い。普通の人間が思いもつかないような移動方法を持っていることがある。それを逮捕するためには、ヘイムダル大陸全般を航行している飛行船を利用するのがもっとも良い。そのような理由から設けられた特例である。

 もちろん、いまのザニンガムは犯人の逮捕に出ているわけではない。単なる調査業務である。飛行船を使用する必要があるわけではないが、それを使わない理由も思い当たらなかった。それだからこそ、調査局員ザニンガムは飛行船を使う。権威のもたらす旨味を存分に味わうために。

 自分の行為が船主に与える被害など、少しも考えはしなかった。

 飛行船発着場からは地上を移動することになる。現地の調査員たちにあらかじめ用意させておいたのは、サマッドと呼ばれる六本足のトカゲである。馬もよいが、この種の爬虫類は道を選ばないのが利点である。森でも沼地でも岩場でも、どんなところにでも入りこむことができる。その背中の上に設えられた席の上にザニンガムは腰を落ち着けると、ベルトで体を固定した。

 すでに先発の調査員が下調べをすませている。調べれば調べるほど、ファガスの周辺にはきな臭い匂いがしてくる。違法な連中との取り引き。禁じられた魔法材料への手出し。税金のごまかし。おまけにファガスが所属しているアリスタナル家までもが、ファガスの身分については曖昧な言い方をしている。

 だが、まだいまの時点では派手な動きは禁物だ。軽く当たりをつけて脅しをかける。それで相手が証拠隠滅などに走ってくれれば、それこそ絶好の機会というものである。現場に踏みこんで関係者を一網打尽にすることができる。

 ザニンガムは心の中でニヤリと笑った。ついにラングとファガスを追いこむ機会が手に入ったのだ。

 新しい報告書を持って、派遣しておいた調査員が駆けつける。

 なんと、またもや大規模な魔法障害の報告だ。以前よりも遥かに広範囲に及んでいる。

 ふむ。書類を読んだザニンガムは満足のため息をついた。間違いない。この現象はファガスの家を中心に発生している。

 新たに地図を開き、ザニンガムは印をつけた地点を目で探した。

 考えるべき時は終わった。これからは行動すべき時だ。最初に行くべき場所は決まっている。

 ラングの家だ。



 白壁の中にくり貫かれた窓。エストリッジ教授の魔法遺跡発掘現場の光景だ。テントの垂れ幕が開き、エストリッジ教授が映像の中に入って来る。背後にちらりと、骨だけになった竜の残骸が見えた。

「いや、失敬。ここの所、とても忙しかったものでね」

 土埃で汚れた探検服のまま、エストリッジ教授は机の上で両手を組むと話し始めた。

「護衛竜が二匹。魔法兵が二十体。それに呪いの類が八十二と、直接攻撃魔法が三十そこらか。この分だとまだまだあるな。結構、ガードの堅い魔法遺跡のようだ」

「その分、墓荒しにもやられていないというわけですね」ラングが相槌を打つ。

「我々、発掘隊こそがその墓荒しなのだよ」

 微かに自嘲をこめて、エストリッジ教授は笑ってみせた。

「それより、ラング。実に面白い記録が出たぞ。古の魔法大戦の記録の一部だ。巨狼フェンリルについてのかなり詳しい記述だ。フェンリル狼の月封印説を裏付けるものだな。太古の神々は、グレイプニルと呼ばれる特殊な封印を使って、フェンリルを月の大地に縛り付けたらしい」

 しばらくの間、エストリッジ教授は発掘の成果について喋っていた。

 聞き役に徹していたラングだが、教授が一休みする合間を縫って、質問を発した。

「しかし、教授。フェンリル狼の魔法の力は、月だって太陽だって一呑みにできるのでしょう。じゃあ、フェンリルが自分を捉えている月を呑みこめば、脱出できるのではないのですか?」

「ふむ。いいところに気がついたな。ラングよ」

 一瞬だけ、魔法大学教授と学生舎監の関係から、魔術師ギルドの師匠と弟子の関係に戻って、エストリッジ教授は微笑んだ。

「よいか? フェンリル自体は太陽でも月でも一呑みできる力を持っているが、この魔法の封印がフェンリルを月そのものと結合しているらしい。フェンリルが月を呑みこめば、それと同時にフェンリル自身をも呑みこんでしまう結果となる」

 ラングは目をしばたかせた。自分が議論を見失ったのではないかと、不安になったのだ。

「その場合は、フェンリルはどこに?」

「それは当然、フェンリルの胃袋の中だろう」間髪を入れずに、教授は答えた。

 もう一度ラングは目をしばたかせた。

「ではそのフェンリルの胃袋はどこに?」

「それは当然、フェンリルの体の中だろう」にやにや笑いながら、エストリッジ教授は答えた。

 ラングは押し黙った。エストリッジ教授は組んだ両手を離して、何かのジェスチャーをして見せた。

「ラング。きみは物事を堅く考えすぎる。魔法というものに関しては、全体の矛盾というものを考えてはならない。それは定義通りに働き、力が拮抗したところで、停止するのだ。その意味では、矛盾というものは根本的に存在しない。その場その場の状況で結果は決まる。ということは、力と力の責めぎあいこそが物事の本質ということになるな」

「しかし、これはつまり有が無に変わるということですよね。狼が自分自身を呑みこむということは。今までいた狼がどこにもいなくなるのだから」

 ラングは指摘して、その問題に頭を悩ませた。

「ちがう。これは過去のフェンリル狼という有の基盤の上に、自分自身を食べたという自己矛盾を抱えたフェンリル狼という存在が、無という形態を取って存在している形となるのだ。有が無に変わったように見えるが、その存在そのものは有に属している。

 ウルドはその運命を通じて過ぎ去った時の流れの中に狼をつなぎとめ、ベルダンディは存在を通じて狼自体の生存を許し、スクルドは必然によって狼の消滅を保証するのだ。見事な原理だよ、これは。

 まあ、フェンリル狼もそのことはわかっているらしく、そんなややこしい状況は避けたいらしい。封印されてから現在に至るまで、月を食べた形跡はない。あくまでも月の魔力を少しづつ吸い取っているだけだ」

 エストリッジ教授はそう説明してから、頭を左右に振った。こういった魔法理論が扱えないようでは、ラングが一級魔術師になるのは、ずいぶんと先のこととなろう。

「さて、それより。ラング。そちらの状況を教えてもらおうか」

 ラングはすべてを話した。

 その間、魔法の隠れマントに包まれた調査委員ザニンガムは、眉をしかめたままラングの家の外で待っていた。

 魔法通信の波動だ。盗聴器を調整しながら、ザニンガムはいらついていた。これは市販されているような通信器の波動ではない。王国軍隊用の通信器でも盗聴できる装置が、まったく役に立たない。波形が複雑すぎて、手持ちの魔法盗聴器の解析能力では、どうにもならないのだ。

 ザニンガムは舌打ちをした。どうしてラングのような二級魔術師が、こんな高レベルな魔法通信器を持っているのかは謎であった。

 それが自分が軽蔑している小人族のファガスが作ったものだと、もしザニンガムが知っていたとすれば二重に驚いたことだろう。

 そっと手を伸ばして、ラングの家の周囲を包む魔法防御場に触れてみる。手袋の色が変わり、分析結果を伝えて来る。

 恐ろしい出力の場だ。これにもザニンガムは驚愕した。王国軍の最前線要塞なみの魔法防御場だ。どうして二級魔術師に、これほどの魔法防御場が作れるのだ。

 いや、違う。そう、ザニンガムは結論した。これはラングが作ったものではない。きっとどこかの要塞構築魔術師がやったものだ。ちょっとした犯罪に手を染めて、魔術師ギルドから追放されたような手合いの連中のだ。

 ラングもまた、どこかの犯罪組織と深くつながっている。そうザニンガムは結論づけた。巨人族というものはすべからくそういう存在なのだ。

 しかし参った。ザニンガムは舌打ちをした。

 この種の魔法防御場は、音さえも外に洩らさない。

 盗聴器をカバンの中に収めながら、ザニンガムは防御場の周囲を回った。この防御場は見事な出来栄えだ。どこにも隙がない。

 戦略を変えるべき頃合だと、ザニンガムは決心した。

 カバンの中から小さな壺を出すと、その中身の薬を片方の眉毛に塗る。異常な色彩がザニンガムの視界の半分を彩った。森の木々は独特の息吹を行っているかのように赤く明滅し、空はこれも見事な紫に染まる。狂った画家の描く異界の風景みたいだ。

 特別に調合された魔法薬による魔法の視力。いまやそれはザニンガムのものだ。

 ザニンガムは隠れマントを脱ぐと、ラングの家の玄関の扉を叩いた。

 黄金の髪をした若い女性が家から出てきた。

 正常なほうの片目を使って女性の姿を捕らえると、ザニンガムは記憶を探った。

 ベス・エス・メニス。魔法大学学長ブロンズベローの推薦により、二級魔術師ラングの弟子として配属された女性だ。

 どうして卑しくも人間族の女性が、ラングのような巨人族の弟子となることができるのか、ザニンガムには信じられなかった。

 思わず口をついて、質問が出た。

「失礼ですが、お嬢さん。ここだけの話、あの巨人はあなたに何か悪いことをしていませんか?

