そこにいたから。

星野結斗

そこにいたから。

 いまだに覚えてるあの頃の感情、それは確かに僕の初恋だった。

 今は社会人になって居酒屋でビールを飲んでるけど、仕事が苦しくなる時にはいつもあの人のことを思い出してしまう。今は何をしているのか、元気なのか、そんなことばかり考えている。何も変わらないのに、馬鹿馬鹿しいことだよな…。


 もちろん、連絡先は持っている。でも、僕は卒業してから一度もあの人に連絡をしていなかった。連絡をしてはいけない相手、あの時にもう諦めたことだったから…。


 そう。僕が好きだったのは高校時代の先生だった。


 ……


「おはよう!春くん!」

「おはようございます。美咲先生」


 僕の家はけっこう遠いから毎朝7時に家を出て学校に着いたら8時くらいになる。30分くらい余裕ができても僕にできるのは教室でスマホをいじることだけ、本当に何もいない高校生活だった。


 でも、3年生になった頃、新しい先生が赴任されたのだ。

 先生の名前は「花林美咲はなばやしみさき」清楚系の人で、茶色の長い髪の毛や笑う時に見えるその可愛い笑顔がとても魅力的な先生だった。挨拶をする時まではただの先生、それ以上もそれ以下でもないそんな関係だったはず。


 そして数日後、偶然と言うあり得ない現象の意味を実感した。


「馬鹿馬鹿しい…、アラームの設定を忘れるなんて…」


 あの日はアラームが鳴いていなかったから急いでバス停まで走っていた。眠いし、疲れたし…、そのまま30分くらい居眠りをしていたら「カン〜!」と揺れるバスに目が覚めてしまう。ドキッとして窓の外を眺めたら、まだまだ遠い道にため息をついてしまった。


「はぁ…」

「ため息は良くないよ?」

「えっ…?」


 これが僕と美咲先生の初対面だった。


「確かに…、はな…、はな…」

「花林美咲だよ。先生の名前は覚えてください!春くん」

「はい。すみません…」


 なぜか、美咲先生は僕のことを名前で呼んでくれた。大した意味もないのに、僕はそれがけっこう嬉しかったと思う。そして学校前のバス停に着いた時、僕たちは一緒に降りて一緒に歩いていた。僕は先生にとってただの村人Aだったかもしれない。それでもこの一時が好きで、ありふれた話をしながら学校に向かう。


 もうそれでいいと思っていた。

 でも、次の日もその次の日も僕はバスの中で先生と出会ってしまう。これが恐ろしい偶然の魔法。それから僕と先生、二人っきりの時間が増えてどんどんプライベートの話や悩みまで話すことになった。


 たまには寝ている僕に冷たいコーヒーを当ててびっくとさせたり、降りる時に声をかけたり、優しく…起こしてくれた。その度、いつも「アハハッ」と声を出して笑う先生に僕は惚れてしまったのだ。


 先生のことが気になったのは、こんなくだらないきっかけだった。

 友達はいつも先輩とか後輩と付き合ってるのを話しているけど、僕には彼女を作る暇なんかなかった。高3だし、今は勉強の方がもっと大事な時期だった。特に数学が問題だった僕には、先生の存在がまるで天使みたいに見えたのだ。


 まだ24歳なのに、すごく頭が良くて…それは先生だから当然なことか…。いつも職員室で先生に知らない問題を聞いていた。しつこく質問しても先生はジュースを買ってくれたり、進路相談をしてくれたり、笑顔で僕に話してくれてすごく嬉しかった。


 僕はそんな先生が好きで、いつの間にか勉強より先生のことを思い出してしまう。


「おっはよー!春くん!今日も頑張ってる?」

「おはようございます。先生。頑張ってます」


 でも、僕に言えることはただ「ありがとう」「おはよう」みたいな挨拶しかなかった。高校生の僕が先生を好きになるなんて、そんなことは犯罪だったから…。その偶然に僕は目を逸らしていた。


 それから半年くらい。僕と先生はもはや友達のように仲良くなって、バスで会ったらさりげなく会話を始める。連絡先も交換して、知らない問題とか悩みがあったらいつも先生にL○NEを送っていた。そして文字を打つ時、急に電池切れになったスマホの暗い画面に僕の顔が映る。それは確実に恋に落ちた顔だった。


 そしてある日、先生は僕に変なことを聞いた。

 それは「君だったらどうする?」って、先生の友達が彼氏と喧嘩をして別れようとしている話だった。いわゆる恋話、僕は恋愛経験はゼロだったけど、先生にこれだけは言っておいた。「くだらないことに執着しなくてもいいです」って、それを聞いた先生は笑みを浮かべながら僕の頭の撫でてくれた。


