第45話 襲来
見下ろす先には、目蓋を閉じている自分の姿。アサギは、不思議な感覚で寝床に横たわる自分を眺めていた。
『魂が、上手く抜けられたみたいじゃの』
アサギと同じく、カナも宙に浮いている。
『私は、死んだのですか?』
食事は日に一度。部屋からは用を足すときと禊をするときしか出ておらず、周囲からは喪に服していると思われていたことだろう。
『踵を見てみよ』
カナに促され、アサギは自らの踵に目を向ける。
キラキラと輝く細い糸のようなものが、抜け殻となっているアサギの鼻の穴から、宙に浮くアサギの踵を繋いでいた。
『これは?』
『魂の緒じゃ。これが繋がっている間は、死んではおらぬ』
生きながらに魂が抜けて霊となる、生霊という存在にアサギはなっているのだろう。
『さあ、夜は長いようで短い。急ぎ向かおうぞ』
『はい』
どこへ、と問わなくとも、生霊となってでも向かう場所はひとつしかない。
いざ、頭領であるムラジの元へ。
念じれば、迷うことなく体が宙を飛んでいく。速さは歩きの比ではない。
(不思議……身の内から力が湧いてくるみたい)
歩きならば半日近くかかるのに、あっという間にムラジの屋敷へ到着した。
夜も深く、ムラジは大いびきを掻いて眠っている。
『首に手をかけ、絞めてみるのじゃ。生身のときと変わらぬ感触であろう』
カナに促されるまま、ムラジの首に手を添える。グッと力を込め続ければ、次第にムラジの眉根が寄っていく。苦しそうに身を捩り、首に絡まるアサギの手を解こうとする仕草をするも、ムラジの指先は自分の首を引っ掻いているだけだ。
(この人も、歳をとったわね)
アサギに大王の元へ嫁ぐよう指示を出してから、十数年の時を経ている。白髪は増え、老人という表現が似合うようになってきた。
「うぅ……」
呻く声が聞こえたけれど、手に込める力を緩めようとは微塵も思わない。ジワジワと、さらに力を込めていく。
『死んで詫びなさい』
ポツリと、言葉が口をついて出る。
何様だと言われるようなセリフだが、心の底からそう思っているのだ。
ムラジの指先から、力が抜けていく。
もうすぐだ、と直感的に判断した。このまま力を込め続ければ、ムラジは死ぬ。
アサギの不幸の元凶が、この世を去るのだ。
腹の中でとぐろを巻いていたモヤモヤとした感情が、蛇の姿となってアサギの内側から現れた。
真紅の瞳は艶やかな血液のようで、妖しくムラジの姿を映している。蛇は首を伸ばし、アサギを援護するようにムラジの首へ巻きついた。
ギチギチと、蛇特有の締め付ける音が生じる。
『無念の仇。私の、敵……』
アサギは蛇と呼応するように、さらに力を込めた。
「やめろ!」
声と共に、部屋の中に灯りが灯される。
眩しさに目を細めると、そこには大王とクワシ、そして数人の兵の姿があった。
大王とクワシには、魂の存在となっているアサギの姿が見えているようだ。
人ならざる存在が見えて、語ることができるのだから、二人はそれぞれの地位にいるのだと改めて認識した。
蛇がムラジの首に巻きついたまま、鎌首をもたげてシャー! と威嚇する。
クワシは、そんな蛇を眷属のように身にまとうアサギを睨みつけた。
「大王の正妻ともあろうお人が、なにをしているの!」
クワシの叱責に、アサギはムラジの首から手を離して向き直る。ムラジの首は、引き続き蛇が絞めてくれていた。
『大王の正妻は、貴女でしょ。私は、ただの政治利用されただけの……地方に住まうお飾りの妻よ。そう自らの立場を認識せよと仕向けたのは、クワシ様……貴女ではないですか。今さら私が正妻などと、都合のいい言い回しをしないでほしいわ』
ずっと腹の中で思っていたけど言えなかった言葉が、スラスラと出てくる。
もうこれで自分も終わると理解しているから、今さら立場もなにも考慮しなくていい。雁字搦めだったしがらみから、やっと解放された気分なのだ。
今のアサギに、怖いものなどなにも無い。理性で抑えていた言いたいことを言えて、とても気分がよかった。