 自分の弟子にならないと、家族を皆殺しにすると脅しているとか、そんな類のことです。さあ、恐がらないで。正直に話したとしても、あなたの身に危険は及びません。わたしは魔術師調査局から来た者です」

 女性の周りで疑惑を表す黄色と、敵意を示す赤の光が渦巻いたのを見て、ザニンガムはしまったと思った。あまりにも単刀直入にやり過ぎたのだ。

「そのような事実はないようですね。失礼しました。魔術師調査局のザニンガムです。いまのは形式的な質問です。訪れた先のどこでもやるのですよ。徒弟制度は時には悪い方向に向かうことがありましてね」

 言葉とともに、魔術師調査局を示す印象を、空中に指で描く。

 偽造不可能な認証魔法だ。これは一種の召喚魔法で、魔法で構成された認証体と呼ばれるものを魔術師ギルド本部から呼び出す働きをする。その資格を持たない者がこれをやれば、その場で認証体に攻撃を受けて抹殺される。

 もちろん安い魔法ではない。一度呼び出すごとに、大変な額の金貨が消滅することになる。しかし、すべての経費は魔術師ギルドの金庫から払われるのだ。ザニンガムの懐からではない。

 女性が家の中に引っこみ、その代わりに巨人が大きな扉から現れた。

 ザニンガムの頭の中で経歴表が開かれた。

 ラング・ミスタドール・マイラス。田舎大学として有名な、ヴォネガット魔法大学の準教授だ。魔法考古学の権威であるエストリッジ教授の配下であり、魔術師ギルドの二級魔術師でもある。

 そしてザニンガムにとって、もっとも重要なことは、彼が憎むべき巨人族の一人であり、人間世界を堕落させている連中の一人ということであった。

「誰かと思えばザニンガム!」ラングがうめいた。

「正式な調査のための訪問だ」ザニンガムは指摘した。

 目の中に燃える怒りの炎はどうしても消すことができない。それでもザニンガムは己の感情を読まれないようにと自制した。相手の感情を読むのが目的であり、読まれることが目的ではない。

「さて、単刀直入に聞こう。最近のことだが、この周辺で大規模な魔法事故が頻発している。何か心当たりはあるかね?」

 ラングの額の周囲で光が爆発した。赤。緑。黄色。それは一瞬で頭の周りに広がると、消え去った。

 大当たりだ。ザニンガムはそう考えた。魔法の視力がラングの全身を観察する。

 すごい反応だ。こいつは事件の核心を知っている。

 ラングの周囲で踊った光はすぐに消え、普通の光景に戻る。

 これほど素早く自分の感情を抑えた男は初めてだ。ザニンガムはひそかに驚愕した。そうだろう。そうでなければ、犯罪などに手を出せるものではない。だがもう遅い。ザニンガムのはったりは功を奏したのだ。

 さらに鎌をかけてみよう。

「わたしの意見を言わせてもらえば、この周辺で誰かが、災厄の魔神を召喚しているのではないかと思う」

 鋭く、ラングの反応を観察する。正常なほうの視力と、魔法の視力の両方でだ。

 反応なし。期待はずれだ。ザニンガムは魔法の視力を与えたほうの眉をこすった。故障じゃない。その証拠に薬に触れた皮膚はかぶれかけている。魔法の視力の薬は便利だが、体に良いとは決して言えない。

「そんな話は聞いたことがないな」ラングは冷たく言い放った。

「そうか、では質問はこれだけだ。ところで、遠くから来た友人に、お茶の一つもご馳走してくれないのかな?」

 ザニンガムの問いに、ラングは平板な声で答えた。

「本当にきみがそうして欲しいと思っているとは、考えられないのだが」

「たしかにその通り」

 ザニンガムはそう答え、ラングに背中を向けると、蜥蜴馬サマッドに乗って歩み去った。



 大いなる森の老婆は、ミーミルの泉を覗きこんでいた顔を上げた。

「ほ、どうやらザニンガムが来たようだね。サマッドの足音が聞こえるよ」

 泉の中に浮かんでいた顔たちがひそひそとささやきあった。太陽の光の下では、顔たちにも生気がない。

「計画はうまく進んでいるようだね。パットはどこだい?」

「例の指輪を握り締めて、森に遊びに行ったよ」大いなる森の老婆は答えた。片耳は近づきつつある足音に集中している。近づいているとはいえ、まだ遠い。

「おお、恐いことだね。世界を滅ぼす最終兵器が、あんな小さな娘の手の中とは」

 顔の一つが言うと、泉の水面に小さな波紋が広がった。別の顔が後を続けた。

「ここが展開点だね。下手をすれば、狼は生き残り、あたしたちだけが滅ぶことになる」

「目の前を通って行くのが、世界を滅ぼす指輪だと『変身者』が知れば、あたしたちはおしまいだ」

「しかしこれはやらねばならないことなのだよ」大いなる森の老婆は断言した。

「そうそう。狼が生き残る未来を見せている泉はいまいくつだい?」

 顔が三つ、その問いに答えた。

「以前より増えているね」大いなる森の老婆は渋い顔をみせた。

 前回の会合では、ミーミルの泉たちのうちの一つだけが、究極の破滅を示唆していた。わずか1ムーンの間に、究極の破滅の出現確率が上昇しているのだ。

「まさか『変身者』にあたしたちの計画がばれたなんてことはないだろうね」顔の一つが疑惑を述べた。

「誰かが洩らしたのかい!」別の顔が驚愕を浮かべて答えた。

「いや、そんなはずはないよ。いまのミッドガルド界では、神々の力は大幅に制限される。それにロキがこれに気づいていれば、すべての泉が破滅を予告する側に回っているはずだ」

「きっと新しい透過の魔術を開発したんだよ。だから泉は正しい答えを出さないんだ。ロキは、あの神は侮れない」

 ざわざわと顔たちが蠢いた。ミーミルの泉の間をつなぐ魔法の連結網が揺らぐ。

「いや、ロキはこの件にはまだ気づいていないよ。これはミーミルの泉の未来予測の能力が落ちているんだ」

 議論に決着をつけたのは、大いなる森の老婆だ。

「創造者ライドがこの世界から消え去ってずいぶんになるからね。かといって、これほど複雑な魔術はあたしたちには修復できない。小人族のファガスなら、ひょっとしたら直せるかもしれない」

「そんな。とんでもない!」いくつかの顔が一斉に叫んだ。

「わかっているよ。泉の秘密を明かすわけにはいかないのは。心配おしでない。今の状態でも泉は十分な働きをしているから。さあ、みなの衆。お喋りの時間は終わりだ。ザニンガムがすぐそこまで来ている」

 泉はざわめき、細波を起こして、その上に浮かんでいたすべての顔を消した。

 大いなる森の老婆は顔をしかめて、その有り様を見ていた。あのようなことを言いはしたが、自分の言葉を一番信じられないのは、大いなる森の老婆その人であった。

 たしかにロキ神は侮れない。いたずら神だが、決して力なき神ではないのだ。下手をすれば主神オーディンをさえ手玉に取ることができるだけの実力を持っている。フェンリル狼でさえも、無数にいるロキの子供たちの一人でしかないのだ。

 ロキ神がこの計画に気づき、それを表にあらわさないことで、逆に泉の老婆たちを操っているとしたら?

