ハイヒールの思い出

祝 咲良

ハイヒールの思い出

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 いつものようにリビングのソファにいると、傍らに置いたスマホから着信音が響いた。貴方との共通の、昔からの友人からだった。

「連絡行ってる?」

「いきなり何?」と聞き返すと

「やっぱり行ってないんだ」と言う


「落ち着いて聞いてね」

そう言われて背筋に冷たいものが走っていく気がした。吉報ならばこんな言い方をするはずがない。鼓動が激しくなっていくのが自分でも分かった。

それ以上聞きたくないという気持ちを押し破られた


貴方の訃報だった。


膝が震えてくる。手が震える。


だって、昨日話したんだよ。新作ができたから見せてあげるねって、そう言っていたんだよ。


震えを止めようと力を入れると余計震えてしまう。スマホを必死に耳に押し当てて震えを止めながら話を聞いていた。


事故だった。バイクに乗っていた時、親の手を振り切って歩道から飛び出してきた子供を避けようとして転倒、中央分離帯に激突したらしい。

子供は無事だったけど、貴方は帰らぬ人となってしまった。


「聞いてる?大丈夫?」

尋ねているけれど、言葉が喉の奥て詰まって出ていかない。


「ん… ん…」

それが精一杯だった。


「お通夜と告別式の予定と地図を入れておくからあとで確認してね」

それで電話が切れた。


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貴方は靴職人を目指していた。

「ハイヒールっていうのは、女性へのオマージュ、リスペクトなんだよね」

ハイヒールは女の足を縛るものみたいだと言った時、貴方はそう言いながら真剣な目をしていた。


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 棺の中の貴方を見た。穏やかな顔。ありきたりな表現だけど、やっぱり眠っているようにしか見えなかった。

 でも、貴方の暖かい息づかいはそこにはない。抱き寄せてくれた暖かい胸はそこにはない。笑いながら頭をポンポンとしてくれた暖かい手もそこにはない。冷たい胸、冷たい手。貴方はどこに行ったの。そこにいないのはわかったから早く出てきてよ。

 泣いては駄目。声を出しては駄目。一番辛いのはご家族の皆さんなんだから。声をあげて泣いたらいけない。そう思っていてもあふれてくるものを止めることができなかった。


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 お香典返しの薄墨色の紙の手提げ袋を持ってお通夜の会場から駅までの道、既に日は暮れていた。通りがかった商店街の街灯とショーウインドウの明かりが涙に滲んで白、赤、青… いろいろな色の光の筋になっている。涙を拭うとその時だけ元の世界に戻り、そして再び光の筋になってしまう。

 涙を拭い、ふと目をやった先は靴の専門店だった。ショーウインドウに並ぶ靴を見つめながら、貴方のことを思い出していた。「いつか自分の作った靴でお客さんを喜ばせたいんだ」そう言っていたけれど、日々の仕事は靴や鞄の修理ばかりだった。

 こういうのも作りたかったはず、あぁいうのも作りたかったはず。涙をいくら拭っても崩れて見えなくなってしまう靴、靴、靴…。そんな中に「非売品」の札がついたハイヒールがあった。心臓が一瞬止まった気がした。背中から始まった痺れが体全体に広がり、頭の中を覆い尽くしていった。

 足が硬直したようになり、そこから一歩も動けなくなった。地面が足を離してくれない。地面がここに引き留めようとしている。そんな風にも感じられた。


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 視線の先にあったのは、貴方の靴。貴方が初めて一から作ったハイヒールだった。

 練習するからと木型を作ったあの日。何度も寸法を測られるのが恥ずかしくて、つい足を窄めてしまいそうになるたびに、貴方に叱られた。「だって…」と言うと「だってじゃない」と、わざと怒ったような声を上げる貴方がとてもおかしかった。

 木型を作っても、靴ができるまではとても大変で、貴方は時々とても嬉しそうな、そして時にとても難しそうな顔をしていた。時にはうまくいかなくて大声を上げて最初からやり直したりもしていた。そんなふうに、真剣に靴に向き合う貴方が好きだった。


 ハイヒールを作っている貴方を見ているとき「ハイヒールっていうのはね」そう貴方は言った。貴方は靴に目を向け、手を動かしていた。「ハイヒールっていうのはね、靴の裏側まで人に見せる靴なんだ」靴を作る音が響いていた。

 「他の靴なら手に取って裏返さなければ見えないところまで全部見てくださいってアピールする靴なんだ、ハイヒールって。だから自分が試されているみたいで怖いんだ」

 貴方はそんなことを言っていた。


 出来上がったのは素敵なハイヒールだった。踵から滑り降りるように先端に向かう柔らかい曲線がとても綺麗で、なまめかしくも感じられた。先端に行くにつれて絞り込まれるように細くなっていくヒールもとても艶っぽかった。

「ハイヒールっていうのは、女性へのオマージュ、リスペクトなんだよね」

 それが貴方の口癖になっていた。

「だから、この靴は… 」

 そう言う貴方と目が合った

「このヒールは?」

 ぎゅっと抱きしめられている姿だよと貴方は恥ずかしそうに語っていた。


 「履いてみてよ」と言われて足を入れると、吸い込まれるように入っていき、吸い付くように止まった。靴が足に、足が靴になったような、そんな感じがした。靴を履いてこんな感じがしたのは初めてだった。


