アサギとクワシ

第32話 牽制

 暖かい日差しの中で、鶯王は草を摘んで遊んでいる。アサギは侍女と共に草原へ腰を下ろし、隣で様子を観察しながら、下膨れの可愛らしい頬を人差し指でタポタポしていた。

 太っているわけでもないのに、子供特有のふっくらとした頬。いったい、なにが詰まっているのだろう。


 イヅモ王家と会うために、今朝宮殿を出発した大王も、鶯王の愛らしさに目尻が下がりっぱなしだった。

 アサギというよりも鶯王に会いたいがため、出立の準備が整うまでの数日間は、アサギと鶯王が住む宮殿に通いっぱなしだったのだ。

 クワシとの屋敷のほうにも足を運んでいたと思うけれど、今現在クワシの機嫌がどうなっているのか分からない。僻(ひが)みかなにかで問題が起きなければいいのだが……どうなることやら。

 今のアサギは、それが頭痛の種だった。


「その子が、我が大王を虜にした幼子(おさなご)か」


 かけられた声に振り向けば、侍女を引き連れたクワシがアサギと鶯王を見下ろしている。

 眼差しには、愛想の欠片も無い。


 少し嫌な感じがしたけれど、アサギは立ち上がって会釈を返すことにした。会釈を終えても、クワシ御一行はなかなかその場を出発しない。すぐに出発するかと思っていたのに、読みが外れてしまった。

 場を繋ぐために浮かべた微笑が崩れてしまう前に、アサギは鶯王の様子を見るフリをしながら視線を逸らしてしまおうか。なんて、そんなふうに考えてしまった。


「今、話ができる?」


 クワシからの問い掛けに、自分の侍女と顔を見合わせる。侍女は頷き、地面を向いて草に集中している鶯王とアサギの間に入り、死角を作ってくれた。これで、鶯王が母の姿が見えないと気付くまでの時間が稼げる。

 アサギは鶯王に向けていた意識を切り替え、クワシと対峙することに全神経を注ぐ。


 話とはなんだろう。また胃が痛くなるような内容だろうか。

 大王の妻になってから、気の休まるときがない。


 アサギは心の中で悪態を吐きながら、クワシの元へ歩み寄る。


「なにか気になることでも?」

「いや。二人で話をする機会も、そうそう無いのでな。早いうちに……一度、釘を刺しておかねばと思うていたのだ」


(あぁ、やっぱり嫌な流れだ……)


 アサギの胃が、キュッと縮む。


 クワシは自分の侍女へこの場に留まるよう伝え、アサギを促した。

 侍女に聞かれたくない話でもするのだろうか。

 アサギは重たい足を動かし、大人しくクワシのあとに続いた。


 互いに雑談をすることなく、黙々と歩く。大きな木が枝を伸ばして作り出した日陰に入った。

 クワシはアサギを頭のてっぺんから足先まで観察し、あからさまな溜め息を吐く。


「大王の面食いには、困ったものじゃ……」


 呟かれた小言に、返す言葉も無い。

 そもそもアサギが大王の元へ呼ばれたきっかけは、伯耆国で一番と噂される美人、などという噂が耳に入ったからだ。

 それは自分以外からの外見に対する評価で、アサギが自分で言いふらしたのではない。評価されているほどの美人に該当しているのか、嫁ぐ前の評価がいまだに継続しているのか、それは今もアサギの預かり知らぬ事柄だ。


(なにも答えないのは、印象がよくないかしら?)