 もっとも肝心な瞬間に、ロキ神がその本性を表して、目の前を通り過ぎる最終兵器ドラウプニルをつかみ取ったら?

 疑念はそれ自体、闇の命を持った生物のように、人の心の中で増殖する。大いなる森の老婆は、不安を無理に飲みこんだ。いまは悩んでいるときではない。

 それにもし、ミーミルの泉の未来予測魔法がひどく狂っているとしたら、このフェンリル狼封鎖計画のすべてが、水泡に帰すばかりではない。それは世界の終わりを引き起こし、再生への道は断たれるだろう。世界を滅ぼすのは、一人ロキの仕業だけではないのだ。

 だがいまは、招かれざる客の相手をするほうが先だ。大いなる森の老婆は顔をあげた。

 驚くほどひっそりとした足音で、蜥蜴馬が森をかき分けて現れる。その背中の輿の上では、超然とした表情を崩さぬままのザニンガムが、老婆を眺めている。

「失礼だが」先に言葉を発したのはザニンガムであった。その目が泉の上をざっと眺める。静かな泉だ。それにとてもきれいだ。水面に落ち葉一つ浮いていないのはとても怪しいが。それについては目の前の老婆が丁寧に掃除しているのかもしれない。

「こんな森の奥深くでいったい何をしているのかな?」

 大いなる森の老婆はザニンガムを見つめた。その皺だらけの顔の中で、切り株についた斧の痕のような口が開く。

「名もないことさ」

 この答えに、ザニンガムの目は細くなった。それでも静かな口調は崩さない。

「奇妙な答えですな」

「人に言っても詮無いことだからね」老婆は答えると、質問で返した。「それより、あんたはどうしてここにいるんだい?」

「ああ、これは、これは。どうやらわたしは道に迷ってしまったようだ」ザニンガムは嘘をついた。

「下手な言い訳はするんじゃないよ。魔術師調査局のザニンガム」

 大いなる森の老婆は鋭く言い返した。素早く驚きから立ち直ったザニンガムが答える。

「どうしてわたしの名前を。そうか、街にスパイがいたんだな。予言と知恵を司る大いなる森の予言者と聞いてきたが、なるほどそういうわけか。失礼。どうやらわたしは、そちらの商売上の秘密に触れてしまったようだ」

「乏しい見聞を元にした勝手な推測で、誤った結論に飛びつく。なるほど石頭のザニンガムと呼ばれるだけはあるよ」

 老婆は手にした杖を左右に軽く揺らしてみせた。

「その魔法の薬は、あまり使わない方がいいね。元々の配合が人間の皮膚には合わないんだ。じきにあんたの眉毛は全部抜けてしまうだろうよ。そうなればどうするね? 今度は頭にでも塗るのかい?」

「なんとも素晴らしい予言だ。ありがたさに痛み入る。わたしが薬を塗るところを森の茂みから見ていたんだな」

「予言? これは予言なんかじゃないよ。当然の予測ってやつさ。予言が欲しければ、一つしてやろう。ザニンガム・ウルフェウス。

 あんたは落ちるだろう。一番落ちたくはない場所から」

「そりゃどうも」

 ザニンガムはそう答えると、自分が乗っている蜥蜴馬の椅子を点検した。ベルトはしっかりとはまっているし新品だ。これが切れそうには、とても見えない。

 そうしながらも、ザニンガムは心の中でつぶやいていた。この老婆は本当に予言の力を持っているのだろうか?

 いや。ザニンガムは結論した。そんなはずがない。魔術師ギルドにも神人ギルドにも所属していない人物が、予言という高度な魔術を行えるわけがない。この恐ろしげな姿の老婆は、そこらにいる有象無象、インチキ魔術師の一人にちがいないのだ。

 大いなる森の老婆には、ザニンガムが考えていることは手に取るようにわかった。泉の持つ魔法の力を借りるまでもない。この力は、長い間の人間観察の賜物だ。

「だが、まあ、いい。石頭のザニンガム。あんたが欲しいのは予言じゃなくて、忠告なんだろう。そいつも一つ、あんたにあげよう」

 いま、そして、ここ。これこそが、予言と運命の絡み合う展開点だ。これからのザニンガムの行動により世界の運命は決定する。それはおそろしく微妙だが重要な一点なのだ。

「あんたが予想している魔神召喚というのは正しくないってことさ。正しくはフェンリル教徒。それこそがすべての鍵さ」

「どういうことだ? 何か知っているというのか!」

 ザニンガムは叫んだ。

 くそ! ザニンガムは悪態をついた。眉毛がかゆい。魔法の視力がうまく働かない。まるでこの周辺一帯に、霧がかかっているかのようだ。天気はこんなにいいというのに。

 ザニンガムは目をこすった。そして目を開けて、あっと小さく叫んでしまった。

 老婆が消えていたのだ。

 杖にすがって歩いている腰の曲がった老婆が、これほどの短時間に見える範囲から歩み去ることができるものなのか。

 まあ、いい。ザニンガムは蜥蜴馬の向きを変えた。

 フェンリル教徒だって?

 フェンリル狼のことについては、以前に聞いたことがある。月に眠る太古の魔物のことだ。ラングとファガスが呼びだそうとしているものが、もしそれならば、災厄の魔神どころの話ではない。

 問題が大きければ大きいほど、それを解決したときの報酬も大きくなる。

 ザニンガムはにやりと笑った。面白い。次に当たるべきはそれだ。



 この周辺のフェンリル教徒の教祖ホーバートは、目の前に積まれたガラクタの山を見つめていた。座っているのは小さな丘の上に作られた仮ごしらえの小屋の中だ。

 一口にフェンリル教徒と言っても、幾つもの分派がある。穏やかなものから過激なものまで、ずらりと揃っている。ホーバートが指揮する教団は、相当過激なものに属していた。

 フェンリル狼に世界が滅ぼされるのならば、財産は要らなくなる道理だ。だからそのすべてをホーバートは自分の教団に捧げさせていた。正確に言えば、ホーバート本人にだ。

 もちろん、家族もなくなるのだから、信徒には妻帯も許さない。女性教徒の夜の寂しさを埋めるのは教祖たる自分の務めだと、そうも考えていた。

 極論を言えば、この考えは信徒以外の人間にも及ぶ。説得が無理ならば、腕づくでもやるのだ。それこそが人々に対する慈愛の表われ。いまは泣いていても、やがてフェンリル神が復活した暁には、彼らは自分たちが救われたことに涙するであろう。

 その一方で、ホーバートは狂信に走っていない方の自分も意識はしていた。ほどほどに財産が溜まれば、ここから逃げ出すのだ。うるさい教徒たちを後に残して。顔も名前も変えてしまえば、彼らにも追跡はできない。

 フェンリル教徒の悪評が広まり、新しい信者の募集も頭打ちになっている。収益を維持するために追いはぎや強盗をするのにも限界がある。盗賊ギルドがライバルの出現に気づき、手を打ち始めているのだ。ホーバートがここを逃げ出す日もそう遠くはない予定であった。

 たとえ、本当にフェンリル狼が復活するとしても、それはずいぶんと先のことになるだろう。ホーバートが歳老いて死ぬよりも、遥かな先の話だ。

 いや、それよりもなによりも、ホーバート自身は月にフェンリル狼が眠っているという話を信じてはいなかった。それを証明する魔法理論は、彼には難しくて理解できなかったし、大きな狼があの月の上に眠っているならば、どうして肉眼で確認できないのかと、そうも考えていた。

 フェンリル狼を狂信するホーバート師と、フェンリル狼の存在を信じない詐欺師のホーバート。それは限りなく近い別の人格であり、その二つは同時にホーバートという人物の中に共存していた。欲望という一つの鎖につながれて。

 だいたいが、口で何と言おうが、宗教の教祖というものがやることは一つだ。そう詐欺師の側のホーバートは考えていた。酒と女と権力。それだけだ。教祖本人が夢を見る薬に溺れることもあれば、単純で過激な殺人嗜好に走ることもある。そんな有り様を一言で言えば、宗教の目的とは、神の名を借りて自分の純粋なる欲望に己をどっぷりと浸すこと。だとすれば、それはホーバート本人の望みと一致する。