 「靴と足が一つになったみたい」と言うと、「ハイヒールが女性、足が男性っていう感じだろ?」

 ちょっと想像しかけたら「変な事考えるなよ」と笑っていた。


 「少し歩いてみて」と言われたけど、こんなに高いヒールは履き慣れていない。腰が引けたような変な歩き方になっているのを見ていた貴方が「靴はいいが、履いておる者が問題じゃな」と、お年寄りのような声を出しておどけてみせた。


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 ハイヒールは履く機会がないまま、戸棚に飾られていた。

 ある日、貴方が息を切らせて帰ってきた。「どうしたの?」と尋ねると「自分の靴を店で飾ってもらえることになった」と、走ってきた苦しさの上に笑顔を乗せてそう言った。

 「メールとか電話とかじゃなくて直接言いたかったんだ」貴方にぎゅっと抱きしめられた。ちょっと汗臭かったこと、暖かい貴方の吐息、暖かい貴方の胸、貴方の腕がその日の記憶に残っている。「本当に良かったね」そう言いながらキスをした。


「あの靴、あのハイヒールを飾りたいんだけど、駄目かな?」

貴方は戸棚を指差した。

初めての靴がなくなるのは寂しいけど、みんなに見てもらえるなら… そう思って「すてきね」と、それだけ言った。


翌日、店に持っていくための箱を探しに行った。家にある適当な箱じゃなくて、ちゃんと新しい箱に入れたかったから。箱の専門店に二人で行って、二人で選んだのは黒い箱。「何者にも染まらず、わが道をいくのだ」とか、貴方はちょっと格好つけていた。

家に戻り、ハイヒールを入れながら、箱の蓋の折返しを少しめくって、「この裏にこっそり名前書いちゃおうよ」と言うと、「それいいね。二人の合作だし」と、そう言いながら二人の名前を書き込んだ。


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そのハイヒールが、目の前にある。


あの日の貴方、貴方の笑顔、貴方の眼差し、貴方の… 、貴方の… 貴方との思い出が次々と頭の中で浮かびあがり、頭の中を、体の中を走り回っている。

 頭をポンポンと叩かれたこと、優しく髪を撫でられたこと、肩を抱かれたこと… 貴方はたくさん触れてくれた。いつでも優しく暖かく包んでくれた。

 落ち込んでいる時にはいつも肩にトンと手をおいてから、トトンと二回と叩かれた。「ツートト、モールス信号の”D"、大丈夫の”D"。元気が出るおまじない」と貴方は微笑んでいた。


 ただ時間だけが過ぎていき、商店街の店も一つまた一つと照明が落とされ、シャッターが降ろされる音が響いていた。靴屋さんの照明も落とされた。貴方の靴を照らしていた照明も消え、輝きを失った靴が寂しい夜の街に取り残されたようだった。


 シャッターを閉めにきたらしいお店の人が声をかけてきた。


「ずっと見ているけど、これは非売品だよ。一点物だけど、女性的な綺麗な形でしょ?ちょっと荒削りなところもあるけど、丁寧な仕事しているんだよね。他の店で飾られてたのに一目惚れして譲ってもらったんだけど、誰が作ったのかねぇ。聞きそびれたまま、譲ってくれた店の旦那も亡くなっちゃってね」


 どことなく、貴方がおどけた時のお年寄りの声にも似ていた。


 下を向いたまま溢れてくる涙を止めることができなかった。涙が嗚咽に変わり、話すこともできなくなりながら、やっと貴方の名前を言えた。お店の人が何か尋ねていようだけど、聞こえない。何を聞かれているかわからない。ただ貴方の名前だけを何度も繰り返していた。


 シャッターが閉められる音がして、お店の人の足音が遠くなり、消え去っても、まだそこから動けなかった。歩道に涙の跡がいくつもできていた。


 足音が再び近づいてきて、すぐ横で止まった。「非売品だけどね」という声がした。


トン

 手が肩に乗せられた。貴方の手によく似た柔らかさと暖かさだった。


トトン

 はっとした。貴方と同じ叩き方。大丈夫だよっていう時の、あのリズム、あの叩き方。あわてて涙を拭いて、回りを見たけど誰もいなかった。街灯だけが灯っている、真っ暗な商店街があるだけだった。


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 そこから駅までどうやって行ったのか覚えていない。気がついたら駅前にいた。

 家に着いて薄墨色の手提げ袋を開いて息が止まった。一番下に黒い箱が入っていた。見覚えのある黒い箱。開けていみたら、あのハイヒールが静かに横になっていた。蓋の折返しをそっとめくると、二人の名前。その横に「一緒になろうね」と書き足してあった。


 ハイヒールを、そして箱を抱きしめて貴方の名前を呼び続けることしかできなかった。


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 もう一度あの店に行こうと思って何度か探してみたけど、どうしても見つけることはできなかった。


 今、そのハイヒールはガラスケースの中に飾ってある。下に鏡を敷いて、目の高さに置いて、ハイヒールの全部がちゃんと見えるように飾っている。

 いつか必ずこのハイヒールを持って貴方のところに行く。もう一度履いてちゃんと歩いて見せてあげる。



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