 アサギのような一般の出では、大王やクワシのような尊い身分の人達の、普通が分からない。

 逡巡したのち、ポツリと呟く。


「なんと、返事をしたらよいものか……」


 煮え切らない態度をとるアサギを気にも留めず、クワシは「率直に申します」と声を張り上げた。


「妾は、そなたの美貌が羨ましい。妾には、備わっていない美しさ。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のお姿を目にする者が居たのなら、きっとそなたのような容姿だったと口を揃えるでしょうよ」


 木花咲耶姫といえば、アマテラスの大神の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみのと)が気に入って妻に迎えたとされる美人。


 アサギは自分の外見に対するクワシの評価が過大に思え、否定したくなった。


「お言葉ですが、そのようなことは……」

「私の言葉に異を唱えるのか? 立場を弁(わきま)えよ。私は、ヤマトの正妻であるぞ」


(なんて横暴な……)


 反論さえも許されない。


 ことを荒立てないために、アサギは謝罪を口にする。


「申し訳ございません」


 以前、オオクニ王の正妻であるスセリ姫のようになってしまうのだろうかとアサギは自分自身を危惧していたけれど、なんということは無い。スセリ姫は、クワシだ。アサギは、スセリ姫よりも先に婚約していたのに、子を残して立ち去ってしまったヤカミ姫の立場といったところだろうか。


 クワシがヤマトの正妻と名乗るのならば、アサギはイヅモの正妻、もしくは伯耆国の正妻となるのだろう。


 与える影響力の違いは明白。なにもかも、格が違う。

 だからアサギは、一歩下がれと、立場を弁えて控えていろということか。


「そなたは、大王になにをしてあげられるの?」

「なにを……?」


 クワシの問う意図が分からず、アサギは眉をひそめて聞き返す。

 クワシはアサギに歩み寄り、アサギの胸の中心にトンと指先を添えた。


「そなたは、神の声が聞くことができるか?」

「……いえ」


 そんな特殊な能力は、生憎と持ち合わせていない。


「大王が迷ってらっしゃるとき、相談に乗ってさしあげられる?」


 そんなときアサギにできるのは、一緒になって悩むくらいだ。

 それでも、大王とは違った視点で物事が見えているときは、明確な答えは示せなくても提案くらいはしていた。


 政を動かすのは、アサギではなく大王なのだから。


 クワシは、アサギに向けていた指先を自分に向ける。


「私には、大王を導く力がある。共に戦う力もある」


 宣戦布告をするように、クワシはアサギの目を真正面から見据えた。


「大王の隣に並ぶのは、私じゃ。私のほうが相応しい。私には、大王と共に国を豊かにしていく責務がある。そなたは、大王の血を引くあの幼子を……死なさぬように育てておれば、それでよい」


 言い方にカチンと来たが、言い返すことが正解ではない。沈黙が正解のこともあると、今のアサギは知っている。


 クワシはアサギからの反論が無いと見て取ると、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「大王がこの地を空けている間に、私が大陸から伝来した作物を育てる技術を皆に教えることになっている」

「それは、大変な……お役目でございますね」


 自慢したいだけなのかしら? と思いつつ、アサギはクワシが気分を害さないような答えを返す。


 アサギがマツやチヨに思っていた、協力して大王を支えて盛り立てていくというような考えは、クワシには無いのだろう。


(深く関わるのは、避けたほうがよさそうね……)


 アサギは完璧に、クワシとの間に一線を引いた。

 当たり障りなく、自分から接触は持たず、社交辞令だけ返す。そういう関係が最適なのかもしれない。


 クワシの唇は弧を描き、嬉しそうに目を細める。


「感謝するがよい。そなたが婚姻によってヤマトと縁を結んだお蔭で、伯耆国の者達が豊かな暮らしを手にすることができるのだからな」

「……ありがとう、ございます」


 クワシに楯突くことは、なにも生み出さない。

 事勿れ主義になりたくはなかったけれど、あえて立てなくてもいい波はある。


(賢く立ち回れ、アサギ)


 大王は言っていた。クワシにはクワシの、アサギにはアサギの役割がある。

 クワシからなにを言われようが、大王から聞く言葉だけを心に留めておけば、それでいい。そう在らねば、自らを追い込んでしまいそうだ。


 大王のために、大王を想って日々を過ごそう。

 誰がなんと言おうと、アサギは大王の妻なのだから。

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