 二つの人格は奇妙に安定したバランスを取りながら、ホーバートの内と外を行き来していた。

 どこからこんな奇妙なアイデアを思いついたのだろうと、ときどきホーバートは不思議に思う。フェンリル狼崇拝自体は、ずいぶんと昔からある、どちらかと言えば穏やかな宗教だった。主に人獣混合種族が行っていたもので、月夜の晩に変身して、フェンリル狼を崇拝するというものであった。

 それはホーバートがメナス地方を旅していたときにさかのぼる。街で行った詐欺がばれて、警備ギルドの連中に追放刑を食らったときのことだ。

 追放刑と言っても決して穏やかなものではない。ホーバートは目隠しされたまま街から歩いて出なくてはならない。走ることも、目隠しを取ることも、抵抗することも許されなかった。立ち止まることもだ。その一つでも犯せば、即座に石弓で撃ち殺されることになっていた。そしてその間ずっと、詐欺の被害者たちはホーバートの後をついて来た。

 手に手に棒や石を持って。中には松明を持っていた者もいた。

 ようやく彼らが引き上げたとき、ホーバートが死んでいなかったのは奇跡であった。

 生きていた。ただそれだけの奇跡だ。決してまだ助かったわけではない。

 夜が近づいていた。じきに獣たちが血の臭いを嗅ぎつけて集まるだろう。荒野の中に裸同然の人間が一人。逃げこむ場所を見つけねば、朝までには確実に死が訪れる。

 木の枝を見つけて折れた足を固定しても、痛みに対しては涙一つでなかった。すでにそれは出尽くしていたからだ。

 荒野の中を歩く。傷ついた足を庇いながら、ただひたすら歩く。夜の満月の下を歩く。死そのものに追われて。

 そうだ。あのときだ。ホーバートの思考はその瞬間に至った。何かが、月の光の下を落ちて来たのだ。それはホーバートの体を貫き、不思議な天啓を与えた。

 月のフェンリル狼を讃えるのだ。それに供物を与えるのだ。そうすれば、ホーバートはもっと素晴らしいものになれる。詐欺師よりも、もっと素晴らしいものに。

 ホーバートの変化を感じて、彼を餌食にしようとして周囲に集まっていた野犬たちが一斉に逃げだした。

 月の光を浴びているうちに、ホーバートの全身から痛みが引いた。折れた足を縛りつけていた木の枝を外す。もうこんなものはいらない。

 奇跡。いや違う。運命だ。

 ホーバートは選ばれたのだ。

 そして、ホーバートはフェンリル教の教祖となった。その不思議な魅力を持って信者を集め、他の教団との激烈な信者獲得競争を勝ち抜いて来た。詐欺師と教祖の人格は目まぐるしく交代し、この邪悪な教団を繁栄に導いた。

 人々の中に悪を吹きこんで来た。旅人を襲うことを教え、金持ちの貴婦人連中を誘惑することを教えた。秩序を乱し、そうして吹き出して来た騒乱を愛することを教えた。

 だが、それももうすぐ終わりだ。ホーバートには、そんな予感がしていた。詐欺師の人格は、それを十分な財産が溜まりつつあるからだと判断していた。教祖の人格は、フェンリル狼の解放が近いのだと、そう信じていた。

 真実のみがもたらす揺るぎなき確信を持って。

 ホーバートは現実へと意識の焦点を戻した。

 二つの人格は同時に同じことを考えた。人間を騙すのはとても簡単だ。彼らの前に横たわる破滅を、耳に心地好い言葉で隠してやればいい。

 人間というものを知れば知るほど嫌悪が増す。かっての自分はそうではなかったのかもしれない。しかしいまの自分がそうであることをホーバートは理解していた。

 その良い証拠がこれだ。フェンリル狼に捧げる供物の山。配下の教徒たちが街や森のあらゆる所から集めてきたゴミの山。

 もし、フェンリル狼が世界のすべてを食い尽くす化け物ならば、供物を捧げる必要なんかそもないはずだ。欲しければ自分で取るだろう。ましてや星々を食い尽くすほどの大食漢が、たったこれだけの供物で満足するはずがない。

 つくづく愚かな者たちだ。集められた供物の山に手を伸ばしながら、ホーバートは思った。このゴミを月のフェンリル狼に送るために、信者の財産は使われる。具体的に言うならば、あのファガスという名の小人族が売っている魔法の箱を買うためだ。そして残りはすべてホーバートの秘密の隠し場所に送られる。

 目の前に積み上げられているのは文字通りガラクタだ。

 きれいな小石。様々な木から集められた葉っぱ。道で拾った銅貨が一枚。干からびた獣の切断された手足。泥だらけの黄金の指輪。痛んで汚れた布の人形。

 黄金の指輪?

 ホーバートのよく動く指は、それを拾い上げた。供物を吟味していた信者の一人がその動きに注意を惹かれる。

 しまった。内心、ホーバートは舌打ちした。供物の吟味は自分一人のときに行うべきだったのだ。目撃者がいては、見つけた宝物を懐に入れることができない。

 仕方がない。この金の指輪はあきらめよう。ホーバートは指輪から泥を落とした。

 泥の下から現れたのは、見事な輝きを誇る金の指輪だ。ずっしりとした重さが、純金であることを保証している。奇妙な痺れが、ホーバートの指先から上って来た。

 何だこれは?

 ホーバートは指輪を見つめた。何の変哲もない、純金の指輪だ。これまでにもっと高価なものを、ホーバートは信徒たちから手に入れていた。なのに、この指輪はどうしてこれほどまでに自分を惹きつけるのであろうかと、ホーバートは怪訝に思った。心の奥深い場所のどこかで、何かが目覚めかけているような感じがした。

 どうしても、この金の指輪から、視線を外すことが、できない。

 心の暗闇の中で、何かがうっすらと目を開けかけた。詐欺師でも、教祖でもない、もっと恐ろしい第三の人格。

 そんな自分の動作を信者の目が一つも余すことなく見つめていることに気づいて、あわててホーバートは目を閉じた。それとともに指輪の誘惑が断たれる。

 教祖たるもの、信徒に疑われるようなことをしてはならない。

 信者の視線をごまかすために、ホーバートは敢えて質問した。

「これは、素晴らしい供物となろう。誰が手にいれたものだ?」

 それに答えて、信者の一人が目を輝かせた。

「あたしです」

「どうやって手に入れたのだ?」

 もしかしたらそこに、もっとあるかもしれない。そんな期待を持って、ホーバートは質問を続けた。一つの指輪がこれほど好ましいのならば、たくさんの指輪はもっと素敵だろう。

「子供が持っていたのです。森の中で遊んでいた子供が。転んで、泣いて、それから諦めて去ったのです。もしかしたらと思いました。だから探してみたんです。落ち葉の下にありました」

「どこの子供だ?」

「知りません。ときどき見かけますが。森に住んでいる人々の子供でしょうか」

 ふむ。ホーバートはまたもや指輪に魅入った。奇妙な、ぞくりとする感じが、うなじに広がるように思えた。ただの金の指輪だ。そうも思った。指に填めてみたかったが、止めた。ここで無意味に、信者の疑惑を招くものではない。

 そう言えば、この金の指輪には見覚えがある。たぶんあの魔術師ファガスが何やら行っていたものだ。とすれば、他にも同じものがあるはずだ。また手に入れる機会はあるだろう。

 大きな欲望を満たすためには、小さな欲望は抑えるのだ。それが詐欺師として成功するコツであることを、ホーバートはよく知っていた。

 『詐欺師』

 そう、それが問題だ。隠し貯えた財宝を、いつ、どのタイミングで持ち逃げするのか?

 この狂った信徒たちを相手に、いつまでも教祖を演じるつもりはなかった。

 だが、この指輪は。ホーバートは視線を戻した。なぜこれほどまでに自分を惹きつけるのだろう?