クワシはアサギが反論したことに面食らっているのか、少しだけ目を円くする。そんなクワシに、しゃしゃり出るなと言うように大王は手を掲げ、クワシが前に出てこないように制した。
大王の瞳が、アサギを捉える。
「アサギ……なぜ、こんなことに」
今さらすぎる質問に、フツフツと笑いが込み上げてきた。
『ふふふっ、なぜ? そうですね……わざわざ理由を答えないと、大王はお分かりにならないのでしょうか?』
問うておきながら、大王には分かるはずがないとアサギはタカをくくっている。
案の定、大王はアサギの問いに答えることなく、さらに自らの問いを重ねてきた。
「ムラジ殿を殺して、なにを得ようというのだ! 今すぐにやめろ」
『ほら……やっぱり、お分かりでない』
自分で思っていたよりも、声の響きは冷たい。アサギは唇に笑みを乗せた。
『私は優しいので、教えて差し上げましょう』
アサギが体の向きを変えれば、大王とクワシの意識と兵達の手にする武器に緊張が走る。
ムラジを殺害させたくないのか、アサギに手を汚させたくないのか。どちらかと言えば、前者だろう。
だが、アサギは自分の目的を達成させたい。それがアサギにとっての最優先事項だ。
『答えは、至極簡潔明瞭です。ただの、私怨の復讐ですわ。私とマツとチヨと鶯王の人生を滅茶苦茶にしたのだから、自分がしてきた行いを死んで詫びさせようと考えたのです』
ならぬ! と、大王は声を張り上げる。
「考えを改めよ。ムラジ殿を殺してしまっては、内乱を生むだけだ!」
『次を立てて、内乱を起こさなければいいじゃないですか。貴方には、有能な妻に有能な部下がいるのだから』
大王自身の身内でもクワシの身内でも、ヤマトから呼び寄せて役職に就け、内部から里の全てを乗っ取ってしまえばいい。
やはりイヅモ族とヤマト族の共存共栄など、夢のまた夢。実現などしない。
そんな夢物語を鶯王にまで語ってしまったから、大事な息子は死んだのだ。
「なにをそんな、投げやりに……」
理解し難いと、大王は苦悩の表情を浮かべている。
アサギは、そんな大王のことを白々しいとさえ感じてしまうのだから、もう関係の修復は不可能だろう。
『投げやりに……見えるでしょうね。でも私は、自分で決めて行動を起こしたわ。私が私であるために。大王こそ、今さら私に構わないでくださいませんか? 貴方にとって……私は、すでに居なくてもいい存在なのでしょ』
「勘違いをするな! 我がいつ、そなたのことを必要ないと言った。我がどれだけ、そなたのことを大事に想っているのか……伝わっておらぬのかッ」
『こうなっているということは、伝わっておらぬということです』
「アサギ……っ」
伝わらぬ気持ちと言葉に、大王は奥歯を噛み締めている。
なにを言われようが、なにをされようが、もう自分の行動に迷いを生じさせることはない。
一日一回の食事を口にしながら、禊をしながら、何度も自問自答を繰り返したのだ。
その上で、決行した行動である。これが、一人で悩み抜いた答えだ。
「大王、お退きください。この生霊を滅します!」
「ならぬ! アサギを滅すなど、許さぬぞ!」
激高する勢いの大王に、クワシは「なりませぬ!」と、なおも食い下がった。
「貴方はヤマトの王です! 私情に囚われてはなりませぬ。最善の判断をなさってくださいまし」
「ならぬ! ならぬぞ。あの者は、我の愛する妻ぞ!」
感情に囚われてしまっているようにも見受けられる大王に、クワシはそれ以上食い下がることができない。今の大王になにを言っても、聞く耳を持たれないと判断したのだろう。
大王はクワシが黙ったのを確認し、ただ静かに成り行きを見守っているだけのカナを睨んだ。
「お前がアサギを唆したのか!」
カナは、ニコリと笑みを浮かべる。
『唆すなど人聞きが悪い。共に悲しみ、想いを寄り添わせただけじゃ』
「お前をこの地に連れてきたのは、間違いであった」
大王は剣(つるぎ)を下段の斜(はす)に構え、気合いの声を上げながらカナに切りかかった。刹那、クワシは大王の衣を掴みにかかる。
