フラストレーション

辻井紀代彦

本文

「祐二さん浮気してますよ」

 そんなこと知ってた。わかってないわけがなかったけど、胸の下の方からたがが外れたみたいに何かあふれてきて、止められなかった。遠くから風に乗って舞い込んできた、踏切の音がやけに鮮明に聞こえる。気づけば部屋のカーテンが揺れているのをじっと眺めている私がいて、気づいてからも、しばらく私はそのカーテンの端を見つめていた。

 彼の部屋で、私が窓を開けている。

 身体中に力を入れたくなくなってベッドまで歩み寄ると、再びスマホが鷹揚に震えた。

「浮気相手、俺の彼女なんです」さっきの言葉の続きだった。少し悪寒がした。「一緒に浮気して、仕返ししませんか」

 なにいってんの、とだけ返して画面を落とした。

「どうしてそんなに勝手に熱くなれちゃうの」

 熱くなる。悲しいことがあると、勝手にしなびた煙草に火をつけて、ちりちり音を鳴らしながら、涙一つ流さないでため息をつく。肺で濾過ろかされて透明になった煙を、むせびながら吐き出している祐二の姿がふと脳裏によぎった。

「それで終わりにするんだよね」

「うん、もうやめる」

 少し面長過ぎる祐二の横顔が、暗闇の中で微笑んでいた。その言葉にも表情にも嘘の香りはないのに、少し寂しそうな顔をするのが許せなかった。

 祐二が煙草をめられた試しなんて無い。それでも、彼が「やめる」と口にするたび、私は愚直になってしまいたくなって、彼を信じる。彼が浮気をしていたって、私に黙って煙草を吸っているわけがないと本気で思える。

「もし、今日も持ってたら──」

 遠く、ずっと遠くから、潮騒の音が聞こえる。砂浜にぶち当たって無残に弾ける泡たちの叫声きょうせいを、風が静かに運んできている──あるいはただの雑音をそう錯覚しているのかもしれない。だとしたら、祐二のベッドでうなだれている今のこの私はあまりに惨めだ。

 運命の人なんて存在を本気で求めていることが、そんなに馬鹿馬鹿しいことなんだろうか。私のことを一生求めて、一生愛して、一生守ってくれる人が、祐二だと信じ続けている。彼が笑うときの口元とか、私が背中に感じてきた腕の感触とか、それは全部本当のことで、なのに、どうして私がこんなにも嫌がることを平気でしていられるんだろう。

「なんでよ」

 虚空に投げやった言葉が窓を抜け出して、ベランダまで転がって欄干の間からぼろぼろ落ちていく。そのとき、玄関の方で音がした。

「茜、いる?」

「いるよ」

 動揺を気取られないように、はっきり声を張る自分に腹が立った。それでも彼のために、玄関前まで歩み寄っていく。

「鍵忘れちゃってさ」

「なにやってんの」

 笑い声を震わせながら、ドア越しでくぐもっている彼の声を聞くと胸が熱くなった。昔実家で飼っていた猫の姿が頭に浮かんできて、その光景が私の中のいろんなものと一緒に赤黒く燃え上がった。

 土間に片足を着いて内鍵のつまみをひねると、私の目の前が縦に引き裂かれて、穏やかに笑う祐二の顔が現れる。ほのかな汗と土の香りに鼻先をくすぐられながら、気の抜けた「ただいま」を聞いて頬が緩んだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

フラストレーション 辻井紀代彦 @seed-strike923

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