 どこかで見たことがあるような覚えがする。前回、魔術師の家の庭で見たあれではない。もっともっと古い過去でだ。そう、ずっとずっと昔のことだ。信じられないような昔。まだこのホーバートが産まれていなかった昔。いまの世界が生まれるはるかな昔に。


 巨船が大勢の戦士を乗せて海を割り、稲妻が大地をえぐる。巨大な戦槌を持った大男が天を支えるかのような大きな足で闊歩する。剣と槍を抱えた戦士たちが雄たけびを上げ、隻眼の男が軍を指揮している。


 第三の人格が揺らいだ。本来目覚めるはずはなかったものが目覚めかけている。覚えたこともない知識が無知の闇の中に芽を伸ばす。

 心の中に言葉が浮かんだ。


『破滅の種子』


 いったい何のことだ?

 何と言ったか。ドラウ・・。そう、もう少しだ。もう少しで思い出せる。恐怖のドラウプ・・。

 そのときだ。外で騒がしい音がしてホーバートの夢想を断ち切ったのは。速やかに第三の人格は眠りにつく。

 ホーバートは指輪を供物の中に戻した。

 世界を崩壊させるだけの力を持った魔法の最終兵器とも知らずに。

 自分がいま、すべての運命を司る、その一点に居たことも知らずに。神々でさえも目に見ることはできない運命の女神たちが、ホーバートの周囲で踊っていたのだ。

 信者の一人が魔法の箱を持って来ると、供物をすべてその中に納める。箱の蓋は自動的に閉まる。それは月に届くまで決してだれにも開くことができない。

 ホーバートはその蓋の隙間を食い入るように見つめている自分に気がついた。それが指輪に対する未練だと悟って、ホーバートは自分の心にあきれた。

 これは、あのファガスという名の魔術師が作る魔法の箱だ。値段は目の玉が飛び出るほど高いが、それでもこういった儀式が信者を惹きつけるのは間違いない。他のフェンリル教の集団との違いを強調することは、信者獲得の戦略としては決して悪くはない。ホーバートの率いるフェンリル教団は、実際に月に供物を届けているのだから。これはいわゆる実績なのだ。ホーバート師こそ、フェンリル教の正道を歩くもの。そう噂が広まってくれれば、信者もさらに倍増するだろう。

 外がもっと騒がしくなった。信者たちが口々に声を上げるなかを、蜥蜴馬サマッドに乗った男がやってくる。信者の中でも特に気の荒い男が棍棒を手にするのを見て、ホーバートは制止の声を上げた。

 この男が持つ雰囲気は役人特有のものだと、一瞬でホーバートは見抜いた。

 役人というものは、決して自分の身を危険にさらすようなことはしない。それなのに、たった一人でこのような集団の中に入って来るのならば、何らかの魔法で武装している可能性が高い。下手につついて警備ギルドを呼ばれるような羽目に陥るのは、得策ではない。そう考えたのだ。

「フェンリル教を率いるホーバート師ですな。お目にかかれて光栄です」

 男はホーバートを見るなりそう言った。しかし蜥蜴馬から降りようとする素振りさえ見せない。高い場所から辺りを睥睨している。

 がっかりだ。周囲を見回してザニンガムはそう思った。汚い掘っ立て小屋に、これも薄汚れた信徒たち。あの泉の予言の老婆に言われて、よもやと思って来てみたものの、これでは期待したものは得られそうもない。災厄の邪神を召喚する、あるいは伝説のフェンリル狼を解放する。そのどちらにしても、当然必要になるはずの高度魔法装備の類がここには一切見られない。召喚石。儀式用の特殊な短剣。魔力蓄積用の壺。どれも儀式にはかかせないものだ。それなのにここには、召喚術の基礎中の基礎とも言えるルーン魔法円さえも存在していないのだ。

 ここは違う。ザニンガムはそう判断した。やはり最初の計画通りに行動するべきなのだ。自分の狙いはファガス。狂信者たちの処分は、王国宗教査問会にでも任せておけばよい。

 身構えている信徒たちをざっと見渡してから、ザニンガムは口を開いた。

「申し遅れました。わたしは魔術師調査局の調査委員ザニンガム。周囲からは厳正なるザニンガムと呼ばれています」

 厳正なるザニンガム。ホーバートは舌打ちした。その名なら聞いたことがある。厄介な相手だ。しかも魔術師調査局の調査委員となれば、王国警備ギルドの本部よりも、もっと強力に魔法武装しているだろう。そもそも全力で抵抗する魔術師を逮捕するのが魔術師調査局の仕事なのだから。その手に光る指輪の数々は、装飾を目的としたものではないのだ。

 ホーバートは詐欺師から教祖の人格へと戻ると、言った。

「この神に仕える人々の下へどのような用事で参られたのかな?」

 ザニンガムはにやりと笑った。無意識にその手が上がり、右の眉毛を引っ掻く。

「単純な質問がいくつかありましてな。さて、答えていただきたい。小人族のファガスが行っている悪事について、何か心当たりがありますかな?」



 さて、と蜥蜴馬の背中の上で、ザニンガムはつぶやいた。

 六本の足で蜥蜴馬は進む。岩場も木々も器用に迂回する。そもそも木登りだってできる蜥蜴なのだ。道などというものは最初から必要とはしていない。その閉じた口の先から、赤い舌が空中の臭いを嗅ぐかのように、ちらちらと飛び出る。遠回りするかのような軌道を描きながら、それでも確実に目的地へと進む。もちろん魔法と訓練を併用してここまで育成するのだ。そうでなければ、これほど知能の低い生物を乗馬に使うことなどできはしない。

 ホーバートはいろいろと喋ってくれた。魔法の視覚はホーバートについて実に多くのことを教えてくれたが、魔術師調査局の仕事は宗教を食い物にする詐欺師どもの逮捕ではない。それになんと言っても、ホーバートとその信者は人間族だ。ザニンガムの獲物とはなりえない。

 しかし奇妙な話だ。ザニンガムは蜥蜴馬の背の上で思考をめぐらせた。

 たくさんの金の指輪を使ってファガスが何を行おうとしているのか、皆目見当がつかない。これがヴァリスタリウムやスカイブルーオーのような特殊な魔法能力を持つ宝石ならば理由はわかる。邪神召喚に使えるからだ。所持は禁止されているが、地下組織の市場にときたま高額で提供されることもある。こういった禁止宝石をファガスが持っていれば即時逮捕が可能なのだが。

 金の指輪だと?

 ザニンガムは左右に首を振った。駄目だ。単なる金の指輪を大量に所持していたからと言って、それだけでは逮捕の理由とはならない。魔術師ギルドのメンバーが宝飾品店を開業することは、別に禁じられていないのだ。

 強引に理由をつけて逮捕することもできるが、そうなれば人権組合の連中が黙ってはいないだろう。あの組合の背後にはアリスタナル家がついているのだ。下手をすればそこでザニンガムの経歴は終わってしまう。おまけにこのファガスという小人。名前からしてアリスタナル家の一族にちがいない。

 いつかはこのミッドガルド界から、すべての異種族を追い出してやる。そうザニンガムは決意していた。だが、いまはまだその時期ではない。財界を支配しているアリスタナル家と正面切って戦えるほど、自分は強くないのだ。

 月へ供物を届けるためというあの魔法の箱も、決して違法ではない。顧客の要求に合わせてそれらしきものを作ることを禁じては、魔術師たちの生計が立ちゆかなくなってしまう。

 それにしても、月にまで到達するとは、何という壮大な触れ書きだ。ザニンガムは鼻で笑った。月は、大地の上はるかに、約四千リーグの距離を置いて移動する。たしかに仮想上の存在である世界樹の上に乗って手を伸ばせば、届くかもしれない高さだ。しかし魔法の箱を実際にそこまで投げ上げるのは、決して容易な技ではない。魔術師ギルドの幹部連中にでさえ難しい技であるのに、二級魔術師が作る製品がそれだけの能力を持てるはずがないのだ。

 詐欺の名目でファガスを逮捕することはできる。だがそれだけでは不足だ。ザニンガムは結論づけた。自分が欲しいのは、ファガスとラングを確実に絞首刑にできるだけの証拠だ。

 フェンリル教徒、あれをうまく利用できれば。ザニンガムは夢想した。

 フェンリル復活に至る魔術儀式に、ファガスが関っているという証拠があれば、もっと良いのだ。たとえ月に眠るフェンリル狼の話がただの伝説であったとしても、そこはそれ、何とでも言いくるめることはできる。必要なのは真実ではない。真実らしく見えるもの。大衆にはそれだけで十分なのだ。