「そうだよねー。やはり若い高校生はいいよー」


 と、先生が言ってくれた。

 今ならその意味が分かるけど、あの頃の僕はただ先生が頭を撫でてくれたことにすごくドキドキしていた。


 僕は、どうしたらいいのか自分の気持ちを抑えない高校生だった。


 下駄箱で挨拶をするのも、廊下で挨拶をするのも、どうしてこんなに苦しいのか…。ただ、挨拶をするだけで僕は勘違いをしていたんだ…。知っていた。そんなこと、ずっと知っていたのに僕にはできなかった。どうしてもこの気持ちを伝えられたくなる僕が憎かった。気持ち悪い…、本当に気持ち悪い人だ僕は…。


「あれ?今日は元気ないよね?春くん…どうしたの?」

「えっ…?そろそろ卒業だから、ちょっと…」

「だよね?すぐ卒業してしまうから…、高校生活は長くないよね…?」

「はい…。先生は…、楽しかったんですか?高校生活」

「私?私はあんまり楽しくなかった…。いつも彼氏に振り回されて…、いい思い出も作れず、そのまま卒業したの」

「そう…ですか」

「でも、春くんは頑張ったから…。きっといい大人になるよ」


 この短い会話で泣きそうになった。

 季節が冬だったからか、口から出る白い息を見ながら学校まで歩いて行く。


「どうしたの?」

「いいえ…。今日は雪、降りますかね…」

「うん…。もうクリスマスだから、降る方がいいかもしれない!」

「はい…」


 クリスマス、あいつらは彼女とデートするのか…。

 写真を送ってくるバカたちに、今日は少しだけ羨ましい感情を感じてしまう。


 そしてクリスマスの日、僕は今まで我慢していた自分の気持ちを先生に伝えようとした。無茶なこと、気持ち悪いこと、そんなことより今の苦しい気持ちをどうにかしたかったから…。先生にL○NEを送った。


 今年のクリスマス、空いていますか…?


 先生はさりげなく「うん」って答えてくれた。

 こうなるとは思わなかった。てっきり「ごめん」とか「忙しい」とか、そんな返事をすると思っていたのに…。むしろ「どこで会う?」って送ってくれる先生に僕はびっくりしてしまった。


「春くん!」

「花林さん…」

「へえ、外では先生って呼ばないんだ」

「はい…」

「カフェ、行く?」

「はい…」


 外で先生と会った時、彼女はすごい大人だった。

 なんって言えばいいのか分からないけど、大人ってイメージがすごかった。温かいコーヒーとそのコップを触る先生、僕は緊張した顔で先生と目を合わせた。


「春くん…私に話したいこと…、あるんでしょう?」

「知っていましたか…」

「うん…。どうして、私なの?」


 先生は知っていた。やはり高校生の考えなど、先生はすぐ分かってしまうんだ。


「花林さんが…、優しかったから、こんなこと勇気を出しても言ってはいけないって分かっていますけど、ダメでした」

「……うん」

「好きです…」

「……」

「心がつらくて…、何をしても花林さんのことしか思い出せないから…。自分が変な人なのも分かっています…。だから卒業する前に自分の気持ちを伝えたかったんです」

「ありがとう。春くん…」

「はい…」


 もちろん、答えられないことだった。


「私、嬉しいの。彼氏と別れて悲しかったのに、春くんと出会ってから毎日が楽しかった。いつも私の前にいて、私と一緒にいて…、当たり前のように春くんはそこにいたから…」

「はい…」

「嬉しい…。嬉しい…。今の私はそれしか言えないから…、ごめんね。春くん…」

「はい…。僕はそれでいいと思います…。先生、今までありがとうございました。いてもなくてもいい僕の高校生活は先生のおかげで楽しくなりました…!」

「……うん。私も楽しかった春くん」


 現実はこうなんだ…。

 理想なんか、ただの理想だったから…、そんなことが叶える世界はどこにもいない。あの日、僕は先生に自分の気持ちを伝えて、先生は優しく僕に話してくれた。結果がこうなるのは、もう知っていたから大丈夫だと思ったけど…。


 そうだと思っていたけど…。

 学校でもらったコーヒーはそんなに甘かったのに、どうしてこのコーヒーはこんなに苦いのか…。


 そして卒業する前に、先生は僕の前から姿を消してしまった。

 多分、他の学校に行ったと思う…。


 ……


「はぁ…。働きたくない」

「働けよ。春!人生ってそんなもんだから!」

「そうだよね…。今日もありがとう」


 お金を払ってから外を歩き回る、今日はそうしたい気分だった。

 大雪か、あの頃と同じ雪が降っている…。昔のことを思い出しながら自販機で缶コーヒーを買った。先生が買ってくれた缶コーヒーと同じブランド、これも偶然ってことか…。全く、もう偶然はうんざりだ…。もう…、そんなことは忘れたいのに…。


 


「春くん…?」

「美咲先生…?」


 僕はいまだにその偶然が嫌だ…。

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そこにいたから。 星野結斗 @hosinoyuito

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