「おやめください、大王! その方は、おそらく……」
クワシの手と声が届くより先に、刀身がカナを通り抜ける。カナの姿は霧散し、部屋の中で眩(まばゆ)いばかりの光の爆発が起こった。
光が収まり、顔を覆っていた腕を下ろしたクワシは、立ちすくむ大王に怒りの矛先を向ける。
「なんということを! お気付きにならなかったのですか? あの女性は、神ですわ」
クワシの怒気を気にも留めず、大王は言い放つ。
「神であろうと、我が妻を唆すのであれば悪神ぞ。切り捨て、成敗をしてなんの問題があると言うのだ!」
ふふっと、カナの笑う声が聞こえてくる。仄かな光が浮かび上がり、徐々に人の形を形成していく。怪我をした様子もなく、無傷のカナが再び現れた。
『なんとも、傲慢じゃのぉ〜』
「くっ、消滅せなんだか……」
大王は苦々しそうに奥歯を噛み締めたが、反してカナは妖艶な笑みを浮かべる。
『私は金屋子の神。唆すなど、とんだ言いがかりぞ。私はアサギの憂いに同調し、ならばと方法を伝えたまで。ここまでアサギを追い込んだのは……はたして、誰であろうの?』
クワシは大王の前に立ち、カナに向かって恭しく頭を垂れる。
「金屋子の神! どうか……何卒、アサギ様を元に戻してください!」
クワシからの命令とも受け取れる願いに、カナはキョトンとして首を傾げる。
『私は協力などせぬぞ。己が力のみで、荒ぶる魂を鎮めてみるがよい』
クワシは願いを聞き届けて貰えなかったことで苦々しい表情を浮かべたが、今度は言葉を向ける標的をアサギに変えた。
「アサギ様。鶯王が今の貴女を見たら、なんと思うでしょう!」
鶯王、という名をクワシが口にした途端に、ムラジの首に巻きついていた蛇がシャーッと勢いよく牙を剥く。思い出したかのように、ムラジの首を絞め付ける力を強め始めた。
大王は額に手を当て、なんたること……と吐き捨てる。
「子に対する愛情のせいで、こうも手がつけられなくなるとは……」
頭を抱えた大王に、カナは『ふんっ』と鼻を鳴らす。
『アサギの憂いは、それだけではないわ』
カナの呟きを耳にし、大王は宙に浮くアサギを睨むと、声を張り上げた。
「その憂いとやらを我にも申してみよ! 我はそなたの夫。全て受け止めようぞ!」
アサギはニコリともせず大王と対峙し、冷たい眼差しを向ける。
『耳心地のいい言葉は要らないわ。なにが夫よ。なにが夫婦よ。なにが……イヅモ族とヤマト族の共存共栄よ。片腹痛いわ! けっきょく、夫婦になってからも平定に向かうばかりの日々だった。血で血を洗うしかないじゃない。どんな夢も理想も希望でさえも、全て壊されてしまうんだわ。共に過ごすのではなく、近い将来この地は茹で死ぬ蛙のように、気付いたらヤマト族に侵略占領されているのよ』
怒りに顔を赤くし、我慢の限界を迎えたクワシがしゃしゃり出た。
「被害者ぶるのではない! 大王や私の伝えた技術で、この地に豊かさをもたらしているではないか」
『ヤマト族のほうが優れている。その想いがある限り、共に栄え共に生きていくことは不可能よ。優れている自分達が遅れている者達に施しているというその意識、思い上がりこそが、侵略と変わらないわ!』
アサギは、握った拳を震わせる。蛇はムラジの首を絞めることをやめ、敵と見なした大王とクワシに頭を向けた。
大王の手からカランと剣が落ち、まさか……と呟く。一歩二歩と、アサギに向けて歩を進めた。
「アサギのことをこんなに大事に想うているのに……我が、そなたに語った夢が偽りであると……偽りを述べて裏切っているのだと、そう感じているのか……?」
『よくもまぁ、ぬけぬけと』
アサギではなく、カナが『ふふふ』と肩を震わせる。そしてアサギを抱き寄せた。
『可哀想に。あの男は、愛していると言う割に、アサギが胸に抱く想いを理解しておらぬのぅ』
「なんだと……!」
『なぜこの男の命を狙うのか、気持ちを汲めば、自然と理解ができように』
カナが倒れたままのムラジに目を向ければ、大王は大きく目を見開く。ムラジは口の端からヨダレを垂らし、ピクリとも動かない。