 だがそれは無理だ。あそこにあったのは、掘っ立て小屋と、どう見ても詐欺師にしか見えない教祖。そしてぼろぼろになるまで吸い尽くされた教徒たちだけだ。あれでフェンリル復活に至る魔術儀式をやっていると指摘したところで、本気にされるわけもない。

 森は沼地に変わり、その手前で蜥蜴馬が急停止する。ザニンガムは体に食いこんだ安全ベルトの痛みに、思わず眉をしかめた。

 蜥蜴馬の口から伸びた長細い舌が、道の前に座りこんでいる子供に伸びるのを見て、思わずザニンガムはぞっとした。

 人間の子供だ。助けなくては。そうは思ったが、乗っている蜥蜴馬を射殺するところまではいかなかった。便利なだけあって蜥蜴馬というものは非常に高価なのだ。

 舌が素早く引っこむと、蜥蜴馬はうずくまった。もちろんこの図体なのだから、人間の子供を丸呑みするのは簡単だが、もともと草食性の動物なのだ。それに人間を傷つけないように徹底的に訓練をされている。元より危険はなかった。

 ザニンガムは蜥蜴馬の背から降りると、道端で泣いているパット少女の前に立った。

 自分のポケットを探り、飴を一つ見つけだした。それをパットの前に差し出してみる。

 パットが泣きやんだ。

 ザニンガムはにっこりと笑い、それから不思議な予感に従って、自分の眉に魔法の薬を塗りこんだ。



 少女の話を頭の中で再構築するのには、長い長い時間がかかった。

 ファガスは前回と前々回の満月の晩に何かを行っている。あのパットという名の少女の話では、そのたびに金の指輪が箱の中で増えたということだ。

 満月の晩。なるほど、魔法製品が故障をした時間と一致する。

 ザニンガムは口の中でつぶやいてみた。魔法製品が故障するたびに、金の指輪が増える。

 何てことだ。ザニンガムは自分の愚かさを呪った。

 完全に推理の方向を間違えていたのだ。

 ザニンガムは、ファガスが金の指輪を使って何かの魔術を行っているものだと、そう思いこんでいたが、それは間違いだったのだ。

 金の指輪は原因ではなく結果なのだ。

 そう、その通り。ファガスは邪神を召喚したのだ。そしてそのたびに邪神から褒美をもらっていたのだ。

 金の指輪を。

 ザニンガムは自分の考えの正しさを実感していた。

 通常、邪神召喚の儀式が一度で完成することはない。本来の時と場所ではないところに、巨大な魔力の塊である別世界の神を呼び出すのだ。邪神がこの世界に安定して存在するためには、船に対する錨と同じ作用をするものが必須だ。そしてそれには微妙な魔力構造の調整と時空間定位制御が必要になる。何度も召喚の儀式が行われるのは、このためだ。強大な邪神の場合には儀式の数は数十回を数えることもある。

 それならばいっそのこと、ラングとファガスをしばらくの間、泳がしておくという手もある。騒ぎが大きくなればなるほど、それを解決したザニンガムの手柄も大きく評価されるというものだ。犯人がすでにわかっている以上、これを取り逃すという可能性もないことだし。

 いや、とザニンガムは思い直した。

 もしファガスたちが次の満月の晩に邪神召喚に成功したとすればどうなる?

 わずか三回の儀式で呼びだされてしまうような弱小の邪神でも、神は神だ。個人装備の魔法で戦えるような相手ではない。そうなれば地元の魔術師ギルドと王国警備ギルドの手を借りることになってしまう。手柄は山分けということになり、ザニンガムの取り分が減ってしまう。

 これは最悪のシナリオだ。手柄は常に独り占め。それが出世の基本だ。

 ザニンガムの目が細くなった。

 素早く手綱を引き、蜥蜴馬の動きを止める。

 何かが行く手の道の真ん中に立っているのだ。

 人狼。ザニンガムはそう見てとった。

 陽光の下の狼男とは、奇妙な光景であった。

 もっとも変身とは言っても、中途半端な変身だ。下半身は人間のまま、頭だけが狼となっている。全身を黒い毛が覆い尽くしてはいたが。

 真正なる満月のみが、狼男の完全な変身を可能とする。とはいえ、この状態でも、普通の人間よりはるかに強いことは間違いない。

 人狼は宣言した。

「おれは森番フェラリオ。貴様はいま、アリスタナル家の所有地に、不法に足を踏みいれている。すぐに引き返さないと、ちょっとばかりまずいことになるぞ」

 ザニンガムは感嘆した。変身状態でこれほどきれいな人語を話すとは、相当な訓練を受けた狼男だ。

「わたしは魔術師調査局の調査委員ザニンガム。どこにでも足を踏みいれる権利がある」

「ほう?」フェラリオは狼の顎から、長い舌をわざと垂らしてみせてから言った。

「魔法古代地保護法を知っているかな? ここはその適用区域だ。魔術師調査局といえども、逮捕目的ならともかく、調査の段階では、この地に足を踏みいれることは、禁止されている」

「黙れ、この人間モドキめが!」

 自分の領分である法律でやり返されて、ザニンガムは激怒した。薄っぺらな余裕の皮が剥がれて、真の感情がほとばしり出る。

「その法律は、金に目がくらんだ腐敗した王家の者たちが勝手に作った法だ。真の人間たるこのわたしには従う義務などない」

「ついに本性がでたな」

 そう言うと、フェラリオは蜥蜴馬との間合いを詰めた。

 滑らかな筋肉の動き。足の指先を地面に突き立てるかのようにして、かかとをつけずに動く。獣でもないし、人間でもない。こと肉体を使うことに関しては、獣人族の右に出る者はいない。

「知っているぞ。ザニンガム。お前がおれの仲間をどういうふうに扱ってきたか。人間至上主義派。そうじゃないのか?」

 フェラリオのこの指摘に、ザニンガムの目が一層細くなった。長い間の種族戦争に終止符を打った五種族融合法により、人間至上主義派は違法のグループと目されることになった。いやしくも公的機関である魔術師ギルドの調査局の人間がその一員だとばれれば、それだけで出世の道は閉ざされてしまう。

 殺意がザニンガムの心の中に巻き起こった。この狼男は知るべきではないことを知っている。フェラリオからは見えない位置にある親指で、人差し指にはめてある攻撃用の指輪の下側に触れる。そこに刻んであるのは、指輪の出力を決める印だ。

 致死レベル。指輪が新しい出力を報告した。

 ザニンガムが何かをたくらんでいることは、フェラリオにはわかっていた。微妙な筋肉の動き、そして匂い。

 そう、これは殺意の匂いだ。

 それもいままさに他の生物を殺そうとしている捕食動物のみせる匂い。

 魔術師調査局の連中が使う装備について、フェラリオは決して無知ではなかった。利き腕にはめられている指輪はすべて攻撃用だ。反対側の手の指輪は防御用。いずれもちょっとした動作で効果が発動するようになっている。

 防御用指輪が作動すれば、いかに人狼の怪力があるとはいえ、素手のフェラリオにはどうしようもなくなる。しかし、その指輪の魔法はいまは作動していないと、フェラリオは判断した。魔法防御場を常時作動させておくのには大変な金額がかかる。魔法というものは決して安いものではないのだ。

 となれば、フェラリオがザニンガムを攻撃するのと、ザニンガムがフェラリオを攻撃するのと、どちらが速いのかという問題に帰着する。

 蜥蜴馬の背中に飛び乗ってパンチを揮うのと、指輪の攻撃を発動させるのと、どちらが速い?

 五分五分だと、フェラリオは結論した。それならば、やってみる価値はある。人間至上主義派には、多くの友が殺されているのだ。

 口を開き、わざと長い舌を垂らして、はあはあと喘いで見せる。狼の顎に、狼の舌。人間至上主義派が嫌う、獣としての特徴だ。獣の姿を取ることができる人間というものに、彼らは決して我慢できないのだ。

「どうしても、この森から出て行く気はないのだな?」

 尋ねる必要もない質問をフェラリオはしてみせた。

「当たり前だ。いまならまだ間に合うぞ。狼男。道を開けろ」

 ザニンガムは喚いた。もちろん、フェラリオが背中を見せたら、ためらいもなく撃つつもりであった。所詮は、獣人族だ。こいつらを人間扱いするつもりはない。

「仕方がない、強制排除だ」

 狼の顎を使って、フェラリオは無気味な笑みを浮かべてみせた。

「やれるもんなら、やってみな」ザニンガムはせせら笑った。

 人狼の筋力は人間の数倍だ。フェラリオが跳躍して襲いかかるのと、ザニンガムが手を突き出すのはほぼ同時であった。



 執事のバイスターは、午後のお茶を戸外のテーブルの上に並べながら、ふと顔を上げた。

 気持ちの良い風の吹いて来る、素敵な午後だ。日差しは柔らかく、木々は新鮮な緑を見せている。どういうわけかこの森にはあまり虫がすんでいないが、決して何か悪いものがいるわけでもない。

 ファガスが汚れた手を布で拭きながら、作業を一時中断して家から出てくる。

 ここのところ何やらバイスターにはわからない不可思議な作業を、ファガスはずっと続けている。あの問題のルーン円盤は、この間、アリスタナル家の秘密部隊の連中が来て、ファガスが寝ている隙に運び出してしまっていた。今頃はふたたびバーンズン・フライ館の奥深くに存在する金庫の中だろう。だから、いまファガスがやっているのは、また別のことのはずであった。

 きっとフライの館では、またもや警備体制が練り直され、一新されていることだろう。それが全くの無駄であることは、今までにファガスが何度も証明してみせていた。どんなに警備を厳重にしても、いつもどうにかして、ファガスはルーン円盤を金庫から持ち出してしまうのだ。

 いかなる魔法の警備もファガスを前にしては無効。最高級の対人探知器はファガスが作る隠れマントには効かないし、警報装置には無音生成器がくっつけられ、訓練された犬たちはすべて楽しい夢をむさぼっている真っ最中。そんな有り様となる。

 どのみち、坊ちゃまがすることは自分には理解できないのだと、バイスターにはわかっていた。長い長い青春時代の放浪期に、バイスターも少しは魔法をかじってみたことがあった。しかし、この見かけはさえない小男のファガスが作る魔法の道具は、今までに自分が見た魔法の数々をどれも遥かに凌駕するものであることを、これまでの経験でバイスターは知っていた。

 アリスタナル家の執事頭を勤めることにも未練がないわけではなかったが、いまのこの職務にも大変な価値があることを、バイスターは心の中で認めていた。

 ミッドガルド界の歴史に残ることになるすごい人物に、自分は仕えているのだという自負だ。ラングもファガスも、いまだ磨かれていない宝石の原石なのだ。それも並みの大きさのものではない。

 ただそれでも願わざるをえないのは、せめて自分が生きている間に、二人が大成功を納めて欲しいということであった。

 正確な動作でお茶を注ぎながら、バイスターが考えていたのはそのようなことであった。

 突然、森の端が持ち上がると、緑の塊が転がり出てきた。

 驚きに目を丸くしているファガスとバイスターの前で、その塊は蜥蜴馬へと姿を変えると、お茶の並べられているテーブルへと近づいてきた。

「なんてこった! どんなお客かと思えば、よりにもよってザニンガムだ!」

 蜥蜴馬の背の上の男に気づいて、ファガスは叫んだ。

 蜥蜴馬はテーブルの前で止まると、お茶の立てる湯気の中に、ちらりと舌を伸ばしてみせた。その背中の上で、ザニンガムがにやけた笑いを浮かべている。

 腐った肉を目の前にした、屍食い狼のような表情だ。

 ザニンガムの乗った輿の前に縛りつけられている人物を見て、バイスターが目を細めた。

「おっと勘違いするなよ。こいつは魔術公務執行妨害で逮捕したんだ」

 ザニンガムは、気を失っているフェラリオの上で手を振ってみせた。

「それは少々、おかしいように思われますが。ザニンガム様」

 執事のバイスターは言った。

「何を言いたいのだね? その男は」

 ザニンガムは眉をひそめた。卑しくも人間でありながら、この男は小人族に使われているのか?

「ここは魔法古代地保護法の適用区域でございます。森番のフェラリオもそのことはよく承知のはず。失礼ですが、魔術師調査局の筆頭調査委員のザニンガム様。この地域で地区保護官にも任命されているフェラリオに襲撃された場合、それに抵抗することこそ、魔術公務執行妨害と判定されるはずでございます」

「調査委員のこのわたしに、法について口ごたえするこいつは、いったい誰だ?」

 ザニンガムはにらみつけた。

 全く動じる素振りを見せることもなく、バイスターは深々とお辞儀をした。

「わたくしめは、偉大なるファガス様にお仕えするただの執事、名はバイスターと申します。以前にアリスタナル家の執事頭を勤めたことがあると言えば、多少は知っているかたもあるかも知れませんが」

 くそ、と、ザニンガムが口の中でつぶやくのが、バイスターには見えたような気がした。

 一口にアリスタナル家の執事頭を勤めたというが、それは決して簡単なことではないのだ。アリスタナル家に勤める執事の総数は二百を越える。その一人一人が、軽く一言つぶやいただけで企業の一つや二つは簡単に潰れるのだ。その執事たちの頂点を極めていた人物が、法について何も知らぬはずもない。それどころか政界、財界あらゆる方面に顔が効き、それなりの手段を取ることもできるという意味でもある。

 バイスターの自己紹介は一種の脅迫でもあった。そしてそれはザニンガムでさえも無視できない力を背景に持つ。

「まあ、人の家を訪れるのに、手ぶらでは何だと思ってな」

 ザニンガムはフェラリオの縄を解いた。魔法の束縛が外れ、フェラリオが動けるようになる。とは言っても、まだ意識を失ったままだが。

 バイスターはフェラリオの体を受け取ると、家の中へと担ぎこんだ。

 調査局の攻撃装備の一つである魔法の指輪から放射される、手加減なしの衝撃波をまともに浴びせたのだ。頑丈さだけが取り柄の人狼種でなければ、あの一撃で死んでいただろう。もとより殺すつもりでザニンガムは撃ったのだ。それでフェラリオが死ななかったのは、ザニンガムに取っては、ある意味では幸運、ある意味では不運であった。

 フェラリオはザニンガムが人間至上主義派であることに感づいてしまっている。ファガスに見せびらかした後で、そっと始末するはずであったのに、これでは計画がすべて丸潰れだ。

 表情を変えないままに、ザニンガムは心の隅で考えた。別の手を考えねばなるまい。ファガスを逮捕したときに、その罪にうまく連座させるのだ。

 それにしても、とザニンガムは思った。さっきの執事はいったい何だ。アリスタナル家の執事頭だと?

 自分は騙されたのだ。あらためて考えてみて、ザニンガムの心の中に怒りが湧きあがってきた。はったりだ。アリスタナルの執事頭と言えば、指一本動かしただけで、小さな国の王の首ぐらいは簡単に飛ぶほどの実力者のはず。それがこんなところで、二級魔術師に仕えているはずはない。

 ザニンガムはファガスとまともににらみ合った。

 ファガスの頭は、ザニンガムの腰の当たりまでしかない。こんな人間に、この厳正なるザニンガム、泣く子も黙る魔術師調査局の調査委員であるザニンガムが、なめられてたまるものか。

 ザニンガムは蜥蜴馬から降りると、ファガスの前に立った。

「いったい、何の用だ」ファガスは突っかかった。「まさかうちの森番を遊び半分に撃つためにここへ来たって言うんじゃないだろうな」

「そう喧嘩腰になることもないだろう」

 ザニンガムは偽物の穏やかな笑みを顔に浮かべて言った。ぼりぼりと左の眉毛を掻く。この薬にもうんざりしていた。かぶれた肌がひどくかゆい。だが、いまこそ真相にもっとも近づいているときなのだ。

「ちょっとばかり聞きたいことがあってね。この地点を中心とする一帯に、大規模な魔法道具の障害が起きていることは知っているかね? 前回と前々回の満月の晩なのだが」

 大当たりだ。ファガスの周囲で狂ったように揺れる色彩の塊を見ながら、ザニンガムは心の中で歓喜の声を上げた。

 犯人だ。その背景がどうであろうとも、間違いなくこの小人が首謀者だ。

「金の指輪か。また、大変なものに関ってしまったものだな」

 ぼそりという感じで、ザニンガムは続けた。何が大変だかわからないが、こう言っておけば、自分で思い当たるだろう。

 いまやファガスの周囲は動揺を示す光の嵐だ。

 魔法の視覚など必要がない。この小さな男の胸の中の小さな心臓の音が、祭りの夜のドラムもかくやとばかりの大きさで、聞こえてきそうだ。

 真実に触れるべき瞬間だ。

 ザニンガムの体の中を戦慄が走った。全身に装着した、魔法装備の数々に心をめぐらす。すべてが白日の下にさらされたときに、この男はどんな抵抗をするのだろうか?