クワシが大王に目配せをすると、その視線を受けて大王は頷いた。そして、アサギに向き直る。
「アサギ……すまぬ! 我の理解が違っていた。そなたの大事な幼馴染みも、我との間に授かった大事な子も、みんなそなたから奪う結果となってしまった。そのことが、今回の引き金となってしまったのだな」
『今さら気付いたとて、遅いわ』
蛇は大きく口を開け、大王に牙を剥く。大王がスッと足を動かすと、蛇は勢いよく飛び出した。
同時にクワシが駆け出し、ムラジの元へ向かう。その場に居合わせた兵達は武器をかざし、蛇を退治するべく飛び出してきた。
大王は蛇を兵達に任せ、アサギから目を逸らさない。
「アサギ……話を聞いておくれ。我と共に、憎しみの連鎖を断ち切ろう」
兵達が応戦している蛇の力が強くなる。
大王は、アサギに向けて手を伸ばした。
「我は、夫失格だ。許しておくれ」
『嘘つき。貴方は優しさで本心と本性を隠す嘘つきよ。そんな言葉、もう私は信じない』
アサギはカナの腕の中から抜け出し、自分に向けて差し伸べられた手を払い除ける。
パシッと、乾いた音がやけに大きく聞こえた。
払ったはずのアサギの手は大王に掴まれ、その大きな手から逃れることができない。
『離して』
「嫌だ」
大王は掴んだ手を強引に引き寄せ、生霊となっているアサギを抱き締めた。
『嫌よ! 離してッ』
「離さぬ! もう、寂しい想いはさせぬッ」
アサギが大王の腕の中で暴れると、大王の懐からポトリと袋が溢(こぼ)れ出る。アサギは袋に気を取られ、暴れることをやめた。
『これは……この気配は』
「鶯王の遺髪だ」
『なんで、それを……?』
このような場にまで持ってきて、懐に忍ばせているのだろう。
「鶯王が死して、悲しみのどん底に居るのは自分だけだと思うでない。子を亡くした我の悲しみを共有できるのは、我の妻であり、我と同じく鶯王の親であるアサギ……そなたしか居ないのだ」
『急に、そんな……寄り添うようなことを言わないで』
暖かな腕の中。目頭が熱く、涙が溢れ出る。
『そんな、急に……弱々しいところを見せないでよ』
最高頂にまで育て上げた怨みの気持ちが、急激に萎んでいく。せっかくの怒りが削がれていってしまう。
『うっ……うぅ』
アサギは嗚咽を堪えることができない。
大事な息子の気配が、すぐ傍にある。
愛しく、尊く、大切な……アサギの宝物。
『ぅ……あ、あ〜ぁ!』
大王は泣き出したアサギを力いっぱい抱き締める。
「この子は我にとって、希望の子だった。異なる部族を結ぶ、梯(かけはし)の皇子(みこ)だ。とても大事な、我が子だったのだ……」
『大事なのに、居なくなってしまったわ。鶯王も、マツも、チヨも……』
みんな奪われてしまった。
『全ての元凶が、あの頭領なのよ』
まるで告げ口をする子供のように、アサギは自分に仇なす者を言いつける。そして、不満を口にした。
『私が辛く悲しいときに、貴方は傍に居てくださらなかった。なんて……なんて、ひどい人』
妻の不満を聞き、アサギを抱き締める大王の腕に力がこもる。
「寂しい想いに気付いてやれず、申し訳ない。一人にして、すまなかった」
『謝罪を……してくれるのですか?』
「ああ。我が悪かった。我はそなたの夫。全ての感情は、ほかではなく我にぶつけてくれ。全部、ちゃんと受け止めてみせるから」
『……信じられない』
アサギが呟くと、兵達が退治しようとしていた蛇が忽然と消える。ムラジの喉がヒュッと鳴り、静かに呼吸が再開した。
『もう、よいのか?』
カナの問いに、大王の腕の中でアサギはわずかに顎を引く。
『そうか……』
カナは広げた両手を顔の前に掲げ、ふ〜と息を吹きかける。
神の息吹はそよ風となり、アサギの体を優しく包む。
アサギの魂は、乾いた土に水が吸い込まれていくように、大王の腕の中からスーッと静かに消えていった。
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