 災厄の魔神の召喚に対する刑罰は、死罪と相場は決まっている。従って、自首ということはそもそもありえない。どんな場合でもこういった犯罪の首謀者は、死ぬまで逮捕に抵抗するものなのだ。

 炎、凍結、衝撃、雷撃、いやいや、隠してある魔法兵を起動する可能性もある。単純にそこのテーブルの上のナイフを握りしめて飛びかかって来るということも。

 いずれにしろ、そうしてくれれば都合が良い。裁判をする手間が省ける。防御魔法は瞬時に発動するし、攻撃魔法も完璧だ。人差し指にはめてある衝撃の指輪はすでに最強レベルに設定してあるし、その隣の炎の指輪もそうだ。魔術師ギルドの幹部クラスの作った特注品。家一件ぐらい、瞬時に焼き払えるだけ威力がある。撃ち合いになったって、十分に火力で圧倒できるように予備の指輪まで持って来ている。

 だが、もしそうなれば、ここで仕留めることができるのはファガスとその執事だけだ。巨人族のラングはまた別に追いこまねばならない。いや、ファガスが死ぬ前にすべてを話したということにして、ラングに誘導尋問をすればいいのだ。あの巨人もこの陰謀に荷担しているのは間違いないのだから。

 決心がついた。最後の質問をしよう。それから、撃つのだ。いや、それともここで撃って、それから最期の質問をするという手もある。

 ファガスはまだ動揺したままだ。派手な感情の色を巻き散らしている彼を見つめながら、ザニンガムは口を開いた。

「さて、二級魔術師ファガスよ。すべてを告白する準備はできたかね?

 魔神を召喚しようとは、また大変なことをやってくれたものだ」

「へ?」ファガスが気の抜けた声を出した。

「へ?」魔法指輪をつけた片手を上げながら、ザニンガムも繰り返した。

 魔法の視覚に映るファガス周辺の色彩が褪せて消える。呆気に取られているのだ。

「魔神召喚?」逆にファガスが聞いた。

「そうだ。魔神召喚だ」

 ザニンガムはあわてた。事態が急変したのだ。否。否。否。否定のシグナルが飛び交っている。そんな馬鹿な。

「何のことだ?」きょとんとした顔でファガスが言った。

 フェラリオを客間のソファーに寝かしつけてきたバイスターが、湯気を上げるポットと新しいカップを持って姿を現した。

「坊ちゃま。お茶の続きにしましょう。ザニンガム様もいかがですか?」

 手早くカップを並べなおすと、お茶を注いだ。その一つを手に取ると、バイスターは匂いを深く嗅ぎこんで、それから口をつけてみせた。

 これは自分が予想した状況とは違う。ザニンガムは心を落ち着けようとした。途中まではうまく行っていた。ファガスはひどく動揺し、今回の事件の犯人であることを、自分から暴露して見せていたのだ。それなのに、いったいどうしたというのか?

 そうだ。状況を建て直すのだ。どこで間違ったのかを見つけだし、もう一度ファガスを追いこむのだ。

 ザニンガムは手を振り、お茶の内容を検査した。敵性薬物なし。防御指輪が直接ザニンガムの心の中に報告する。

 敵陣の中で悠然とお茶を飲む。相手に脅しをかけるのには十分な行為だ。こちらにガッツがあることを相手に示すことができる。

 ザニンガムはお茶をすすりこんだ。不思議な風味を持った、かすかに甘みのあるお茶だ。

 風が吹いた。

 いきなり蜥蜴馬が六本の足で立ち上がると、さも大事な用事を思い出したかのように素早く向きを変え、森の中に走りこんだ。

「おや、いったいどうしたのでしょう?」

 香り高い湯気を立てる自分のカップから顔を離して、バイスターがさも不思議そうに言った。

「蜥蜴馬というものは、気ままな生物でして。ほんのときたまですが、あのように走り去ってしまうことがあるそうです。さあそうなると、後が大変で、二日でも三日でも、当てもなく走り続けるということを、以前にどこかで聞いたことがあります」

「貴様! いま何かしたな!」

 ザニンガムは蜥蜴馬が消え去った森を横目でにらみながら叫んだ。

「とんでもありません。ザニンガムさま。わたくしめが一体なにをしたというのです?」

 バイスターはさらりとザニンガムの言葉を受け流してみせた。

 魔法の視覚を通しても、この執事の周りには、何の感情の色もでていない。鍛えぬかれた自制心。そうでなければ、世界の富の大半を握る一族の執事頭など勤まるわけがない。

 バイスターは真っ向からザニンガムの目を見つめた。ザニンガムがどのような手段を持っていようが、何も恐れてはいないことを、その瞳が示していた。

「それより、ザニンガムさま。急いで後を追ったほうがよろしいかと存じます。

 調査局には、飛行船を始めとして、さまざまな乗り物の徴発権がありますが、あくまでもそれは徴発権のみです。運賃は当たり前のことですが、もし徴発した乗り物が何らかの事故で失われてしまった場合には、その代金は直接に調査局へ請求されることになります。この場合、乗り物を徴発した人物は始末書を書かねばなりません。

 正当なる理由があればともかく、ご自身の不注意で、高度に訓練された非常に高価な蜥蜴馬を失ったとなれば、これはもう出世の妨げとなるには十分な不始末となるのではないでしょうか」

 そこまで言ってから、さらに慇懃な口調で、バイスターは付け加えてみせた。

「いえ、これは無駄なお喋りでございました。わたくしはファガスさまにお仕えする、一介の執事に過ぎませんので、調査局の内部のやり方については知るはずもありません。これらはみな、あくまでも推測で申し上げているのでございます」

 しばらくの間、ザニンガムは、親の敵でも見るかのような怒りの目で、頭を下げたままのバイスターをにらんでいた。それからいきなり踵を返すと、逃げた蜥蜴馬の後を追って、森の中へと消え去った。

 ファガスが椅子の上で笑い転げた。

 バイスターはお辞儀を解くと、お茶のカップを片付け始めた。

 大声で笑ったせいで息も絶え絶えになり、ファガスはようやくのことに、質問を口にできた。

「バイスター。お前が魔術を使えるとは思わなかったぞ」

「魔術? まさか!

 わたくしのようなただの執事に魔術など使えるわけがございません」

 バイスターはそう言うと、ポットの中のお茶を覗きこんだ。

「おや、わたしとしたことが。メスト葉のお茶を入れてしまったようです。困りましたね。この葉で出したお茶は美味しいのですが、一つ欠点があるのです」

「どんな?」いたずらっぽい表情で、ファガスは聞いた。

「それがその」執事のバイスターは心底済まなそうな表情で答えた。

「このお茶の匂いが、蜥蜴馬は大嫌いなのです。一度この葉の匂いを嗅げば、まあ、三百オーク走っても、止まりはしないでしょうね。このお茶を知らずに飲んだ人が、おとなしいはずの蜥蜴馬から振り落とされるという事故がよくあるのですよ」

「で、ザニンガムはそれを飲んだ?」ファガスがにやにや笑いながら言った。

「どうもそのようで。はてさて、これでは、ザニンガムさまが今日中に蜥蜴馬を捕まえることができるかどうか、まことに怪しいものでございますね」

 またもや笑い転げるファガスを後に残して、バイスターは片付けものをするために家の中へと戻った。執事という職業には、主人が笑い転げている間にやらねばならないことが、それはそれはたくさんあるのだ。

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